22
お化けなんて信じていないし、怖くない。心霊番組を観ていてもつまらなくて、どれもこれも作り物に見えてしまって逆に白けてしまう。
虫系は別に好きじゃないけど毛嫌いするほどじゃないから、別に素手じゃなければ対処できる程度。ちなみに景吾さんは頭にGがつく台所の天敵が大嫌いらしい。心底どうでもいいけど。
暗闇、狭いところ、これも平気…というか写真現像するときに暗室籠ってるんだから嫌いだったら話にならないっていうの。
そんなわけで、目下あたしには怖いものなんて何もない。
そう、―――アレ、以外には。
+++
今年の夏は雨が多い。
新学期が始まって一週間経つが、半分近くは雨だった。暑い癖に雨が降ると途端に涼しくなって、気を付けないとすぐに風邪をひいてしまいそうな嫌な天気だ。
謙也自身は風邪をひかずに済んでいるが、クラスメイトが2、3人ダウンしている。一応は受験生だし、他人事ではない。
今日も今日とて真っ暗な空からはとめどない雫が落ちている。
身体より先に気が滅入りそうだ、と息を吐き出すと、昇降口に見知った後姿を見つけた。
「おー、小毬、今帰りか?」
「あれ、謙也さんもですか?」
「おん、そう。図書室行こ思ってんけど、また雨降りそうやからさっさと帰るわ」
同じく雨にうんざりしていたのだろうか、空を仰いで立ち尽くしていた小毬の隣に並ぶと、待っていたように歩き出す。自然と一緒に帰れるこの関係がくすぐったくて、謙也はこっそりと微笑んだ。
他愛ない話をしながら、もうすぐ小毬の家につく、という頃合いだった。
学校を出た時よりも明らかに雨脚は強まっており、心なし雲の黒さも深まっている。
「こら雷でも来そうやなぁ」
雷は嫌いじゃないが好きでもないし、停電したりすると面倒だ。
念の為懐中電灯は準備したほうがいいだろうか、と考えながら呟いたのだが、隣にいる小毬からの反応がない。雨の音は強いが、謙也の声をかき消すほどのものではないはずだ。
「…小毬?」
「………いえ」
ちらりと小毬を見下ろせば、少し俯いた彼女の顔色は少し悪い。
どうしたのかと尋ねてももう反応はないが、足が止まることはない。まるで一刻も早く家に入りたいという態度に、ますます謙也は首を傾げた。
まぁ、観たいテレビでもあるんだろう。
そんな暢気なこと考えているうちに小毬の家に到着した。
まさにその瞬間だった。
――――ゴロゴロゴロ…
「うわ、ほんまに雷きよったで」
「…………」
「ほんなら、俺も早いとこ帰るし。また来週な」
「……………」
「……小毬?」
手を振って辞去しようとした謙也の行動は、しかし実際行動に移すことは出来なかった。
何故なら、小毬が両手で謙也の制服をがっしり掴んでいたからだ。
「…えーと、小毬さん? 服掴まれとると、帰れへんねんけど…」
俯いたままの小毬は何も云わないが、手を放すこともしない。
どうしたものかと考えていると、遠くでひとつ雷が鳴った。光と音の差から、まだまだ遠いところでなっているのだとぼんやり思う。
しかし謙也はここでやっと気付いた。
ついさっき光った瞬間と、割れるような雷の音がなった瞬間―――小毬が服を引く力が強くなったことを。
「…もしかして小毬、雷あかんの?」
問いにも反応がない。
無視というわけでなく、反応する余裕がないといったところだろうか。
ぎゅうぎゅうと指が白くなるほどきつく謙也の服を握り締める小毬を見ながら、謙也は頬を掻いた。
どうしよう。
まだまだ雨が止む様子はなく、雷は少しずつこちらに近付いてきている。
早く帰らなければもっと雨は強くなってしまうだろう。
ここから自宅まではそう遠くないが、途中に橋がある。最悪、川が氾濫すれば帰宅は不可能だ。遠回りすれば帰れないことはないが、この雨の中の遠回りは遠慮したい。
それに、この状況で小毬をひとり置いていくのも嫌だった。
