北宇治高校ダブルリードパートへようこそ   作:言巫女のつづら

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第6話 策士・ユーフォニアム

 嫌な予感はしていた。

 

 滝野との話し合いを終え、今日も廊下で練習しているであろう低音組のところに向かってみると、長瀬さんと後藤の姿が目に入った。

 しかし、明らかに様子がおかしい。

 廊下に膝をついて俯く長瀬さん。そんな彼女の様子を腰を下ろしてじっと見つめる後藤。

 遠目には、二人の表情はよく見えない。それでも、拳を震わす後藤の様子から何かよくない事が起きたのは容易に想像がつく。

 

「後藤」

 

 また何かやらかしたのか、とため息をつきながら声をかけた。

 

「蔵守……」

「二人とも、どうし……」

 

 近寄って、息を呑んだ。

 よくない事、なんて生易しいものではなかった。

 

「長瀬さん、その楽譜……!」

 

 廊下に置かれたチューバの楽器ケース。

 その中に格納されていた彼女の楽譜には、墨汁をこぼしかたかのような真っ黒なシミがデカデカとこびりついていた。これではとても使い物にならない。

 

”やさしく弱く”

”指揮を見て”

 

 かろうじて読みとれた後藤の注釈。その文字の上に、長瀬さんの涙がこぼれた。

 

 

 ……なぜだ? どうしてこんな事になった?

 先輩達の嫌がらせ? いや、それにしては度が過ぎている。

 

 

 ――後藤君にアドバイスしてもらった楽譜、大切にするね――

 

 

 つい先日まで穏やかな笑顔を浮かべながら、

 後藤が楽譜に書き込んだ内容一つ一つに注視して長瀬さんは練習に励んでいた。

 

 

 それなのに。

 

 

「わ、私って鈍臭いから。家に楽譜持ち帰っていればこんな事にならなかったのに。あはは……」

 

 顔をくしゃくしゃにしながらぽろぽろと涙を流す長瀬さんを、まともに見る事が出来なかった。

 

「……っ。誰がこんな事を……」

 

 後藤も悔しさで顔を歪めている。

 

 不意に、甲高い話し声が近づいてきた。明らかに女子の声。

 

「んー? 何やってんの、一年」

「ちょっと……長瀬、アンタ楽譜に何してんの」

「あーあ、そんなに汚しちゃって。駄目じゃない、吹部の部員なら楽譜を大切に扱いなさいよ」

 

 何とも都合のいいタイミングで、低音パートの三年生達が姿を現した。

 ここ最近、部活時間前に低音パートの様子を見に来てはいる。しかし、この時間帯に三年生の姿を見るのは今日が初めてだ。

 

「……長瀬がやったんじゃありません」

 

 やり場のない怒りを抱えた後藤が、かろうじて言葉を紡ぐ。

 

「あ、そうなの?」

「天罰でも当ったんじゃない? 私達に真面目に練習しろって言っておいて、当の本人は後藤とイチャイチャしてるんだもん」

 

『……!』

 

 その一言で全てを察した。

 廊下送りにしても反省の色が見られない後輩に対する、お仕置きというわけだ。

 

「先輩方……、貴方達って人は!」

 

 内心の怒りを押し殺して、低音パートの三年達を睨みつけた。

 厳しい練習をしたくないというなら話は分かる。所詮は部活動。サボるのも真面目にやるのも、それは個人の自由。

 

 だけど。

 上級生に意見したからといって、ここまで陰湿なマネをするなんて。

 腸が煮えくりかえる思いだった。

 

「何、なんか言いたい事あんの?」

「オーボエの一年、アンタも楽譜の保管しっかりしときなさいよ。楽譜係でしょ」

 

 個々人が、今現在練習している曲の楽譜の保管まで、楽譜係の仕事ではない。持ち出しの経緯を記録して、所在を把握しているだけだ。そもそも、そんな事をしたら部活外での自主練もロクに出来なくなる。

 

「……っ」

 

