それからの大洗女子学園 あんこうチーム卒業編   作:春秋梅菊

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あらすじ
いよいよ新学期。大洗女子学園高等部へ進学した武部沙織の妹・詩織を待ち受けていたものは……。突然訪れた戦車との出会いが、彼女の運命を大きく変えていく。

新登場人物
武部詩織(たけべ・しおり)…武部沙織の妹。一年生。容姿は黒髪眼鏡、内気な性格。趣味は少女漫画鑑賞とお菓子づくり。ポジションは通信手兼車長。
藤村綾乃(ふじむら・あやの)…詩織のクラスメート。金髪のスレンダー美少女。友達思いで喧嘩っ早い。学校生活のかたわら何か仕事をしているようで…? ポジションは砲手。
栗林美智(くりばやし・みち)…詩織のクラスメート。かつて戦車道の名門だったが、今は落ちぶれている栗林家の娘。普段はへなへなしているが、戦車に乗ると性格が変わる。装填手。
穂積きりこ(ほづみ・きりこ)…詩織のクラスメート。地方から引っ越してきた。中学時代は「赤砲」と呼ばれた名戦車乗りだった。ポジションは操縦手。


1話 新入生・武部詩織です!

 

 

「しーおーり! 朝だよ!」

 姉の叱責。同時に、部屋のカーテンが勢いよく広げられた。

「あぅ……」

 窓越しの陽光に顔を射られて、武部詩織(たけべしおり)は低く呻いた。かけていた布団は引き剥がされ、体を激しく揺さぶられる。

「もう、起きなよ! 高校初日から遅刻しちゃうよ!」

「うん……」

 詩織は目を擦り、のろのろと体を起こした。ぼさぼさの黒髪を撫でつけ、枕元に置いてあった眼鏡をかける。

 テーブルには、姉の用意した朝ご飯が並べられていた。

 白いご飯と、お味噌汁と、お新香。

 あと、納豆。

 詩織はため息をついた。思えば昨日の朝昼晩も、納豆がおかずだった。

「また納豆なんだ……」

「もぉ、詩織。納豆食べなくっちゃ美容を維持出来ないよ?」

「お姉ちゃん、結婚情報誌の読みすぎだよ。それに、維持するほど年とってないと思う……」

「はいはい。いいから早く食べちゃって」

「うん」 

 手っ取り早く食事を済ませると、制服に着替えて、化粧台の前に座った。

 今日から、高校生になる。

 でも、鏡にうつっている自分の姿は、昨日までとちっとも変わらない。

 高校生になったからって、どうなるんだろう。

 楽しく学校へ行けるようになるのかな。

 これまでと違う私に、なれるのかな……。

 

 支度を済ませ、姉と一緒に学生寮の部屋を出た。もともと、姉は詩織と別の寮で部屋を借りているのだが、昨日はわざわざ泊まりに来て、あれこれと世話を焼いてくれたのだった。

 晴れやかな朝だった。高校生活の初日としては、申し分ない天気だ。

 でも……。姉の後ろに従って歩いていた詩織は、学校が近くなるに連れて足が遅れがちになった。同じ通学路を行く他の生徒達は、誰しも軽快な足取りで、楽しげに見える。

 不意に十字路の角から、すらりとした人影が姿を見せた。

 詩織は「あっ」と小さな声を漏らした。

 知っている人だった。姉の親友・五十鈴華さんだ。詩織も何度か会ったことがある。

「あ、華ぁ! ひっさしぶり~!」

 姉がすかさず声をかけて、華に駆け寄る。向こうもこちらに気がつき、笑顔で会釈した。

「おはようございます、沙織さん。あら……そちらにいるのは、詩織さんじゃありませんか?」

「そうだよ。妹は今年から高等部だから」

「進学おめでとうございます、詩織さん。高校生活楽しんでくださいね」

 詩織は曖昧に頷いた。

 それをよそに、姉は友人を上から下まで眺め回し、怪訝そうに尋ねた。

「それより華、ちょっとお肌焼けてない?」

「ええ。春休みの間、母とハワイに行ってきましたので」

「えーっ、いいなぁ!」

 姉がその話題に飛びついて、早速質問責めにする。二人が話し込んでいると、ふらふらした長髪の生徒が、今にも倒れそうな様子で通りを歩いてきた。

 詩織はそれが姉の幼なじみ、冷泉麻子さんだと気がついた。声をかけたものか迷っていると、姉も目敏く彼女を見つけて、すぐに手を振った。

「あ、麻子じゃん! おはよう!」

 ところが、麻子さんは聞こえなかったかのように詩織達の横を素通りした。ぶつぶつと、呪文のような呟きを漏らしながら。

「苦痛だ。地獄だ……今日からまた早起きしなければいけないとは……」

「麻子、麻子ってば!」

 しきりに呼びかけられて、麻子さんはようやく立ち止まった。ぎこちなく首を動かし、武部姉妹の姿を見つける。

「不思議だ。沙織が二人に見える」

「何寝ぼけてるの。こっちは詩織だよ!」

 姉が一括する。何度か瞬きした麻子は、ようやく合点した顔で言った。

「ほんとだ」

「もぉ、新学期早々どうしたの?」

「快適な春休みが終わって辛い。学校が始まったせいで私の生活リズムが乱された」

「乱れてるのはもともとでしょ!」

「沙織さーん」

 鈴のように澄んだ声。振り向くと、二人の生徒が通りの向こうから手を振ってやってくる。一人は短い髪の、少し地味な容姿。もう一人は、ぼさぼさの癖毛とたれ目が特徴的だった。

「みぽりん、それにゆかりんも!」

 姉の言葉で、詩織もふと思い出した。確か、戦車道で同じチームを組んでいる姉の友人だ。校内新聞や姉の部屋にある写真で見たことがある。が、実際に会うのは初めてだった。

 ぼさぼさ髪の方――自分の記憶が正しければ、たぶん秋山優花里さんだろう――が、背筋を伸ばして敬礼する。

「武部殿、お久しぶりです!」

 姉も真面目くさった顔つきで敬礼を返す。

「ゆかりん殿も、変わらぬご様子で!」

 それから、もう一人を振り向いた。

「みほったら、いつこっちに戻ってたの? 連絡くらい寄越しなさいよぉ」

「ごめんね。昨日帰ったばかりで、荷物を開けたり今日の支度をしたり、色々大変だったから」

 申し訳なさそうに答えたこの人が、きっと西住みほさんだろう。物腰穏やかな見た目からは想像つかないけれど、戦車道の名門に生まれ、大洗女子学園を廃校の危機から救ったヒーローだ。

 みほの視線が、姉の背後に隠れている詩織を捉えた。

「あれ……」

 すかさず気がついた姉が、詩織の体を押し出す。

「あ、紹介するね。妹の詩織! 中等部からの繰り上げで、今年から高校一年になるんだ。私達と同じ普通科だよ」

 詩織は咄嗟に、みほと優花里へ頭を下げた。

「ど、どうも」

「詩織、こっちがみぽりんで、こっちがゆかりんだよ」

「全然紹介になってないぞ」

 麻子が突っ込むと、詩織はもじもじしながら答えた。

「あ……大丈夫です。姉から、時々お話を聞いていますから」

 優花里が両手を胸の前で合わせ、瞳を輝かせる。

「可愛いですね~! なんだか、武部殿を清楚にした感じであります」

 沙織が頬を膨らませた。

「ちょっとぉ、それどういう意味よォ! 私が清楚じゃないみたいじゃない」

「うふふ。でも詩織さん、少女漫画やお菓子作りがお好きですし、沙織さんよりもずっと女の子らしいです」

「もう! 華までひどーい。私だってヨガとか恋愛術研究とか、女の子らしいことしてるもん!」

「それ三十路女のやることだろ」

 麻子が容赦なく言い返すそばで、みほがあはは、と苦笑している。

 楽しげな賑わいに、詩織も思わず口端を持ち上げた。

 いいなぁ、と素直に思う。五人のやり取りは、詩織にとって何だか窓越しの世界に感じられた。友達との他愛無いおしゃべり。絶えない笑顔。中等部の私がずっと欲しくて、ずっと憧れていたもの。

