怒涛の更新でしたが、お付き合いありがとうございました!
このふたりは、今後は思いついたらちょこちょこ短編書きたいと思います。割と気に入ったふたり。
【真冬の恋7題 】
冷たくて、暖かい
あの季節がやってくる
お題配布元「確かに恋だった」様
:http://have-a.chew.jp/
1.初雪が降るまでに
12月に入ると、一段と寒さが厳しくなってきた。
寒いのは苦手だ。
花を活ける手も悴むし、厚着をしたら動きにくいし。かといって暖房をかけすぎると乾燥して花が駄目になる上に喉を傷めるし、ああ、冬ほんと嫌。
おまけに大阪の冬は東京よりもずっと寒い。
東京のビル風も嫌だけど、この底冷えのする寒さもなかなかに堪える。
今朝の天気予報ではそろそろ初雪になるかもしれないなんて話していたのも余計に寒さを感じる原因になっているかもしれない。本当、勘弁してほしい。
とぼとぼとひとりきりの帰り道、吐き出す息の冷たさを感じつつ、謙也さんと焼き芋を食べながら帰った秋の日を思い出した。
少し前のことなのに、もうずいぶん昔のことのように感じてしまうのは感傷的過ぎるだろうか。
賑やかに帰る日が当たり前になりすぎていて、こうしてひとりで帰るとついつい暗いことを考えてしまいがちだ。
よくない、とかぶりを振ってネガティブを退散させようとしても、一度訪れるとネガティブはなかなか消えていってくれない。ポジティブが消えるのは一瞬なのに、ネガティブというのはどこまでも厄介だ。
今、謙也さんは…というか元テニス部の先輩たちはみんな忙しい。
高校推薦の準備で、小論文だ面接だと目まぐるしく動いているらしい。みんなスポーツ推薦をもらう予定らしいけど、さすがに全く勉強出来ないというのはよろしくないようで、特に千歳先輩や謙也さんはいろんな人に助けてもらいながら対策に必死なのだと財前が笑っていた。
そんな財前に、来年のあんたが楽しみだ、と笑ったのはつい先日のことだ。
こうなると、実感する。
謙也さんは卒業生。
あと3か月ほどで謙也さんはここからいなくなる。
そうして来年の今頃は、あたしが受験対策に忙しくしているのだろう。
年の差は覆らない。
どんなに寂しくても、謙也さんは一年先を行ってしまう。
きっとこれがあと10年後だったら気にならないのだろう。
大人になってしまえば、一年や二年の差なんてあってないようなものだと聞いたことがある。
けれど、今は。
あたしにとって大切な今、一年の差はあまりに大きくて、途方もない。
手を伸ばしても、どんなに望んでも、変わらないのだ。
卒業という言葉が胸に微かな痛みをもたらすようになったのは、いつの頃だっただろう。
あの人がいなくなることが寂しいと思うようになったのは、きっと随分前からだ。
そして、思う。
待っていてと告げられた、あの夏の日のことを。
あの日は確か氷帝との練習試合と合同練習会の日で、ひどくバタバタしたことをよく覚えている。
騒がしくて慌ただしかったけれど、今ではあれもいい思い出だった。
金色先輩と忍足先輩の策略でふたり残された帰り道、謙也さんは云った。
待っていて、と。
それにあたしは答えた。
待つ、と。
ねえ、謙也さん。
―――あたしはいつまであなたを待てばいい?
冷たい息を空に向かって吐き出しても、答えは返ってこなかった。
目を閉じる。
真っ暗になった瞼には、誰の姿も映らなかった。
2.ため息まで白い
気付けば12月は後半に差し掛かり、週が明ければすぐに冬休みになる時期に迫っていた。期末テストは難なく終了しており、あとは冬休みを待つばかりだ。
今年の冬は特に展示会の予定もないし、3年生も推薦組はそろそろ忙しさも終わる頃だ。もしかしたら謙也さんと過ごす時間が取れるかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていた放課後、用事があって職員室に行くと、珍しく渡邊先生がいた。しかもこれまた珍しく書類と向き合っているではないか。やめてよ雪降るじゃないですか。ただでさえ大阪寒いんだから、これ以上寒くなるのは勘弁ですよ。
若干八つ当たりを自覚したそんなことを思っていたら、あたしに気付いたらしく何故か上機嫌に手招きされた。
え、何。
あたしテニス部関係以外では渡邊先生と関わりないんですけど。っていうかそもそも渡邊先生の担当教科って何? まず話はそこからだ。
なんて考えていることは億尾にも出さずにっこりと笑って近付くと、至極嬉しそうに渡邊先生は指で丸を作った。
「テニス部の3年な、全員推薦決まったで」
「えっそうなんですか?」
「最後のひとりが謙也やってんけど、たった今先方から合格の通知来てな」
「…それ、あたしより先に謙也さんに伝えるべきなんじゃ…?」
「どうせ謙也と会うやろ? 津々井から伝えたってや」
別にいいけど、それこそ教師の役目なのでは、と首を傾げたあたしは間違っていないはずだ。この先生、ほんといろいろ心配になるなぁ。
でも、これはいい口実になる。
ここ最近は遠慮して謙也さんに会いにも行かなかったし、帰りの時間もバラバラだったから、多分丸2週間くらい謙也さんには会っていない。
もうすぐ冬休みにもなってしまうし、何か理由をつけて会いに行こうと思っていた矢先だったのだ。
あとは帰るだけだし、渡邊先生は謙也さんは教室にいると云っていたことだし、このまま直接行ってみよう。
思い至ったら即行動、3年生の教室に向かう足取りもどこか軽く、まるで羽が生えているみたいだと思って自分で笑ってしまった。
浮かれている。
自覚をして、少し恥ずかしかった。
久しぶりに謙也さんに会える、それだけのことがこんなにも嬉しいなんて。
でも、なんだか久しぶりすぎて緊張する。
だって、2週間以上も会わなかったなんて、謙也さんに出会ってから初めてなのだ。
これまではお互いがどんなに忙しくてもなんだかんだで顔を合わせたり連絡を取ったりしていたのに、この2週間はすれ違いもしなかった。謙也さんが推薦対策の追い込みで必死になっていたので、邪魔しては悪いと思ってメールも電話も控えていたのだ。
花でも飛ばしそうなほどルンルン気分でついに3-2の教室にたどり着いて、開きっぱなしになっていたドアから顔を出そうとしてふと思いなおす。
髪はおかしくないだろうか。
制服に皺はない?
柄にもなく身なりなんて気にしてしまって、なかなか教室に入れずにいると。
「小毬も忘れてるんと違うかな」
急に耳に入ってきた声に一瞬胸を高鳴らせ、それからすぐに首を傾げた。
どきり、と唐突に心臓が大きく脈打った。ともすれば口から飛び出して行ってしまうのではないかと思うほどの鼓動に、思わず両手で心臓を押さえてしまう。
しかし、動悸は一向に収まらない。
心臓を押さえた手を無意識のうちに握りしめる。きつく握りすぎて、真っ白になっていた。
あたしが忘れていること?
なんだろう、一緒に帰る約束なんてしていないと思うのだけれど。
少し考えて、けれどそんなことではなかったのだと、次の言葉で思い知る。
「俺よりいい男なんか山ほどおるし、小毬なら選びたい放題やろし」
―――何? 何の話?
もし、もしも、明るく、弾けるように。
そうやって雰囲気をぶち壊すみたいに顔を出したら、或いはこの後の展開も変わっていたのかもしれない。
けれどどうしたってあたしの足は動いてくれなかった。
ねえ、謙也さん。
何の話をしているの?
不安と恐怖で胸を押しつぶされそうになりながら、倒れそうになる自分を叱咤してその場に立ち尽くす。
ああ、だけど立ち止まっているだけでは事態は何も変わらない。
動かなければ。
声を掛けなければ。
もしかしたら、いつもみたいに笑って、それから。
けれど、そんなあたしの希望は―――誰にも届かなかった。
「小毬には俺やない他の男が似合っとるわ」
―――がつん、と。
まるで金槌で頭を横殴りにされたような、そんな衝撃に襲われた。
ああ、痛い。
もちろん本当に殴られたからじゃない。
痛いのは、胸。
どうして。
なんで。
ねえ、謙也さん。
「何、それ」
気付いたら、最後の一歩を踏み出していた。
視線の先には、驚いたように目を見開く謙也さん。一緒に話していたのは白石先輩だったらしいけれど、そんなことはどうでもよかった。
声は、震えていないだろうか。
あたしは今、まっすぐ立てているだろうか。
―――この張り裂けそうな胸の痛みは、どうしたらいいのだろう?
