江戸崎から出て来たイナカ者、土子泥之助が、江戸の町で悪党相手に大立ち回りの本格(?)時代劇。

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無極流兵法

◆無極流兵法

 

 

「うひゃー、これが江戸か、凄い物だ」

 土子泥之助は、日本橋の上に立って、溜め息をついた。

 享保八年(一七二三)春、八代将軍吉宗の倹約令も何処吹く風と、人々は元禄の頃から続く爛熟し切った文化に浸って、我が世の春を満喫していた。天下泰平、平穏無事なご時世であった。

常陸の国は江戸崎の、一羽流剣術無手類(むてのたぐい)無極流兵法宗家の二男に生まれた泥之助は、「冷や飯食い」の身分で気楽に暮らしていた。無極流は、師岡一羽の高弟・土子泥之助が編み出した兵法で、二百年余り続いている古流である。彼の名は、流祖から貰ったものである。

一人暇をかこっていたある日、父・一之助が「世間を見て来い!」と一言、二十両を渡して家から彼を追い出した。さて、追い出されたところで、泥之助には外に身寄りが無い。どうせ身寄りが無いのなら、行き着く所は都しか無い。彼の足は自然と江戸に向かっていた。

江戸へは、つい先程着いたばかりである。

「さてと、何か職にでも就けたらいいのだが……。」

何よりも、先立つものは金である。といって、泥之助は侍であり、しかも道場の息子である。出来る事といえば、百姓仕事かやっとう事くらいである。とりあえず、近所の町道場へ出掛けてみた。師範代でもして身銭を貰おうと考えたのである。

しかし、その考えは甘かった。町道場の師範代は、意外とぼろい商売である。そこに、余所者を受け入れる余地があるはずも無い。全て門前払いであった。しかも、何処へ行っても精神修養と称して、表面だけの形稽古ばかりであった。

半日ほど回ってみたが、何ら収穫は無かった。ただ疲れただけである。

「参った。まあ、当座は困らないにしても、これは口入れ屋行きか」

ガックリと肩を落とした泥之助に、小男がぶつかった。

「お、ご免よお侍さん」

小男は、軽く挨拶しただけで、そのまま人混みの中に消えてしまった。

「やれやれ、江戸ってのはせわしないのだな」

そんな事を呟いているうちに、結局また日本橋まで戻って来てしまった。とりあえず、近くの茶屋の床几に腰掛けて、だんごと茶を頼んだ。だんごを頬張りながら通りを見る。小ぎれいな町娘、偉そうな武士、一心太助や大工や商人、様々な人々が続々と往来を行き来している。田舎者の彼にとって、このような雑踏を見るのは初めての事であった。

「娘さん、おあいそ」

泥之助はそう言って、懐に手を入れた。その瞬間、体が強張った。巾着が無いのである。そこで、はたとあの小男の事に思い当たった。

「やられた……!」

「どうしたんです、お侍さん?」

茶屋の娘が、怪訝そうな顔で泥之助を見る。

「娘さん、すまぬ。巾着を掏られてしまって、今文無しなのだ。」

「お侍さん、食い逃げしようってんですか?」

娘は怖い顔をして睨み付ける。この頃、食い詰め浪人が多く、そういった食い逃げや、借金の踏み倒しも多かった。みすぼらしい身形をした武士は、一様に信用が無かったのである。

「いや、そんな心算は無い。掏られたのに気が付かなかったのだ。本当なのだ」

泥之助がしどろもどろになって弁解している所へ、後ろから声が掛けられた。

「おいとちゃん、その方はあたしの連れだよ。あたしが払うから、それでいいでしょう?」

「あ、大仲屋さん」

泥之助がおいとの目を追うと、そこには大店の娘風の、小ざっぱりとした美人が立っていた。年の頃なら十七・八という所か。

「六文でいいの?」

「はい。有難う御座います」

美人はさっさと払いを済ませると、泥之助を促した。

「さ、行きましょう」

「あ、ああ。どうもかたじけない」

泥之助は、おいとに軽く頭を下げると、美人の後について歩き出した。礼を言おうと泥之助が口を開きかけた時に、娘の方が先に問いかけて来た。

「ねえ、お侍さん、何で食い逃げなんかしようとしたの?」

「だから、違うのだ」泥之助はムキになって反論した。「先刻掏られたのだ。金はちゃんと持っていたのでござるよ」

「あらあら、無用心なお侍さんだこと」

「面目無い」泥之助は、照れ笑いを浮かべつつ頭を掻いた。「それは兎も角、本当に有難う。おかげで助かったでござる。だんご一皿で食い逃げの汚名を着せられる所でござった。拙者の様な見ず知らずの田舎者を助けてくれて……」

