雨は、途切れることなく続いていた。
量こそそれほど多くはないが、分厚い雲が覆っていた。
永遠に続いて街を水没させてしまうかのような錯覚さえ起こしそうだった。
その中で、待合室で、エイジは停止していた。春奈からも見限られ、ついに一言も発さなくなったエイジを気遣って、ひとりそこに取り残されていた。
じっと床を見つめていた。いや、たしかに目はそこへとむけられているが、精神が、目から入ってくるはずだったあらゆる情報を拒んでシャットダウンしていた。
だが、視覚を閉ざせばかえって他の五感が鋭敏になる。
自動販売機の小刻みな振動が絶え間なく聞こえてくる。コンセントだけがつながれた旧式のテレビの電流が、はめこまれた壁の向こうで滞留している。
そして、靴音。それもスニーカーのようなカジュアルなものではなく、どっしりとした革靴が鳴らす音だ。
加えて言えば、わずかなぎこちなさが、その歩行のテンポに見出すことができる。
やがてその音は、エイジの手前で止まった。
「よう」と、懐かしい男の声が、うなだれた頭へと落ちてきた。
早瀬明が、そこにいた。
「早瀬……さん?」
「おっ、憶えてたか。最近仕事仕事で会えなかったからな。つい忘れられてると思ってたよ」
感心感心、と相槌を打つ父の友に、
「僕に、怒りに来たんですか」
と、率直に尋ねた。
「怒ればお前の親父は意識を取り戻すのか?」
そう、逆に問い返された。
「お前は、これ以上ないぐらい自分が悪いと感じている。なのにこれ以上何をどう咎められる? だからみんな、お前を直接責めたりしないんだ」
余計なお世話だというのが、率直な気持ちだった。
むしろ、すべての怨嗟をぶつけられて現八郎にでもタコ殴りにされたほうが、いくらか救われた心境になったことだろう。
「むしろそうされたほうが良かったか?」
その思いを先回りするかのように、早瀬は重ねて尋ねた。
「……だってそうでしょ。現さんの言うとおりで、僕のせいで事態が悪化した。人が死んで、多くの人が犠牲になって……これ以上、何をどうやったって罪は償えない」
晩夏もいいところで、空調だって抑えめにさせられている。だが、エイジは指先から自身の身体が冷えていくのを感じていた。
「そうだな」
早瀬は安易な慰めは入れず、それを肯定した。
無意識下でそれを求めていたエイジの甘えを、突き放すように。
「けど本当にそれだけだったのか?」
「え?」
「たしかにお前は取り返しのつかないことをした。追田夫人に聞いたが、人の死も幾度となく体験したんだろう。でも、彼らはお前を恨んだのか。後悔にまみれながら死んでいったのか」
「…………それでも、何もしてやれなかった」
「だが、彼らは何もお前に残さなかったのか? それは、お前が何でもこなせる完璧な存在だったからか? 逆に、たまたまその場にいたのがお前しかいなかったからか?」
早瀬は問いを重ねていく。答えはしない。すでにそれは、エイジの中にあると言わんばかりに、理知の瞳を細めて言った。
答えは、否だ。
イーディスは、泰然と悟ったように、無念や未練を一言もこぼさず、チェイスのボディを手放した。
もうひとりの自分と融合した『アユム』は、自分と笑って手を打ち鳴らし、自分に現実世界のことを託してくれた。
照井春奈は、なんだかんだ悪態をつき反目し合いながらも、たしかな信頼を感じるようにはなってきた。
父、泊進ノ介も、命をなげうって自分を救い、そして赦してくれた。
そして知らない『自分』が、父に託した未来に、自分たちは生きている。
春奈の先輩、桜井侑斗、左翔太郎、火野映司、あの小児科医、特状課の面々にも、忠告やいくつもの想いを語られ、学び、託されたものがある。
早瀬の言うところの、たまたまそこにいたという偶然もあるのだろう。
だが間違いなくその想いを受け取ってきたのは、そこにいた自分だった。
そしてそれらが、誰かにかんたんに託してしまえるようないい加減なものだったとは思いたくない。
全部を嘘や幻にしてしたくもない。
だが、それにどうやって報いれば良いのか。それがわからない。
――いや。
その答えさえもまた……わかっていた。
自分が許せないから認めたくないだけで。
自分のしたことを正当化なんてしたくないから、考えないようにしていただけで。
「エイジ」
と、早瀬はあらためてその名を呼んだ。
