「やぁあがて、ほしがふる……ほしがふる……ころ……」
自分にはまぶしすぎる世界の空の下、少年は歌を歌う。
真っ白な砂浜に足跡を残し、打ち寄せる海をしぶきを蹴りながら。
ちぎれた腕をかばうようにして、不自然に曲がった足を引きずりながら。
「こーころ、ときめいて……ときめいて、くる……」
少年は、ひとりの少女に、恋をしていた。
その娘が折に触れて、抑揚なく歌っていたのが、この歌詞だった。
その由来を知るべくもないが、少年にはまるでそれが、彼女の止まってしまった鼓動や、時間の代わりのように思えた。
――自分はまだ、生きていると、生きていたいという、訴えではなかったかと。
あるいはそれは、自分の都合の良い解釈だったのかもしれない。
自分が生きていたいから、人間であることにしがみついていたかったから、彼女を言い訳に使っていたのか。
それでも彼女は、最後には笑ってくれた。
楽しいと、言ってくれた。
すべての元凶が自分であると、憎むことだってできたはずなのに。
それだけで十分だった。報われたと思った。
彼女が先に待ってくれているから、生きていたいと思う一方で、死ぬことも覚悟できた。
――でも、これは?
今自分の影を追いつつある二度目の死に対し、何を救いとすれば良い?
少年の足は、膝から完全に折れた。砂浜に顔を打ち付け、左腕の力だけを頼りに、廃棄されたとおぼしき電柱に寄りかかる。
地獄のごとき戦場から離脱はできたが、もはや歩くこともかなわない。そもそも、歩けたところで残り少ない命数を使って、見知らぬ世界のどこへ行けというのか。
機械の身体だからか、どうしようもないほど消耗しているはずなのに、食欲はなかった。
食人衝動だってない。だからもう、人間を襲う必要はない。
機械の身体は、溶原性細胞という負の遺産を持ち越してはいなかった。
人間と、共存できるはずだった。
音楽や服の趣味を語り合い、ピザの食べ方が汚いと笑い合ったり、触れ合ったり、手を握ったりだって、できたはずだ。
(それでも、俺は……ッ! 生きてちゃ、だめなのか……!?)
世界の理不尽な残酷さに憤る。その運命に抗うだけの力もない己を悲嘆する。
そして、静かに停止しつつある肉体を自覚する。
一度目は、現れたふたりの死神に抗おうと懸命に抗い、生存本能をむき出しに、高揚の中で生き切った。
苦痛も恐怖も、感じる暇さえないほどの。
でも、これは違う。
静かに、波のように、暗い冷たさが自分の中に染みこんでくる。
いや、これがおそらくは、本当の死なのだ。
皆誰もが、抗いようのないこの冷たさの中で、みずからの人生と向き合いながらその命に終止符を打つのだ。
けど嫌だ。
心の中の、孤独な獣が啼いている。
自分は人生と呼べるほどの時を、生きてはいない。ただ辛いばかりの刹那の中で、何の答えも得てはいない。
(誰か……ッ、俺を……!)