「あら、いいのよ別に。江戸っ子ってそんなものよ。それに」娘は一寸言葉を切って、野暮ったい泥之助の姿を見直して、小さく笑った。「あなたは、あんまり悪そうには見えなかったからね。つい手助けしたくなっちゃったのよ」

「本っ当にかたじけない。あ、拙者、土子泥之助でござる。今日、江戸崎から出て来たばかりだったのだが、右も左も分からない内に、いきなりえらい目に遭ってしまったでござるよ」

「江戸は『生き馬の目を抜く』なんて言われるほどの所だから、気をつけてね。あたしは大仲屋恵。恵って呼んでくれて良いわよ。みんなそうしてるから」

恵はそう言って笑った。美しさと気風の良さが、違和感無く調和していた。

「大仲屋……。という事は、何かの店をやっているのでござるか?」

「そうよ。何か?」

「いや、一体何処の藩のお姫様かと思ったもので」

「あら」恵は笑った。「田舎から出て来た割には、お世辞が上手なのね」

「いっいや、別に世辞などは……」

恵に言われて、泥之助の顔が朱に染まる。

言葉も反応も、実に正直である。

(なんか可愛いな、このひと)

恵は、この朴訥な田舎侍が、何となく気に入ってしまった。

「恵殿、本当に有難う。」泥之助は軽く頭を下げた。「恩に着るでござるよ」

「別に気にしないでって言ったでしょう」

「かたじけない。それでは失礼」

泥之助はそう言うと、くるりと恵に背を向け、何処かへ行こうとする。一瞬呆気に取られて身動きも出来なかった恵だが、直ぐに我に返ると、慌てて泥之助の袖を捉まえた。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」

「何か?」

「何か?じゃないでしょ。だんごの代金も払えない一文無しのくせに、何処へ行こうって言うの?どうせ行く当てなんてないんでしょ?」

「まあ、別に」泥之助は方をすくめた。「先ずは職探しでも……」

「ほら御覧なさい。どうせ当てが無いんなら、とりあえずうちに来なさいよ。当座のお足くらい工面したげるからさ」

「いやあ、そこまで甘えてしまっては・・・」

「いいのっ!」恵は泥之助をぴしゃりと押さえ込んだ。「人の好意は素直に受けておくものよ。特に困ってる時はね」

「―――はい」

そういう事になってしまった。

 

「そうですか。それはお困りでしょう」

恵の父、勘兵衛は、そう言って何度も頷いた。泥之助は後に知るのだが、江戸日本橋、呉服の大仲屋と言えば、気風の良さでは江戸随一と言われ、「良い物を安く売る」その商売は、他の同業者からは疎んじられている、と噂されるほどの客本位の商売人であった。

「かたじけない。見ず知らずの田舎侍に、このように良くして頂いて」

泥之助は深々と頭を下げた。結局、十両を「ある時払いの催促無し」で借り受けた。本当は「返さなくて良い」と勘兵衛が言うのを、泥之助が懸命に頼み込んで、とにかく返す、という形にして貰ったのだった。

「まあ、ここは天下のお膝元ですからな。やろうと思えば、どんな仕事でもありますよ。人の道に背かぬ事ならば、どんな事でもやって見れば良いんですよ」

勘兵衛は笑いながら言った。

親父と同じ事を言うなぁ。

知らず、泥之助も笑みがこぼれた。

その時、俄かに表が騒がしくなった。勘兵衛の温和な顔が引き締まる。

「ちょっと失礼します」

勘兵衛はそう言って立ち上がると、部屋を出て行った。

「どうしたのでござるか?」

泥之助がのんびり尋ねると、恵は憎々しげな口調で答えた。

「どうせ、またあいつ等だわ」

「あいつ等?」

「ええ。日本橋には、うち以外にも何軒か呉服の大店があるんだけど、そいつ等は勝手に寄合を作って、値段を決めてるの。それが随分高くしてるから、うちでは反対して、なるべく安く売るようにしてるんだけど。寄合の連中にはそれが面白くないのよ。それで、しょっちゅうその辺のごろつき侍を使っては、うちに嫌がらせをしてくるのよ」