 しかし、自分の口からはそれ以上何の言葉も出ない。

 

 オーボエを隠された。

 その時点で三年生に睨まれている事に気付いていながら、三年生に暴言を吐いた中川達と不用意に接触を重ねた。見方によっては、生意気な連中同士でつるむようになったといえなくもない。

 それが余計に三年の(かん)に障って、今の事態を招いたともとれる。そういう意味では確かに自分の落ち度である。

 ほとぼりが冷めるまでは、大人しくすべきだったのだ。

 

 

 自己嫌悪に陥っていると、背後から異様な気配を感じた。

 

 

「……先輩達がやったんじゃないのか」

「後藤?」

 

 今まで聞いた事のない、腹の底から押し出されたような後藤の低い声。

 

「……!」

 

 後藤の表情を確認して、背筋が凍った。

 

「はあ? 人聞きの悪い事言わないでよ」

「私達がお仕置きしたの根に持って、自分で楽譜に小細工したんじゃないの?」

 

 白々しい台詞を吐き続ける先輩達など、もう眼中に入らなかった。

 腰を下ろして俯いている自分達の顔など、突っ立っている先輩達からは見えない。

 しかし自分には、後藤が凄まじい怒りに駆られているのが分かった。

 

 

「そんな悪知恵が働くくらいなら、初めから先輩達に口答えなんかする訳ないだろうっ!!」

 

 

『!!』

 

 

「よせっ!!」

 

 

 怒号一発、三年生に殴りかかろうとする後藤をすんでのところで抑えつけた。

 なお暴れる後藤を羽交(はが)()めにして必死に宥める。

 

「落ち着け後藤!!」

 

「放せ蔵守!!」

 

「楽譜は書き直せばいいだろう!」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「分かってる! 分かっているとも! それでもだ!!」

 

 状況から考えても、この人達が犯人なのは間違いない。それでも女子に手を上げたらただでは済まない。まして今の後藤は怒りで完全に我を忘れている。冗談抜きで本気の一撃を喰らわせかねない。それで怪我でも負わせようものならことだ。

 

「放せ!放してくれ!」

 

 後藤の目から悔し涙があふれる。

 叶うものなら、自分も後藤と一緒になってこの連中を叩きのめしてやりたい。

 しかしそれをやれば、もう立派な傷害事件。他の部員にも確実に迷惑がかかる。嫌な人が多いといっても三年全員がそうという訳ではないし、二年生は尚更だ。

 

「ぐっ……!」

 

 もがき続ける後藤の動きを封じている両腕がミシミシと嫌な音を立て始めた。額から脂汗が流れ落ちてくる。非力な自分ではこれ以上後藤を止められない。

 

「後藤君! もういいよ、もう止めて!」

 

 理不尽な先輩に対する鬱屈した感情も一緒に爆発したのだろう。長瀬さんの悲痛な叫びも、もう後藤の耳には入っていない。

 腕の痛みに耐えきれず、手を放しかけた時だった。

 

 

「はい後藤。クールダウンクールダウン」

『!?』

 

 

 廊下での騒ぎだ。後藤の怒声と長瀬さんの悲鳴を聞きつけたのか、近くの教室で練習していた部員達もいつの間にやら姿を見せていた。その中から、ユーフォニアムを抱えた眼鏡の先輩が歩み出た。

 

「田中先輩……!」

 

 そうだ。入部の際、頼んでもいないのにユーフォのうんちくを披露してきた先輩だ。

 思いもよらぬ乱入者に目を白黒させる後藤と自分を横目で眺めながら、田中先輩は呆れ顔でつぶやいた。

 

「先輩達もダメですよぉ。頭に血を昇らせてる相手に(あお)るような事言っちゃ」

「な、何よあすか。アンタまで私らがやったって言いたい訳?」

 

 後藤に殴りかかられて腰を抜かしていた三年も、思いの外大事になって慌てたのか体裁を取り(つくろ)っている。

 