 そのうち、姉達の姿が眩しく感じられて、詩織はそっと顔を背けた。

 やがて、姉が皆を促した。

「さ、早く学校行こう。遅れちゃうよ」

 六人は肩を並べて歩き出した。

 校門の前に着くと、姉が詩織を呼び止め、ぺらぺらとまくし立てた。

「じゃ、詩織。ここで別れるからね。高校に入ったからって、そんなに気張らなくていいからね。自然にしてれば大丈夫だよ。クラスのみんなと仲良くね。あと、不良みたいな子とつき合っちゃ駄目だよ?」

「う、うん」

「じゃ、行っておいで」

 急に心細さを感じたが、ここまで来て弱音を吐けるはずもない。

 姉達に別れを告げ、詩織はしょぼしょぼした足取りで一年生の昇降口に向かった。

 

 昇降口前の掲示板には、新一年生のクラスと名前が掲示され、大量の生徒でごったがえしていた。

 詩織は及び腰になりながら人の群へ加わり、自分のクラスを探した。

 どきどきしながら、掲示板の表を目で追っていく。

 ――武部詩織 普通科一年B組。

 それだけ確認すると、人混みを抜け出して下駄箱に向かった。革靴を脱いで、上履きに履き替える。

 昇降路から階段を上がると、すぐにA組の教室が見える。詩織はその隣、B組へ入っていった。

 中には、既に十五人くらいの生徒がいた。

 詩織の知っている顔は少なかった。

 県立大洗女子学園は、中高一貫制を採用している。内部進学生が六割で、残りは他校から転校してきたり、高校から改めて入学してくる通称・高入生と呼ばれる生徒達だ。例外を抜きにすれば、一クラスあたり四分の一くらいは高入生が混ざっている。また高等部になると普通科、商業科、船舶科といったように学科が分かれるため、中等部の知り合いと同じクラスになる確率はなおのこと減ってくる、というわけだ。

 詩織にしてみれば、中等部の知り合いが少ないのは幸いだった。

 その方が、学校生活を新しくやり直すのにも都合がいいし、希望も持てる。

 けれど、いきなり初対面のクラスメート達へ声をかけるほどの勇気はなかった。

 泥棒のようにこそこそと教室の隅っこを歩いて、自分の席を探す。俯き加減で椅子に座り、ちらっと時計を見れば、朝のホームルームまでにはまだ五分あった。周囲へ視線を投げると、既にグループを作って打ち解けている子も少なくない。むしろ、詩織のようにぽつねんと座っている子は殆どいなかった。

 心が焦り出した。

 どうしよう。

 思い切って、誰かに話しかけてみようか?

 でも、うまくいかなかったら?

 逡巡するばかりで、体は動いてくれない。ぎゅっと唇を噛んだ。

 いつもこうだ。何をするにも迷って、ためらって、結局出遅れて、後悔する。

 友達は殆どいなかった。勉強や部活を熱心にやったわけでもなかった。

 それが詩織の、中等部三年間だった。

 高等部へ進学したばかりなのに、やっぱり同じことを繰り返そうとしてる。

 私、情けない。

 ……でも、しょうがないよね。高校生になったくらいで、そんな簡単に変われるはずない。

 詩織は、小さなため息を漏らした。

 その時だった。

「たーけべさん!」

 透き通った、朗らかな声。

 けれど、詩織の背筋は凍りついた。

 そんな……まさか。

 どうして「あの人」が同じクラスにいるの?

 詩織は恐る恐る振り向いて、声の主を見た。

「ふ、渕上(ふちがみ)さん……」

「えへへ、一緒のクラスだったんだね。進学したらもう会わないと思ってたのに」渕上さんは満面に笑みを浮かべて言った。「良かったぁ。またテストの時、ノートとか貸してくれるよね?」

「え、あ、それは……」

 声が震えて言葉にならない詩織をよそに、渕上さんがクラスの窓側へ呼びかけた。

「ねえねえ! 武部さんも同じクラスだったよ!」

 新たに二つの人影が近づいてくる。詩織は思わず身を堅くした。

「お、尾崎(おざき)さん。茅野(かやの)さんも……」

 茅野さんは口端を意地悪そうに持ち上げた。

「やだぁ、また武部さんと一緒なんだぁ」

 詩織が俯くと、不意に横から手が伸びて眼鏡を取り上げられた。取り上げたのは尾崎さんだった。

「まぁ武部さん。高校になっても眼鏡なんですか? 似合わないってあれほど言ったじゃありませんか」

 詩織はおろおろしながら、手を伸ばした。

「か、返して……」 

 渕上さんが無造作な動きで、椅子の足を蹴り飛ばす。眼鏡を取り返すのに必死だったから、詩織は完全に虚を突かれた。椅子ごと横倒しになって、無様に転んだ。

 淵上さん達の哄笑が響く。

「じゃあ、今年もよろしくね。武部さん」

 言い捨てて、自分達の席へ戻っていった。

 詩織は茫然自失としながら、体を起こした。

 淵上さん達には、中学二年生の頃から嫌われていた。理由は色々あったけれど、今はもう深く思い出せない。中等部が終わるまで、ずっと虐められ続けていた。

 忘れようとしていた過去の痛みが脳裏にぶり返してくるのを、詩織は無理やり振り払った。

「あ……眼鏡」

 詩織が床を見回すと、細長い手が伸びてきて、目の前に眼鏡を差し出した。

 顔を上げると、見知らぬ生徒が小さな笑みを浮かべている。

「ほら、あんたのでしょ」

「あ……そのっ、すみません」

 詩織はたどたどしく答えて、受け取った。眼鏡をかけ、改めてその生徒を見た。

 流れるようなブロンドの髪に、すらりとした体型。思わず息を呑んでしまいそうな美少女だった。

「あたし、藤村綾乃(ふじむらあやの)。高入生だよ。よろしく」

「えっ、は、はい。私、た、武部詩織です」

 やっとの思いで、それだけ言った。綾乃が淵上さん達のいる方を、顎で軽く示す。

「あいつら、知り合い?」

「えっと……中等部の頃、同じクラスで……」

 綾乃は頬杖をつきながら、合点した顔で言った。

「ふうん。ま、詳しい事情はわからないけど、見ていていい気分しないよね、あーいう連中」

「え……」

 詩織が最初に感じたのは戸惑いだった。この人は、どうして私の肩を持ってくれるんだろう。

「あ、あの――」

 声をかけようとした瞬間、前の扉から先生が入ってきた。女性で、歳は四十そこそこに見えた。

「はい、皆さん。席についてください」

 生徒が次々に着席する。藤村さんも、じゃあ後でね、と一言残して自分の席へ戻った。

 まずは先生の自己紹介。それからホームルームが始まり、大洗女子学園・高等部普通科に関する説明が一通り行われた。詩織は真面目に聞いていたが、中には退屈になったのか船を漕いでいる子もいた。

 説明が一通り済んだところで、先生がぽんと手を叩く。

「はい! それでは、これから一年間を共にする仲間達に簡単な自己紹介をしていきましょう」

 詩織は身を堅くした。やっぱり来た。高校初日だから、こういうのは避けられないだろうとは思っていたけど。

 もともと、人前で話すのは好きじゃない。

 でも、やらなきゃ。詩織は必死に自分を奮い立たせた。うまくやって、ちゃんと新しいスタートをしなきゃ。最初からつまづいたら、大変なことになる。

「内容は皆さんに任せます。自由に発表してください。では、右端の[[rb:相川 > あいかわ]]さんからお願いします」

 前列の一番前にいる生徒が立ち上がり、自己紹介を始めた。その子は高入生で、中学時代は県外の女子校に通い、忍道で全国大会に出場していたという。高校でも忍道をやりたいそうだ。いきなり凄いのが来た、とクラスは拍手で沸いた。