「うそつき」
呟いた瞬間、涙が零れた。
今までずっと我慢していた涙だった。
謙也さんは愕然とあたしを見つめていたけれど、手を伸ばしてくれることも、声をかけてくれることもなかった。
―――ああ、そうか。
きっとあたしが馬鹿だった。
馬鹿正直に謙也さんの言葉を信じて待ち続けた、あたしがいけなかったのだ。
唐突にそう気付いて、すとんと何かが胸に落ちたような気がした。
悲しいけれどこれが現実だった。
セーターの袖で涙を拭いて踵を返し、謙也さんに背を向ける。
もっと早くにこうしていればよかったのに、あたしはまったく往生際が悪い。
白石先輩が焦ったように追えなんて叫んでいたのが聞こえたけれど、謙也さんが追ってくる気配はない。
これでいい。
これでよかった。
自分の教室に戻り荷物を持って、すぐに帰路につく。
不思議と急ぎ足にはならなかった。
いつも通りののんびりとした足取りで、あたしは帰る。
四天宝寺に来てから、毎日通ってきた小道だ。
夏から秋にかけてはひとりで帰ることなんて少なくて、いつだって誰かが隣にいてくれた。
そのほとんどが謙也さんで、謙也さんと一緒に歩くといつも賑やかで楽しかった。
ひとりで歩くこの道は、こんなに静かだったろうか。
「…寒」
思わず自分を抱き締めて呟く。
息が白い。
思い切り息を吸ってみると、ちくりと肺が痛むような気がした。
いっそこのまま肺も心臓も凍ってしまえばいいのに、なんてとりとめもなく考える。だけどきっと、この程度の気温じゃ凍らない。
―――ああ、吐き出した息は、どこまでも白かった。
仰いだ空は鈍色で、まるであたしの心の重さを表したみたいだった。
ふいに、頬に冷たさを感じた。
もしかして雪でも降り始めたのだろうか。
そんなことを考えたけれど、どうも違うようだ。
あたしの思考は置いてきぼりのまま、頬の冷たさは変わらない。
だけどそれは冬だからだ。
冬なのだから、頬が冷たいのは当たり前。
その冷たさが頬を降りて、マフラーに一つシミを作った。
そうしてやっと、自分が泣いていることに気付いた。
―――もう、この涙を拭いてくれる人はいないのに。
3.この熱は消えぬまま
熱を出した。
重い身体を引きずって病院に行ったら疲労と風邪だと云われて、熱が完璧に下がるまで学校には行かないほうがいいなんて云われてしまった。
それは好都合だったので、遠慮なく学校は休むことにした。
どうせすぐに終業式だし、そこまで数日しかないのだからゆっくりしよう。それなりの成績を収めているし生活態度も優等生をやっているとこういうときにラッキーだ。多少長く休んでも心配されるばかりでズル休みだなんて思えない。いや、実際熱があるんだからズルじゃあないのだけれど。
財前から電話があったのは、学校を休み始めて2日目の昼のことだった。
『ズル休みか』
「…違うよ」
開口一番それか、と呆れる。あのね、あたしだって別に熱出したくて出してるわけじゃないし、そもそもそんな器用に熱のコントロールなんか出来るわけないでしょ。
さすがにもう高熱ではないけれど、まだまだ平熱よりは高い熱で頭がぼーっとするんだから寝ていたい。
どうでもいい話題なら年明けにでも改めてお願いしたいところだとぼやくと、財前は一度あたしの名前を呼んだ。
その声が財前らしくないほど真剣だったから、思わずあたしは黙ってしまった。
それが失敗だったのかもしれない。
『自分、また謙也さんとなんかあったんか?』
咄嗟に息が出来なくなって、ぎゅっと目を閉じる。
声が震えてしまわないように、きつく唇を嚙みしめる。
少し、血の味がした。
『あの人、ごっつへこんでんねんけど』
「知らない。あたし、もう関係ない」
吐き捨てて、携帯電話の通話を切る。そのまま電源まで落として床に放り投げ、枕に顔を押し付けた。
財前に八つ当たりしてしまった自覚があるので申し訳ないと思いつつ、このまま話し続けるなんてあたしには出来なかった。これ以上八つ当たりしたら、もう財前に顔向けできなくなるほど自己嫌悪するのが目に見えていたから。
ぎゅうぎゅうと枕に顔を押し付けながら、力いっぱい歯を食いしばる。
へこむ?
どうして。
なんであなたが落ち込むの?
いらないって切り捨てたあなたが、どうして傷付いているの?
痛いのはこっちなのに。
苦しいのはこっちなのに。
人の気も知らないで、どうしてあなたが!
と、そこまで考えて、それすらも八つ当たりなのだと自覚した。
知らないに決まっているじゃないか。
だってあたしはあの人に気持ちなんてひとつも伝えていない。
言葉では何も伝えたことがなかった。
謙也さんに求めたこともなかった。
だから、知るはずがないのだ。
つくづく思う。
あたしたちは、何もかもが足りなかった。
言葉も、時間も、多分、気持ちすらも。
+++
「小毬、お友達がお見舞いに来てくれたわよ~」
気付いたら眠ってしまっていたらしい。
何故かやたらと陽気な母さんの声で目を覚まし、時計を見たらもう19時を回っていた。しまった、寝すぎた。おかげでだいぶ身体は楽になったけど、夜眠れるだろうか。
そんなとりとめもないことを考えながら身体を起こし、軽く身だしなみを整える。誰が来てくれたんだろう。同じクラスの誰かだろうけど、そういえば家を知ってる人っていたんだったっけ。
寝起きの頭はうまく働いてくれず、あまり待たせるのも申し訳ないので、どうぞ、と声をかけてから、気付いた。
―――今の家を知っているのは、景吾さん以外には、謙也さんだけ。
まさか、と。
焦る気持ちと――少しの期待を抱いた自分は、一体どこまで馬鹿なのだろう。
「よ、津々井」
開いたドアからひょっこりと顔を出したのは、当然ながら謙也さんではなかった。
ちくり、と胸が痛んだ。
来るはずなんてないのに、どうして一瞬でも期待してしまったのか。
学習しない。
思いを悟られないようにと願いつつ、先輩を立たせておくのも気が引けるのでとりあえず座ってもらい、やっぱり機嫌がいい母さんが――多分白石先輩がイケメンだからだろう。イケメンなんか景吾さんで見飽きてるくせに!――持ってきてくれたお茶を勧めた。
「おおきに。熱で寝込んでるって聞いて、差し入れ持ってきたで。お袋さんに渡しといたし、あとで食うてな」
にっこりと微笑んで、あまりにいつも通りの白石先輩に少し面食らう。
先輩はあの場にいたのに。
知ってるくせに。
どうして、と思わずにはいられなかった。
だから、今は熱のせいにして、あたしは素直に直球に疑問を口にした。
「…なんで白石先輩が」
「謙也の代わり」
さらりと云った白石先輩の台詞に思わず息を呑む。
視線を向ければ白石先輩は小さく笑っていて。
…つられるように、あたしも笑う。
けれどそれは決して楽しくてではない。面白かったわけでもない。
憫笑。
それを向ける先は、白石先輩ではなく、謙也さんでもなく。
―――あたし自身だ。
「…白石先輩が謙也さんの代わり? 冗談でしょう」
「せやな、俺じゃ謙也の代わりにはなれへんな」
「含みのある云い方、やめてください」
肩から落ちそうになったカーディガンを直して、目を伏せる。
笑えない冗談だ。
白石先輩が謙也さんの代わりになるなんて、本当に笑えない冗談。
だって、謙也さんの代わりになる人なんて、この世のどこにだっていないのに。
どんなに謙也さんよりかっこよくても。
どんなに謙也さんより優しくても。
どんなに謙也さんより頼れても。
どんなに謙也さんより素敵であっても。
あの人の他に、あの人の代わりは出来ないのだ。
おっちょこちょいで早とちりで失敗も多くて、つまらないことで意地を張ったり見当違いな勘違いをしがちで、だけどあたしはそんな謙也さんがよかった。
白石先輩みたいに完璧な人じゃなくて、駄目なところがたくさんあっても、あの人が良かった。
だってあの日あたしを救って光の海を観に連れて行ってくれたのは、あの人だったから。
―――でも。
「あんな、津々井。謙也は、」
「もういいです」
「…津々井……」
「もう、いいんです」
終わってしまった。
いや、そもそもあたしたちは始まってもいなかったから、終わるという表現はおかしいのかもしれない。
あの夏の日、互いの手を取りながら、きっとあたしたちはスタート地点には立てていた。
けれどその先に進まないことを決めたのも、あたしたちの判断だった。
あと一歩、されど一歩。
景色に追い抜かれていくことすら気付かないまま、あたしたちは立ち止まったまま季節をふたつ通り過ぎてしまった。
あたしは待つばかりで、何もしなかった。
そのツケがこれだ。
進めず、戻ることも出来ず、立ち止まったまま放置していた結果がこれでは、とてもじゃないが笑い話にもならないほど馬鹿々々しい。
始まることなく消えていくこの不完全燃焼の気持ちは、だからあたし自身が整理をつける必要がある。
誰のせいでもない。
もうこれは、あたしだけの問題だ。
どうして白石先輩があたしに会いに来てくれたのかはわからない。
でも、多分謙也さんのためだ。
だからこそ、白石先輩の言葉をあたしは聞きたくない。
希望なんて、持ちたくないから。
余計な期待をしてまた傷つくのは、もう嫌だから。
だから聞けない。
ごめんなさい、と心の中で謝っても、この声は白石先輩には届かないけれど、胸の中で繰り返す。
声のない謝罪は、ただ空しかった。
先輩の言葉を遮って、沈黙。
あたしの様子に意志を悟ってくれたのか、それ以上先輩が何かを云うことはなかった。
ただ、数回迷ったように口を開こうとして、そうして最後に諦めたように小さく息を吐いた。
「…やっぱり、俺じゃあかんな」
もどかしそうに頭を掻く白石先輩はこれっぽっちも悪くない。
むしろ申し訳なくて謝りたい気分だが、ここであたしが謝るのもおかしな話だ。
白石先輩は優しい。
謙也さんのことを本当に大事にしているのがよくわかるし、謙也さんのためにこんなところまで来てくれる懐の大きさには関心すら覚える。
優しい人。
あたしの好きな人の、親友。
無性に悔しくて悲しくて、どうしようもなくなって。
込み上げそうになる嗚咽をどうにか嚙み殺し、精いっぱいの努力をもって笑顔を浮かべた。
