風都署署長、照井竜の朝は早い。
起床とともに軽いジョギングと運動の後にシャワーを浴び、その後、朝にめっぽう弱い妻のために、食事を作る。その日のメニューはカリカリにベーコンを焼いたパンケーキに乗せて、サラダと野菜ジュースだ。
まるで文豪か何かのような小洒落た朝食がテーブルに出並ぶあたりで、ようやく寝ぼけ眼の妻がダイニングにやってくる。
数十年にわたって親しんだ流れだというのに、彼女はそれがまるで始めてのように料理に目を輝かせて感謝感激を全身で表現する。
そうやって素直に喜んでくれるのが嬉しくて、つい甘い顔をしてしまうのだが、それは他の者には到底見せられない。
食事を済ませるのも、家を出るのも妻よりも早い。
ガレージから愛車にバイクを引き出し、またがる。
そのドライビングには、加齢による衰えはほとんどない。
これから買いたての最新型を転がしに行こうかという若いバイカーが目を見張るほどの鮮やかな運転は、とても老境を間近に控え、かつ二日ほど前まで腰をいわしていた人間のそれとは思えないだろう。
しかし交通マナーは遵守しながら、ものの十分もしないうちに署に到る。
泊まり込みや夜勤明けに署員を除けば、彼は誰よりも速く来る。
今日も、そのはずだった。
だが、到着し、バイクを停めた彼の前には先客が待っていた。
玄関口に続くロータリー。その脇の花壇のあたりに、彼女は陣取っていた。
「春奈」
竜は軽い驚きとともに娘の名を呼んだ。
だが、それ以上言葉を続けることが出来なかった。
彼ら自身が口下手ということが前提にはあるが、複雑な因縁が絡み合って、長きに渡る冷戦状態が続いていた。だからこそ、その沈黙は、苦痛を伴っていた。
そんな彼らが今共有できる話題は、ただ一点しかない。おそらく春奈もそれがらみの件で訪れたのだということは予想がついた。
「左たちから聞いた。お前、仮面ライダーになったそうだな」
先に切り出したのは、竜のほうだった。
「……そうか、お前がな」
言葉と言葉の間に挟まれた、数秒間の空白。
そこには言い知れない深い感慨と、「何故そんな道へ進むのに相談をしてくれなかった」と責めたい気持ちが込められていた。
「それで何の用だ? 今になって、俺がお前にしてやれることは、ないかと思うが」
別に他意はなかった。Wの両名から伝え聞く実力を考慮したうえで導き出した、厳然たる事実を口にしただけだった。
だが、彼が望まずしてその口調は冷たく突き放すような態度に終始してしまう。
「別に、今さら貴方に何かしてもらおうなんて思っていませんよ。……この事件は、私の事件だ。助けは必要ない」
春奈もまた、慣れた調子でそっけなく応じた。
だが、と言葉を切ってから、一度まっすぐ、父譲りの強い眼差しを向けてきた。
「ひとつ、やり残したことがある。貴方とのここまでの関係を清算しなければ、私は前へ進めない」
清算とは、親子の縁切りということか。肝心要の場面に腰を痛めた父に、いよいよ愛想を尽かしたのか。
そして本当にそう言われた時に、自分はそれを拒んで叱るべきなのか。それとも自分の力不足を悔やみながら受け入れるべきなのか。
悩みながらも、その重圧に耐えるようにうつむきながらも、竜は身構える、彼女の言葉を待った。
やがて、風が吹いた。
激しい暑さだった夏の終わりを告げる、秋の風。
「貴方を、許しに来た」
その風の中で、彼女はそう言った。
竜は驚きとともに顔を持ち上げた。
その風の中で、花が舞った。
この庁舎を改築した折、署長手ずから植えた、白い花が。
娘の眼には、先日会った時の、夏の太陽のような激しさや険しさはなかった。
そうあれかしと願ってつけた、そして亡き妹と共有する一字、すなわち春のごとき慈しみがあった。
何も知らない優しく無邪気な少女だった時以来、いや、成長して初めて見せる表情だった。
だがその中には、同時に深い悲しみもまた漂っていた。
「一つ、大きな決断をしました。その結果、友人の心と、彼の大事な人を傷つけてしまった」
と言葉少なに語り出したのを、竜はじっと聞いていた。
「その時思い知らされた。誰しも完璧にはなれない。それは私も、貴方も同じだった」
「――いや……俺は……」
「しかし貴方は、私と違って大勢の人間を救った。心の傷を負って、誰よりも苦しみながらも、今までそれを他人に訴えようとはしなかった。あの決断が、正しかったとは言わない。あの時どうすべきかだったなんて、簡単に答えの出るものじゃない。それでも」
途切れることのなかった春奈の言葉が、そこで一度止まった。
重い息遣いが聞こえる。今まで背負ってきた重荷を下ろすかのような。
それでも、と春奈はもう一度くり返した。
「それでも、父さんは、きっと悪くない」
春奈。竜はたまらなくなって、強く娘の名を呼ぶ。
しかし次の瞬間にはもう、春奈はどこからか呼び出したバイクにまたがっていた。
「今さら虫が良すぎると思うだろうけど、それでも伝えておきたかった」
こぼした口元の自嘲をメットの中に押し隠し、近未来的な緑の車体を急発進させる。
瞬く間に署を出、そして遠のいていく。
優しさも冷たさも、後悔も弱さもマスクで覆い、ライダーは旭へ向かって疾走していった。