懸念されていたガイアメモリ攻撃による後遺症もなく、むしろ奇跡的な速度で回復した泊進ノ介は、知人の医者へと挨拶と礼を交わした後、霧子に付き添われて退院した。
病室も十分に日当たりは良かったし、足の自由が利くようになってからは屋上に空気を吸いに行き、眼下に見える通行車の車種を言い当てるクイズをやっていたこともあった。
だが、太陽や青空というものを、久々に見た気がした。
そしてロータリーに車を停める我が子の姿もまた。
「……よぉ」
「どうも……」
共闘のうえで解消した親子の確執ではあったものの、やはり現実で直接顔を付き合わせると、勝手は違ってくる。互いになんと声をかければ良いのか、そのきっかけを掴めず、挨拶は上滑りしていく。
不安げに両者の横顔を見遣っていた霧子だったが、
「ほら、さっさと乗りましょうっ!」
とことさらに明るく言って、ふたりを前の座席へと押し込むように、それぞれの背を叩く。
(こりゃ、気まずいドライブになりそうだな)
進ノ介は心の中でひっそりと嘆息した。
……という進ノ介の憂鬱は、当然英志も少なからず抱えていたわけだが、それが杞憂であったことを、というよりもまだ可愛らしい悩みであったことを、両者は同時に思い知ることになった。
「あ゛ぁっ! なんでそこでクラッチを切る!? エンストさせる気かっ! お前ホントに免許取ったんだろうな!?」
「うるさいな! 気が散る!!」
「もういい代われ! お前みたいなド素人に俺の車を壊されてたまるかッ」
「危ないから! 怪我人は下がってなって!」
出発の前後までの沈痛な空気はどこへやら。
狭い車内、悪路と争いでガタゴト揺れる。ハンドルの操縦を巡って奪い合いを始めた親子を冷ややかに後部座席より見ながら、霧子はため息をついた。両手を伸ばし、夫と息子の耳を片方ずつ引っ張った。
「喧嘩しない! また病院に引き返すつもり?」
いてててて! と父子は似たような調子の悲鳴を上ずらせて悶絶する。
そのうえでの、泊家のヒエラルキーの頂点に立つ人物からの苦言である。否が応でも中断せざるをえなかった。
程度の低い親子喧嘩は多少のしこりを残しつつも沈静化し、やりきれない苛立ちによる刺々しい雰囲気が、親子の間に流れていた。
「ダッシュボード」
そんな空気の中で、英志はポツリと言った。
あ? と首を振り向ける進ノ介にまさしく向けた言葉であり、英志はもう一度踏み込んで、声を強張らせて伝えた。
「ダッシュボードに、ひとやすミルクが入ってるんだけど、取ってくれない」
「はぁっ? なんで俺が……あとダッシュボードじゃないグローブボックス!」
指摘とともに文句を言う進ノ介だったが、事情を知る霧子が助け舟を出した。
「良いから、取ってあげて?」
妻に微笑みながら、曰くありげに頼まれれば、拒絶するわけにもいかない。
「親をアゴで使うなんて、良い度胸だな」などとぼやきながらも、手前のダッシュボードへと手をかける。
だが、開けて中に入っていたのは、キャンディのボックスではなく、シックにパッケージングされた長方形の箱だった。
巻かれたリボンの隙間に挟まれたカードには、
『Dear my farther』
と記されていた。
「これは……」
進ノ介は妻を見た。細められた目に促されて、包みを開けた。
現れたのは、一本のネクタイだった。
進ノ介好みの、炎のような真っ赤な色味。その鮮やかさの邪魔にならない程度に、子供じみた感じの主張をしないようにコントラストを抑えた、轍のようなストライプが入っていた。
進ノ介は、隣の我が子を開いたその目のままに視た。
「ほら、まぁ……なに? いろいろと迷惑かけちゃったし、助けてもらったし、ネクタイも台無しにしちゃったし? だからその、お詫びっていうか、お礼っていうか、埋め合わせっていうか?」
目を泳がせつつ声を軽く裏返らせて、言葉を濁し、そして英志ははにかんだ。
進ノ介の脳裏に浮かんだのは、雷雲を超えて晴れた青空。遅咲きの八重桜。生い茂る緑。そして今と同じように、その手につかんだ赤いネクタイ。
いつか必ず出会うという、誓い。
「――つながった」
言葉にし尽せない万感の想いを込めて、進ノ介は呟いた。
自分が守り抜いた今は、あの時描いた未来へと。
最悪の未来でたとえ死すとも、確かに受け継がれた自分の意思は、あの時エイジへと託された。
斃れた彼の遺志は、時空をさかのぼって進ノ介の力となり、苦難を乗り越える力となった。
進ノ介の正義と信念を、彼なりに受け継いだ泊英志もまた、その一本を引き結び、戦い切った。
そして今また、彼もまた、自分にこのネクタイを贈ってくれた。
たとえ擦り切れようとも、一新されようとも、その一本を意志のバトンとして廻っていく。
交差点で信号を待つ間、英志は父の感慨深げな様子を見守っていた。
そこからすべてを汲み取れるほど自分はまだ時間も経験も足りないが、それでも父が喜んでくれることはわかる。安堵し、そして隠しきれない喜びのまま、そこへ託した想いを、今の彼なりに伝えた。
「しばらくはそれ結んで、僕の前を進んでいてよ。今は無理でも、いつか追いつくから」
進ノ介は歯を見せて笑った。
「ばーか。二十年早ぇよ」
スタジアム沿いのその道は、まっすぐ地平線まで伸びている。
信号が赤から変わる直前、英志はあらためて自身の運転免許を手に取り見つめた。
とりあえず自身が何者かを証明するために取得した一枚のカード。
だがそこにある自分の顔写真は目的を見失っていて茫洋としているようだった。
苦笑する。
そしてゴールが見えてこないのは今も変わらない。
神にも等しい巨悪と倒したところで、きっとその先でつまずくこともあるだろう。立ち止まり、来た道を振り返ることもあるだろう。
それでもきっと、少なくとも自分にとっては、目の前のように進むべき道はただ一筋しかないと思う。
だから、今この瞬間を全速で駆け抜ける。
今を走り抜いた意思は、希望の未来へと続いているはずだから。
――空は、つながっている。
信号が青く切り替わる。
英志は自分の足で、強くアクセルを踏みしめた。
おかげさまをもちまして、本編が終了しました。
後日談とあとがきをもちまして、本作を完結といたします。