「あたし、白石先輩を好きになればよかった」
そうしたら、こんな想いはしないで済んだのかもしれない。
そんな希望的観測としょうもない願望を乗せて呟いた言葉は、自分で云うのもなんだけど最低だ。
けれど驚いたように目を見開いて、それから馬鹿云いな、と白石先輩は笑って。
一度だけ―――抱き締めてくれた。
暖かくて優しいのに、あたしが求めている人とは違う、この現実が悲しくて仕方ない。
白石先輩。
どうして今あたしを抱き締めてくれているのが、あなたなのだろう。
閉じた瞼に、謙也さんの優しい笑顔が浮かんで、そうして霧のように消えていった。
数日後の終業式、結局あたしは熱をぶり返して出席できないまま年内の学校は終了してしまった。
いろんな人からお見舞いのメールが来たけれど、謙也さんからの連絡はただの一度もなかった。
4.きらめきに誘われて
「はろー」
「………」
「あれ、なんでちょっと怒ってるんですか?」
「別に」
目の前のソファにどっかりと腰を下ろした景吾さんは、明らかに不機嫌だった。別にって顔じゃないくせに、なんで嘘つくかなぁ。
熱はすっかり下がり、今あたしは東京に戻ってきていた。
両親はクリスマスも年末年始も関係なく仕事で忙しくて帰ってこないし、丁度あたしも何の予定もない。
友達たちはそれぞれ彼氏や家族と過ごすと連絡が来ていたから大阪にいてもあんまり意味はなかったので、ならばと東京に足を延ばした次第である。家は前に住んでいた家があるから困らないし、こっちのほうがまだ友達も多い。
ちなみにここは景吾さんの家で、あたしは警備員さんやお手伝いさんたちと知り合いなので顔パスで通してもらえるのである。ここのサロンで出してくれるコーヒーは絶品なのだ。
いつものパーティーの本番は明日で、景吾さんもイブは暇しているのを知っていたのでお邪魔した次第である。だってひとりでいるのヤだったし。
相変わらず不機嫌そうな顔のままだけど、追加でコーヒーとお茶菓子を持ってこさせてくれたってことは、一応滞在を許されたらしい。本気で機嫌悪いと問答無用で追い出されるから、これは一応許可のうちなのだ。
いい香りのコーヒーにニコニコしていると、真正面からの景吾さんの視線が痛い。
これでもかというほどの眼力に挫けそうになるが、ここはぐっと堪える。
「そうそう聞いてくださいよ、この前初めてUSJに行ったんですけどね…」
些か不自然なのは承知で、無理やりテンションを上げて会話を振る。景吾さんはこれで意外と庶民の生活に興味があるから、こういう話は割と聞いてくれるのだ。
が、あ、これはダメだ。
真顔のまま固定されてる。
相槌をくれないのはいつものことだけど、この顔はダメなやつだ。経験上知っている。
しかしここで挫けては意味がないので、折れそうになる心を奮い立たせて話を続ける。
疲れるからやめろってよく云われる、ころころと話題を変えていくスタイルでとにかく話を切らないように頑張ること、数分。
もういくつ目の話題なのかもわからないくらいの話の途中でのことだった。
「それで、そこの店員さんが面白くって…」
「小毬」
人が話しているというのに容赦なく話の腰を折るスタイル、さすが景吾さん。そこに痺れもしないし憧れもしないけど、まさに景吾さんって感じがしていいと思います。
ただ、今はタイミングが悪かった。
景吾さんの顔はいつもみたいに人を小馬鹿にするような表情ではなく、やっぱり真っ直ぐにあたしを見つめていて。
綺麗な綺麗な、コバルトブルーの瞳。
まるでサファイアのようなふたつの瞳に射抜かれたあたしは、何故か視線を合わせていられなくて、思い切り顔ごと視線を逸らした。
「何があった」
そして、この言及。
そこにからかいの響きはない。
視線と同様、真摯に、真っ直ぐにあたしに向けられた問い。
あまりにも真っ直ぐだから、もしかしたらあたしはこのまま視線と問いに射抜かれて死んでしまうんじゃないかなんて考えた。現実逃避だ。
小さく息を吐き出して、気を取り直して一口コーヒーを口に含む。味なんてもうわからなかったけれど、カラカラだった喉を潤すには十分だった。
かちゃり、とカップをソーサーに置く音が、やけに響いた気がした。
そうしてやっと、あたしは景吾さんに向き直ってニッコリと笑顔を作る。
今まで何度も作ってきた笑顔だ、今更意識なんかしなくたって造作もない。
「なんにも」
「嘘をつくな」
が。
何もないのにお前が俺を訪ねてくるはずがない、なんて自信満々に云われてしまい、困って頬を掻く。
参ったなぁ。
…この人には本当に、嘘がつけない。
そういえば昔からそうだった。
初めて出会った頃から、この人は遠慮なく人の嘘を見抜いてきた。
あたしがテニス部ファンに嫌がらせを受けていたこともすぐに気付いて、あたしにバレないようにいろいろと助けてくれていた。それに気付いたのは随分と後のことだったけれど。
スランプに陥って落ち込んでいた時も、展示会で酷い評価をされて自信を無くしていた時も、どんなときも景吾さんは気付いてくれたのだ。
もしかしたら、あたしは気付いて欲しくて景吾さんに会いに来たのかもしれない。
そう考えたらあんまりにも女々しい気がして、余計に落ち込んだ。
けれどここでさらに落ち込んでいたところで事態が好転するわけでもないので、あたしは開き直ってへらりと笑顔を浮かべた。
「振られちゃいました」
笑顔を浮かべるのは得意だ。
笑顔になれば切り抜けられる場面というのはいろいろと経験していたし、ひとまず余程の場合でない限りは相手に不快感を与えることはない。
だから、困ったらとりあえず笑う。
それはあたしにとってひとつの防御壁で、そしてどうしようもない逃げ。
「…は?」
「まぁ、そもそも告白もしてなかったんですけどね。自分じゃない人の方が似合いだって、はっきり云われちゃいまして」
一言発するごとに眉間にしわを寄せていく景吾さんに、さらにへらへらと笑ってしまう。
だって、あたしは今、これ以外にどういう顔をしたらいいのかわからないんだ。
景吾さんの機嫌が急降下している気配を察知しつつ、あたしは続ける。
「で、なんとなーく大阪に居たくなくて、冬休みだし遊びに来ちゃいました。景吾さんだったら、明日は忙しいけど今日はまだ時間あるかなーって思って」
毎年跡部家ではクリスマスに大きなパーティーを開催している。
当然長男である景吾さんも参加は義務で責務。去年のクリスマスはあたしがパートナーとして出席させられていたから、日程はちゃんと把握している。
というかむしろ今年も参加しろ的なことを去年のうちに云われてたんだけど、夏に会った時にキャンセルの旨を伝えられていた。
あの時は深く考えずにホッとしていたけれど、今思えばそのままの予定にしてもらっていたほうが良かったかもしれない。
だって、あたしは明日も予定がないのだから。
今日はイブ。
明日はクリスマス。
何の予定もなく、一緒に過ごす人もいない。
ああ、なんて寂しい人間なんだろう!
いいなぁ景吾さんは、今日は暇人でも明日は昼から準備で大忙しだ。
今のあたしには、少しくらい忙しいほうがずっといい。
余計なことを考える時間がないくらい忙しい日になれば、もしかしたら他のことなんてどうでもよくなるかもしれないのに。
そんなことを考えていたら、鉛筆が挟めそうなほど眉間に深いしわを寄せてしまった景吾さんがぼそりと口を開いた。
「…馬鹿なのか?」
「あはは、ひどーい」
「笑うな」
至ってシンプルな罵倒にケラケラと笑うと、思った以上に真剣な声で怒られた。
思わず笑いを引っ込めて景吾さんを見て―――後悔を、した。
「泣きたいくせに、笑わなくていい」
―――やめて。優しくしないで。
あたしが景吾さんのところにきたのは、振られたって話を笑ってもらって、いつもみたいに馬鹿みたいなやり取りが出来たら気分も晴れるかと思ったからだ。
優しくされたかったからなんかじゃない。
だって、今優しくされたら―――。
「…ほらみろ」
「…さいてい」
ボロボロと両目から溢れる涙の止め方を、あたしは知らない。
目の前にいた景吾さんの姿がどんどん朧気になっていって、涙のせいでよく見えなくなってしまった。
拭っても拭っても、瞳から溢れ出る涙の勢いは止まらず、このまま目が溶けてなくなってしまうんじゃないかなんて他人事のように考えた。
こうなってしまってはもう取り繕う必要もない。
どんな仮面も嘘も通じない景吾さんの前では、だからあたしは素直に吐露出来る。
零れる涙もそのままに、あたしはただ呟いた。
「何が駄目だったんだろう」
あれからどれだけ考えてもわからなかった。
うまくやれているつもりだったのだ。
仲良く過ごせていると思っていた。
そこらのカップルよりも一緒にいたし、分かり合えていると思っていた。
「あたし、待ってたの。待っててって云われたから」
告げられたあの夏の日から、ずっと、ずっと。
あの人の言葉を信じて、訪れるであろう『いつか』を楽しみにしていた。
「だけどそれじゃ駄目だった。だから振られた」
それも、考えうる限りでは一番最悪な方法で。
面と向かってではなく、不可抗力とはいえ立ち聞きした内容で終わりを告げられたのだ。
「あたし、どうしたらよかったの?」
いくら考えても、どう行動するのが最善だったのか、最良だったのか、わからない。
手を伸ばせばよかったのだろうか。
縋ればよかったのだろうか。
待ちたくないと声を張り上げればよかったのだろうか。
信じるだけではだめだったのだろうか。
何を考えても今更で、どうしようもないのに考えずにはいられない。
かけ間違えたボタンの箇所を見つけないことには、きっとあたしは苦しいままだ。
それなのに、わからない。
もう訊くこともできないのだ。
だって謙也さんは、もうあたしを好きじゃない。
そもそも、謙也さんがあたしを好きでいてくれたのか、今となっては信じられない。
あの日の気まぐれ。
あの日からの暇潰し。
―――ああ、だとしたら、あたしは本当に、とんだピエロじゃないか。
あの人がそんな人じゃないのはわかっているのに、どんどん良くないことばかりを考えてしまう。
「…さあな」
立ち上がる気配がして、顔を上げる。