「お前はたしかに、少し道をそれたのかもしれない。これからの長い道のりで、停止することもあるだろう」
けど、と言葉を区切って早瀬は、膝をついて目線を合わせる。
かつて自身の脚に負い目を感じていた相棒にも、おそらく彼はそうやって背を押したのだろう。
厳しくも、温かみのある叱咤だった。
「通り過ぎた場所へ逆走はできない。お前がキーを回したんだ。誰も運転を変わってなんかくれない。どんなに遅くてもいい、みっともなくて、拙くても良い。だがそれでも」
自分たちの周囲を、ここまでの旅路がめぐる。
――トライドロンで君を助けたとき、とっさに身体が動いてた。考えるのをやめていた。でも多分、だからこそ、それが本質なんだ。今いる誰かを救うことができるのは、今この時の僕の正義だけだ。
――自分にとって何が正しいかを決めるのは、その決断が悲劇を生むのかどうか。彼ら自身だ。僕らが決めていいことじゃない。
あぁ、そうだった。
答えは、常に、自分の傍らにあった。
「あいつや他の連中に申し訳ないと思うなら、全力で突っ走れ。今その一瞬の、泊英志らしさで」
今までずっと、そうやって戦ってきたように。
ここまでずっと、そう託されてきたように。
――『
顔を上げたエイジだったが、背筋に突如雷でも浴びせられたかのような衝撃が襲った。
もちろんそれは肉体的ではなく、精神的に。
「しまった」という独語は、思わずこぼれた。
「エイジ?」
ゆっくりと立ち上がりかけた早瀬の前で、エイジはすばやく立ち上がって、きびすを返した。
あいさつも、礼もしている暇はなく、内心でそれに対して何度も詫びを入れた。
だが、その寸時さえも惜しかった。
それこそ、今迫りくるその『悪』を振り払えるのは、自分以外にいなかった。いや、泊英志がやらなければならなかった。
「完全復活……とまではいかなくても、ようやくエンジンがかかったみたいだな」
取り残された早瀬は、脚を丹念に伸ばしながらそうつぶやいた。
「ずっるいなァ、早瀬さん」
それに、応える声があった。
合わせて、曲がり角の陰から三つの影が伸びてきた。
「人が言おうとしてたこと、全部ひとりで言っちゃうんですから」
そう言って顔を覗かせた詩島剛を顧みて、彼は微笑んで見せた。
「これが、俺の本領だからな」
「五十三分と二十一秒、出るタイミングを逃して立ち往生していたのが無駄になったな、剛」
悪意もなく、だがサラリと言って現れた狩野が現れた。
ギルガメッシュ襲撃時に、進ノ介に次いで手ひどいダメージを受けた彼は、頭に包帯を巻き、手を吊っていた。
そんな彼の様子に構わず、剛はするどく睨みつけた。
「るせぇ。つか、具体的に言うんじゃねぇ」
と文句を垂れる彼の影から、バツが悪そうに追田りんなも顔を覗かせ、手を振った。
そんな漫才のような取り合わせに噴き出しそうになるのをこらえつつ、早瀬は剛の肩に手を置いた。
「君も、自分のすべきことをすれば良い」
その激励を受け、剛の顔に重く影が差し込んだ。
ふだんこそ子どもっぽさの抜けない、責任感や社会的立場といったものを感じさせないが、その実彼ほど他人の痛みに繊細で、責任感の強い男はいない。
エイジの姿から、内面的なものではなく、外からの危機が迫っていることを悟ったのだろう。
覚悟を決めた男の貌を、りんなへと向ける。
「りんなさん。頼みがあるんだけど」
「そう言うと思って、とうに整備済みよ。ラボにあるから、取ってきなさい」
皆まで言うな、という調子で、りんなはすかさず応答した。
目を丸くする剛に、彼女は茶目っ気をまじえて肩をすくめて見せた。
「もう何度おねだりされたと思ってるのよ。何考えてんのかぐらい、お見通し」
「さっすが」
剛はほろ苦く表情を綻ばせた。
「ずいぶんと彼に入れ込んでるんだな」
早瀬は剛に苦笑した。
「まぁ、そりゃあ」
剛は言葉を一瞬詰まらせた。
「あいつは、昔のオレでもあるから」
つまらない意地を張って、ひとりで勝手に突っ走って……大切な人間を、何度となく危険にさらした。大切なものを、幾度も取りこぼした。
「もうあいつに、同じバカはさせたくない。姉ちゃんを泣かせたくない。……『お前』も、そう思うよな?」
感傷とともに、彼は自分の上着へと目を細めていた。
が、その目元はすぐに違和感で歪んだ。
ジャケットやジーンズのポケットをまさぐり、あるいは裏返したりして、何かを探しながら、しきりに首をひねる。
そして、
「
と独りごちたのだった。