小毬の両親は父親が製薬会社の研究員と母親が病院で医療事務職だとかで、あまり家にいないらしい。
ただでさえ研究室に泊りが多いというのに、わざわざこの天気の中帰宅するとも思えないし、母親のほうも今日は遅くなる予定らしく。
ということはこの広い家に小毬はひとりきりということで。
立ち尽くす小毬の肩は微かに震えていた。
遠くで鳴る雷の音にすら怯えているのに、もっと近付いてきたらどうなってしまうのだろうか。
こんなとき、どうするのが正解なのかわからない。
思わず天を仰いで、真っ黒な雲を睨み付ける。
何が正解なのかはわからなくとも、今小毬をひとり置いて帰るというのが不正解ということだけは確かだった。
「…いやぁ、雨に降られて寒なったなぁ! こりゃあったかい茶ぁでも飲まな風邪ひいてまうかもしれんなぁ!」
「お、お茶、飲んでってください!!」
些かわざとらしい謙也の言葉にも小毬はつっこまない。
むしろまるで天の助けを得たかのようにホッとした様子で、善は急げとばかりに謙也の腕を引っ張って家に招き入れた。
謙也、実は初めてのお宅訪問である。
+++
「すまんな、タオルまで」
「いえ、こちらこそすみません…」
家に入ってお茶を入れたりタオルを出したりとしているうちに、どうやら小毬は冷静さをと戻してきたらしい。並んでお茶を飲むころにはすっかり落ち着いて、半ば強引に謙也を引き留めてしまったことを後悔している。
雨が冷たくてしんどいと思っていたのは本当だし、それにあの状態の小毬を置いていくなんて謙也には出来なかったので別に気にしていないのだが、小毬はそうもいかない。
こんな天気なのに寄り道なんてさせてしまった。早く帰らなければもっとひどい天気になるかもしれないのに、自分の恐怖の為に引き留めてしまった。
基本的には真面目な小毬が反省するには十分すぎる失態だった。
しかも引き留める言葉が出てこなくて黙っていたら、さらに気を遣わせていつもなら絶対云わなさそうなことまで云わせてしまったのだ。
これで落ち込むなというほうが無理な注文である。
しかし隣の謙也をちらりと盗み見てみても、あまり気にした様子はない。
むしろ雨のせいで身体が冷えていたのは本当だったのか、暖かいお茶にホッとしている。
それが何故か面白くない。
「それにしても、意外やな」
「…何がですか」
暖かいお茶で一息ついてしみじみと呟けば、何故か小毬が少し拗ねていた。その様子が可愛くて、謙也は小さく笑う。
「小毬には怖いもんなんてあらへんと思っとった」
夏にオサムの思い付きで肝試し大会が開催され、小毬も無理矢理参加させられたことがあった。
大阪でも有名な心霊スポットである古寺にロウソクを取りに行って帰ってくるだけというシンプルなものだっが、あれは本気で怖かった。しかしビビッてなかなかスタートしないテニス部にしびれを切らした小毬は、颯爽とひとりでロウソクを取りに行き、しれっと戻って来たのだ。あまりの男らしさに金太郎が大はしゃぎだったあの日を謙也は忘れない。ちなみに問題の一番手が謙也だった。情けなくてちょっと泣きそうだった。
それから、以前テニス部の部室に頭にGがつく例のアレが発生したときも小毬はかっこよかった。タイミング悪くその日は千歳も金太郎も小石川もおらず、部室にいた面々はそろいもそろって怯えて使い物にならない。応援を呼びに行くにもやつがどこにいるのかわからないので迂闊な高度が出来ずに途方に暮れていたところに現れたのが小毬で、たまたま新聞部に頼まれてテニス部の写真を撮りに来たところだったらしい。部室を訪ねたらテニス部の非常に残念なシーンに直面してしまったのだが、事情を聴いてからの彼女の行動は早かった。放置されていたハエタタキを素早く装備し、ロッカーの後ろから這い出てきたヤツを一発で仕留めたのである。惚れるかと思ったがもう惚れていた。洗濯洗剤でとどめを刺してから部室ではなく昇降口にあるゴミ箱にまで捨てに行ってくれたあたりで白石がボソッと『絶頂…』と呟いていたのは聞き逃せなかった。でも気持ちはわかる。