すると景吾さんは、目の前のソファからあたしの隣に移動してきた。
どっかりと遠慮なく腰を下ろし、それから、―――強引に、あたしの頭を抱き寄せた。
突然のことにびっくりして声も出なかったけれど、次に景吾さんが発した言葉に、あたしの声はもっと引っ込んでしまった。
「ひとつわかるのは、お前もあいつも、どうしようもない大馬鹿だってことだ」
その言葉を一度噛みしめて、ゆっくりと飲み込んで。
目を閉じる。
景吾さんの暖かさと、心臓の鼓動が耳に心地よかった。
それから。
「…うん」
頷く。
―――ああ、その通りだ。
なんの抵抗もなく納得して、また小さく笑う。
驚くほどしっくりくる。
なんて簡単で簡潔で、簡素な言葉。
だからこそ余計に、胸に沁みる。
「あたし、本当に馬鹿だった」
涙が零れる。
室内だというのに頬も手も身体も冷たくて、ああ、本当に終わってしまったのだと今更ながらに実感する。
馬鹿だった。
何がということもなく、ただただ、馬鹿だったのだ。
だけど景吾さんに話したおかげで少しスッキリした。
泣いたのはあの日の放課後以来だったからかもしれない。
やっぱり人間は泣くとストレス発散になるのだ。
こんなことならもっと早くここに来ていればよかった。
景吾さんは普段はちっとも優しくないのに、こういうときだけはちゃんと優しいから心底嫌いにはなれないのだ。ずるい。
心は痛い。
胸が張り裂けそうな寂寥感もなくならない。
謙也さんを想うと、これまでの楽しかった思い出が溢れてきて、その温かさと現実の虚しさに押し潰されそうになる。
けれど、これはきっと時間が解決してくれるだろう。
そう思えるようにはなった。
悲しいのは今だけだ。
辛いのも今だけだ。
苦しさだって続かない。
少し我慢すれば、きっと平気になる。
だからあたしは、もう大丈夫だ。
思い出というきらめきだけを残して、あたしは前に進まなければ。
5.冷たい手でもいいよ
白石の携帯に電話があったのは、クリスマスイブの日の夜だった。
しかし特に意中の女の子からというトキメキ感溢るるものではなく、画面を見つめてしばし考えた。
このタイミングで今日という日にこんな人物からの電話である。
嫌な予感…というか、何の話になるか予想がついて微妙に迷う。
が、ここで出ない、というのもまたややこしいことになりそうな気がして、諦めた。
出るしかない。
「はいはい、こちら白石」
『あのあほんだらは何をしとんねん』
電話の向こうにいる忍足侑士は静かにキレていた。
予想しておいて本当に良かったと思う。何の心構えもなくこの静かな激怒を受け止められるほど白石の心臓は強くはない。オリハルコン製ではあるけれど、グングニルに相当する殺傷能力を持つ忍足の言葉の刃の前にはプラスチック同然である。
引きつる頬もそのままに、しかし一度ゆっくり深呼吸をして息を整える。それから、電話の向こうのもうひとりの忍足にやんわりと声をかけた。
「あー、侑士くん、落ち着いてな」
『これが落ち着いていられるか。ちゅーか俺の前に巴がヤバいねん』
「え、なんで?」
『今謙也見たら確実に犯罪者になりそうな目ぇしとる』
怖すぎる。
ついでに折角のクリスマスイブだというのに彼女がそんな状態では忍足も気の毒だが、それに巻き込まれている自分もなかなか不運だと思う。まぁ白石の場合は進んで巻き込まれているところがあるのだけれど。
というか一度しか見たことはない忍足の彼女がそんな人間だなんて知りたくなかった。夏に遠目で見た限りでは非常に美人で、まさに大和撫子という表現がぴったりの彼女だったのに。
しかし何故か彼女が怒ると恐ろしそうだということは容易に想像できて、電話でよかったと心底ほっとした。大阪まで乗り込んでこられたら、きっと自分は説明や釈明をすべて放棄して謙也を差し出して逃げ出しただろう。
そんな友達甲斐のない人間にならずに済んだことを少なからず安心したのもつかの間。
なぁ、と改めて呼ばれて。
『何があったか、まるっと全部話してや』
…どっちみち、謙也に未来はないのかもしれない。
下手なことを云えば自分にまで被害が及びそうだと直感した白石は、包み隠さず話してしまうことにした。
それにどうせ、白石が知っていることと云ってもたかが知れている。
けれど、あの日、あの時、白石はあの場に居合わせてしまっていたから。
夏からこの冬にかけてのあのふたりのことを詳細までは知らないが、少なくとも、あの時のことだけは鮮明に知っているから。
「…あんま気ぃ進まんけど、しゃーないな」
本当に気が重い。
こじれにこじれて、うまくいくだけだったはずの関係が崩れていく様を、多分白石は誰よりも近くで見てしまった。
後悔をしていると云うのは語弊があるだろう。だってきっと、何もしなくても後悔した。
けれど考えずにはいられない。
自分が取った行動は、果たして最善だったのだろうか。
あるいは、最良であれたのだろうか。
もっと他に手があったのではないかと考えてしまい、しかし何度考えてもああする以外の方法を見つけられず、存外固い自分の頭にがっかりした。
こんなとき、金色や一氏あたりならもっといい手を考え付いたのだろう。
そんなことを考え、白石は小さく自嘲した。
自分は、周囲が思っているほど完璧なんかじゃない。
親友の一大事すら助けてやることの出来ない、どうしようもないほど普通の中学生なのだ。
そして、白石はゆっくりと口を開く。
恐らく当事者ふたりと自分しか知らないであろう問題を。
目を閉じると、まざまざに浮かぶ、あの情景を。
遠い東の地で、自分と同じようにあのふたりを案じる忍足に、―――自分勝手な願いを込めて。
+++
それは、忍足が白石に電話を掛ける前。
少し時間を遡ってクリスマスイブの夕方のことだった。
「―――小毬ちゃん?」
「へっ」
跡部の家を出ても家に帰る気にはなれず、適当に街をふらついていた小毬は、懐かしい声に思わず振り向いてしまった。
少し後ろから小毬を驚いたように見つめているのは、声の通りの人物だった。
忍足と、その彼女である巴。ともに小毬が心から敬愛する先輩で、普段だったら突然の再会には両手放しで喜んだだろう。
しかし、よりによって、今日このタイミング。
ふたり並んで小毬を凝視しており、少々居心地が悪かった。
「え、嘘、なんで小毬ちゃんがこっちにいるの?」
「あ、あはははー…」
「もう、連絡くれたらよかったのに!」
「えへへ、す、すみません」
頬が引きつらないようにするのが大変で、思わず小毬は自分の頬を引っ張った。こうでもしなければきっとひどい顔を晒すことになってしまう。
一応あまり知り合いがいなさそうな場所を選んでいたはずなのに、失敗した。
そういえば今日はクリスマスイブで、この辺りは都内でもイルミネーションが有名だ。もともと小毬たちが住んでいた場所からは若干距離があるが行けない場所ではないのに、それを失念していた。ここは人気のデートスポットだったのに。
しかも、よりによってこのふたりに見つかってしまうだなんて。
出来れば、このふたりにだけは会いたくなかったのに。
自分の浅慮さを後悔している小毬を見て――もちろん彼女の思考までは読んだわけではないけれど――、巴と同じように驚いている忍足も首を傾げた。
「謙也はどないしてん? もしかして一緒に来とるんか?」
焦ってどうやってこの場から逃げ出せるか考えていた小毬は、普段なら気付けたことにまったく気付けなかった。
多分、誰が見ても先日までの小毬と謙也はセットだった。
どちらかに用事がない限りは一緒にいるイメージがついていただろう。
しかも、一緒に出掛けたことのある忍足や巴にしてみれば余計にそのイメージがついていたに違いない。
だから、ノーガードでその忍足の疑問をぶつけられて、咄嗟に反応できなかった。
思わず逸らしていた顔を上げて忍足を見つめてしまい、それから咄嗟に逃げるように視線を逸らして。
「あー、えーっと…」
これでは怪しんでくれと云っているようなものである。
「…小毬ちゃん?」
巴の声は怪訝そうだった。
それはそうだ、そうさせるだけの材料を与えてしまったのは小毬なのだから。
これはきっと、誤魔化せない。
それに、どうせ自分がこのふたりには嘘を付けないことを小毬は気付いていた。
巴と忍足はそれ以上の疑問を口にはしなかったけれど、視線ははっきりと問いかけている。視線をそらしていようと、それくらいはわかる。
気は進まない。
ついさっき跡部に告げてきたばかりで、また同じことを平然と口に出来るほど小毬の心は強くない。
けれど。
一度きつく拳を握り締め、心の中で自分を鼓舞して、小毬は顔を上げた。
「あた、あたし、実は振られちゃいまして!」
あっけらかんと―――しようと、したのだろう。
その努力は認めるが、残念ながらその努力は実らなかった。
「…は?」
笑おうとして失敗したように口を歪める小毬を、巴と忍足は茫然と見つめた。
小毬の云ったことが理解できなくて思わず顔を見合わせてしまったが、お互いわかっていないことしかわからない。
ふたりが何も云わないのをいいことに、小毬は相変わらずへたくそな笑顔のまま続ける。
「それで大阪にいても予定ないし、景吾さん構ってくれないかなーと思ってこっちに遊びに来てたんですよね」
「ちょ、ちょっと待って」
「さっきまでは景吾さんのところにいたんですけど、明日の打ち合わせとかで景吾さんバタバタし始めたからお暇してきたところで、どうせ暇なのでちょっと散歩でもしよっかなって思ってて」
「小毬ちゃん…」
「あ、巴先輩と忍足先輩はデート中ですよね? お邪魔しちゃってすみません、ではあたしはこれで!」
シュバッと手を上げて、小毬はふたりにくるりと背を向ける。
…そろそろ、限界だった。
「ま、待って、小毬ちゃん!」
しかし小毬は巴の制止も聞かずにこの場を離れようとする。
ちらりとも振り返りもしようとしないあたりに小毬の余裕のなさが伺えてしまい、思わず巴は舌打つ。
あまりにいきなりすぎる展開に驚いているし、聴きたいことは山ほどあるけれど、それより何より結果が気に入らない。
―――振られた?
―――小毬ちゃんが?
―――どうして!