 詩織も拍手しながら、内心途方に暮れた。何か特技が一つでもあれば、発表でも困らないのに。

 他の生徒達の紹介を聞いていると、大抵は自分の趣味や好きなことを軽く発表して済ませていた。

 あれよあれよという間に、詩織の番がやってきた。

 考える時間は無い。ストレートに「好きなもの」を話そう。

 席を立つと、声が震えないよう意識しながら話し始めた。

「た、武部詩織です。えっと、中等部から進学してきました。二つ上の学年に、姉がいます。その、私が好きなものは……」

 言いかけた途端、脳裏で誰かの声が響いた。

 ――少女漫画ァ? そんなのばっかり読んでるから、現実のことないがしろにしちゃうんだよ。

「好きな、ものは……」

 ――お菓子作りが好きなんだ? 詩織みたいな暗い子が作るお菓子って、なんかまずそうだよね。

 好きなものは少女漫画とお菓子作り。

 そう言いたいのに、言えない。

 もう昔のことで、誰が言ったのかも忘れたけど、否定された記憶だけは、今でも強く心に根づいている。

 結局、弱弱しい声でこう続けた。

「その……色々あるので、徐々に皆さんへ知って貰えたらいいなって、思います。よ、よろしくお願いします」

 言い終わるなり、そそくさと腰を下ろした。

 ぱらぱらと拍手が起こる。

 詩織は真っ赤になって俯いた。

 自分が情けなかった。

 私は、自分の好きなことも胸を張って言えないんだ。

 こんな自己紹介、失敗以外の何でもない。

 すっかり意気消沈して、しばらく呆然としていた。他人の発表もまるで耳に入らなかった。

「皆さん初めまして。藤村綾乃です」

 詩織は、はっと顔を上げた。さっき、眼鏡を拾ってくれた人だ。

「高入生ですけれど、中等部から進学してきたみんなとも仲良く出来たらいいなって考えてます。ずっと東京に住んでいたので、大洗での生活は少し不安です。でも、新しい場所だからこそ、これまでと違う、新しい自分になれるかなっていう気持ちもあります。大洗やみんなこと、色々教えてください。一年間、よろしくお願いします」

 ぺこりと一礼して、席に座る。声が綺麗でよく通るし、発表内容も明快で伝わりやすい。誰もが好感を持ったようで、惜しみない拍手を送る。

 凄いなぁ、と詩織は感嘆した。あんな風に堂々と話せたら、格好いいのに。

 何より、新しい自分になる、という言葉は詩織の胸を打った。

 友達を作りたい。

 楽しい学校生活を送りたい。

 そのためには、変わらなくちゃいけないんだ。

 何か、これまでと違う私になれるもの、無いかな……。

 

 

 

「はぁ……」

 学校からの帰り道。前を行く自分の影に視線を落としながら、詩織は歩き続けた。

「私ってほんと、だめだな……」

 午前のホームルームが終わってお昼の時間、詩織は勇気を出して藤村綾乃を誘おうとした。が、やはりというか藤村さんは人気者で、あっという間にクラスのみんなに囲まれてしまい、詩織が寄りつくことは不可能だった。

 結局、持ってきたお弁当を一人で食べた。

 午後は午前の続きで、授業や規則に関するガイダンスが行われた。

 下校の時、詩織はもう一度ありったけの勇気を振り絞って、藤村さんに声をかけようとした。

 ところが――。

「ごめん。用事があって、今日はどうしてもダメなんだ」

 申し訳なさそうな笑顔できっぱり断られてしまい、詩織はそれ以上何も言えなかった。

 そして、しおしお一人で帰る羽目になったというわけだ。

 詩織は後悔していた。どうして藤村さんばっかりに拘ってたんだろう。友達になるなら、隣や後ろの席の子でも良かったのに。

 とにかく、帰ろう。今日は疲れちゃった……。

 学生寮の部屋に戻ると、何故か鍵がかかっていなかった。

 ――あれ、閉め忘れたのかな?

 訝りながら中へ入る。

 玄関先のキッチンは明かりがついていた。

 制服にエプロン姿の姉が、レ―ドルを振り上げてにこやかに言った。

「おかえり!」

「お、お姉ちゃん……? どうして?」

「初日は大変だったでしょ。今日は私がご飯作ってあげるから。いいから手を洗って、部屋で待ってなよ」

「う、うん」

 詩織は大人しく従った。

 やがて、料理が運ばれてきた。

 明太子のパスタとビーフシチュー、それに小エビと海藻のサラダだ。一目見ただけで、どれもかなり手をかけて作っているのがわかった。

 詩織は密かに嘆息した。彼女が学校でどんな生活を送っているか、姉に詳しく話したことはない。クラスメートに虐めを受けていたなんて、とても言えなかった。心配させたくなかった。

 でも、二人は姉妹だ。話さなくても、姉は詩織のことをよくわかっていた。だからといって、表立って虐めのことをあれこれ言ったり、詮索するようなことはしない。ただ詩織が落ち込んでいると、おいしい料理を作ってくれたり、一緒に遊びに行ってくれたり、それとなく傷を癒してくれるのだった。

 姉がいたから、中等部も最後まで頑張ることが出来た。

 だけど、いつかは自立しなくては。姉が心配しなくても済むように。

 そう思っていたのに、高校一日目から最悪の出だしだ。

 明日から、どうしようかな。

 その時、ドアのインターホンが鳴った。

「あ、来た来た」姉がいち早く反応して、ドアに呼びかけた。「入っていいよ~」

「お邪魔します」

 涼やかな声と共に入ってきた相手を見て、詩織は目を丸くした。

「あ……」

 姉の親友・西住みほさんだ。

「こんばんわ、詩織さん」

「は、はい。こんばんわ……。あの、どうしてここへ?」

 みほさんは微笑んで言った。

「沙織さんにはずっとお世話になってるから。そのお返しになるかわからないけど、今日は詩織さんの入学をお祝いしたくて」

 姉が横から口を入れる。

「詩織、みぽりんは学校を救ったヒーローなんだからね。そんな凄い人に祝って貰えるなんて、あんた幸せだよ~。これ以上有名人になっちゃう前に、サインとか貰っておけば?」

「もう、沙織さん……」

「あはは、冗談だって!」

 姉やみほさんの好意は嬉しい。けれど、何だか色々と気を遣わせたようで、申し訳なくもあった。詩織は俯きがちに言った。

「ありがとう、ございます……」

 みほさんが笑顔で手を振る。

「いいよ、礼なんて。それより、料理が冷めちゃう」

「そうだね。食べよっか!」

 姉がグラスにジュースを注ぎ、みほさんと詩織へ渡す。「じゃあ、詩織の入学に乾杯!」

 姉の高らかな声に合わせて、グラスをかち合わせる。それからしばらく談笑し、卓一杯の料理を味わった。

 ふと、みほさんが両手を叩いて言った。

「そうだ! 詩織さんにプレゼントがあるんだよ」

「私に?」

「うん」鞄を探り、みほさんが綺麗に包装された包みを差し出した。「はい。開けてみて」

 詩織は包みのリボンを解いて、中身を取り出した。

 入っていたのは、クマのぬいぐるみだった。

 サイズは、鞄のマスコットにちょうどいいくらい。案の定、ストラップが背中のあたりから伸びている。

 それだけなら、何でもない普通の人形だったはずだ。

 でも、この人形は普通じゃなかった。

 というか、明らかに異様だ。

 額には絆創膏、左耳、右手、左足には包帯が巻かれ、見るからに痛々しい。右目のまわりにはくっきりとした青あざがついており、頬にも長い十時傷が走っている。まさに満身創痍、ズタボロのクマさんだ。可愛いとか可哀想とか、そういう次元の感想を述べられる代物じゃなかった。

