その場所に、時の概念などあまり関係ないのかもしれない。
意志や肉体の強弱も尊貴も善悪も超越した領域。その時々に、人々に、個々に、別々の姿を見せる。
今の泊進ノ介には、それは無限に続く草原に見えていた。
果てのない青空と並走するかのようなその大地を踏みしめて進ノ介は歩き続ける。
どこへ向かっているかは分からないが、ひとりでに足は動いている。進んでいるのか、退がっているのかさえ定かではなく、変化のない情景からそれを判断することは難しい。
だが、疲れは感じなかった。むしろ、今までにないぐらい心は安らいでいた。
今までずっと正義感や使命感、あるいは罪悪感に突き動かされて走り続けていた。
停滞することもあったが、その時にも心には煩悶が分厚い雲のようにかぶさっていた。
それが取り払われ、なんの気負いもなく、ただ青空と草原に向かい合っている。そのなんと爽快なことか。
だが、ある地点にたどり着いた時、かすかな抵抗を足に感じた。無意識に踏みとどまろうとしていた。
目の前の風景に変わりはない。だがあと一歩、踏み出せば後戻りはできない、そんな予感が一瞬、だが強烈に進ノ介の背を貫いた。
だが、身体はそれを乗り越えることを欲していた。
右足がひとりでに浮き上がり、前へと動き始めた。穏やかな気持ちで、進ノ介はそれを甘受する。
あぁそうだ。
きっとこれが、自分の終着点。ゴールライン……
「どこへ行くんだ」
やぶからぼうに、男の声が飛んできた。
「こっちじゃないだろう。お前の居場所は、まだ」
責めるような声が、平穏だったはずの進ノ介の心に波風を立てる。
男は、正面にいた。開けていたはずのその先は薄く編まれた黒い帳が覆い、その奥に影があった。
「誰だ、あんた?」
ざわざわとしたものを感じながら、進ノ介は誰何する。だがどこか、自分の問いが滑稽なもののように思えた。
自分とそいつとは、どこかで会ったはずじゃないか、と。
男は答えない。
どこかふてくされたような、ぶっきらぼうな調子で、一方的に問い続ける。
「世界を守るんじゃなかったのか?」
世界。あまりに漠然としたキーワード。憶えのない、その問いの意味。
だが自分とは遠いはずの問いが、彼を現実へとじわじわと呼び戻しつつあった。
「……いや」
言葉の意味を模索するよりも先に、言葉が口からついて出た。
「俺にはもうやれることなんて、ほとんどないさ。世界なら、守ってくれる仲間たちだっている。彼らなら、きっとこれからも」
タケル風に言うなれば、命を燃やし尽くした、といったところか。一番新しい記憶は、息子を救ったあたりだ。そこに至るまでに、自身の生涯をかけて生き抜き、持てるすべてをもって人々を、世界を救ったという自負があった。
だからこれで良いと、この先に待ち構える宿命を受け入れる覚悟はできている。
「剛もそうだったが、気取るのが好きなヤツらだな」
男は呆れたように言った。不躾な物言いだった。
「じゃあ聞くが、お前にとって世界ってなんだ?」
男は問いを重ねる。
帳ごしに何度も心を揺るがす問いを投げてくるこの影は、あるいは自分自身なのではないかと、そんな気さえしてくる。
言葉に詰まる進ノ介に、男はぽつぽつと、低い声で語り始めた。
「あの時の俺たちにとって、周りのすべてが敵だった。世界は、あのちっぽけなドライブピットだった。あるいは……自分の中にある思いとか、仲間、だった」
何故ドライブピットのことを知っている?