そもそも、自慢ではないが巴は自分が小毬にこれ以上ないほど好かれている自負がある。そして巴自身も小毬を一番可愛い後輩だと思っている。
そんな小毬が、自分の制止を振り切って逃げ出そうとするような事態になっていることが、とんでもなく気に食わない。
「待ちなさいったら!」
走り出しはしないものの、可能な限りの早歩きでふたりのもとから去ろうとする小毬の背中を追いかけ、その手を掴む。
さすがに立ち止まりはしたが、それでも小毬は巴を振り返ろうとしない。
こうなった原因は謙也だ。
そう考えるとむかっ腹が立って仕方ない。
八つ当たりを自覚しつつ、巴は堪らず声を上げた。
「もう、どうしてあなたはいつもそうなの!」
「そう、って…」
掴んでいた手を一度放し、改めて身体を自分のほうに向けて正面から小毬と向かい合う。
小毬は俯いて足元に視線を落として、頑なに巴を見ようとはしない。
いつもどんなことにも正面からぶつかっていく小毬なのに、こんなにも逃げることが腹立たしくて仕方がなかった。
イライラが頂点に達した巴は、両手で小毬の頬を包み込んで無理やりに顔を上げさせ、自分と視線を合わせて。
「泣きたいなら泣けばいいのに、どうして我慢するのって云ってるの!」
唇を嚙みしめて、眉間にしわを寄せて。
つつけばすぐにでも泣き出しそうな顔をしているくせに、小毬はそれでも泣こうとしない。
我慢しようとする。
無理矢理にでも笑って、やり過ごそうとする。
それだけは小毬の悪い癖だと巴は思う。
何か辛いことや困ったことがあるときこそ小毬は笑う嫌いがあることにはとっくに気付いていた。
けれどそれが小毬なりの自己防衛なのだということもわかっていたからこれまで指摘することはなかったけれど、今は駄目だ。
こんな場面でまで、こんなときまで無理に笑うのは、そんなのは自己防衛ではない。
いたずらに自分を傷付ける、ただの凶器だ。
しかも性質が悪いことに、その凶器が傷付けるのは身体ではない。
最悪、身体の傷なら時が癒してくれるだろう。
しかしこの場合、傷付けるのは心だ。
心の傷は、放っておいても治らない。
むしろ悪化してどうしようもなくなることのほうが多いし、目に見えないから傷に気付くことも出来ないことがあるから厄介なのだ。
巴の視線を真っ向から受けてしまった小毬は、もはや逃げることは出来なかった。
彼女の手を振り払うなんてことは考えられなかった。
…自分を見つめる巴の目にある暖かさと優しさに気付いてしまったから。
気付いた瞬間、一気に目元に水分を感じた。鼻がツンとして痛かった。
震える手をのろのろと動かして、自分の頬に触れる巴の手に、触れる。
暖かかった。その手の暖かさに、今更ながら自分の手の冷たさを自覚した。
声を出そうとしてうまくいかず、何度か掠れるだけの吐息を漏らし、やっと出た声は、思った以上に震えていた。
「折角のクリスマスなのに、ふた、ふたりの邪魔したくないし」
「そういうことじゃないわよ」
「ふ、振られたのは、あたしのせい、だし」
「そんなわけないでしょ」
「泣いても、もう、意味なんかないし」
「なんでそう思うの」
その問いに小毬は答えない。
わからない、とばかりに小さく首を振るだけだ。
実際、考えてもわからないのだろう。
何故なら小毬の心は傷付きすぎている。
悲しいなら泣いてもいい、そんな当然のことを忘れてしまうくらいに、傷付いているのだ。
誰も責めはしないのに、誰かに遠慮することなんてないのに。
我慢して取り繕うことに慣れてしまった小毬は、悲しさを発散する方法すらも忘れてしまった。
今、巴の心中には沸々と怒りが湧いていた。
小毬に対してではなく、もちろんこの場にはいない謙也に対してである。
何があったか確認する必要があるだろう。場合によっては、事情を知っているであろう跡部や白石あたりも問いたださなければならないかもしれない。手段は択ばない。
そんな少々物騒なことを考えつつ、しかし思いは億尾にも出さず、小毬の頬を優しく撫で、巴はにっこりと微笑んで云う。
「女の子はね、悲しいときは泣いてもいいのよ」
「酷い男女差別を見た気分や」
「黙ってて」
「はい」
「あなたね、こういうときこそ空気読んでよね」
「怒らんといてや」
いつもと変わらない、小毬が知っている、いつもの巴と忍足のやり取り。
それを傍で見ているのが好きだった。
いつか自分も、こういう他愛ないやり取りが出来る相手が出来たらと思っていた。
理想だったのだ。
巴と忍足の関係は、小毬にとって一番身近な理想だった。
想い、想われ、寄り添って歩ける相手が、欲しかった。
―――得られたと、思っていた。
そう考えた途端、堪らない気持ちになって、小毬はくしゃりと顔を歪ませる。
「巴先輩」
「なぁに?」
喉の奥から絞り出されたような掠れた声に、巴の心がズキリと痛んだ。
小毬のこんな声は聴いたことがない。
悲しくてたまらないのだと、声が、顔が、態度が語っている。
思わず自分が泣き出しそうになってしまい、巴はぎゅっと唇を噛みしめて耐えた。
小毬が泣いていないのに自分が泣くわけにはいかないからだ。
それから理性と精神力を総動員していつも通りの穏やかな笑顔を浮かべることに成功すると、それを見た小毬はホッとしたように、続けて小さく呟いた。
「…胸が、痛いんです」
ゆっくりと、小毬は自分の心臓の上に手を当てる。
そこには今も正しく脈打つ心臓があって、特に胸の病気なんて患ってはいないのに、今でもずっと、確かな痛みがあった。
―――まるで、胸にナイフでも突き刺さったような、鋭利な痛さが、あの日から消えてくれない。
「あの日、謙也さんの言葉を聴いた瞬間からずっと、胸にぽっかり穴が開いたみたいで、そこから今までの思い出が逃げていくような気がして」
目には見えないものたちが、次から次へと自分の身体の外に出て行ってしまって、最終的には何も残らないような、そんな恐怖感があった。
「諦めなきゃいけないのに、もう望みなんてないのに」
あの言葉は、終わりの言葉だった。
希望なんて持てないくらい、最終の言葉だった。
悲しいくらいに無慈悲な、終焉の言葉だった。
―――だけど。
「あたし、まだ謙也さんが好きで」
吐露してしまえばそれだけのことだった。
どんな言葉を重ねても、どんな葛藤があろうとも、つまるところ、自分はあの人が好きというだけの話で。
嫌いになってしまえたらよかった。
他の人を好きになれたらよかった。
そうしたら、こんなに苦しい気持ちなんて知らずにいられたかもしれない。
世界にはたくさんの人がいて、あの人はその中でたまたま出会っただけの人だったのだと割り切れたらよかったのだ。
けれど、出来ない。
何故なら小毬にとって好きな人は、謙也ただひとりなのだ。
絶望的な言葉を向けられても好きなのだ。
誰かを好きになりたいのではなく、誰かに好かれたいのではなく、小毬はただ、謙也を好きでいたいし、謙也に好かれたい。
たったそれだけのことなのに、現実は無情で、ままならない。
もう、その願いは叶わない。
その事実が、どうしようもないほどに胸を突く。
涙が止まらない。
跡部のところで流しつくしたと思ったのに、存外人間は泣けるものだと他人事のように考えた。
本心を吐露し、静かに涙する小毬を、巴はたまらず抱きしめた。
抱き締めた腕の中で、小毬は小さくしゃくり上げていた。
こんなのは、悲しすぎる。
小柄な身体に与えるには、あまりに悲しすぎる話だ。
「―――いいのよ」
されるがまま、おとなしく抱きしめられる小毬を遠慮なく力いっぱい抱きしめながら、巴は呟く。
「好きなら全部、しょうがないんだから」
そう、仕方ない。
誰かを好きになるのも、―――その人に、愛されないことすらも。
それから小毬は、あの日から初めて、声を上げて泣いた。
ここが東京で、謙也がいるはずがないということが余計に悲しくて、泣いた。
抱きしめてくれる巴の暖かさが嬉しくて、静かに頭を撫でてくれる忍足の優しさが嬉しくて、子供のようにわんわんと泣いた。
この声は届かない。
どこにも、誰にも。
東京の冬の空にとけて、そうして、跡形もなく消えていく。
+++
暖かくなくてもいい。
冷たくてもいい。
ただ謙也さんの手に触れたかった。
諦めようと思った。
諦めねばならないのだと思った。
そうでなくては胸が押し潰されてしまいそうで、どうにか逃げ道を作らなければあたしは壊れてしまうと思ったから。
そのために景吾さんまで利用して決意をしたはずだった。
笑い飛ばしたかったなんて嘘だ。
あたしは、あたしのこのどうしようもないほど愚直な恋心に決別するために景吾さんのところへ行った。
あの人ならそうしろと云ってくれると思ったから。
そして、そうしてほしいあたしの意図をあの人なら組んでくれるとわかっていたから。
結果的にやっぱり景吾さんはあたしの望むような言葉をくれた。
だから、
苦しいけれど、
辛いけれど、
切ないけれど、
痛いけれど、
諦める理由を他人に押し付けることが出来たのだ。
それなのに。
巴先輩は、忍足先輩は、それを許してくれなかった。
優しくて厳しいこのふたりは、他人を理由に諦めることを許してくれず、やんわりと、けれど強固に、自分の中にある本心と向き合うことを強いてきた。
だから、結局、あたしはあたしの本心と向き合ってしまったから。
―――だって、諦めようとしても、忘れようとしても、結局のところ、あたしはどうしようもないほどに。
6.寒いのは冬のせい
冬休みでしかもクリスマス当日だというのに、朝っぱらから謙也は学校でプリントに向かっていた。
先日行われた確認テストの結果があまりに散々だったから、呼び出しを食らったのである。
あの日、小毬が走り去ってから。
あれ以来ずっと謙也は心ここにあらずといった状態で、まったく使い物にならなくなっていた。
声をかけても上の空、よしんば返事をしても感情のないただの相槌。友人同士でのことならいいのだが、あいにくこれが授業中も続いていたのだ。