 詩織は狼狽して、みほさんを見返した。

「え、えっと、これは一体……」

「ボコられグマだよ! ボコっていうの」

 みほさんは満面の笑みを浮かべて言った。詩織の困惑は余計に酷くなった。

「は、はぁ」

「可愛いでしょ?」

「え? ああ、え、えっと――」答えに窮して、必死に姉へ目配せする。姉は至極真面目な顔で、小さく首を振った。否定するな、という意味だ。詩織もこくりと頷く。「と、とっても可愛いです」

「本当? よかった!」それから、蛇口を捻ったように勢いよく話し出す。「これはね、大洗のボコミュージアムで冬の間だけ発売された限定品なんだよ。バリエーションが四種類あって、ほっぺに十時傷のあるボコがシークレットレアなの! 確かシークレットレアは、ミュージアムでも二十個しか置いてなかったなぁ」

「は、はぁ。そんな大事なもの、いただいてよろしいんですか……?」

「あっ、いいの。私はもう三個持ってるから!」

「え? 三個も持ってるんですか?」

 こんなものを、と危うく言ってしまいそうになったのを、すんでのところで飲み込む。

 みほさんのボコトークが、さらに続く。

「大洗のミュージアムはね、去年リニューアルしたばっかりなんだよ。その時に新しく追加されたアトラクションがあって、タワー・オブ・ボコっていうの!」

「ちょっと、みほ」

 姉が遠慮がちに呼びかけ、みほさんの肩を叩く。が、みほさんはまるで気づいていなかった。

「それとこの前、ボコのミニドラマがネット配信で始まったの。凄く面白いんだよ。毎週水曜日にやってるから、もし良かったら見てね。あ、ストーリーは連続ものじゃないし、途中から見ても全然大丈夫だよ!」

「みほ! みほってば!」

 姉が声を張り上げる。

 今度は、みほさんも反応した。

「え、なに……」

「もうボコの話はいいから! ご飯食べよう」

 みほさんは我に返った様子で狼狽した。

「ご、ごめんなさい。夢中になっちゃって。食べましょう!」そそくさと自分の小皿にサラダをよそおうとした。が、手元が狂い、皿から小エビがぽーんと跳ねて、あろうことか姉の頭に着地した。

 姉がじっとりした視線をみほさんへ向ける。

「みーほー……」

「あ、あわわ! ごめんなさい」

 みほさんが布巾を手にして立ち上がろうとする。ところが、はずみで膝をテーブルの角に思い切りぶつけた。

「うぇっ!」

 よほど酷くぶつけたのだろう。みほさんは膝を抱えて床にうずくまり、プルプル体を震わせている。

 詩織は呆気にとられた。姉の話だと、みほさんは戦車道のヒーローとしか聞かされていなかったから、まさかこんな一面を持った人だとは思いもよらない。

 姉が頭のエビを取り去りながら、苛立たしげに言う。

「みぽりんはホントそそっかしいんだから。あーもう、ドレッシングのせいで髪がベタベタする~。詩織、ちょっとバスルーム借りるね!」

 立ち上がると、タオル片手にバスルームへ飛び込んでいった。

 みほさんがようやく体を起こした。詩織がためらいがちに声をかける。

「あの、大丈夫ですか」

「あ、うん。もう平気かな」

 膝をさすっているみほさんを、詩織はぼんやり見つめていた。そんな彼女の視線に気がついたのか、みほさんが訝しげに尋ねる。

「どうかした?」

「あっ、いえ。その……姉からみほさんの話を聞いていたんですけど――」

「あはは。聞くのと見るのじゃ、大違いだった?」

「そ、そういう意味じゃ……」

「いいんだよ。沙織さん、友達のことを凄く褒めたがる人だから。詩織さんには、きっと十倍くらい立派な人間だって話してたんじゃないかな」みほさんは感慨深げに続けた。「私、転校してきたばかりの頃、友達が全然作れなくて。沙織さんが、一番最初に出来た友達だったの。だからとっても感謝してる」

「姉は、そういう人なんです。明るくて、誰とでも打ち解けることが出来て。私は、あんな風になれないけど……」

 段々小さくなる声で言いながら、詩織は両手の指を絡ませて、ぎゅっと力を込めた。

「詩織さん……?」

 みほさんが開けっぴろげに話してくれたせいかもしれない。気がつくと、詩織はまくし立てていた。

「私、自分のことが好きじゃないんです。人に自慢出来ることもないし、性格だって暗いし。ずっと変わりたいって思ってても、変われなくて。だから、友達もいません。このままじゃ、高校生活、楽しくないと思います……」

 みほさんが静かに手を伸ばし、詩織の手に触れた。とても温かった。

「大丈夫だよ」みほさんは微笑んだ。「詩織さんにはちゃんと味方がいるから。沙織さんと、それに私。困ったことがあったら、話してね。きっと力になるから」

 詩織は胸が熱くなった。

 頷きながら涙声で言った。

「はい」

 ややあって、姉が戻ってきた。食事を再会して談笑するうちに、時間はあっという間に過ぎていった。

 姉が時計を見て、みほさんに声をかける。

「そろそろ十時だね。片づけして帰ろっか」

「そうだね」

 三人で食器や残り物を片づけると、姉は詩織にあれこれ言い含め、みほさんと一緒に帰っていった。

 詩織は入浴をすませて着替えると、ベッドに入った。

 明日から本格的に高校生活が始まる。

 正直、怖い。

 ――大丈夫だよ。

 みほさんの励ましが、何度も聞こえたような気がした。

 

 

「早起きする子はモテるよ! 早起きする子はモテるよ!」

 詩織は枕に顔を埋めたまま、手を伸ばして目覚ましを探し当てると、アラームのスイッチを切った。

 むっくり顔を起こし、カーテンを開ける。陽光のおかげで、意識がいくらかはっきりしてきた。

 詩織は姉から貰った目覚ましを睨みつけた。確か、結婚情報誌のおまけでついていた物だ。

「目覚まし、他のに換えようかな……」

 ため息混じりに呟いて、ベッドを降りる。洗顔をすませると、ようやくしっかり目が覚めた。

 炊飯器には、姉が予約機能で炊いていてくれたご飯が入っていた。あまり食欲が無いので、お椀半分くらいの量をよそって、テーブルに置く。

 それから、冷蔵庫を開けた。

 上段の棚には納豆、中段の棚には納豆、下段の棚にも納豆……。一応、下段の隅っこにはお新香のパックが見える。

「お姉ちゃんのバカ」

 ぼやきながら、冷蔵庫を閉める。キッチンの調理棚を探るとインスタントの味噌汁があったので、それを作っておかずにした。

 食事を終えると、登校の支度にかかった。ふと、テーブルの上に、昨日みほさんから貰ったボコられグマの人形が放り出されているのを見つけた。

 せっかく貰ったんだし、一応つけておこうかな。

 そう思って、ボコられグマを手に取った。

 

「はぁ……」

 十歩くらい歩く度に、ため息。

 こんなんじゃ駄目だと思いつつも、止まらない。

 昨日のみほさんの励ましも、何だか遠い昔のことのように感じられた。

 思い出すのは、学校一日目の情けない自分の姿。堂々とした藤村さんの自己紹介。淵上さん達の意地悪そうな顔。

「はぁ……」

 また、ため息。今日はどんな一日になるだろう。

 学校へ近づくほど、足が少しずつ重くなる。

「あのう」

 背後から、誰かの声が聞こえた。たぶん私のことじゃないだろう。そう思って歩き続ける。

「あの、すみません」

 今度も同じ声。

 もしかして、私を呼んだのかな。

 気になってしまい、詩織は振り向いた。

 すると、大洗女子学園の制服を着た女の子が立っていた。小柄で、少しパーマのかかった褐色の髪、それに柔らかい顔立ち。たんぽぽのようにふわふわした雰囲気の子だった。

 詩織はどぎまぎしながら尋ねた。

「あ、あの……何か?」

「これ、落としましたよ」

 女の子が差し出したのは、ボコられグマだった。慌ててバッグを見やると、つけていたはずのマスコットが無くなっている。確かに自分のものだ。

「あ、ありがとうございます」

 お礼を言いながら受け取る。

「武部詩織さん……だよね?」

「えっ」突然名前を呼ばれて、詩織は狼狽した。「は、はいっ。そ、そうですけど」

「やっぱり! 私のこと、覚えてる? 同じクラスの、栗林美智(くりばやしみち)

