日が沈み、人々の営みが屋内へと移る夜。真っ黒なキャンパスに黄金色の線が引かれるように、夜空を一筋の光が駆けていく。彗星のように見えるソレの正体を、人間が空を飛んでいると気付く者は極めて少ないだろう。
扇情的な衣装に身を包んだ、黒髪の少女。傍らには身の丈の倍はある青い大弓を携えている。ルビーを思わせる赤い瞳はただ前を見据え、加速によって発生する空気抵抗などものともしていない。
女神イシュタル。
バビロニアの都市神であり、ギルガメッシュ叙事詩にて英雄王が唯一の朋友を失う要因を作り出した傍迷惑神だ。まあ彼女に限らず、有名な女神に関わった者は大抵ロクな結末を迎えないのだが。
今はとある少女を依り代に現界した疑似サーヴァントであり、その影響で善性が強調されていることが幸いだろう。もしも生来のままであったなら、ギルガメッシュとエルキドゥが排除にかかってからのカルデア滅亡待ったなしだったに違いない。
「……ま、そうでなくともストレスは溜まるんだけどね」
飛行機をゆうに上回る速度でかっとびながら、イシュタルはポツリと呟いた。
時代と地域の垣根を越え、人類史に名を刻んだ数多の英霊が集うカルデアでは、生前よりも遥かに多様な価値観を有する者たちとの共同生活を強いられる。当然ながら反りが合わない、もしくは怨恨を抱えた相手と顔を合わせることも珍しくなく、下手しなくとも殺し合いに発展するような地雷がゴロゴロ転がっているのだ。
人類史を守護するという目的の一致と、マスターという信頼できる主の存在。万一ルールを破ろうものなら自身と同等かそれ以上の実力を持つサーヴァントから物理的な制裁が待っていること。これらの要素が絡み合って始めて平穏が保たれているものの、精神的な疲労はどうしても蓄積していく。生前好き勝手に振る舞っていたイシュタルならなおのことだ。
そのためストレス解消として、マスターに連れられた際や、時には勝手にレイシフトして、空を飛びつつ特異点を巡るのが最近の楽しみになっていた。今日はネロ・クラウディウスが治める古代ローマである。
スピードを落として、一時停止する。特異点として成立している範囲はぐるりと一周したので、さて次はどこに向かおうかと気になるものを探していたイシュタルは、
「うぷ……もう、駄目」
『断固ノーですイリヤさん! 魔法少女がリバースだなんてはしたない真似は許しませんよー!』
「………………あ」
視界の端。大弓マアンナに銀髪の少女が引っ掛かっているのを今さらながら発見した。
● ○ ●
「うう……まだ気持ち悪い」
「ごめんなさいね? ちょっと興が乗ったと言うか、エンジンがかかったというか」
『自分から拉致っておいて酷い扱いですねー。女神になっても、いやだからこそ女神になったんでしょうか。なんて横暴で傍迷惑なんでしょう』
「アンタにだけは絶対言われたくないわ」
数分後、青い顔をしたイリヤスフィールを丘稜地帯へ連れていき、イシュタルは謝罪していた。
「そ、それでり……イシュタル様は私めに何の御用でしょうか?」
どうにか吐き気を飲み込んだイリヤは、怯えながら女神に訊ねた。
イリヤからすれば天災にも似た不意打ちである。たまたま管制室の近くを歩いていたら廊下の奥からすっ飛んできたイシュタルに引っ張られ、気付けば満天の空の下。一切の説明がなされないままにジェットコースターが極楽に思えるほどのスピードで振り回され、当然のように酔ってしまった。尤も、酔い程度で済んでいるのはルビーが咄嗟に転身させたからで、それがなければ加速に体が耐え切れずミンチだったことは想像に難くない。
「特別用事がある訳じゃないんだけど……ちょっと一緒に空を飛んでくれる相手が欲しいなって思ってたのよ。そしたらちょうど貴女がいたから連れてきたって訳」
「な、なんでわたしなんですか!?