「そんな悪い奴が居るのか」根が真っ直ぐな泥之助は憤慨した。「そんな悪い奴なら、お上に訴えて取り締まってもらえば良いのではござらぬか?」

「それがね、そう上手くは行かないのよ」

「何故でござる?」

「寄合の方はね、お役人とも仲が良いのよ。お金をばら撒いているからね。あたし達が一寸騒いだって、お奉行様の耳に入る前に握りつぶされちゃうわ」

そう言って、恵は小さく溜め息をついた。今までに何度かそういう事があったのだろう。

泥之助の胸に、沸々と怒りがこみ上げて来た。理不尽な事は許せない性分なのだ。泥之助はすっくと立ち上がると、小さく呟いた。

「ぶっとばす」

「あ、ちょっと待ちなさいよ!」

恵が止める暇も無く、泥之助は表に飛び出した。表には三人の浪人者が我が物顔でのさばっていた。土間に反物が幾つも転がっている。何やらごねて暴れたらしく、店の使用人達は皆怯えて隅に引っ込んでいる。勘兵衛は一人で狼藉者達に対していた。兎に角下手に出て、嵐が過ぎるのを待っているようだった。

「ふざけるなよ、おっさん」刀を肩に担いで、浪人組の頭らしき男が喚いている。「俺達は別に、一両二両の端金を貰いに来たわけじゃねえんだ。お前らの商売が気に食わねえから、ぶっ潰してやろうと思って来ただけよ」

「手前どもは、ご浪人様のお怒りに触れる様な事はしていない心算なのですが……」

「その口の利き方が気に食わねえっつってんだよ!」

男は土足を板間に上げて、息巻いた。

「うるせえんだよ、お前は」

泥之助は言うなり、勘兵衛の頭の上から鞘ごと刀を伸ばして、男の頭を小突いた。ごんっと小気味良い音がして、男は仰向けに倒れた。

「いっ痛てぇなこの野郎!」

男は喚きながら刀に手を掛けたが、泥之助を見て一瞬とまどった。泥之助の刀は、男が、そして他の侍達が持っている「元禄刀」と呼ばれる、刃渡り二尺五寸の刀を遥かに上回る、四尺近い長大な刀である。抜き合わせてみれば、長さで相手が勝る、そう踏んだのだ。

「何だよてめえは」

「行き掛かり上、ここで世話になっている者だ」

「け、用心棒かよ」

「残念だが、外れだ」

泥之助はそう言うと、再度刀を伸ばした。喧嘩慣れしている浪人は、間合いを計って退いた。しかし、「元禄刀」の間合いが染み付いていた彼は見切りを誤り、もう一度同じ場所を小突かれた。しかも今度はかなり力が入っていた。がんっとかなり凄い音がして、男は白目を剥いて倒れた。一撃で気を失っていた。

「てめえ!」

「上等だ、表へ出ろ!」

残った二人が息巻いて泥之助を睨み付けた。泥之助は黙ったまま顎をしゃくった。

三人が表へ出ると、ぐるりと野次馬の輪が出来た。

「おいてめえ、許しを乞うなら今のうちだぞ」

浪人の一人が凄んだ。

「何言ってんだ。悪い事をしたのはお前等の方だろう。謝るのはお前等だ」

泥之助は一向に堪えない。

「ふざけんな!」

業を煮やした浪人二人は、ついに刀を抜いた。野次馬の輪が、ざわめきながら広くなる。

「別にふざけちゃいねぇよ」

泥之助はあくまで淡々としながら刀を抜く。四尺ほどの刀は、それだけで威圧感がある。だが、気丈にも浪人の一人は刀を振りかぶった。その動きに合わせて、泥之助は一歩踏み込んだ。長大な刀の切っ先が、男の喉元につき付けられる。