さすがにこれは白石であってもフォローしきれない。
事情を知っているだけに同情はするが、だからと云って白石に何かができるわけではないのだ。
ただし謙也ひとりではプリントも片付けられないと踏んだ担任に、白石はお目付け役を命じられた。
お陰様で、聖なるクリスマスの朝に男とふたりきりで教室に籠っているわけである。
いい迷惑だがどうせ予定はないのだし、ついでにこの際はっきり確認しておきたいことがあったので丁度いい。
遅々として進まないプリントも漸く半分ほど埋まったところで、白石は切り出した。
「なあ、このままでええんか?」
前置きはない。
主語も何もない。
それでも、今このタイミングで出る話題なんて限られている。
しかし謙也はプリントから顔を上げようともせず、不正解を書いては消し、書いては消しを繰り返していた。
これにはさすがの白石もカチンときて、プリントを取り上げる。どうせやらないのなら取り上げても同じことだ。
「謙也」
「…なんやねん」
白石を睨め付ける謙也の目は澱んでいる。一目で寝不足だとわかる目だ。
どうせあの日からまともに寝ていないのだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
「津々井のことや」
名前を出すと、謙也はピクリと肩を揺らした。
けれど大きなため息を一つ零して。
「…もうあかんやろ」
「何もしてへんくせによぉ云うわ」
どこまでも投げやりな態度の謙也に、白石は容赦しない。
ずばりと云い捨てて、改めて正面から謙也を見据える。
逃げを許さない白石の視線に捕まった謙也は、目をそらすことが出来ずに唇を噛みしめた。
白石のことは尊敬しているが、こういうところが苦手でもあった。
とにかく謙也は自信がない。
容姿、頭脳、それからテニス。
どれもそこそこだとは思うが、どれもこれも自分以上の誰かがすぐ傍にいるから、自信なんてこれっぽっちも持てなかった。
だからと云ってその誰かに嫉妬するわけではないのだけれど、いざ比べられたりすると途端に消えてしまいたくなる。
特にそこに小毬が絡んだときは顕著だ。
白石は完璧だ。
容姿も頭脳もテニスも、性格だって誰もが認める人格者。
そんな白石が誇らしくて、誰彼構わず大声で自慢したくなるのは事実だ。
自分が小毬を好きだという自覚はとっくの昔にあって、気持ちを伝える機会はいくらでもあった。
けれどそのたびに、ふと脳裏を過るのが白石で。
―――小毬の隣に相応しいのは、自分ではないのではないか。
―――白石のほうが、ずっと。
そんなくだらないことを考えてしまう自分すらも嫌だったが、どうしても考えてしまうのだから仕方がなかった。
小毬は最近では『女版聖書』などと呼ばれるくらい眉目秀麗才色兼備で、白石と並んでいるととても絵になる。
一度、校門前で白石と小毬が話している場面を目にしたことがあった。
そのとき、傍にいた生徒が話していたのだ。
『白石くんと津々井さんって、ああしてるとお似合いのカップルみたいやね』
胸が痛んだ。
だって、その通りだと思ってしまった自分がいたから。
小毬の隣にいたいと望んでいるのに、自分以上に彼女の隣が似合う人物がすぐ傍にいるのがこんなにつらいとは思わなかった。
もし、もしも白石が―――実は小毬を好きだなんて云ったら。
どこまでも後ろ向きに考えてしまって、あと一歩が踏み出せないまま気付けば季節は冬になっていた。
そうして自分の中に澱のように溜まっていた感情を、耐え切れずに白石に吐き出していたのを、小毬に聴かれてしまったのがつい先日。
うそつき、と泣いた小毬の背中を追う資格なんて、自分にはないと思った。
傷付けた。
泣かせた。
小毬は失望して、もう愛想を尽かすだろう。
追いかけて拒絶されたらきっと自分は立ち直れない。
そう考えたら恐ろしくて、とてもじゃないが追いかけられなかった。
結局、自分が可愛かったのだ。
自分が傷付きたくないから、小毬を傷付けたことを棚に上げて逃げた。
そんな自分が今更小毬の隣を望むなんて。
言い訳だけがあとからあとから降りてきて、よくもまぁ考え付くものだと謙也は我ながら感心した。自分がここまで最低な人間だとは思わなかった。
自己嫌悪で死にそうになっていると。
―――バンッ!
白石が掌を机に叩きつけていた。
非常に痛そうな音がして思わず顔を上げて、そして。
「謙也がいらんなら、俺がもらうで」
「は?」
目が落ちるかと思った。
顎が外れるかと思った。
まじまじと見つめてしまった白石は冗談を云っている風ではなく、まるでテニスの試合中のように真剣な目をしていて、更に絶句した。
そんな謙也には構わず白石は続ける。
「津々井は可愛いし、ええ子やからな。正直俺かて嫌われとる気はせんし、意外に告白したらオッケーしてくれるかもしれんやろ」
「な、ちょ、ちょぉ待ちや白石!」
血相を変えた謙也を、白石はしれっと見返した。
「なんやねん」
「じぶ、自分、ほんまに小毬のこと好きなんか!?」
白石はなんとか舌打ちを堪えることに成功した。
少し冷静に考えればわかりそうなものだ。
確かに白石は小毬を好きだが、それは後輩としてだ。
頭も器量もよく可愛らしい小毬を好く理由なら山ほどある。
だが、それだけだ。
白石が小毬に向ける感情に、友愛以上のものはない。
そんなこと、隣にいた謙也にはわかっているだろうに。
思い切りため息をついてやりたいところだが我慢して、白石は目を細めて極めて自然に問う。
「好きや云うたらどないすんねん」
「!」
「もう関係あらへんねやろ。俺が津々井を好きでも好きやなくても、謙也にはどうでもええことやんか」
ハッとする。
確かにそうだ。
自分は小毬には相応しくない、白石のほうが似合いだと気付いたばかりじゃないか。
その白石が本当に小毬を好きならばそれは迎合すべきことで―――。
―――なのに、どうしてこんなにも胸がざわつくのか。
真っ直ぐに向けられる白石の視線を受け止めながら、謙也は拳を握り締めた。
祝福しなければ。
白石は誠実な男だ。その白石が告白すると云ったのだから、それは小毬を好きだということに他ならない。
似合いのふたりが隣に並ぶ。
大切なふたりが一緒になる。
それは確かに素敵なことで。
―――けれど。
「あかん」
気付いたら、そう口走っていた。
「何がや」
白石はあくまで冷静に、淡々と首を傾げる。思わず目を細めてしまったのは仕方ないと諦める。きっと今の自分はひどく剣呑な顔をしているに違いない。
するとそんな白石にはこれっぽっちも気付かない謙也は、前のめりになって叫んだ。
堪え切れない、と顔に書いてあった。
「小毬を好きなんは、俺や!!」
「だったらなんでさっさとそう云わんかったんや!!」
「ッ!!」
その白石の剣幕に、謙也は躊躇いた。
まさかそう返ってくるとは思わず呆気に取られていると、白石は立ち上がって謙也の胸倉を掴み上げた。
もういい加減、我慢の限界だった。
自分から手放したくせに、そもそも手を伸ばそうともしなかったくせに。
自らの意志で隣にいてくれた子が他の誰かの手に渡りそうになった途端に焦るなんて、都合が良すぎる。
謙也のことは大事だが、小毬のことも大事だ。
今の白石には、謙也の味方をするという選択肢はなかった。
だって、白石は見てしまった。知ってしまった。
「見舞いに行ったとき、泣いてたんやで」
あの日、あの時。
もういいのだと、諦めたように云った小毬の目に涙は浮かんでいなかった。
けれど、彼女は確かに泣いていた。
「俺じゃ謙也の代わりになんかならんって、泣きながら笑っとったんやで!」
涙を流すこともできず、誰かに当たり散らすことすらも出来ず、ただすべてを自分の中に押し込めて。
泣きそうな顔で、小毬は必死に笑っていたのだ。
それを目の当たりにしてしまった白石は、後悔した。
冗談でも、自分が謙也の代わりだと云ってしまったこと。
代わりになどならないと、彼女に云わせてしまったこと。
それから―――あの日、小毬に会いに行ってしまったこと。
「謙也が色んなもんに劣等感抱いて、悩んで考えて告白せんかったことは知っとる。けどな、津々井はそんなこと知らんでずっと一途に謙也のこと待っとったんや」
白石はずっと傍にいた。
謙也の隣、この春に小毬がやってきてからずっと。
並んで笑っているふたりのことが好きで、そんなふたりの傍にいられることが嬉しくて。
なかなかくっつかないふたりが、けれどその時間すら楽しんでいるのならば白石にとっては見守るべきことだと思っていた。
白石にとって謙也は大切な友人で、一番の親友だ。
少し考えなしで真っ直ぐすぎる嫌いはあるが、素直で優しくて太陽みたいに明るい謙也のことが、羨ましくて眩しくて、それから少し憧れていた。
どれもこれもとてもじゃないが白石には真似できないからだ。
白石にはこれまで白石蔵ノ介として生きてきた形があって、それを否定したり後悔しているわけではない。
それでも白石は謙也が羨ましかった。
どんな感情でも素直に臆面なくさらけ出せる謙也が羨ましかったのだ。
だから、そんな謙也を好きになった小毬の気持ちがよくわかった。
少しだけ不器用で、素直になり切れない小毬にとって、謙也の底抜けの明るさと真っ直ぐさは魅力的だったのだろう。
そして、よく突っ走りがちになる謙也にとっては、小毬のようによく考えて行動する性格がちょうどバランスが取れている。
それから、お互いがお互いのことを大切に思っていた。
出会った当初に何があったのか、細かいことまでは白石は知らない。
けれどそれがきっかけでふたりは親密になり、お互いを大切に思えるようになったはずなのだ。
さっさとくっついていればこんなことにはならなかったのに、それを、謙也がつまらない意地なんて張ったからこんな複雑な事態になってしまった。