「あー、えっと」

 詩織は必死に昨日の記憶を掘り起こした。自己紹介の時は自分が何をしゃべるかで頭が一杯だったから、他人のことはまるで意識していなかった。

 美智は笑顔で言った。

「えへへ、歩きながら話そっか」

 肩を並べて、通学路を行く。

 詩織はすっかり緊張した。どうしよう、何を話そう。私、この子のこと何もわからないよ……。そんなことを思っていると、美智が自分からあれこれしゃべってくれた。

「私、高入生なんだ。大洗に越してきたばかりで何も知らないから、色々教えてくれると嬉しいなぁ。武部さんは、中等部からの進学だったよね?」

「あ、ええと、はい。そうです」

「敬語なんか使わなくっていいよぉ、同い年なんだし」

「あの……うん」

 おぼつかない応答をしながら、詩織は必死に話題を探した。友達を作ったら、あれを話そう、これを話そうって色々考えてたつもりなのに、いざという時になって言葉が出てこない。

 ふと、美智が道沿いのコンビニを見て、興味深そうに首を伸ばした。

「あー! あれ、サンクスかぁ。うちの近くにはなかっ――うべっ」

 首をコンビニの方へ向けたまま進んでいた美智は、眼前の電信柱へまともに激突した。詩織もすっかり自分の世界に入っていたので、美智へ警告するタイミングを逃してしまった。申し訳なさそうに、声をかける。

「だ、大丈夫?」

「いちち……うわぁ、何コレ。ぶさかわいいなぁ」

 痛みに頭を抱えていたのもつかの間、美智は電信柱に書かれたアンコウのイラストを好奇心旺盛な瞳で見つめている。大洗のイメージキャラクターだ。

 詩織は遠慮がちに言った。

「あ、あの、栗林さん」

「ふえ?」

「鼻血、出てる」

 美智は左手を伸ばして、鼻孔にあてがった。べっとりと真っ赤な血がついている。初めて怪我に気がついたように、美智は慌てだした。

「うわぁ、ホントだぁ」

「あっ、駄目だよ。袖で拭ったりしちゃ」

 詩織は急いでバッグを探り、ポケットティッシュを差し出した。

「ありがと。私、そそっかしいから。えへへ」

 何だかみほさんみたいだなぁ、と詩織はぼんやり思った。

 美智を介抱しながら進むうち、学校へ到着した。

 教室にはもう大半のクラスメートが揃い、グループに分かれておしゃべりしている。美智のおかげで自分が一人にならなかったことに、詩織はほっとした。

 朝のホームルームまではまだ時間がある。しばらくの間、美智と二人でとりとめのないことを話していた。といっても、話すのは殆ど美智の方で、詩織は頷いたり曖昧な返事をするので精一杯だった

「武部さん!」

 突然、誰かから呼びかけられた。一瞬どきっとして顔を上げると、藤村綾乃がにこやかに立っている。

「ふ、藤村さん……」

 綾乃は両手を申し訳なさそうに合わせた。

「昨日はごめんね。せっかく声かけてくれたのに先に帰っちゃって。どうしても外せない用事でさ」

「そ、そんなの、全然大丈夫だよ」

 気にかけてくれてたんだなぁ、と詩織は勝手に感動した。

「良かったら、今日のお昼一緒に食べようよ、ね?」

「いいの? で、でも、他の人達からも誘われてるんじゃ……その、藤村さん人気そうだし」

「そんなことないって! ま、今日は武部さんと先約とったから、心配しなくても大丈夫だよ」

 美智が遠慮がちに言う。

「あの、私もお昼いいかな?」

「もちろん! えーと、確か栗林さんだっけ?」

「えへへ、覚えててくれたんだ」

「うん。なんかほんわかして可愛いなぁって思ってたから」

「別に可愛くないよぉ。武部さんの方が清楚で女の子らしいし」

 美智の言葉に、詩織は頬を赤らめた。

「わ、私はそんな……」

 その時、チャイムが鳴った。先生が入ってきて、着席するよう声をかける。

「じゃ、また後で!」

 綾乃が笑顔で手を振り、席へ戻る。美智も同じように言葉を残して、自分の席へ向かった。

 詩織は胸がどきどきした。

 何だろう、この感じ。

 私、もしかして、友達が出来たのかな?

 

 昼休みはあっという間にやってきた。

 綾乃はクラスのあちこちから誘いを受けていたけど、本当に詩織のところへやってきた。さらに美智も連れて、三人は食堂に向かった。

 それぞれ定食をお盆に載せ、空いていた席に座る。

「いただきまーす!」

 声を合わせて、箸を手に取る。

 食べながら、綾乃がさっそく声をかけてきた。

「ねえ、武部さん。この学園鑑、去年廃校になりかけたって本当なの?」

「あ、うん。戦車道でいい成績残したから、存続ってことになったんだけど」

 美智が横から口を入れる。

「確か、西住流の継承者がいるんだよね」

「にしずみりゅう? なによそれ?」

 綾乃が片方の眉を上げる。

「んーとね、戦車道にはいくつか有名な流派があって、西住流はその中でもトップクラスの知名度なんだ」

「へー、そうなんだ」

 綾乃が関心する横で、美智がふっと息をつく。

「西住流の跡継ぎの人と、一度直に会ってみたいなぁ」

 詩織が遠慮がちに言った。

「あ……会ったこと、あるよ」

「えっ?」

「うちのお姉ちゃんの友達で、昨日遊びに来てくれたの。お、お姉ちゃんも戦車道やってるから」

 美智が食いついた。

「ウワァ、それ本当? そんな人と知り合いなんて、武部さん凄いな~」

「ち、違うよ。凄いのはお姉ちゃんで、私なんか……」

「そんなことないよぉ。あ、じゃあ武部さんも戦車道やるの?」

「ううん……必修選択科目が色々あるから、まだ決めてないけど」

 話しながら、詩織はふと気がついた。

 私、普通に話してる。普通に笑ってる。

 お昼ご飯が、おいしい。

 何年ぶりだろう、こんな感覚。

 学校って、こんなに楽しかったんだ……。

 

「しーちゃん、帰ろっ!」

 下校時間、いきなり綾乃にそう呼びかけられた。詩織は面食らって聞き返した。

「し、しーちゃん……?」

「うん。詩織だからしーちゃん。ダメ?」

 詩織は首を振った。

「う、ううん。いいよ」

 声が喜びで震えているのがわかる。

 しーちゃん……私のあだ名。

 誰かから親しい名前で呼んで貰うなんて、もう長いこと無かった。

 嬉しい。

 綾乃が、のろのろ帰り支度している美智へ声をかける。

「美智も速くおいでよ」

「ん~、待ってよぉ」

 美智はしばらく時間がかかりそうだった。

 と、詩織を振り向いた綾乃が、突然叫び声をあげた。

「あーっ!」

 詩織がぎょっとする。

「え、何?」

「あんた、ソレ好きなの?」

「ど、どれ?」

「それだよそれ! ボコ! ボコられグマ!」綾乃は詩織のバッグにぶら下がっているボコられグマのストラップを指さし、呆然とした様子でつけ加えた。「好きな人、初めて見たよ……」

 詩織も困惑気味に言った。

「す、好きっていうか、プレゼントで貰ったからつけてただけで」

「はぁ? これをプレゼントに? 変わった人がいるんだ……」

「や、やっぱりコレ、変なの?」

「変っていうか、どこがいいのかわかんないんだよね。何でも、熱烈なファンがいるらしいんだけどさ」

「お昼に話した西住流の先輩が、大好きみたいで……」

「……マジ?」

 唖然としている二人のもとへ、美智がやってきた。

「どうしたの? はやく帰ろ?」

 