「本当は刃を寝かせて首筋(※1)を斬るんだが……。どうだ、やって欲しいか?」

泥之助の問いに、浪人は目で否定を訴えた。しかし、泥之助はまだ刀を引かない。

「こんな馬鹿げた事をやってないで、まともに生活する口を見つけろ。今度こんな事していやがったら、迷わずその首を飛ばすぞ」

そう言って、泥之助はようやく刀を引いた。浪人二人はすっかり戦意を喪失して、まだ気を失っている仲間を引きずる様にして、ほうほうの体で逃げて行った。それを見送ると、泥之助はゆっくりと刀を納めた。

その途端、周りの野次馬から拍手が起こって、泥之助は目を丸くした。

「およ、何だこりゃ?」

町人達は、食い詰め浪人達の狼藉にはかなり鬱憤が溜まっていたらしい。そんな浪人を、泥之助が散々に打ち負かしたので、胸がすっとしたのだろう。

「土子さん凄いじゃない」恵が驚きも顕わに言った。「申し訳ないけど、あたし、土子さんが浪人達に酷い目に遭わされるんじゃないかと、はらはらしたのよ」

「まあ、拙者の特技はこれだけでござるから」

泥之助は、少し照れながら笑った。

 

結局、泥之助は大仲屋が手配してくれた長屋に住む事になった。布団や食器類も、古い物を大仲屋から「買い」受けた。また、同じく大仲屋の紹介で、浪人の定番内職、傘張りを世話して貰った。傘張りの内職は歩合制である。一定数を作る必要は無いので、時間を自分の思う通りに使える、泥之助にとってはまたと無い仕事であった。

恵は、泥之助がこの長屋へ越して来てからは、ちょくちょくここへ遊びに来る様になっていた。「土子さん」だった呼び方も何時しか「泥さん」になり、長屋の近所のおばさん連中が、

「あの浪人さんも、隅に置けないねぇ」

などと噂をする程であった。

少し間を開けて、恵が長屋へやって来た。店の棚卸しに手間取って、なかなか時間が取れなかったのである。

「泥さーん、いるー?」

恵は戸を勢い良く開けると、そのまま止まってしまった。狭い部屋の中は、子供達で一杯だった。皆丁度昼寝をしているので、静かなものである。そんな中で泥之助は、部屋の隅に追いやられた様に小さくなって、包丁を研いでいた。

「やあ、恵殿、こんにちは。今昼寝中だから、少し静かにお願いするでござるよ」

「ちょっと、どうしたの、この子達」

恵が声をひそめて尋ねた。

「いや、近所のおかみさん方が出掛けている間、ちょっと子守を頼まれて」

「最近、こんな事ばかりしてるの?」

「いやいや、まだ二、三回くらいでござるよ。いやあ、子供は可愛いもんでござるよ。たまに小憎たらしいけど」

泥之助は、そう言ってにこにこと屈託無く笑った。そんな彼を見て、恵は微笑みながら言った。

「泥さんて、本当に優しい人なのね」

「そうかなあ?」

本人はいたって呑気である。

「で、どうせその包丁も、近所のおばさんに頼まれたんでしょ?」

「当たり。まあ、拙者、田舎ではよく鎌等を研いでいたから、これはその延長でござるよ。それに、こんな事をするだけで向こうから晩飯のおかずを分けてくれたりするのだから、拙者は逆に助かっている位でござるよ」

「ふうん」恵は、泥之助のその呑気さに、一種の憧れに近い感情を抱いた。「なぁんか、とっても泥さんらしくて、いいなぁ」

その時である。

「オラーッ!」

がなり声と共に、表戸が蹴り破られ、恵は飛び上がった。見ると、ちんぴらが六人程、どやどやと入り込んで来る所であった。畳の上に土足で上がって来る。その後ろには、氷の様な冷たい目付きをした浪人が一人、これは表に立ったままで居る。

