23
風にさえも、背中を押される。
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その日は、まるで台風のように風の強い日だった。
おかげで久しぶりに参加するはずだった部活が中止になってしまい、謙也はぶすくれていた。推薦対策に追われて数週間、今日は本当に久々のテニスになるはずだったのだ。
室内コートなんてないし、体育館は他の部活が使用していて筋トレすらも出来ない。
仕方がないので軽いミーティングだけで部活終了、そして解散。
学校に残っていては教師に捕まってまた推薦対策になるので、謙也たち元テニス部と財前たち現テニス部は仲良く帰路についていた。
その帰り道、風のせいで随分とゆっくりとした足取りになりつつ、テニスができないとなると頭にあるのはやはり推薦についてだった。
小論文はなんとかなる。謙也にとっての問題は目下面接だ。
「白石はええなー、面接なんか余裕やろ」
「んなことないで。まずいこと云わんように気をつけなあかんし」
「なんやねんまずいことって。面接中いきなり『絶頂!』とか叫ばな大丈夫やって」
「そりゃまずいことやなくてヤバいことやな…」
自覚はあるのか。
思わず真顔になってしまった謙也は、しかし友情を守るために口にはしなかった。口と脳が直結している謙也にしては最大限の努力だっただろう。
そんな思いは億尾にも出さずだらだらと会話を続け、もうすぐ大通りの交差点に差し掛かる、というあたりで、少し前を歩いていた金色と一氏が振り返った。何やらにやにやと笑っているのが嫌な予感がする。そして。
「謙也ー、嫁が前歩いとるでー」
「よよよ嫁ちゃうわ!!」
案の定だ。
しかし真っ赤になって反論したところで説得力はないし、むしろ情けない。
そしてそんな謙也に、同じくニコニコと微笑む金色は追い打ちをかけた。
「じゃあ何~?」
「………こ、後輩…?」
迷いながら呟かれた、そんな謙也の発言に。
「アホ」
とすぐ隣の白石。
「ボケ」
と絶対零度の視線になった金色。
「カス」
と蔑みきった目の一氏。
「今のは謙也が悪かねー」
「千歳まで!?」
「すまん謙也、フォローできん」
「健さん!?」
助けを求めて石田を見れば、そっと目を閉じて首を振られた。横にである。
容赦なく味方がいない。
生まれてこの方こんなアウェーに立たされたことがなかったため心細さで震えていると、ポン、と肩に手が乗った。
振り返ればそこにいたのは、これまでノーコメントで携帯をいじりながら歩いていたはずの財前で。
相変わらず携帯は手に持ったままだが、財前の視線は画面から謙也に移っていた。
「謙也さん……」
「財前…!」
もしやいつもは塩対応と呼ぶには些かしょっぱすぎる対応しかしてくれない、先輩なのに尊敬してもらえてるとは思えない態度しか取らないこの小憎たらしい後輩が、こんな場面で味方になってくれるのか―――謙也がそんな甘いことを考えた瞬間が一瞬でもあった。
「さすがにそれはないッスわ」
「真顔やめてもらえます!?」
そんなわけがなかった。
むしろ一番最後に一番冷静にそんなことを云われるほうがショックが大きい。
もうこうなってはこの話題に微塵も興味なさそうな遠山だけが謙也の支えだった。しかし興味なさすぎて遠山は謙也が傷心であることにも気付いていない。いろんな意味で傷付いた謙也であったが、誰もフォローしてくれない。
すん、と鼻を鳴らしながら気を取り直して改めて前を向き直る。
謙也たちの前を進む、小毬の後姿はそういえば久しぶりに見る気がする、と謙也はふと気付いた。
最近では隣を歩くことが多くて、小毬を追いかけるということは少なくなって久しい。思えば最初は追いかけてばかりだった気がするが、今となってはそれもいい思い出だ。
そう気付いて少しばかり優越感を抱く。特に誰にでもないけれど。
ただ、小毬が謙也に気付けば声をかけてくるし、逆もしかり。
顔を合わせたら一緒に帰るのが、隣を歩くのが当たり前になったのはいつの頃だったからだろう。
小毬、と。
名前を呼ぶことに違和感がなくなったのは、いつだったのか。
ぼんやりとそんなことを考えながら歩いていたら、お笑いコンビがまた謙也を振り返っている。