今更そう尋ねるのもためらわれるほど、男の言葉は徐々に真剣味を帯びてきていた。
「少なくとも俺には、そう大それたものはなかった。けど、その『世界』を救うために戦った。……もう一度だけ訊く。今のお前にとって、守るべき世界ってのはなんだ?」
さぁっ、と草の音が足下を転がっていく。
無辜の市民、と答えることもできた。
あるいは、それこそグローバルな意味での世界とも。
だが、脳裏に思い描かれたのは、かつて守れなかった父親。
偽者ではあったが、撃ち殺された未来の我が子。そして本物がすでに殺されていたという、絶望。
だが、一条の光が差し込んだ。
霧子。
そして、光は広がった。
英志。
背から、エンジンの音が聞こえた。車高はそれほど高そうに思えない。振り返らずとも形ぐらいはわかる。多分、前時代的なオープンカー。
「どうやら、迎えが来たようだな」
目の前で、男が言った。
「まぁせっかくだ。乗せて行ってやるよ。お前ひとりだと、また迷いそうだしな」
背後から、車を停めた別の誰かが言った。ニヒルで、キザったらしい物言い。黒い羽が、背を押す風の中で踊る。
「これは……夢なのか?」
進ノ介は茫然と問うた。
「まぁ、そうかもしれないな」
黒い帳の奥で、男の口元がほろ苦く笑った、ような気がした。
「けど、夢だろうと現実だろうと、今お前が想ったことは本物だ。だったら、その世界のために生きて、戦え。人間として、ドライブとして」
風が、より強く吹き荒れる。
やがてまともに目さえ開けられなくなって、男たちの輪郭さえもおぼろげになっていく。
黒い羽が舞う。青い蝶が視界を埋め尽くす。
「あんたは……あんた達はいったい……!?」
積もりに積もった既視感と焦燥感に突き上げられるように、嵐の中で進ノ介は一歩、踏み出した。
幕が上がる。男の素顔が、そしてその背ではためく真っ白な洗濯物が露わになった。
きっと彼が見せないようなはにかみ混じりの表情で、普段の彼が絶対に口にしないような言葉とともに、男は進ノ介を見送った。
「誰でもない。ただの……夢の守り人、かな」
その素顔が垣間見えた瞬間、進ノ介の記憶の欠落が一気に蘇った。
どうして、彼らを忘れていたのだろう。彼は、彼らもまた自分の大切な……!
「待てッ! 待ってくれ、くろ……ッ! た……み……ッ!?」
懸命に手を伸ばす。
だが進ノ介を、蝶と羽とが覆い尽くしていく。
微笑む彼らを最後に、意識はそこで途絶えた。
頰に押し当てられた硬く冷たい感触で、進ノ介は覚醒した。
気がつけば自分はコンクリートの上に放り出されるようにして眠っていた。
ぼんやりとした痛みの差し込む頭を押さえながら、進ノ介は立ち上がった。
夢を、見ていた気がする。
何か、大事なことを思い出していたはずなのに、懐かしい誰かと出会えたはずなのに。今となってはその全てがまた忘却に沈んでいた。
そのことを悲しいと思いながらも、ほんのすこし時が経てば、そんな感傷さえも消えてしまう。そんな気がした。
あらためて、彼は辺りを見渡した。
そこは、古ぼけたガレージだった。
時代が移り変わっても十分に名車と呼ぶにたるクラシックカーのラインナップ。それを整備するために十分な工具やスペース。
または本物ではなくとも芸術的なまでに精巧なミニカーの数々。
覚えている。こればかりは、忘れるわけがない。
すでに焼失したその宝箱の中。
サプライズで、自分が譲り受けるはずだった記念品たち。
立てかけられた写真に映る、『彼』からの親愛の証。
ということは、ここにはきっと……
「ようやくお目覚めかな? 進ノ介」
上質な靴音が聞こえる。低く透き通ったバリトンも。
すらりととしたシルエット。柔らかな物腰。独特のイントネーションを含む、だが流暢と呼ぶに十分な言葉遣い。
「と言ってもここも、死者が見る夢の中のようなものだがね。だが、眠っている時ぐらい、生前の思い出とともにあっても良いだろう?」
写真でも映像でも、コピーでもない。そしてベルトでもない。
自分がずっと会いたかった、語らいたかった相棒が、ひとりの紳士の姿をして立っていた。