突然の騒ぎに叩き起こされた子供達が泣き出した。

「やかましい、餓鬼共」

ちんぴらの一人が、目をギョロリとさせて凄むと、子供達は泣き声をひそめた。声を殺して泣きながら、部屋の隅に固まり、怯えている。

「ちょっと、あんた達!」気丈な恵が、ちんぴらに食って掛かった。「何よあんた達は。人の家に乱暴に押し掛けて来て。子供達だって可哀そうじゃないの」

「うるせえぞ、あま。俺達は、そこの田舎侍に用があるんだ」

「何の用でござるか?」

泥之助は、場の雰囲気にそぐわぬ、のんびりとした態度で応じた。包丁を置いて立ち上がる。

「あんた、こないだお侍さんをのしたろう?あれ、俺達の家に出入りしている方々でな。ま、お礼参りって奴よ」

「ならば、子供やご婦人は関係無いな」

「てめえ、侍の癖に学がねぇな。『坊主憎けりゃ皿まで憎い』って言うだろが」

「『袈裟まで憎い』じゃないのか?」

「とにかく」ちんぴらは、泥之助の茶々を無視した。「てめえに関わったのが、こいつらの運のツキってこった」

「何よ、それ!」泥之助がのんびりしている分、恵が頑張る。「黙って聞いてりゃ、好き勝手な事言って。自分が悪い事をしておきながら、止められたら逆恨みして。男として恥を知りなさい、恥を!」

「黙れ、畜生!」

ちんぴらが怒鳴りながら、左甲で恵を張り飛ばした。まともに食らって、恵は子供達の所まで吹っ飛ばされた。

「女はすっこんでろ!」

ちんぴらがそう言った時、泥之助が動いた。右の「平(ひら)槌(づち)」(※2)がちんぴらの腹にめり込む。ちんぴらは吹っ飛んで、もう一人を巻き込みつつ表まで転がり出た。

「てめえら、ふざけるのも大概にしろ!俺(・)は怒ったぞ!」

泥之助が腹に響く程の声で怒鳴った。何時もの温厚な様子は微塵も無かった。一人は顔面に三発の「中楔(なかくさび)」(※3)、もう一人は腹に肘(※4)当て、残る一人は投げと同時に胸に肘を落とし(※5)て、あっという間にのしてしまった。泥之助は表に飛び出すと、巻き添えで表に転がった男の股間を蹴り上げた。男は口から泡を吹いて倒れた。

泥之助は、そこに立っている浪人を睨み据えた。

「先生、頼ンますよ!」

腹に肘を食らった男が、苦しそうにわめいた。

「ああ言ってるが、どうする?」

泥之助は淡々と問う。

「身が震えるな」

浪人、石森正九郎はそう答えると、ぞろりと刀を抜いた。白研ぎの、文字通り肉斬り包丁である。

それを見てゆっくりと身構えた泥之助に、刀が差し出された。

「泥さん、はい」

泥之助が見ると、頬の赤く腫れた恵が、四尺刀を持って立っていた。無理に笑顔を作る。

「大丈夫でござるか?」

「うん。だから、こいつをやっつけて。子供達を怖がらせた罰よ」

「恵殿の仇討ちも、でござる」

泥之助はぽつりと答えて、恵の手の中から刀を抜いた。

「長い刀だな。古流か?」

正九郎が問うた。泥之助は答えない。正九郎も答えは期待していない。そのまま刀を右八双に構える。対する泥之助は青眼である。四尺刀で青眼に構えられるのは、正九郎にとって攻め辛い形である。

正九郎が、右に体を捻り、ためを作った。次の瞬間、左手から何か光る物が飛んだ。泥之助の顔を目がけて閃く。泥之助は顔の皮一枚でかわした。薄く頬が切れる。小柄を避ける動作で、泥之助の剣尖がぶれた。正九郎はその瞬間を逃さなかった。

「イヱイッ!」

裂帛の気合を込めて打ち込む。彼の用心棒人生最高の打ち込みであった。次の瞬間、彼の足元に何かが落ちた。彼自身の右手首であった。泥之助の「川止(かわどめの)月(つき)」が(※6)決まっていた。正九郎は激痛と恐怖に絶叫を上げた。固唾を呑んで成り行きを見守っていた長屋の住人達の間から、溜め息ともつかぬ声が漏れる。