今度は隠そうともせず嫌そうな顔をしてやったのに、まったく気にした様子もなく、臆面なくふたりはビッと小毬の背中を指して笑顔で。
呼べ。
嫌だ。
いいから呼べ。
嫌だ。
そんな何の足しにもならない不毛な会話を続けてしばし、みんな――というか主にお笑いコンビ――にせっつかれて、謙也は不承不承ながらも少し遠くを歩く小毬に向かって声をかけた。別に珍しく金色に凄まれて怖かったからではないと断っておく。
「こ、小毬ー」
心持ち大きめの声で、前を歩く小毬を呼ぶ。
が、彼女が振り返る様子はなかった。
歩くスピードもそのままに、サクサクと歩いて行ってしまう。
「………」
「…聞こえてへんのかしら?」
「まぁ今日は風強いし、そうかもしれんな」
「もう一回呼んでみたらよかね」
軽く首を傾げたお笑いコンビの言葉を引き継いでいつも通りのマイペースな口調で千歳が云い、ハッとして頷く。
一瞬ショックすぎて心臓が止まるかと思った。
が、気を取り直してもう一度。
「小毬!」
今度は先ほどよりも声を張って名前を呼んでみる。
けれどそれでも小毬が振り返る様子も立ち止まる様子も見られない。
なんだか、胸がざわついた。
そうこうしているうちにも小毬と謙也たちは縦並びのまま進んでいき、大通りの交差点まで来てしまった。
小毬が一足先に横断歩道を渡り切ったところで歩道の信号は赤くなり、仕方なく謙也たちは立ち止まるしかない。
これは予想外の展開だったのか、謙也よりも戸惑ったように小石川が首を傾げる。
「謙也、津々井になんかしたんか?」
「小毬、怒るとめっちゃ怖いもんなぁ。わい、白石の毒手の次に小毬のアイアンクロー怖い!」
「金太郎はん、それは多分誰も怖いで」
遠山と石田の呑気なやり取りも今や謙也の耳には入らない。
謙也には小毬を怒らせた覚えはない。
それどころか、ここ数日はまともに会話した覚えもない。それが原因だと云われたらお終いだが、しかしそんなことで機嫌を悪くするような子でもないことを謙也は知っている。
この時期はお互いに忙しいのは前もって確認していたし、なんなら先週末に展示会があった小毬のほうが謙也よりも忙しかった。
赤くなった横断歩道の信号機。
目の前を車が横切っていく中、それを越えた先に見えたのはふと視線を動かした小毬の横顔だった。
小毬の横顔なんて、これまで何度も見てきた。
けれど今の顔は知らない。
誰も知らなかった。
―――どこを見ているのかわからない、焦点を失ったような空虚な眼差し。
いつもの溌溂とした優しい視線はそこになく、大阪にやってきた頃のような暗く冷めたものでもなく。
自分が見られているわけではないのに、何故か胸の奥がかき回されるような不安を抱かずにはいられない、そんな視線で。
謙也だけではなく、誰もが息を呑んだ。
怒っているようりも、泣いているよりも、無感情な表情のほうがかける声に窮することを思い知った気分だった。
「―――」
風が止んだ。
あれだけ強く吹きすさんでいたはずの風が、何故かこの瞬間、ピタリと止んだのだ。
そうして、まさにこの瞬間。
誰かが声を出したわけではないのに、ゆっくりと、小毬が謙也たちを振り返った。
「―――…」
遠目からでもはっきりとわかる小毬のガラス玉のように大きな目が何度か瞬きを繰り返し、それから―――
―――まるで花が咲くように、柔らかく微笑んだ。
未だ車の横切る道路の反対側で、小毬は笑顔のまま小さく手を振る。
「…小毬」
何か云っているようだが、再び吹き始めた強い風と横切って行く車のせいで小毬の声が聞こえない。
こちらに声が届いていないことに途中で気付いたらしく一生懸命声を張っているが、車と風が小毬の声を容赦なく邪魔してしまうようだ。
耐え切れなくて、謙也はその場にしゃがみ込んだ。
「…俺、小毬が好きや」
そして呟く。
誰にともなく。
伝えるべき相手のいないまま。
幸い、謙也の呟きはひとりにしか聞こえていなかったらしい。
「…それ、俺らに云うてもしゃーないで」
呆れたように嘆息して云う白石の言葉に、しゃがみ込んで頭をもたげたまま頷いた。
「わかってる」
わかっているけれど、今口にしたかった。
そうでないと、胸に溢れたこの気持ちをどうしたらいいかわからなかったから。
「謙也さん、大丈夫!?」
小毬の声がした。それも、かなり近くで。