それが許せなくて、見守りに徹するつもりだった白石がこんなに出しゃばる羽目になったことも腹立たしい。
好きなら好きと云えばいいのに。
返事なんてわかりきっているのに。
我が親友ながら、謙也は本当に馬鹿だと思う。
云いたいことをぶちまけてすっきりした白石を、謙也はぽかんと見つめたまま抵抗もせずに固まっていた。
ここしばらくの鬱憤を晴らした白石は、やっと掴み上げた胸倉を乱暴に解放し、そして胸にトンと拳を当てる。
「いい加減、ちゃんと捕まえたりや! 男やろ!!」
知っている。
傍にいたから。
わかっている。
彼女を見たから。
―――小毬はずっと、謙也を待っている。
多分、あんなことがあった今でも。
普段は沈着冷静で、滅多なことでは声を荒げない親友の激昂に、謙也はただただ圧倒された。
混乱する頭は、しかしどこか冷静で、次々と吐き出される白石の言葉すべてを拾って、淡々と理解した。
白石の云っていることは正しくて、そして自分はどこまでも馬鹿だったのだと痛感する。
泣き出したい気分だった。
後悔で心臓が潰れそうだった。
けれど今の自分には泣く資格すらないのだとわかっていた。
泣くのも後悔するのも、全部後回しだ。
「…おおきに、白石」
白石がいてよかったと心底思う。
こんなにも自分たちを気にかけてくれる、自分たちを想って叱ってくれる存在がありがたくてたまらない。
どうしてこんな相手にやきもちや劣等感を抱いていたのか、本当に自分の卑屈さにはほとほと呆れる。
情けなすぎて泣きそうになっていると、ニヤリと白石が笑って云った。
「振られたら、年末は俺主催で残念パーティー開催やで」
「怖いこと云いなや…」
嫌な提案に謙也は震えあがり、顔を見合わせたふたりは、それから堪え切れないように噴出した。
漸く、胸のつかえが取れた気がした。
問題はまだ解決していない。
謙也が小毬を傷付けたことも、小毬が泣いた事実も消えない。
だけど、やっとこれで前を向ける。
謙也は、小毬を追える。
「あ、ちなみに今津々井は東京行っとるからな」
「はい!?」
「それからこれ、津々井の東京の家の最寄り駅な。健闘を祈っとるで!」
いい笑顔でサムズアップされて、思わず自分も同じポーズを返しつつ謙也は思う。
―――どこ情報やねん…。
正直答えはひとつしか浮かばないのだが、それが正しければ結構大事になっているうえに、最悪な事態になっている可能性が高い。
自分が蒔いた種ではあるが、これから起こるであろう事態を想定して早速逃げ出したくなった謙也である。
「…東京……」
呟いて、それから謙也は走り出す。
そんな謙也の背中を、白石は呆れたように見送った。
提出しなければならないプリントのことも忘れるくらい小毬のことしか考えられないくせに、今まで何をもたついていたのか。
うまくいって帰ってきたら散々つついてやろうと白石は思いつつ、さて、半分空白のプリントはどうしたものかと途方に暮れた。
一度家に戻って準備をしたら、すぐに新幹線に飛び乗ろう。今から向かえば昼過ぎには東京に着くはずだ。
今更行ったところでどうにかなるかどうかなんてわからない。
携帯電話の電源は切っているようで連絡もつかないから、うまく会えるかどうかもわからない。
だけど、行かなければならないと思った。
会わなければならないと思った。
だって、自分は小毬に―――何も伝えられていないのだから。
+++
「どの面下げて追ってきたの?」
新幹線で東京まで行き、在来線を乗り継いで白石に教えられた小毬の前の家の最寄り駅までやってきた謙也を待っていたのは、改札の目の前でどう見ても怒髪冠を衝いている巴と、彼女の後ろに静かに控えている従兄だった。
今更何故、なんてことは考えもしないが――白石が忍足に連絡したことくらい想像がつく――、後ろ暗いところがあるために怯えてしまうのは仕方ないことだと思いたい。
「巴、ステイ」
「侑士は黙ってて。私、すごく怒ってるの」
巴は黙っていれば絵に描いたような大和撫子だが、敵視したものに対しては容赦がないことを謙也は知っていた。夏のプールでの体験は、自分が対象だったわけでもないのにそこそこのトラウマになっている。
改札を出た直後に捕まり、問答無用で駅の隣にある緑地公園に引きずられてきた。クリスマス当日なだけあって、人は少ない。これがいいことなのか悪いことなのか、今の謙也には微妙なラインだった。
夏以来初めて顔を合わせる巴は、怒っているという言葉が可愛く見えるほど怒っていた。見ただけでわかる。
顔の造形は非常に美しい巴の怒った顔は、美しいだけに迫力がすごい。
謙也はまるで蛇に睨まれた蛙のように蒼くなって固まっていた。
胸倉こそ捕まれていないが、巴は今にも殴り掛かかりねない勢いで謙也をビシリと指さした。この際人を指さすのは行儀が悪いなんて云ってられない。
「云ったわよね、私。小毬ちゃんを泣かせたら許さないって」
「…おん」
それは夏に小毬、巴、忍足、謙也の4人でプールに行った時のことだ。
小毬が飲み物を買いに行き、忍足がトイレに立って、丁度巴と謙也がふたりになった時、巴が謙也に云ったのだ。
小毬が写真部に入部した時から巴は小毬を可愛がっていた。年の離れた兄しかいない巴にとって、小毬は妹のような存在で目に入れても痛くないほどに可愛い存在だった。
そんな小毬が、誰かを好きになったのだ。
たまたまその相手が自分の彼氏の従弟だというから、もしかしたらそう遠くない未来に親類になれるかもしれないとはしゃいでいた。
いつもキラキラとした目で自分を慕ってくれる小毬が可愛くて仕方がなかった。
姿を見つけると寄ってきて、こちらから話しかけると嬉しそうに笑顔になる小毬はまるで子犬のようで愛らしかった。
こんな可愛い後輩に懐かれて嫌な気分になる人間はきっといない。
努力家で真面目でひたむきな小毬を、巴は本当に大切に思っていた。
だから、彼女には幸せになってもらいたい。
笑顔が一番似合う子だから、いつだって笑っていてほしい。
涙なんて似合わないから、泣いてる暇もないほどに楽しく過ごしてほしい。
それなのに。
巴は震える拳を思い切り握り締める。少し掌に痛みが走った。爪が食い込んだのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
「好きじゃないなら仕方ないと思う。好きじゃないのに付き合えなんて、いくらなんでも云わないわ。だけど謙也くん、あなたはそうじゃないでしょ? あなたは小毬ちゃんのこと、好きだったんでしょ?」
―――泣かせないでよ。
―――悲しませたら許さないから。
そう釘を刺した巴に、あの日謙也は、驚いたように目を見開いてから神妙な顔になって頷いたのだ。
任せてくれと、はっきり云ったのだ。
好きじゃないのなら、あんなことは云わないで欲しかった。
だって、安心してしまったのだ。
この人でいいのだと思ってしまった。
小毬が好きになった人が、この人で良かったと、安心してしまったのだ。
それなのに、あれからまだ数ヶ月しか経っていないのに、小毬は泣いていた。
たくさん傷付いて泣いていた。
世間はクリスマスイブで、本当なら幸せに笑っていなければならないのに。
許せなかった。
一度は信じた、自分の彼氏の従弟。
謙也がこんな日に小毬を泣かせているという事実が、どうしようもないほどに腹立たしかった。
お前に関係ないと云われてしまえばそれまでだ。
事実、巴は当事者ではない。
付き添ってきている忍足だって、謙也の従兄ではあっても、謙也と小毬の恋模様にまで首を突っ込む権利はない。
他人事だと、切り捨てられたら仕方ないのかもしれない。
けれど、だけど。
―――大切な人たちの幸せを願うことは、余計なお世話なのだろうか。
「…ちゃう」
「は?」
「好きだったんと、ちゃう」
ずっと黙って巴の話を聴いていた謙也は、俯けていた顔を、漸く上げた。
何を、と激昂しそうになった巴は、しかしその前に謙也が発した言葉に、息をのんだ。
「今でも好きや」
過去形、ではなく。
―――今でも好きなら。
「……ッ、だから、だったらなんで泣かせるのよ!!!」
あの子が好きなら。
あの子だけは、泣かせてはいけないのに。
謙也は、小毬が好きだ。
その事実は、たったそれだけの言葉が、それを知った巴は、こんなにも胸を締め付けられるほどに嬉しい。
どうしてこの場に彼女がいないのだろう。
一番にこの言葉を聴かなければならないのはあの子なのに。
早く聴いてほしい。
それから、目一杯、幸せそうに笑ってほしい。
謙也は真っ直ぐに巴の目を見ていた。
さっきまではずっと俯いていたくせに、今だってまだ震えているくせに、それなのに、小毬を好きだという言葉だけははっきりと発した。
謙也は真摯だ。
そんなことはとっくに知っている。
だけど、それを見せるべきは自分ではなく、小毬であるはずだ。
それだけは我慢できない。
「もう、泣かせへん」
「そんなの信じられるもんですか!」
続けられた言葉に咄嗟に叫び返すと、ぽん、と肩に手が乗った。
先ほどまでは完全に傍観者を決め込んでいた忍足が、苦笑している。
「巴さん、キャラ変わってんで」
「うるさいってば!!」
また叫んで、巴はそっぽを向いて口をきつく結んで腕を組んだ。
しかしもう云いたいことは云いきったようで、満足したらしい。まだ目だけは鋭く謙也を睨みつけてはいるが、ひとまず気は済んだようだ。
少しホッとして息をつくと、今度は従兄のほうに名前を呼ばれた。一応気を引き締めて忍足を見たが、巴のようにわかりやすく怒っている様子はない。
いつものようなポーカーフェイス、何を考えているのかいまいち読めないのんびりとした様子で、忍足は一枚の紙を差し出した。
「謙也、ほいこれ」
「…地図?」
「津々井、今ここにおるで」
それは今いる駅からとある場所までの地図だった。
初めての土地で感覚はよく掴めないが、そう遠くはなさそうな場所だ。複雑でもないし、走ればそう時間もかからず辿り着けるだろう。