「はあ。おわったぁ」

 夕食と入浴も終え、パジャマに着替えた詩織はベッドに倒れ込んだ。

 綾乃と美智と一緒の帰り道は、言葉にならないほど幸せな時間だった。話題の数を忘れるほど、沢山おしゃべりした。部屋へ着く頃には、唇は疲れて、喉もカラカラ。でも、これ以上ないくらい、満ち足りた気分だった。

 天井を見つめながら、小さく呟く。

「楽しかったな、学校……」

「お友達、二人も出来ちゃった」

「夢じゃないんだよね?」

 自分へ言い聞かせるように、言葉が次々漏れる。

 ふと横へ顔を向けると、バッグにかけられたボコが目に入った。そういえば、美智と話したきっかけはあのぬいぐるみが作ってくれたんだっけ。帰り道の綾乃は、ボコの話題にずっと食いついていた。詩織はベッドを降りると、指先でボコの頭を撫でた。

「あなたのおかげ、かな?」

 時計は十一時をまわっている。

 ふと、詩織は思い出したことがあって、急ぎパソコンを立ち上げた。

 今日は水曜日。ボコのミニドラマが放映される日だ。みほさんが確かそんなことを話していた。

 あった。これだ。ネットの動画配信サイトに、ボコられグマのミニドラマを見つけた。

 今日のタイトルは「二大猛獣 森を襲撃!」。

 内容はいたって単純。平和な森に二頭の獰猛な猛獣が現れて、生き物達が危機に陥る。そこに我らがヒーロー・ボコが現れ、敵に立ち向かうというものだった。が、ボコは登場した途端、名前通りボコボコにされ、一切の反撃も出来ぬまま「次週へ続く!」のテロップが流れた。

 詩織はあんぐり口を開けた。

「な、なにコレ。意味がわからない……」

 何だか、物凄く時間を無駄にした気分だ。

 とりあえず、みほさんにドラマのことを聞かれたら、見忘れたことにしておこう。とても感想を言える代物じゃない。詩織はそう結論をつけた。

 その時、携帯が鳴った。

 姉からだ。

「お姉ちゃん? どうしたの?」

「ん、別に。もう寝たかなって思って」

「起きてるよ」

「そっか」

 姉が電話してきた理由を、詩織は理解していた。はっきり用件を言わないから、尚更わかる。

 これまではずっと姉を不安にさせてきたし、それをいつまでも解消出来ない自分が恨めしかった。

 でも。今日は違う。それをちゃんと、伝えなきゃ。

「あのね、お姉ちゃん」

「うん」

「今日、学校楽しかったよ」

「え……?」

「その……私、友達が出来たんだ。二人いて、どっちもクラスメートの子」

「ほんと?」

「うん。だから、明日からも大丈夫」

「そっか。そっかぁ……!」

 姉の声は、少しうわずっていた。受話器越しに喜びが伝わってきて、詩織も涙を流しかけた。

「お姉ちゃん、ありがとう」

「やだなぁ、お礼なんか。夜遅くにごめんね。もう遅いし、早く休みなよ。あ、今度お友達紹介してね!」

「うん。じゃあ、お休みなさい」

 電話を切ると、詩織はベッドに入った。

 瞳を閉じて、祈る。

 明日も、楽しい学校生活が待っていますように。

 

 

「武部さん。放課後、ちょっと顔貸してくれる?」

「え、あぅ……ど、どうして――」

 バン、と鋭く伸びた平手が、詩織の背後にあるロッカーを叩く。

 恐怖の余り、詩織の息は止まった。三つの顔、六つの瞳が詩織を囲み、逃げ場を奪っていた。

 ロッカーから手を離した淵上さんが、冷ややかに告げる。

「いいから、来てよ。場所はA棟の体育館倉庫。来なかったら、許さないよ?」

「わ、わた、し……」

「アァ? 何よ、言いたいことでもあんの? はっきり言ってみなよ!」

 横から茅野さんが怒鳴れば、尾崎さんもすかさず追い打ちをかける。

「あなたのために、わざわざ放課後の時間を作って差し上げたんです。約束は守っていただきませんと」

 詩織は声一つ出せなかった。

 淵上さんが鼻を鳴らす。

「もういいよ、二人とも。続きは放課後にしようか」

 三人は大股で立ち去った。

 詩織は体中を震わせ、ロッカーに背を張りつけたままずるずると崩れ落ちた。

 それが、学校生活四日目の、朝の出来事だった。

 

「……というわけで、来週末までに各自必修選択科目を決めるように。週明けには上級生が各科目のオリエンテーションを行いますから、選ぶ時の参考にしてください」

 午前のホームルームで、先生が必修選択科目の説明を行っていた。

 詩織は集中して耳を傾けようとしたが、出来なかった。渕上さん達からあんな脅しをされて、ただでさえ気の弱い自分が平常心を保てるはずもない。

 休み時間になり、綾乃と美智が前後して詩織の席へやってきた。

「しーちゃん、次の美術は移動教室でしょ。早めに行って席取っておこーよ」

「え、あ……うん」

 美智が不安そうな面持ちで言った。

「大丈夫? 顔色悪いみたいだよ」

「へ、平気」二人を心配させまいと、咄嗟に嘘をつく。「ちょっとお腹が痛くて」

「それなら保健室行った方が――」

「大丈夫。大丈夫だから……」

 詩織は美智の言葉を遮り、筆記用具とノートを持って立ち上がる。

 肩を並べて美術室を目指す途中、美智が身を乗り出して尋ねてきた。

「二人は、必修選択科目もう決めた?」

 綾乃が首を振る。

「あたしはまだだなー。とりあえず、週明けのオリエンテーション見てからにするよ。あんたは?」

「ええと……私も迷ってて」

「え? てっきり戦車道やるのかと思ってたよ」

「ふえ? ど、どうして」

「だって戦車の話題によく食いつくじゃん」

 美智は俯き加減になり、指先でぽりぽり頬を掻いた。

「ええと、うん……。でも、別に戦車じゃなくてもいいんだ。履修して、ちゃんとこなせるものを選ばなきゃ」

「ふーん。ま、あたしら高入生だから、まだこの学校のことよく知らないもんね。しーちゃん、大洗女子って何が有名なの?」

「えっ?」ぼんやり放課後のことを考えていた詩織は、突然話を投げられて面食らった。「あ、ごめん。必修選択科目の話だよね? うちは確か、茶道・弓道・忍道が三本柱で、それぞれ実績も残してたかな。部活は……そんなに活発じゃないと思う。サッカー部と乗馬部、それから戦艦部がそこそこ頑張ってるくらいかな。うちって、歴史が古いだけで、規模も小さい学園艦だし」

 綾乃が訝しげに聞き返す。

「あれ? 戦車道は? 優勝したんでしょ?」

「お姉ちゃんの話だと、長いこと廃止になってて、去年復活したばかりだって」

「へー! それなのに優勝って凄いじゃん!」

話しているうちに、美術室へ着いた。その日は初回授業ということで、簡単なガイダンスの後、皆で絵を描くことになった。絵のお題は「馬」だ。また、描いた絵を批評するため、あらかじめ四人グループを作るように、という指示が出された。

 詩織は心の中で密かに嘆息した。

 ――グループかぁ。藤村さんや栗林さんがいたから良かったけど、もしいなかったら凄く嫌だったなぁ。

 美智がきょろきょろとクラスを見回す。

「私達だけじゃ、一人足りないね。誰かいないかなぁ」

「あ、あの子はどう?」

 綾乃が示したのは、教室のすみにぽつねんと座っていた高入生の子だった。青みががった短髪に、きりっとした顔だち。でも、常にきつく結ばれている口端と感情に乏しい瞳のせいで、何だか冷たげな印象を受ける。

 確か、穂積(ほづみ)きりこさんだ。学校も今日で四日目だから、詩織もそこそこクラスメートの顔と名前を覚え始めている。彼女の知る限り、穂積さんはいつも一人だった。けれど、本人は別段その状況を嫌がっているわけでもないようで、いつも淡々した様子だった。