「…どうせ、情けないです」
そんな小毬に怖いものがあるというのが不思議な感じだったのだ。決して馬鹿にしているわけではない。というか小毬が情けないならばお化けもGも怖い自分たちはどうなる。
完全に拗ねたように三角座りで縮こまる小毬はあまりにかわいくて、ついつい笑みが零れてしまう。
「なんで? 情けないなんて俺思ってへんで」
「でも謙也さん笑ってる」
「ああ、ちゃうねん。これは嬉しくてやな」
何が、と首を傾げて問う小毬に、謙也は告げる。
「小毬が俺を頼ってくれて嬉しいんや」
基本的に小毬は強い。
何でも自分で出来るし、失敗だって少ない。一部では密かに『女版聖書』なんて呼ぶ輩がいるくらいだ。
それに花でも写真でも実力があって世間から認められている。
そんな強い小毬が、たまたまとはいえ自分を頼ってくれたことが謙也は嬉しかった。一緒に帰ったのが他の誰かだったりしたら、もしかしたらその誰かに頼ったかもしれないという可能性はこの際忘れることにして。
小毬に頼られる、という事実は、謙也にとって純粋に嬉しいことなのだ。
どうして謙也が喜んでいるのかは小毬にはわからないが、けれど謙也が嬉しいのは自分も嬉しい。
改めてお礼を云おうと口を開きかけた小毬は、しかし。
ゴロゴロゴロ…ビシャ――ン!!
「ッひゃあああああああ!!!」
手にしていたマグカップをテーブルに置くなんて余裕は小毬にはなかった。
思わず床に放り投げて、咄嗟に耳を塞ぐ。
「や、やだもう、なんで」
怖い。
嫌だ。
理屈ではなく、小毬にはあの雷の音が恐ろしくてたまらない。
耳を劈くような破裂音と、地を這うような地鳴り。
どれもこれもが生理的に受け付けない。
今この場に謙也がいることも忘れて、小毬は恐怖を打ち消すために耳を塞いで縮こまる。
それでも身体の震えは止まってくれなかった。
「小毬、落ち着け」
「だってこんなの、やだ、落ちたらどうしよう、あたし、やだ」
「小毬!」
取り乱して半泣きになってしまった小毬の名前を強く呼び、謙也は力任せに引き寄せる。
「大丈夫やから」
嫌だと暴れる小毬をあやすように抱き締めて、ゆっくりと云い聞かせる。
ゆっくりが苦手な謙也にしては最大努力で、辛抱強く。
「俺がおるから」
だから大丈夫だと。
なんの根拠も理由にもならない言葉を繰り返す。
謙也の腕の中で、小毬は最初はただ震えるばかりだった。
きっと謙也の言葉も聞こえてはいなかっただろう。
けれど、抱き締めて声をかけるうちに、身体の緊張が徐々にほぐれていったのがわかる。
力が入りっぱなしだった肩がゆっくりと降りて、呼吸も整ってきたように思う。
もう一息。
安心させるように背中をポンポンと撫でれば、腕の中で俯く小毬がぐずぐずと鼻を鳴らした。落ち着いたら一気に涙が出てきたらしい。
どうにか手に届く範囲にあった箱ティッシュを手繰り寄せ、小毬に差し出す。何枚か取ってしばらくは顔に押し当てていたのだが、漸く涙が収まったのか腕の中でごそごそと動き始めた。離せと怒られてしまうだろうか、とちょっと不安だったのだが、それは杞憂に終わった。
顔をすっきりさせた小毬は、体勢を整えて改めて謙也に抱き着いてきた。
丁度謙也の膝の上で横抱きにして、小毬が斜めの体勢で謙也の背中に腕を回している格好になる。
そうすると謙也的にいろいろマズイのだが、そんなことは小毬には関係ないしわかっていない。当たっている。意外とある。
小毬が落ち着いたところでもたげそうになる本能と煩悩を冷却ワードで押さえつけつつ、何とか自分の意識を他に向けるべく謙也はふと疑問に思ったことを口にした。