泥之助は、肘を入れた男に近寄った。その男の着物で刀の血を拭う。

「畜生」

男は手負いの獣の目で泥之助を睨んだ。泥之助は構わず男の右手を取り、手首を内小手に極める。

「ギャッ!」

「ギャッっじゃねえ。お前等の親分は誰だ?」

「い……市松親分だ」

「馬鹿野郎。その親分に、大仲屋を苛めるよう頼んだ奴だよ」

泥之助は更に小手を極める。

「いて、いてててっ!えっ越前屋だよっ!」

「越前屋ね。判った、ありがとよ」

泥之助はそう言うと、一度極めを緩め、再度小手を極め、そのまま地面に押し倒した。男は頭を地面に強かに打ち付けて、白目をむいた。

そこへ、誰が呼んだのか、役人が駆けつけて来た。

「やあ、お役人さん、いい所へ来てくれた。こいつ等を頼むでござる」泥之助は役人にそう言うと、恵を振り返った。「恵殿、ありがとう。鞘を返してくれませんか」

恵は、そう言って笑っている泥之助の胸に飛び込んだ。

「泥さん、泥さん、良かった無事で」

泥之助を抱き締める。何故か涙が止まらなかった。

「っちょっ……ど、どうしたでござるか、恵殿」

泥之助は赤面して、そのまま硬直してしまった。そんな二人を、長屋の住人達は明るく茶化した。長屋に再び笑いが戻って来た。

 

翌日、泥之助は朝から長屋を出た。越前屋は、日本橋からは少し離れた紺屋町にある。恵の話では、寄合の元締はこの越前屋であり、金の力に物を言わせた、傲慢な男であるという。

泥之助は、この手の弱い物いじめをする輩が大嫌いであった。

「御免!」

泥之助は越前屋の暖簾をくぐると、大声で呼び上げた。番頭が、目を丸くして彼を見る。

「あの、何か御用でしょうか?

「うむ。主人を出して欲しいでござる」

「だんな様は、ただ今来客中で御座いまして……」

「市松親分でござるか?」

泥之助はかまを掛けて見た。番頭は思わず黙り込んでしまう。当たりだ。泥之助は内心ほくそ笑んで、言葉を続ける。

「何、客だからと言って気兼ねは無用。『田舎侍が来た』と伝えてくれればお判りでござろう」

「は、はい。少々お待ちを」

番頭は、顔色を変えて奥へ入って行った。程なくして、番頭が戻って来る。

「だんな様がお会いになりたいそうです。どうぞこちらへ」

泥之助は、案内されるままに奥へと上がり込んだ。

「こちらです」

番頭に促されて入ると、そこに不遜そうな顔つきをした商人風の男と、目付きの悪い渡世人が居た。越前屋の「だんな様」と、市松親分である事は、一目で判った。

「これはこれは」越前屋彦左衛門が、嫌味な笑みを浮かべた。「土子さん、でしたな。まあどうぞ、お座りなさい」

言われるまでも無く、泥之助は座った。越前屋と市松、両方の丁度中間あたり、互いに手の届かない場所を陣取る。

「まあまあ土子さん、そうとんがらずに。丁度、あっしらもあんた様には会いてえと思ってたとこでさぁ」

市松がどすの効いた声で言う。いかにも親分然とした様子である。

「何か用でも有るのか?」泥之助の声が尖っている。「それより先に、こちらの用件を聞いて貰おう」

「ようござんすよ」

「今後一切、大仲屋には迷惑を掛けるな。他の町人達もその手のゴタゴタにはいい加減ウンザリしている。潮時だと思って、もうこんな愚かな事は止めて、大人しくして貰おう」

「成る程……」越前屋は判った様な顔をして頷いた。「では、こちらの話も聞いて下さいよ。土子さん、あたしの側に付きませんか?」

「どう言う事だ?」

「言葉通りの意味でさあ」市松が続ける。「あんたは腕が立つ。あんたみたいな人を味方に付けときたいんでさあ。何、こっちには越前屋さんも、さるお役人様も付いて下さってる。金にも力にも、そして女にも困る事はありませんぜ」