「とりあえず、誘ってみよっかぁ」

 美智が立ち上がって、ふらふらと穂積さんのもとへ行き、声をかける。穂積きりこは美智が話す間眉一つ動かさず、口を開くこともしなかった。が、やがて立ち上がると詩織達の席へやってきた。

 綾乃がにこやかに言った。

「よろしく、穂積さん! ここ座りなよ。同じ高入生同士、仲良くやろうね!」

「数合わせで来ただけだから」

 きりこはそっけなく答えると、椅子に座って画用紙に課題の絵を描き始めた。

 ――うわぁ、無愛想な子だな。

 話しかける勇気を挫かれた詩織は、目を伏せて自分の作業に集中した。スキンシップが好きな美智は、時折手を止めてきりこに話しかけたものの、相手はろくに応じない。これが詩織だったらショックを受けただろうが、根が明るい美智は気にしていないようだった。

 その美智は、ふと詩織の画用紙をのぞき込んで感嘆の声をあげた。

「あー、詩織うまーい!」

 詩織は頬を赤らめた。

「あ、うん……。昔から漫画が好きで、よくイラストも描いてたから」

「いいなぁ、凄いなぁ!」

 美智がほめちぎるそばで、綾乃が片方の眉を上げた。

「へえ、しーちゃん漫画好きなんだ? 何読むの?」

 詩織は指を折りながら言った。

「最近読んだのは「ボーイズ&ミサイル」「納豆のプリンス様」「五月のアンコウ」とかかな」

「あー、少女漫画系か~。「ボーイズ&ミサイル」は最近劇場版のブルーレイが発売されたよね。アニメは見てた?」

「ええと、うん。劇場版はまだだけど……」

「えー、もったないよ! 劇場版限定のキャラ達が超かっこいいんだから。声優さんは甘粕(あまかす)さん、牟田口(むたぐち)さん、東條(とうじょう)さんとか有名どころが揃ってたし!」

「あ、もしかして藤村さん、アニメ好きなの?」

「まーね。大体は、好きな声優さんが出てるかどうかで作品選んでるけどさ」

「そうなんだ」

 活発でアウトドア指向な雰囲気の綾乃がアニメ好きというのは、ちょっと意外だった。そういえばボコられクマにも詳しかったし、結構少女趣味なところがあるのかもしれない。

 詩織は、黙々と絵を描いているきりことちらっと見て、おずおずと話しかけた。

「ほ、穂積さんは? 漫画とか読むの?」

「読まない。アニメも見ない」

「そ、そう」

 会話はあっさり途切れ、詩織はそれきり話しかけられなかった。

 ほどなく、先生が作業時間の終了を宣言した。詩織達は互いに絵を見せ合い、感想を述べた。きりこはここでも口数が少なく、授業が終わるなりさっさと一人で先に帰ってしまった。

「穂積さんと、もう少し話したかったなぁ」

 美智の言葉を受けて、綾乃も頷いた。

「まだ学校始まったばかりじゃん。これから一緒のクラスで過ごせば、そのうち仲良くなれるって」

 依然として穂積きりこに好意的な二人を見て、詩織は少し羨望を感じた。二人とも、きっと誰とでも仲良くなれるタイプの人なんだろうな、と。

 それなら、私がいなくたって……。

 

 

 

 

 昼休みが終わり、午後の授業が終わり――。

 放課後はやってきた。

 詩織は重い足を引きずって、校舎A棟の裏にある体育用倉庫を目指した。

 綾乃と美智には、用事があるからと断って、先に帰って貰った。

 淵上さん達の話って、何だろう。

 ろくなことじゃないのは確かだ。授業や休み時間の間は何もされなかったけれど、たぶんこれからは……。

 こんな時、少女漫画みたいに素敵なヒーローが助けに来てくれたらいいのに。

 埒もないことを考えて、詩織は大きくため息をついた。

 とうとう、古びた体育用倉庫に着いてしまった。確かここはとうに使われなくなっていて、人も殆ど立ち寄らないのだった。

 渕上さん達の姿も無かった。

 もしかして、本当は何の話も無いのに呼びつけたのかな。それならむしろ、嬉しいくらいだけど……。

 所在なげに立ち尽くしていた矢先、冷ややかな声がした。

「良かった。ちゃんと来たんだね」

 振り向くと、淵上さん達がやってくるところだった。よく見ると、尾崎さんや茅野さんだけでなく、新たに二人が集団に加わっていた。

 詩織は、その二人にも見覚えがあった。

 中上(なかがみ)さんと、井口(いぐち)さん。去年の中等部では一緒のクラスだった。二人は淵上さん達と共に、度々詩織へ嫌がらせを繰り返していた。高等部へ進学してからはクラスも変わり、もう顔を合わせることはないと思っていたのに……。

 中上さんが、そんな詩織の心を見透かしたかのように、意地悪く笑う。

「なんすか、その顔は? 高等部で友達作ったら、昔の顔馴染みは忘れちまったっすか?」

「そういう、わけじゃ……」

 詩織が答えると、井口さんが気怠そうな声で詰め寄った。

「腹が減った。おい武部、とりあえずメロンパン人数分買ってこい。あとアンコーラもな。無論、お前の金だぞ」

「お金、持ってないよ……」

「はぁ? お前うちらのことなめてるっすか?」

 中上さんが足下の土を蹴り、詩織に向けて巻き上げる。すっかり萎縮して後ずさると、背中が倉庫の壁にぶつかる。五人は早くも詩織を取り囲んでいた。

「井口さん、買い出しは後で行かせるから。先に話をつけましょう」淵上さんが腕を組み、詩織に言った。「聞かれると困るから、倉庫の中に入って」

 尾崎さんと茅野さんが、古びた扉を開ける。中は酷く埃臭い。マットや跳び箱、サッカーゴールなど、使われていない体育道具がぎっしり積まれている。

 明かりが無いので、扉は開けっ放しにした。

 詩織は依然五人に囲まれたままで、逃げ場は無かった。

 淵上さんが、再び切り出した。

「武部さん、高等部へ進学してから調子に乗ってるよね」

「え……?」

「初日から高入生を抱き込んで、友達になったようなつもりになって。見ていると、私達気分が悪いの。クラスのみんなも言ってるよ。藤村さんや栗林さんとも仲良くしたいのに、武部さんのせいで近づけないって。武部さんバカだから、単刀直入に伝えてあげるね。明日から、もう藤村さん達に近づかないで欲しいんだ」