「…今まではどないしとったん?」
この夏の間に雷があった日は一日や二日ではない。
「…押入れに入って、布団被って…」
「ひとりで?」
「だって、ずっとひとりだったし」
それはあまりに孤独ではないだろうか。
たったひとり、この広い家の中で、狭い押し入れの中で、いつ止むかもわからない雷が収まるのを待つというのは、そんな小毬を想像するだけでゾッとする。
抱き締める力を少しだけ強くして、謙也は囁く。
「今度からは俺呼んでな」
「…いいんですか?」
「ええよ。むしろ呼ばれなくても雷の日は来たるわ」
いつでも、というわけにはいかなくとも、時間が作れる日はなるべくそうしようと謙也は決めた。
小毬が怖い思いをするのは嫌だ。
震える小毬を抱きしめて、強くそう思った。
笑われるだろうか。
不安になって、少しだけ身体を離して腕の中の小毬を見た。
そうして。
「嬉しい」
云って、少しだけ目じりに涙を残した小毬が微笑む。
胸が震えた。
たまらなく好きだと、愛おしいと、瞬間的に感じた。
―――気付けば謙也は、小毬の唇を自分のそれで塞いでいた。
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雨の音が酷くうるさいのに、それ以上に自分の鼓動のほうがうるさくて仕方ない。
もしかしたら心臓が口から飛び出すんじゃないかというほどの動悸が止まらず、小毬はただただ戸惑うばかりだ。
顔も尋常じゃないくらい熱い。否、顔だけじゃない、全身が沸騰したみたいに熱くてたまらない。
謙也の顔がすぐ近くにあって、ああ、やっぱりこの人は格好いいんだな、とぼんやり思う。
「けんやさん」
唇が離れた隙に名前を呼ぶ。
その声は自分でもびっくりするほど震えていて、まるで自分の声じゃないみたいだと思った。
何を云えばいいのかわからないが、何か云わなくては、と口を開こうとした小毬は、しかし言葉を紡ぐことは出来なかった。
「、んッ!」
噛みつくように口づけられて、言葉を飲み込むしか出来なかったのだ。そもそも何を云おうとしていたのかすら自分でも謎だが。
「小毬」
名前を呼ばれて薄く目を開ければ、やはりすぐ近くにある謙也の顔には余裕がなかった。だけど小毬にだって余裕はない。
上がっていく息が苦しくて、縋るように謙也のシャツをきつく握り締めた。
「小毬」
繰り返す、名前。
譫言のように呟いて、その度にキスを落とす。
三度名前を呼ばれたときに、小毬はゆっくりと謙也の頬に手を伸ばした。
「謙也さん」
息が弾む。
息までも灼熱になったように錯覚する。
びっくりしたしまだドキドキしているし混乱もしているけれど、だけどこれは伝えなければならないと思った。
「ありがとう」
この感謝の言葉が一体どこに向かったものなのか、小毬自身にもわからない。
ただ、お礼を云いたかった。
嬉しかったから。
幸せだから。
傍にいてくれるから。
遠くで、雷が落ちるような音がした。
だけど不思議と怖くない。
いつもなら布団にくるまって耳を塞いで、それでも怖くて震えているのに。
多分ここにはひとりじゃないから。
「小毬」
もう一度名前を呼ばれて、顔を上げる。
謙也の顔がすぐ傍にあって、どうせならこのまま溶け合ってひとつになれたいいのに、と思考の外でぼんやりと考えた。
自然と目を閉じて、それから再び唇に訪れる温もり。
胸の奥から溢れ出るこの暖かさは一体何だろう。
嬉しくて幸せで、まるで天国にでもいるみたいだと思った。
だけど同時に、胸が張り裂けそうに痛んだ。
幸せなのに、どうしてこんなに辛いのだろう。
あなたがこんなに傍にいてくれるのに、どうして。
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手をつないで、抱き締めて、キスをして。
だけどあたしたちには何もない。