空を飛べるサーヴァントさんなんて他にいくらでも……」
「だって他の連中は宝具使って空を飛ぶじゃない。相手の魔力消費を気にしなくて済んで、付き合いが良くて、なにより私に逆らわない。この条件を満たしてくれるのは貴女くらいのものだもの」
「合理的に見えて自分の都合しか考えてない⁉︎」
「神様なんてそんなものよ。さ、いい加減回復したでしょうしそろそろ行くわよ」
言うや否やイシュタルはゆっくりと浮かび上がっていく。イリヤは地に座り込んだまま呆然とその様子を眺めていたが、イイ笑顔でこちらに
「出会った頃の凛さんを思い出すなあ……」
どちらにせよ勝手にレイシフトしているのだから、イシュタルが満足するかカルデアが捕捉してくれるまで帰れない。自らの巻き込まれ体質を呪いながら、イリヤは空を往く美の女神様に付き従うのだった。
● ○ ●
空を飛んだ経験はそれなりにあるが、こうして眼下の景色をじっくり眺めたことは少なかったと思う。
異常が取り除かれ、徐々に正しき国の形を取り戻しつつある古代ローマ帝国は、闇に沈んだ国土に、首都を中心としてぽつぽつと光が点在している。
とはいえイリヤが知る夜景に比べれば、その灯りは線香花火のように小さく頼りない。今日に至るまで影響を与える華やかな文明に彩られようと、この時代の夜は未だ人の手に余る。そんなか弱い人の営みを愛しむかのように、月光のヴェールが大地を優しく包んでいた。
「確か貴女、マスターと近い文化圏の出身だったわよね? この景色は物足りないかしら?」
「そんなことないよ。落ち着いてて、わたしは好きだなー」
「なら良かった。一度新宿ってとこにも行ったけど、あそこまでいくと綺麗っていうより痛々しいからね」
『綺麗な夜景って、つまりは夜になっても働いている社畜さんがたくさんいるって証ですからねー』
「そんな夢のないこと言わないで!?」
ゆったりとした速度で二人の少女が空を飛ぶ。どちらも生まれと異なる時代の世界を興味深そうに眺めて話している。イリヤも始めはイシュタルに怯えていたが、依り代の影響もあって次第に会話がスムーズになっていた。
「そういえば」
「なに?」
「凛さ……イシュタルさん、レイシフトする前焦ってませんでした?拉致される前にちらっとそんな表情してた気がしたんですけど」
「……………………………………………………さあ?何のことかしら?」
思い出したくないことを思い出したように美貌を歪めるイシュタル。一瞬後には澄ました表情を浮かべるが、額を伝う冷や汗で取り繕ってるのはバレバレだ。
イリヤの訝しげな視線から逃れるべく、イシュタルは動揺が残る震えた声で話題を変えた。
「そ、それより貴女、私のことよく呼び間違えるじゃない。 わざとってこともないだろうし、この
『おや、やはり気になりますか?』
「そりゃあね。いまさらこの娘に配慮するわけじゃないけど、興味はあるわよ。性質が似てるとはいえ、
「あはは……それは確かに」
否定できず乾いた笑みを溢す。彼女ならば女神相手でも、『身体貸してあげてるんだからレンタル料寄越しなさい。出来れば宝石で!』くらいは言いそうだ。
「で、どんな奴なのよ」
「あ、うん。遠坂凛って人でね……」
イリヤは話し始める。横暴で喧嘩っ早く、だけど格好よくて頼りになる女魔術師の話。そんな彼女の
胡散臭いステッキによる詐欺同然の契約。
クラスカードと呼ばれる礼装の回収任務で遭遇した、七体の黒い英霊達。
後に親友となる、寡黙なもう一人の魔法少女との出逢い。
自らより別たれた、愛情に餓えたおませな妹。
回収したカードを狙う封印指定執行者との死闘。
あり得ないはずの八枚目のクラスカード。
判明した親友の出自。そして彼女を取り戻すために、かつてない強敵と対峙してーー
「ーーーーあ、れ?」
いつの間にかイリヤは、自分が涙を流していることに気がついた。
目元を指で拭っても、溢れる雫は止まらない。心臓が締め付けられるような痛みも、胸を抑えても消えてくれない。
呆然と涙の理由を考えていると、バツの悪そうな顔をしたイシュタルが、イリヤを自身の胸元に引き寄せた。