 ごくりと、詩織は息をのんだ。

 思ったほど、心は痛みを感じていなかった。何となく、そんなことを淵上さん達に言われる気がしていたから。

 結局、高等部というのは中等部の続きでしかない。

 新しい自分になりたくても、誰かが昔の自分を知っていて、変な真似をしないよう見張っている。

 どこまでいっても、武部詩織は武部詩織。臆病で、口下手で、面白味の無い人間。

 だから、そんな武部詩織が楽しくしていると、淵上さん達は不愉快で仕方ないのだ。

 中上さんが手を伸ばして、詩織の髪を引っ張る。痛みに声をあげる暇も与えず、耳元で怒鳴りつけた。

「おいこらぁ! 淵上さんの言葉が聞こえなかったっすか? 明日から高入生とつき合わないって、約束するっすよ!」

 体が、かび臭い体育マットへ投げ出される。砂埃が舞い上がった。茅野さんや中上さんが、口々に罵声を浴びせてくる。

 詩織は、唇を噛みしめた。

 そうだよね……これが私なんだよね。

 高校に進学すれば変われるなんて、考えちゃいけなかったんだ。

 たった四日間だけど、楽しかったな……。

 お友達が出来て、休み時間に笑い合って、お昼ご飯がおいしくて。でも、それも終わりなんだ。

 お姉ちゃんにも謝らなきゃ。また、一人になっちゃったって……。

 色んな気持ちが、胸の中でごちゃ混ぜになり、涙となって溢れた。

 茅野さんが舌打ちする。

「ちょっとやだぁ。こいつ泣き始めたんだけど」

「泣けば許して貰えるとか思ってるんじゃないだろーな」と井口さんも吐き捨てる。

「どうしますか、淵上さん?」

 尾崎さんが尋ねると、淵上さんはふっと口端を持ち上げて言った。

「そうだね。武部さんは、少し反省が必要かな。ほら、あそこの跳び箱の中にでも入って貰おうよ」

 暗がりの中に、六段の跳び箱が見える。

 詩織は身震いした。あんな暗くて狭い場所へ閉じこめられるなんて、とても耐えられない。

「そうと決まれば、早速実行するっす!」

 中上さんが飛び出して、詩織を羽交い締めにする。尾崎さんと茅野さんが、跳び箱の上段を外しにかかった。

「やだ、やだよ……! んっ――」

 井口さんが来て、口の中に布のような物を詰め込まれた。声を立てても、くぐもった音しか出てこない。

 背後で、茅野さんが声を張り上げる。

「ねえ、縄があったよー。逃げられなように、これで縛っちゃおうか」

「いいね。そうしよう」

 淵上さんが残酷な笑みを浮かべて応じた。詩織は必死にもがいたが、中上さんの腕をふりほどくことが出来ない。

 と、倉庫の入り口で、叫び声がした。

「あんた達、何やってんだよっ!」

 詩織がそちらへ目を向けると、満面に怒気を浮かべた綾乃が、息荒く肩を上下させて立っていた。その背後には、やや怯えた様子で顔を覗かせている美智の姿もあった。

 詩織の胸は、きゅっと締めつけられるような喜びで満たされた。

 二人とも、来てくれたんだ……。

 淵上さんは、酷く興醒めした様子で言った。

「あーあ、来ちゃったんだ。武部さんに呼ばれたの?」

「後をつけたんだよ。詩織の様子がおかしかったから」

「ふうん。まぁ、何でもいいけどね。今忙しいから、出てってくれないかな」

 綾乃が脅すように低い声を放った。

「そんなこと、出来るわけないでしょ」

 茅野さんが口を尖らせた。

「なぁによー、うちらの事情なんか知りもしないくせに、こいつの肩持つわけ?」

「一つ、あんた達の事情はどうでもいい。二つ、詩織はあたしの友達。これだけ言えば十分でしょ?」

 綾乃が言い返すと、淵上さんは鼻で笑った。

「物好きなんだね、藤村さん。こんな子と一緒にいても、得なことなんかないよ?」

「うるさい! いいからしーちゃんを離しなよ! でなきゃ、ボコボコにしてやる!」

 綾乃が拳を振り上げて、淵上さんへ飛びかかる。が、横から躍り出た尾崎さんに足を払われて、前のめりに勢いよく転んだ。井口さんと茅野さんがすかさずやってきて、彼女を何度も踏みつける。おろおろしながら止めにかかった美智も、尾崎さんのパンチを鼻に食らって、その場にぐったり倒れた。

 詩織は詰め物の入った口で必死に叫んだ。

 やめて! やめて! 私の友達なんだよ! お願いだから傷つけないで!

 ようやく、茅野さん達が手を止めた。綾乃と美智はぼろぼろになり、ぐったり地面に伸びている。

 淵上さんが、詩織へ冷ややかな視線を向けた。

「武部さんって、ほんと酷いね。学校が始まってたった四日目なのに、自分の事情に他人を巻き込んでるんだもん。それとも、まだわからないのかなぁ。藤村さんと栗林さん、あなたのせいでこんな目に遭ってるんだよ? 私だったら責任感じて、もう二人とはつき合わないようにするけどなぁ」

 渕上さんの言葉は、執拗に詩織の胸を突き刺した。

 私のせいで、友達が傷ついた。自分が傷つくより、その方がずっと耐え難かった。

 淵上さんが、詩織の口から詰め物を取り出した。

「いい加減、理解したよね? 明日からこの二人を巻き込まないって、約束してよ」

 詩織は涙で頬を濡らしながら、弱々しい声で言った。

「……い、言う通りに、する……」

「聞こえないよ? ちゃんと、大きい声で言って」

 詩織はぎゅっと瞳を閉じた。

 震える唇から、必死に言葉を吐き出し続けた。

「わ、わ……私はっ、もう――」

 その時だった。

 突如、エンジンの唸りが大音声に轟き、倉庫中へ反響した。

 その唸りの重々しさ、車やバイクの類とは、明らかに違う。倉庫全体が激しく揺さぶられたかのようだ。

 皆が顔色を変え、振り向く。

 得体の知れない黒い影が、倉庫の奥底にいた。

 と、影はきゅらきゅらと激しい駆動音を響かせて、緩やかに前進を始めた。進路を阻んでいた跳び箱やマットが、ごみのように軽々となぎ倒されていく。

 倉庫から注ぐ夕日が、段々とその姿を明るみに晒す。

 深緑色の大きな体躯、回るキャタピラ、煙突のように伸びた砲塔……。

 詩織は目を見張った。

 これは、戦車だ。

 仰天した淵上さん達が、詩織や綾乃達を放り出して、一斉に後ずさる。

 戦車は、ちょうど詩織達の目の前で停車した。

 綾乃が愕然とした表情で、車体を見上げる。

「ちょっ……何なのよこれぇ!」

「ソミュアS35……」

 美智が、ぽつりと呟いた。詩織は驚いて彼女を見た。

「し、知ってるの?」

「フランス軍の有名な中戦車だよ。でも、なんでこんなところに……」

 誰もが驚きに硬直していた矢先、戦車の中から声が響いた。それも、どこかで聞いたことのあるような声だった。

「そこの五人組。体に特大の穴をあけられたくなかったら、とっとと失せろ」

 淵上さんが、戦車を睨みつける。

「な、なによ。そんな脅しに乗ると思って――」

 鼓膜を打ち破るような轟音が、声をかき消した。

 次の瞬間、放たれた砲弾が倉庫の壁を貫き、特大の穴をあけていた。木屑が舞い、やがてパラパラと落ちてくる。

 誰もが言葉を失っていた。

 そこへ、戦車から冷ややかな一言。

「今のはわざと外した。次は当てる」

 砲身が音を立てて緩やかに動き、淵上さん達へ狙いを定める。

 五人は真っ青になった。

 中上さんが、発狂したように叫んだ。

「こ、こいつ頭おかしいっすよぉ! 逃げるっす!」

 悲鳴を上げて、一目散に逃げ出していく。それが合図だったかのように、残りの四人も次々と倉庫を飛び出していった。

 後には、戦車と詩織達が取り残された。

 綾乃がへなへなと崩れた。

「た、助かった。何が何だか、よくわからないけど」

 美智が泣き叫びながら、詩織へと抱きつく。

「うわぁん。どうなるかと思ったよぉ」

 詩織も呆然としていた。

 淵上さんに詰め寄られた時は、殆ど諦めかけていた。友達も、学生生活も、何もかもが駄目になると思った。

 それが――。

 突然現れた戦車が、私を救ってくれた。

 まるで、漫画で見た憧れのヒーローのように。

 不意に、戦車がくぐもった音を立てた。車体横の乗降ハッチが開いて、人が降りてくる。

 詩織達はその姿を見て、あっと声を上げた。

「穂積さん……!」

 穂積きりこが、相変わらず表情の無い瞳を、詩織達へ向ける。

 四人は無言で見つめあった。

 戦車は、夕日を浴びて雄々しくその場に立ち続けていた。

 

 続く

 

 

次回予告(CV/エルウィン)

食う者と食われる者、そのおこぼれを狙う者。

牙を持たぬ者は参加出来ぬ必修選択科目。あらゆる乙女が武装する戦車道。

西住流の体に染み着いた硝煙の臭いに惹かれて、危険な女達が集まってくる。

次回「すっごいバレー部転校生です!」

みほが飲む大洗のアンコーラは、甘い。

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