ぷろろーぐ 故郷としばしのお別れです!
三月三十一日。
春休み最後の日だった。
西住みほは朝から忙しく動き回り、出発に備えて荷物をまとめていた。
「ええと、服は持ったし、ボコのぬいぐるみもある……あれ、冬物は入れたっけ?」
慌てて、部屋のあちこちにに置いた段ボールを開き、中身をチェックする。
春休み中、みほは実家の熊本へ帰っていた。大洗で過ごした一年の間に、逃げていた戦車道と向き合い、紆余曲折を経て家族ともそれなりに和解することが出来た。おかげで、去年のような暗い春休みを過ごさずに済んだ。
明日からは三年生になる。
大洗女子学園にいられるのも、あと一年だけ。だからこそ、悔いの無い学校生活にしようと、固く心に誓っていた。
部屋をノックする音がして、姉の西住まほが入ってきた。手には段ボール箱を抱えている。
「みほ、下着と冬物をまとめておいたよ」
「あ! 良かったぁ。ちょうど探してたところだったの。お姉ちゃんが詰めてくれてたんだ」
まほが微笑んで頷き、段ボールを床へ置く。
「これで全部だね?」
「うん」
「わかった。段ボールの荷物は今日中に、大洗の学生寮へ送っておく」
「色々手伝ってくれてありがとう。お姉ちゃんも大学の準備で忙しいのに……」
「いいよ。入学式は、まだ先だから」
戦車道国際強化選手にも選ばれている姉は、推薦で某国立大学に入り、本格的にプロの道を目指すことになっていた。入学後は、きっと忙しい日々が待っているだろう。
みほは寂しさが募って、ぽつりと言った。
「しばらく、会えなくなるね」
「そうだね」まほはそう答えて、ふと何か思い出したように言った。「ちょっと、待ってて」
部屋を出て、程なく戻ってきた姉は、手に携えていた物をみほへ差し出した。
「持って行くといい」
「これ……」
それは、姉が着ていた黒森峰女学園のパンツァージャケットだった。三年間の激闘を物語るかのように、ほんの少し色褪せている。
「お守り代わりだ。私はもう着ないから」
「ありがとう。でも、いいの? 私は黒森峰じゃないし、エリカさんに渡してあげるべきだったんじゃ……」
「ジャケットは二つ持ってたから。一つはエリカに渡してある。もう一つは自分の思い出にとっておくつもりだったけれど、みほにあげるよ」
みほはジャケットをぎゅっと抱き締めた。
「ありがとう。お姉ちゃんがそばにいると思って、大事にするね」
「そうしてくれたら、嬉しいよ」
「エリカさんにも会っておきたかったなぁ」
黒森峰時代の同期、逸見エリカもまた、みほにとって特別な存在だった。みほが黒森峰を去った一件で、お互い疎遠になっていた時期はあったが、今はすっかり昔の仲を取り戻している。時折、連絡も取り合っていた。エリカが黒森峰戦車道部の隊長となり、熱心に仲間を指導していることは聞いていた。春休み中も、毎日訓練に明け暮れているという。
黒森峰女学園は一昨年のプラウダ戦、昨年の大洗女子戦に敗北し、いずれも準優勝で終わっている。過去に九連覇を成し遂げた強豪校の面目を保つためにも、今年こそ優勝に賭けているのだろう。
まほが、みほの肩へ手を置いて言った。
「大会が始まれば、また会える。もう一度、大洗と黒森峰の試合が見てみたい。去年はみほの戦術にしてやられたが、今年はそうはいかないはずだ」
「お姉ちゃんはどっちの味方なの?」
みほが意地悪く問いかけると、まほは苦笑した。
「困らせるのはやめてくれ。私はどちらの味方もしないよ。ただみほとエリカの成長を見守るだけだ」
ふと時計を見やり、みほを促す。
「そろそろ出発の時間だ。その前に、お母様に挨拶しておいで」
みほは母の部屋まで来ると、立ち止まった。母と二人きりで話す時は、未だに少し緊張する。
障子越しに母の細い影が見える。みほは深呼吸し、言った。
「失礼します」
「入りなさい」
殆ど間を置かずに言葉が返ってきた。みほが声をかけるのを待っていたかのようだ。
中へ入ると、母は机の上で書をしたためていた。みほは正座になり、向かい合う形で腰を下ろした。
しほは紙上へ視線を落としたまま、唐突に口を開いた。
「明日から三年生ね」
「はい」
「国際強化選手のスカウトを断ったこと、本当に後悔しないわね?」