「ごめん。ちょっと無神経だったわ。……全く別の世界に連れてこられて、心細くないわけないわよね」
とある事件でマスターやマシュと共闘したイリヤとクロエは、本人達が意図しない形でカルデアにやって来た。分析によると、マスターとの縁が出来たことで、元の世界に帰還した自分達とは別にサーヴァントとして召喚されてしまったらしい。帰る方法も分からず最初はパニックに陥ったものの、お世話になったマスターに恩返しをするため、こうして人理救済の手伝いをしている。
英霊という色んな意味でアクの強い者達と人類史を救う旅は、驚きとトラブルの連続で、危険ながらも心踊る毎日だ。だから今まで、無意識に目を逸らしてしまっていた“それ”が、思い出話をしたことで表出した。
喧嘩しながらも頼りにしている妹がいて。
信頼できる人に囲まれて。
数多の英霊の輝きに魅せられて。
だけど。
元の世界の人達と会えないという現実は、ただの少女が耐えるには重すぎた。
「………………っ、ぁ……」
ーーーー会いたい。
強烈な衝動が、イリヤの全身を貫いた。家族の、親友の、友達のーーこれまでの人生で関わってきた人達の顔が浮かぶ度に、嗚咽は大きなものになっていく。
「いいから泣けるだけ泣いときなさい。私のことを、そのリンとかいう娘だと思って良いわ」
頭上から降ってきた優しい声に、涙腺が完全に決壊した。イシュタルにしがみついて、みっともなく大声を上げて悲しみを吐き出していく。胸の辺りが涙と鼻水で大変ことになっているイシュタルだが、不思議と不快感はない。
(あーあ、らしくないなあ)
● ○ ●
「ご、ごべんなざい」
「いいからまずそのグシャグシャの顔を何とかしなさい。女の子が周りに見せるようなものじゃないわよ」
それからしばらくして、落ち着いたイリヤはハンカチで涙と鼻水を拭う。ちなみにイシュタルに付着した汚れは、彼女が女神パワー的な何かで綺麗に落としていた。
「あの、ありがとうございました。とっても気が楽になりました」
「ふふん、光栄に思いなさい。寧ろ崇めなさい。宝石とか供えてくれてもいいのよ? というか頂戴お願いだから!」
『人間に物乞いする神様とか(笑)』
「うるさい! 何でか知らないけど宝石にしか神気込められないせいで宝石貯まんないんだから!」
高度を上げた二人は、宙に浮いたまま満天の空を眺めている。手を伸ばせば触れられそうだと錯覚させるほど煌めきに満ちた星々は息を呑むほどに美しく、心を落ち着かせるのには十分だった。
「でも、良いの?」
「何がですか?」
「本腰入れて探せば、元の世界に帰る方法も見つかるんじゃない? マスターなら頼めばノーとは言わないと思うわよ」
その言葉に揺れなかったと言えば嘘になる。一度自覚した郷愁の念は、簡単には消えない。カルデアに集う英霊の力を集結させれば、或いは還ることも可能かもしれない。
それでも、イリヤは首を横に振った。
「いいんです。わたしとクロのためだけに、マスターさんに迷惑をかけるのも違うと思うから。それに、カルデアの生活はあっちのわたしには経験出来ないことだもん」
少なくない時間を過ごしたカルデアは、今やイリヤにとって第二の故郷だ。そこにいる大切な人たちを守ることが出来るのなら、怖くても力を振るうことに迷いはない。
いつか、あの場所に帰れたら。もし、この記憶を覚えていたなら。
その時は皆に、この輝かしい旅路の話を聞かせよう。
「ーーそ。ま、お節介焼きは何人かいるし大丈夫か。あの口うるさい弓兵とか」
「うん。イシュタルさんも親切にしてくれるし」
「っ! いきなりなに変なこと口走ってるのよ! 私は完成された女神で、基本的に人間に慈悲なんて掛けないんだから! 今回は単なる気まぐれなの!」
『「ええー? ほんとにござるかぁ?」』
「揃ってんじゃないわよ!!」
ギャンギャン吠えるイシュタルだが、今は少しも迫力がない。赤らめた顔は可愛らしく、イリヤの隠されたSっ気がむくむくと鎌首をもたげてくる。さてどうやって弄ろうかルビーに相談してみようとして、
「ーー離れなさい!」
イシュタルに突き飛ばされた直後、一筋の赤い光が彼女を襲った。
「ウソ、攻撃!?」
「そこ!」