「いえいえ~。そんなつもりは毛頭ございません。墨で汚したのなら、証拠も残ってるかもしれませんし。犯人の目星をつけるのは、それを確認してからでも」

 

『証拠!?』

 

 楽譜に墨をぶちまけられた。その事実に衝撃を受けて、そちらの方は考えもしなかった。

 

「よいしょっと。あ、梨子ちゃん。ちょいと楽譜貸して?」

「あ……、はい」

 

 田中先輩はユーフォニアムを床におろすと、長瀬さんから手渡された楽譜をじっと見つめた。そして、ふと何か思い立ったかのように楽譜を裏返すと、目を細めた。

 

「ほらほら♪ この楽譜の裏よく見てください。墨がついた手で触ったせいか指紋がしっかり残ってます。先生にお願いして生徒達の指紋とっちゃえば、誰がやったかすぐにわかると思いますよ」

 

 墨まみれの楽譜が、部員達の前にかざされた。確かに、楽譜の裏面隅っこにちらほらと見受けられる黒い渦巻状の線は指紋特有のものだ。

 低音パートの三年達もそれに気付いて、途端に顔を見合わせる。

 

「とはいえ……全校生徒の指紋調査なんて事になったら、学内外であらぬ噂が立つかもしれませんね~。まさかとは思いますけど……もし部員の誰かが犯人だとしたら、コンクールの出場は勿論、内申にも響くでしょうね~」

 

 そう言って、田中先輩は階段の方に向かって歩み出した。

 顧問の梨花子先生に知らせに行く気なのだろうか。

 

「ちょ! ちょっと待ってよ! そんなおおごとにする事ないじゃない!」

 

 声を上ずらせる低音パートの三年達。もうそれで誰が犯人なのかを自白してるようなものだ。

 これが長瀬さんの自作自演というならば、彼女達には何も後ろめたい事などない。露骨に動揺した素振りを見せるという事は、つまりそういう事なのだろう。

 自分と同じ結論に至ったか、後藤が歯ぎしりする。拘束する腕に力をこめた。

 

「私もそう思わないでもないんですけどね。かといって何もしないままでいたら、同じような事が起きるかもしれませんし」

 

 これ見よがしに、低音の三年達の眼前で楽譜をちらつかせる田中先輩。

 こらえきれなくなったのか、その中の一人が田中先輩の手から楽譜をひったくった。

 

「し、仕方ないわね! 今度の事はパートリーダーの私の管理不行き届き。

私から事の次第を先生に報告しておくわ。長瀬! 楽譜の替え渡すから、ついてきなさい!」

「は、はい……」

 

 事の成り行きについていけず、半ば放心状態でいた長瀬さんがおずおずと三年達の後を追った。

 

「あ~先輩。パー練の事ですけど、もう元通り一年生も一緒でいいですよね。オイタも済んだでしょうし。先輩達と1年の指導で教室と廊下行ったり来たりするのメンドクサイんですよ」

 

 楽譜を抱えて逃げるようにこの場から去ろうとする低音のパートリーダーと三年達の背中に、田中先輩が声をかけた。口調はおちゃらけたものだが、有無を言わせない表情をしている。

 

「……好きにしなさいよ」

 

 田中先輩の気迫に押されて、低音パートのリーダーはそう返事をするのがやっとのようだった。

 全く、どっちが上級生なのかわかりゃしない。

 

「はいはい! これでこの件は一件落着! 皆練習に戻ってくださ~い」

 

 田中先輩の鶴の一声に、それまで固唾を飲んで様子を窺っていた他パートの部員達も蜘蛛の子を散らすように去っていく。

 

 

 後に残ったのは自分と後藤、そして田中先輩だけだった。

 

 

「あーあ、先輩達も大概バカだよねぇ。あーいうイタズラするんなら、ばれない様に手袋つけるくらい頭働かせないと」

 

 部外者がいなくなったのを見計らって、田中先輩がこらえきれないといった感じで吹き出した。まるで他人事としか思っていないようなその様子に、後藤も自分も眉をひそめざるを得ない。