春休みの間、みほのもとへ一通の書面が来た。戦車道の国際強化選手として、海外留学をしないかという、戦車道連盟からのスカウトだった。世界大会も迫っている今、日本の有望な学生達に海外の戦車道を知って貰いたいという連盟の意向もあった。姉のまほも昨年の全国大会後、数ヶ月ドイツへ留学している。しかし今年は連盟がスケジュールをうまく調整出来ず、学生戦車道全国大会と留学期間が被ってしまったのだった。
「今年は、大洗のみんなと一緒に戦いたいんです」
みほは変わらぬ決意を、改めて告げた。
母が顔を上げ、娘をじっと見つめる。連盟のスカウトを蹴れば、戦車道でキャリアを積める大きなチャンスを捨てることになる。大学へ進学した後も戦車道を続け、あるいはプロを目指すのであれば、この話を棒に振るのは愚かな決断だった。
母は長いことみほを凝視していた。
が、とうとう嘆息し、諦め顔で言った。
「いいでしょう。あなたが決めた道よ。いずれにせよ、この一年はあなたにとって大きな転機になる。目の前の課題に力を尽くせば、進むべき道は拓けてくるでしょう」
「はい。ありがとうございます」
「話は終わりよ。もう行きなさい」
みほは頷いて、立ち上がった。足が少し痺れている。
「みほ」
部屋を出掛かったところで、母が呼び止める。
みほはその場で振り向いた。
母は逡巡し、言葉を選んでいる様子だったが、それからいたわり深い声で言った。
「体には気をつけなさい。それと、たまには連絡を寄越すように」
みほの胸を、暖かいものが満たした。
「はい。お母さん」
旧式のⅡ号戦車が、ガタガタとぎこちない音を立てて、のどかな熊本の道を突き進む。
「綺麗だなぁ」
車窓から身を乗り出したみほは、周囲の景観に感嘆しながら、大きく深呼吸した。
みずみずしい風と、湿った土の匂い。この熊本の空気とも、しばらくはお別れだ。
みほは操縦席の姉を振り向いた。
「このⅡ号、まだ全然動けるね」
「ああ。昔が懐かしい」
何気ない姉の言葉で、みほの脳裏にまだ幼かった姉妹の光景が蘇った。
ただ戦車に乗るのが楽しかった、あの頃。今ではもう、あんな単純な気持ちで戦車に乗ることは出来ない。出来ないけれど、でもそれでよかったのだ。自分は今でも、戦車が好きだから。
「うん。あれから私達、色々あったね」
「そうだな」
みほはもう一度、故郷の景色を見回した。胸に焼きつけておこうと思った。
「ここに戻ってきて、良かった……」
熊本駅内に、東京駅行き新幹線到着のアナウンスが響く。
みほは姉に見送られて改札の前までやってきた。トランクを受け取りながら言った。
「ここまででいいよ。送ってくれてありがとう」
「わかった。それじゃ、元気で」
「お姉ちゃんもね」
姉妹は少しの間、見つめ合った。別れは名残惜しかったが、時間は待ってくれない。
「もう行かなきゃ」
「ああ」
みほはトランクを引きずって歩き出した。切符を入れ、改札を通過する。
もう一度、姉を振り向いた。
姉は小さく笑みを浮かべ、手を振っている。
みほも振り返そうとして……姉の背後からやってくる集団に気がついた。
目を丸くして、呟いた。
「エリカさん……!」
先頭にいるのは、他でもない黒森峰女学園戦車道部隊長・逸見エリカだった。彼女に従ってくる者達にも、知った顔が何人かいる。全員、黒森峰のパンツァージャケットを着ていた。
エリカはまほのそばで立ち止まると、周囲もはばからずに声を張り上げた。
「全員、気をつけ!」皮肉っぽいような、あるいは悪戯っぽくもある笑みを浮かべて、エリカは続けた。「黒森峰のもと副隊長殿をお見送りする! 敬礼!」
黒森峰のメンバーが、一斉にみほへ敬礼した。
みほは驚くやら喜ぶやら、しばしその場に棒立ちしていた。
それを、エリカが一括する。
「いつまでぼうっとしてるの! 乗り遅れるわよ!」
「あ、うん!」
トランクを引きずり、階段へ向かう。エリカがもう一度、声を飛ばした。
「今年は私がいただくわよ、みほ! 覚悟しておきなさい!」
「私も負けないよ!」
みほも振り向いて、叫んだ。
最後に、姉と、ライバルと、彼女の仲間達へ、大きく手を振って言った。
「それじゃ、行ってきまぁす!」