「大仲屋から幾ら貰っているかは知らんが、その倍は出しますよ」

越前屋はそう言うと、傍にあった手文庫を引き寄せた。蓋を開けると、山吹色の光が、薄暗い部屋に溢れた。

「客の為だ、人の為だ、などと青臭い事を言っているあの大仲屋に、一度世間の厳しさを味わわせてやらんとな。この世は所詮金だ、という事を、あやつに知らしめてやるのさ。どうだい土子さん、乗ってくれるだろうね?」

越前屋の嫌らしい笑みが、泥之助を見据えた。

「拙者は」泥之助は、山吹色の山を見つめながら口を開いた。「拙者は、青臭い事の方が好きだ。だから断る」

「大金を掴んで、面白おかしく暮らそうとは思わんのか?」

市松の顔は、心底不思議そうな表情である。

「勿論金は欲しい。有るに越した事は無いからな。しかし、他人に迷惑を掛けてまで手に入れたいとは思わん。だから断る。もう一度言うが、大仲屋や、他の町人達の迷惑になる事は止めてくれ」

「勿体ねえ。」市松は肩をすくめた。「その腕なら、楽して一生過ごせたものを」

二人は立ち上がると、庭に面した襖を開けた。そこには、市松の子分が十三人、あと雇われたらしい浪人が五人、既に抜き身を手にして待ち構えていた。

「残念ながら、交渉は決裂した。おめえら、殺っちまえ」

市松の言葉で、郎党は半円形になって泥之助に向かった。泥之助は部屋から出ない。

「越前屋さん、よくこんな芝居みたいな展開をする気になったなぁ」

「やかましい。尾を振らぬ野良犬は叩くまでよ」

「てめえら!」市松は怒鳴った。「部屋の中じゃあ、奴の刀は抜けねえ。一気に畳んじまえ!」

その声に、子分三人が脇差を振りかざして向かって来た。泥之助は迷わず一番左側の男の脇差を内側へ払いつつ、外へ避ける。払われた男は、横の男とぶつかってよろける。そこへ泥之助は横蹴りを入れた。二人はもつれ合って倒れる。残った一人は体勢を立て直すと、今度は真っ直ぐに突き掛かって来た。泥之助は右に体を開くと、突いて来た相手の手を掛け取り、「流(ながれ)柳(やなぎ)」を(※7)掛けた。極めで肋骨を踏み砕く。その右手には、男の脇差が取られていた。

「何してやがる。相手は一人だ。とっととやっちまえ!」

市松がわめいた。その声に押される様に、今度は二人が左右から掛かって来た。泥之助は左の男の脇差を自分の脇差の腹で受けつつ、右の男の膝を正面から蹴り折った。受けた脇差を左手を添えて押し上げつつ、蹴り足で一歩踏み込み、もう一人の腹に膝をめり込ませる。

あっという間に五人がのされて、子分共はひるんだ。その隙に乗じて、泥之助は部屋を飛び出した。四尺刀を扱う泥之助にとって、脇差は包丁を持つようなものである。最初の踏み込みで手の届いた四人の手首の腱を斬った。いちいち一人ひとりを健気に斬り倒していては手間が掛かる。要は戦闘不能状態にすれば、それで良いのである。

「てめえら、鬱陶しいんだ!痛い目に遭いたくなかったら、掛かって来るな!」

泥之助は怒鳴った。一気に九人を倒した後なので、その言葉には説得力が有る。残った子分共は一様に腰が引けてしまう。

「せっ先生方、たのんますよ!」

市松の声もうわずっている。流石に浪人共は、泥之助の腕には大いに驚きながらも、剣の腕には覚えがあるのだろう、それぞれ刀を構え、引く様子は無い。

「あんたら、端金でこれからの人生を台無しにする気か?」

泥之助は試しに言ってみた。案の定、浪人達の気は変わらない。

「やめようや。下手に怪我でもしたら、もう剣客商売なんぞやっていられなくなるぞ」

「セイヤッ!」

泥之助の言葉が終わらぬうちに、一人が踏み込んで来た。泥之助はその男に脇差を投げつけた。浪人は難無く払い飛ばしたが、刀が外を向いた隙に泥之助は相手の懐に飛び込んでいた。強烈な肘当て身を受け、浪人は最初に立っていた位置まで吹き飛ばされた。そこへ別の男が斬りつけて来た。泥之助は一歩踏み込んで男の右手を取ると、その肘を極めたまま背負い投げ(※8)た。倒れた男の脇の下を踏み蹴り、肩を外す。