 

「何であんな奴らに助け舟を……! 証拠あるんならそれを先生に突き出せば!」

 

 後藤はまだ興奮冷めやらぬ状態らしく、先輩に対する言葉遣いにも遠慮がない。

 

「後藤……上級生だぞ。でも田中先輩、後藤の言う通りですよ。あの人達の事だから、先生に楽譜を見せる前に指紋を消す位の小細工はします。先輩の口から言いづらいなら、後藤なり中川なりに悪事の証拠を渡しておけばいいのに、なんでそうしなかったんですか!?」

 

 イタズラとは、あえて言わなかった。そういうレベルを明らかに超えている。

 ガタイのいい後藤が青筋を立てて、自分も相当頭に血が昇っている。

 そんな殺気立つ男子二人を相手にしているというのに、田中先輩は涼しい顔でとんでもない事を言い出した。

 

 

 

「だって指紋なんて付いてなかったもん」

 

 

 

『!?』

 

 

 

 指紋がなかった? それならあの楽譜のは一体……。

 自分達の疑問を見透かしたように、田中先輩が答えた。

 

「あの人達、梨子ちゃんの楽器ケースから楽譜引っ張り出してなーにかやってるみたいだったからね。いなくなった後に調べてみたら案の定。それで私が楽譜に小細工したってワケ。本当に指紋調査なんてされたら、私が困るんだよね~」

 

 思いも寄らぬ真相を打ち明けられて、後藤も自分も言葉を失った。

 

「……それならそれで後藤と口裏合わせて、楽譜を新しいのに交換しておく位の機転を利かせてもよかったんじゃ……」

 

 気をとり直して、田中先輩に言い返した。

 そうすれば長瀬さんがあんな風に傷つくこともなかったのでは。ツメが甘いという点では先輩も他人の事は言えない。

 

「ホントの事話した時、さっきみたいに後藤が暴発したら止められる自信ないもん。

私はかよわい女の子だしー」

 

 怒り心頭の後藤を前にしても顔色一つ変えない田中先輩を見ていると、とてもそうは思えない。二の句が継げずにいる自分達に、そうだ、と何か思いついたのか先輩が後藤を手招きした。 

 

「後藤、しばらく梨子ちゃんについててあげて。さすがに今度の事で三年も頭冷やすと思うけど、念の為にね」

「……分かりました」

「よーし。それでそっちの……オーボエの」

「蔵守です」

「そうだ蔵守だ。キミもとんだ災難だったね。楽器隠されたんでしょ?」

 

 あれからまだ何日も経っていないのに、もう情報が出回ってるのか。

 

「ええ、すぐに見つかりましたけど」

「やれやれ。希美ちゃんと仲良いからって、ホント先輩達は見境ないんだから。ま、キミもしばらくは他のパートに顔出さない方がいいかもね。時期外れの新入部員、そして希美ちゃんと仲がいい。悪目立ちする要素が揃ってるからね」

 

 喜多村先輩と同じような事を言われた。傘木の奴、どんだけ三年に睨まれてんだ……?

 自分が無言のままでいると、田中先輩が言葉を続けた。

 

「別に脅してるわけじゃないよ? 混じりっ気なし、純度百パーセントの忠告だよ? キミ自身はあんまり三年生と波風立ててないみたいだし。私、物分かりの良い後輩は嫌いじゃないからさー」

 

 そう言って、先輩はユーフォニアムを抱えて教室とは反対方向に歩み出した。

 

「先輩、どこへ?」

「こんな状況じゃパー練なんてできないでしょ。個人練行ってくる。後の始末はよろしくね~」

 

 軽やかな足取りで先輩が姿を消すと、どちらともなく言葉が漏れだした。

 

「……なんなんだろうな、あの先輩は」

「……さあな」

 

 自分も後藤も、毒気を抜かれてただその場に(ただず)むしかなかった。

 

 


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