救ってほしいのか。あるいは殺してほしいのか。
その答えさえ見いだせないままに、青い獣がか細く吼えた。
砂地を噛む、靴音がする。
先ほどまでの危機から避難をしてきたのか、それとも元よりの根無し草なのか。
少年は、かろうじて動く顔を上げて、見返した。
全容は角度の具合で見えないが、歳は四十そこそこだろうか。かんたんな旅行カバンをたずさえたその女性は、オーガニックな装いとともに、少年の枕もとに立った。
明らかに人のものではない導線をむき出しにした自分におびえる気配を見せず、旅荷を置き、ロングスカートの裾を折って少年の頭のあたりに膝をつけた。
「あなた、死ぬの?」
あどけない少女のような口ぶりで、なんの前置きもなくそう尋ねる。
たぶん。かすれた声で、やっとのことそれだけ答えた。
「そう」
感慨深く、あるいは無感動に。
彼女はどちらともとれるフラットな、だが決して軽はずみなものではない調子で頷いた。
「痛い?」
少年の真上から、青空と太陽を背に彼女は顔を覗きこんだ。
その彼女自身の顔が、目元が見えた瞬間、少年の偽りの肉体は精神の衝撃に感応して大きく揺さぶられた。
――まさか。そんな。
そんなことはありえない。そんな偶然が、奇跡が、自分にあっていいはずがない。
これは幻だ。死にゆく自分が見る、都合のよい夢だ。そう思い込もうとした。
だけど、いくら必死に否定しようとしても。
――匂いだけは、どうしようもない。
懐かしい草木の薫り。やわらかで、甘やかな匂い。それが、少年の記憶回路を刺激する。
もう少年は、彼女の顔を見ることがかなわなかった。
視覚機能が低下していた。それ以上に、理屈抜きにあふれ出す涙が留めようもなく視界を覆っていた。
「痛くないよ……っ」
震える唇は、ダメージの蓄積による肉体のエラーによるものか。歓喜か、悲しみか。
少年は潮の味を噛みしめて、彼女を呼びたくなるのをぐっとこえらた。
知っている。今目の前にいるのが現実だとしても、自分の知っているひとではない。この人も、自分のことを知らないはずだ。
この世界の彼女。
自分が生まれてきてしまったがためにすべてを狂わされた彼女ではなく、まっとうに人生を送って歳をとった彼女。
それでも、彼女は……
「けど怖いよ。どうしようもないぐらい、怖い」
様々な理と因果と感情が入り混じり、荒れ狂い、ぐちゃぐちゃになった頭の中で、その訴えが少年にできる、精一杯の甘えだった。
「辛いね」
対する彼女の対応は変わらない。自分の知るあの人と同じように、感情をストレートに出すことが苦手らしかった。
だが憐憫の韻が、相槌の中にかすかに含まれていた。
「あなた、名前は?」
「ちひろ……! 千に翼って書いて……っ、
せめて記憶の片隅にも留めてもらいたくて、食ってかかるように名乗る。
自分たちの名前にちなんで、あなたが……母さんがくれた名前。
「そう、面白い名前」
彼女は、目を細め、それ以上は言及することはしなかった。
ただ少年の、千翼の頭を硬い鉄柱から自分の膝の上へと移す。
「千翼」
名を、呼ぶ。
その名を、母の口で、ふたたび、呼ばれた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから」
腕を彼の胸の前に回し、子どもをあやすようにくり返す。
それがまた、懐かしくて、やわらかくて、優しくて……千翼は堪えきれずに感情を決壊させた。
「なんで……?」
見ず知らずのはずの自分に、そこまでしてくれるのか。
嗚咽を漏らしながら問うた千翼を抱きすくめたまま、彼女は言った。
「昔、泣いてるわたしの傍に、ずっといてくれる人がいたの。貴方、その人によく似てるから」
知っている。その人のことも、自分は知っている。
母さんの元に送ってやると、すべての業を一身に背負って宣言したそのひとは、奇しくもその約束を果たしてくれた。
心の痛みが波のように引いていく。恐怖が、霧がかかるように薄れていく。
今までにない安らかな想いを抱いて、瞼を閉じる。
そして、
まどろむように、
すべては……
母さん
父さん
裕樹
イユ
そらが
きれいだ
潮騒が、女性の足下を満たしている。
海浜には、彼女以外いない。深い青を帯びた海の傍を、彼女はふたたび自分だけで歩き始めた。
その足下に、打ち捨てられた黄色いゴムボールが流れ着いた。
所在なくたゆたうそれをすくい上げて、彼女は砂地へと持っていく。
もう二度と、理不尽な波にさらわれないように。
空を見上げた。
真っ白な海鳥の羽が、透き通った青さの上を、潮風に乗って舞っていく。
流れていくその先は、どこまでもつながっていける。そんな気がした。