だけど彼女は横断歩道の向こう側にいたはずなのに。
そんなことを考えつつのろのろと謙也が顔を上げると、反対側にいると思っていた小毬が目の前にいる。そればかりか、しゃがむ謙也を心配そうに覗き込んでいた。
「…なんで」
「え、だって謙也さんが急にしゃがみ込むから! 具合でも悪くなったのかと思ったんですけど…なんでもないんですか?」
最後の言葉は隣にいた白石にかけていた。
まぁ、こんな歩道のど真ん中でしゃがみ込む男子中学生がいたら、頭がおかしいのでなければ具合が悪くなったのかと思うのは普通の反応だ。それがわかるから白石も苦笑するしかなかったのだが、生憎事実は違う。
どう説明したものかと考えているうちに、ずずいと前に出てきたのはいつも通りというか案の定というか、お笑いコンビだった。
「重病や、重病」
「そうそう、あたしらじゃどーしようもないやつねぇ」
「そんなわけで、津々井」
にっこりと、にんまりと笑顔になって、息を合わせたように金色と一氏はポン、と片手ずつ小毬の肩を叩いて。
なんとなくこのふたりが何をしたいのか察した他のメンバーは、特に止めることもなく、口を挟むこともなくただ黙って成り行きを見守っていた。
「謙也をよろしく!」
そしてぴったりと声を揃えて。
しかも、状況を理解しているのかしていないのかわからない遠山までもが一緒になって、謙也と小毬を置いて先に行ってしまった。
去り際、金色はバッチリウィンクし、一氏はキリッとした顔でサムズアップ。千歳と小石川は小さく手を振り、石田はいつものようにゆったりとお辞儀をして、財前は口元だけニヤリと笑って無言で行ってしまった。
そして最後に白石が困ったように笑って、しかし小毬にだけ聞こえるように『よろしゅうな』と囁いてみんなに合流していった。ちなみに遠山はとっくに横断歩道の向こうに消えていた。
「…な、なんなの…?」
どういうことなのかさっぱりわかっていない小毬の頭の周りにはクエスチョンマークが飛び交っており、一方謙也は状況はわかってはいるけれどいろいろ整理できずにしゃがみ込んだまま置いてきぼりを食らっていた。
先に回復したのはやはり小毬で、まだしゃがみ込んで動かない謙也に心配そうに声をかけた。
「謙也さん、本当に大丈夫ですか?」
「…おん」
謙也の力ない返事に首を傾げつつ、しかし大丈夫と云うのだから大丈夫なのだろう。小毬の目から見ても、顔色が悪いわけではなさそうだ。
声をかけても少しぼーっとしているのが気になるところだが、いつまでもここにいるわけにもいかない。他のテニス部の面々は本当に謙也を小毬に任せるつもりらしく、立ち止まる気配なく…どころか小走りで消えていった。何がしたいのかいまいちわからない。
とにかくここは交差点だし、謙也の家も小毬の家もここからそう遠くない。
もし本当に体調が悪いならより近い小毬の家で休んでいけばいいのだし、ならばさっさと行動するのが小毬という人間の性格だった。
肩からずりさがってしまっていた鞄を背負い直して。
「じゃ、帰ろ!」
差し出される手。
あまりに自然に、当然のように。
その手を取ってもいいのだろうか。
この手を取る資格が自分にあるのだろうか。
小毬を好きだという気持ちは確かなのに、きっとずっと前から持っていたのに、どうしてか伝えられずにずるずる来てしまった。
待っていてくれとだけ伝えたあの日、小毬は待つと云ってくれたのに。
いつまで経っても小毬の隣に並べる男になったと思えず、けれど手放しにしてしまうことも出来ず、自分はもしかしたら一番酷いことをしているのではないかと今更ながらに思った。
―――それでも。
手を伸ばす。
その優しい手に触れて、抱き寄せた。
突然のことに小毬は反応できずあっさりと謙也の腕に収まり、驚いたように少し身動ぎして、それから照れたように少し俯いておとなしくなった。
風が強い日でよかった。
こんな日は物好きでもなければあまり歩行者がいないし、今丁度車は全くいない。
ずるくてもいい。
きっと自分は、伸ばされたらこの手を何度だって取ってしまう。
だって、この手が伸ばされる喜びをもう知ってしまったから。
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十分すぎるほど自覚してる