泥之助は周りを一睨みし、すぐに掛かって来る相手が居ないのを見ると、ゆっくりと刀を抜いた。四尺の刀を八双に構える。

「ウワリャー!」

一人が突き掛かった。渾身の力を込めた、必殺の一撃であった。泥之助は「虎振(とらぶり)」を用いて、右に体を開きつつ男の手首に刀を振り降ろした。力を抜いていたので、刃は骨に当たって止まった。もし引き斬っていれば、浪人の手首は無くなっていただろう。

 泥之助は、地面でのたうつ浪人をちらりと見遣ると、踵を返して市松、そして越前屋を睨み付けた。

「もうやめろ。これ以上やっても、お主等が苦しくなるだけだ。別に拙者はお主等を潰してやろうと思っている訳ではない。ただ、人に迷惑を掛けるな、と言っているだけだ。今ここで拙者に斬られる事を考えれば、そんなに難しい事でもあるまい」

「―――判った、判りましたよ」市松が苦々しく言う。「あんたにゃ、とても敵わねぇ。言う通りにするよ。もう大仲屋には手ェ出さねぇ」

「他の者にもだ」

「―――」市松は肩をすくめた。「何かしでかしゃまたあんたが出張ってくるって訳かい。

判った、俺も男だ。かたぎには手ェ出さねぇ。まっとうに成ろうとは思わねぇが、これからはなるべく穏便にやる事にするよ」

「流石は任侠の漢だ。話が早い。」泥之助は笑った。「で、越前屋、お主はどうなんだ?今拙者に殺されたいか?」

「うるせえな。判ったよ。大仲屋には手を出さん。これで良いか?」

「そうだ。しかし、また何か良からぬ事をしでかしてみろ。今度は拙者も全力でお主等を潰しに来るからな」

泥之助は血刀を懐紙で拭うと、ゆっくりと鞘に納めた。

 

その翌日、魚河岸まで買い物に出たついでに伝馬町までやって来た泥之助を、恵が呼び止めた。

「あ、泥さん泥さん」

「やあ、恵殿。具合はどうでござるか?」

「ええ、すっかり腫れも引いて、人前に出られる様になったわ」

「それは良かったでござる」

泥之助はにこにこと屈託無く笑った。

「ところで泥さん」恵が、怪訝そうな顔で尋ねた。「昨日は何処へ行ってたの?何回かうちの丁稚に長屋まで様子を見に行かせたんだけど、ずっと留守だったっていうから、心配してたのよ」

「昨日は浅草の観音様までお参りに行っていたでござるよ。子供達も居なかった事だし。別にそんなに心配する事は無いでござるよ」

「でも、あんな事があった後だし……。いけなかった?」

「いや、ありがとう」泥之助は素直に答えた。「でもまあ、拙者は大丈夫でござるよ」

「そう、良かった」

恵はようやく納得したように笑った。

泥之助は、その笑顔を見て、自分の行動に間違いは無かった事を確信した。この太平の世で、剣の腕を役立たせるには、弱い者の為に用いるのが一番の方法である。金や権力に押し潰されている弱い町人達の為に、何より目の前に居る娘を守る為に・・・。

思いもかけずそう考えて、泥之助は赤面してしまった。

(何のためらいも無く、何を考えているのだ俺は……)

「どうしたの泥さん、顔が赤いけど」

恵にそう尋ねられて、泥之助はますます顔を赤らめた。

泥之助の江戸での生活は、まだ始まったばかりである。今日も、江戸は活気に満ち溢れていた。

 

 

1995・11・04(土)了

1995・12・03(日)改

2010・12・26(日)改

2011・05・15(日)改

 

※1  一羽流剣術「疾風(はやて)」

※2  平拳。普通の拳による突き

※3  中指拳

※4  無極流兵法「頂(いただき)」

※5  無極流兵法「地固(ぢがため)」

※6  相手の正面斬撃をかわしつつ、低い姿勢から相手の手首を突き斬る形

※7  相手の上段を受け掛けつつ、「虚車」の要領で投げを打つ形

※8  無極流兵法「雷公(いかづち)」


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