礼を云おうとして顔を上げた謙也は、ここで少し後悔した。
「あと、跡部から伝言。『二度目は、社会的に抹消されると思え』、だそうや」
「………はい……」
「で、俺からも一応一言云わせてもらうで」
忍足はポーカーフェイスが得意だ。
感情を隠すこと、コントロールすることに長けている。
だから、いくら従兄といえど気付くのが遅くなってしまった。
「次こんなくっだらんことで津々井泣かしたら、縁切るで」
―――忍足も、巴に負けず劣らず激怒していたことに。
感情をきれいさっぱり消し去った冷たい目で射抜かれて、謙也は背筋が凍ったような気がした。背中が冷たくて生きた心地がしない。
これは本気だと察した。
この従兄は、いざというときは本気で自分との縁を切るつもりだ。
そんなことにはならないと云い返したいところだが、あんまりにも忍足の目が怖いので謙也は頷くだけで精いっぱいだった。俺の従兄がこんなにも怖い。
コクコクと小刻みに頷く謙也に――名誉のために云うならば、決して震えているわけではない――にっこりと満足そうな笑顔を浮かべた忍足は、ああそうや、とわざとらしく両手を合わせた。
嫌な予感しかない。
そして、案の定。
「ついでにな、このこと、氷帝の連中もとっくに知っとるからな。あいつら異常に津々井のこと気に入っとるし、次会うた時いろいろ気ぃつけやー」
「は、薄情者…!」
「馬鹿に云われたないわ」
関西人にとって馬鹿は禁句である。
それをわざわざ使うあたり、忍足の静かな怒りが見て取れてまた謙也は心臓がきゅっと締まる思いだった。怖すぎる。
怯える謙也を見た忍足は、小さく息をついてから、今朝白石がしたように握った拳を謙也の胸に軽く当てて云った。
「はよ行ったり」
「…おん」
「しっかりしなさいよね!!」
「う、うっす!」
大切な従兄に背中を押され、巴には少々恨みの籠った手痛い平手を背中に食らい。
最後に小さくふたりに頭を下げ、謙也は走り出した。
彼らが怒る理由なんて、とっくの昔に知っている。
今まで何も云わずにいてくれたことのほうが奇跡だったのだ。
自分は、怒られるべくして怒られた。
わかっている。
だから、いい加減、現実を見つめなければならない。
そこからは一度も忍足と巴を振り返ることなく、まっすぐに小毬の待つ公園へ、走った。
+++
走る。
走る。
あまり慣れない土地だけれど、幸い地図は読めるので、出来る限り急いで行く。
今行ったところ小毬が本当にいるのかもわからないけれど、少しでもそこに彼女がいる可能性があるなら行かなければならないと思っていた。
たくさん泣かせてしまった。
たくさん悲しませてしまった。
たくさん苦しめてしまった。
もしかしたら、自分と一緒にいることで小毬は辛い思いをするのかもしれない。
そんな嫌な考えが頭を過った。
思わず立ち止まりそうになる足を叱咤して、ぐんとスピードを上げる。
―――それでも。
小毬。
小毬。
心の中で、何度も呼ぶ。
謝らなければならないことがある。
話したいことがある。
告げたい言葉がある。
もうもしかしたら君には届かないのかもしれないけれど。
それでも君に、伝えたい。
まだこの声が届くなら、聴いてほしい。
―――君が好きだと、伝えたい。
無我夢中で走り続け、漸く辿り着いた大きな公園の中、ブランコの前にぽつんと佇む彼女の姿を見つけた。
そうして、乱れる息にも構わずに思わず叫んだ。
「―――小毬!!」
ゆっくりと顔を上げた彼女は、大きく目を見開いて―――小さく口を動かした。
その声はあまりにも遠く、小さくて聞こえなかったけれど。
自分の名を、呼んでくれたように思った。
7.きみの温かさを知る
どうして、ここに。
そんな問いは口には出来なかった。
今目の前で起きていることが信じられなくて、ただただ呆然とする。
ここは東京だ。
間違っても大阪ではない。
だからここにこの人がいるのは、絶対におかしいのだ。
「―――謙也さん」
絞り出した声はか細く、きっと小さすぎてあの人まで届いていない。
肩で息をする謙也さんは汗だくで、一体どれほど走ったのだろうかと意識の外で考えたのは一種の現実逃避だ。
「ごめん、小毬」
東京のど真ん中にあるこの公園は、いつもだったら小さな子供や老人がのんびりする穏やかな場所だ。
しかしさすがにクリスマスまでこんなところに来る物好きはいないらしく、さっきまではあたしが寂しくブランコに揺られているだけだった。
確かに土地としてはそこそこ大きいけれど、別に何か有名な何かがあるわけでもない、何の変哲もないただの公園だ。
どうして、と思わずにはいられない。
あたしがここに来ることは誰にも話していないし、そもそも謙也さんは東京の地理には明るくないはずなのに。
どうしてここがわかったのだろう。
それに、どうして、何を―――謙也さんは、謝っているのだろう。
わからないことが多すぎて、うまく処理できない。
そこまで考えてハッとする。
今日あたしにここに行くように指示してきたのは景吾さんだ。
今朝、なんの前置きもなくメッセージに『14時にいつもの公園。他言無用』とだけ書かれていて、理由を尋ねても返事はないし電話も出てくれず、仕方がないから重い足を引きずってここまでやってきたのだけれど。
ハメられた、と気付いたときにはもう遅い。
馬鹿みたいに呆けていることしか出来なくて、その間に謙也さんはまた走ってあたしの目の前までやってきた。
お互いに手を伸ばせば、届く距離。
こんな近くで謙也さんを見たのは、一体いつ振りだろう。
そう考えると無性に悲しくなって、胸が痛い。
「俺、ずっと不安で」
何が、と問いたいのに、唇が硬直してしまった開いてくれない。
呼吸が出来ているかも自信がなかったけれど、立っているということはきっと息はしているのだろうとあたりをつけて、そんなつまらない思考は意識の外に追いやった。
謙也さんは続ける。
「俺なんかが小毬に釣り合う男になれるわけあらへんって思っとって」
意味が分からない。
釣り合うとか釣り合わないとか、どうしてそんなことを考える必要があるのだろう。
だってあたしは景吾さんとは違う。
守らなきゃいけない立場なんかない、ただの中学生だ。
ちょっと花と写真で評価されてるけど、こんなもの、世間からしたら何にもないのと同じもので。
「小毬には他の男が似合うなんて、嘘や。傍におりたい。小毬の隣には俺がいたい」
―――それは、ずっと聞きたかった言葉。ほしかった言葉。
涙があふれたのは、悲しいからじゃない。
「あた、あたしだって、ずっと不安だった」
吐露。
もう、一度口を開いてしまえば自分で止めることなんて出来なかった。
堰を切ったように、次から次へと言葉を吐き出した。
「謙也さん、傍にいてくれるくせに、抱き締めてくれるくせに、キスだってしてくれるくせに、全然好きって云ってくれなくて」
隣に立って、寄り添って、抱き合って、キスをして。
謙也さんの暖かさを知っているのに、どれもこれもが虚構なのではないかと疑わずにはいられなかった。
「いつまで待てばいいのかなんてわかんなくて」
あの夏の日からずっと、傍にいるのが当たり前だった。
謙也さんの隣があたしの場所だった。
それは言葉にはしたことはなかったけれど、きっと謙也さんもそう思っていてくれたことなのだと思う。
けれど、この当たり前がいつまで続くのかわからなくて。
設けられなかった期限が、いつ終わるのかわからなくて。
「―――ずっと不安だった!」
幸せなのに、どこか不安で。
ともすれば叫びだしたくなるような不安定な気持ちは、より謙也さんの傍にいることで抑え込んでいた。
それが出来なくなったのがこの冬で、だから毎日不安で仕方がなくて。
そうして、あの日の謙也さんの言葉に、あたしのすべてが崩壊してしまったのだ。
「待たせてごめん」
息を呑む。
謙也さんは一度深呼吸をしてから、ゆっくりと瞬きをする。
その様子を、あたしはどこか遠いところの出来事のように眺めて。
次に謙也さんと目が合った時、まるで時間が止まったように感じた。
「小毬、好きや。ずっと前から、好きやった。
―――俺と、付き合ってください」
待っていた言葉。
ずっと欲しかった言葉。
優しく鼓膜を揺らしたその言葉は酷く甘美で、胸がいっぱいになった。
一度口を開いて応えようとして、嗚咽のせいでちゃんと言葉にならなくて、二度三度それを繰り返してから、漸く。
「―――遅い!」
叫んで、地面を蹴る。
手を伸ばす。
もういい、我慢なんてしない。
流れる涙もそのままに、あたしは謙也さんの腕の中に飛び込んだ。
「あたしも好き。大好き、謙也さん」
それから、磁石がくっつくみたいに、あたしたちはキスをした。
涙のせいでしょっぱくてそれがおかしくて少し笑って、それからまたキスをした。
何度も何度も、キスをした。
暖かくて優しくて、まるで今だけ春になったみたいな気持ちだった。
遠回りをした。
寄り道もした。
余計なこともたくさんしたし、いろんな人を巻き込んでしまった道だった。
だけどやっとたどり着いた。
ここに、一緒に来たかった。
謙也さんの隣で、あたしは歩き出したかったのだ。
「帰ろ、小毬」
「はい!」
手をつなぐ。
あなたの暖かさを知る。
未来はきっと、寂しくない。
*****
これにて『オー・マイ・リトルガール!』は終了です。
最初10話で終わらすとかあほなこと云ってましたがそんなことになるはずがなかった! 知ってた!
書いてる間にどんどん最初の構想と変わっていって、作品は本当に生き物だな、と実感しました。おかげさまで考えてた当初考えていた最後とは全く違ってしまいました。でも楽しかったです。
あとすみません、忍足(侑)彼女の巴さんは、番外編で出すつもりでまだ書き終わってませんでした。夏にWデートするよ!(っていう話を後ほどアップします)
長々とお付き合い、ありがとうございましたー!