咄嗟に天舟を盾にして襲撃を凌いだイシュタルは、地上に弓を向けた。青白い魔力を集約させて放った一撃は正に天罰。木々をなぎ倒し、地面に穴を穿つも、下手人の姿はない。先より少し離れた場所から、同じ幾筋もの光がイシュタル目掛けて殺到する。それは魔力の込められた矢だ。
「っの、上等じゃない。喧嘩吹っ掛けた代償は高くつくわよ!!」
「イシュタルさん!」
「ここにいなさい。誰だか知らないけど、あの世で後悔させてやる!」
絨毯爆撃もかくやという勢いで光弾の雨を降らせるが、敵はそれを器用に避けながら矢を射かけてくる。撃ち合いでは埒が明かないと思い業を煮やしたイシュタルは、段々と距離を取る敵を追って急降下した。
取り残されたイリヤは、呆然としていた頭を切り替える。
イシュタルは強力なサーヴァントだが、特異点下では何が起こるかわからない。何より、力を振るう理由をたった今見つけたばかりだ。
「ルビー!」
『了解です!迂回して行きましょう』
敵に気づかれないように、一度降下したイリヤは、木々の間を縫うようにして遠回りでイシュタルの下へ向かう。風切り音と爆発音の応酬が続いている為、位置の特定には困らない。
鼓膜を揺るがすそれを頼りに近付いていたが、近くなってきたところでプッツリと音は途切れてしまった。そして甲高い女性の悲鳴が耳に届く。
『明らかにヤバそうです。注意してくださいねイリヤさん!』
「う、うん!」
緊張に身体を強張らせ、イリヤは開けた場所へ飛び出した。
「イシュタルさん!! 大丈……ぶ……」
「フハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! 何とも無様よなイシュタル!こうも見え透いた罠に引っ掛かるとは、羽虫と同程度の頭しか持ち得ないと見える。飛んで火に入るなんとやらと言うやつだ」
「こんの性悪! さっさと逃げ出してーーって嘘、
「馬鹿め。この我手ずから開発し、改良を重ねた対
ネットの中でに逆さ釣りになっているイシュタルと、とてもご満悦に高笑いを響かせている賢王サマが目に入った。
「え……と、何が起こって」
「おや、イリヤスフィール。追ってきたのか」
そして側にいたエミヤがイリヤを見て驚いたが、すぐに事情を察して疲れた表情に戻る。混乱しているイリヤに、エミヤはため息をつきながら事情を説明した。
「独断で特異点にレイシフトした彼女を連れ戻すために、私とそこのキャスターのギルガメッシュが派遣されたんだ」
「ひょっとしてさっきの攻撃は……」
「私だ。彼女を捕らえるなら、追うよりも誘い込んだ方が良いからな。まあそれなりに被害は出てしまったが」
「ちょっとエミヤとイリヤ! そんなところで呑気に喋ってないで助けなさいよ!」
「君は一度反省したまえ。カルデアの設備を壊したの、これで三度目だろう」
「な、なによぅ。何故か分からないけど、なんとなく知っていた中華料理っていうの作ろうとしてみただけじゃない」
「それで厨房の電化製品を黒焦げにさせては世話がないのだがな! 一晩掛けて仕込みをした食材が全滅だ!!」
「あ、怒るところそこなんだ……」
スイッチが入ったエミヤは、そのままお説教モードに移行。宙ぶらりんのまま、右を向けば気に入らない腐れ縁から嘲笑され、左を向けばオカンから滔々と小言が続くという地獄に、さしものイシュタルも堪えたようで。
「イリヤー。お願いだから助けてよぉ。何でもするからぁ」
『ん? 今何でもするって』
「アンタにゃ言ってないわよこの腐れステッキ!!」
この通り、大変珍しく本気で助けを求めてきた。守銭奴の権化が何でもするというのだから相当である。
「……イシュタルさん」
「あ、ありがとうイリヤ! とりあえずこの二人をどうにかして」
「本気で反省してくださいっ!」
ステッキをイシュタルに向けてぶん投げ、その意を汲んだルビーが秘密機能の一端を解放した。ステッキの先端から流れたビームのようなものにイシュタルは悶絶する。
そもそも夜寝る時間をぶっちぎって好き放題振り回された上、明日の献立の大幅なグレードダウンが避けられないとなれば、温厚なイリヤも腹に据えかねるというものだ。
「フハハハ! このような人畜無害な小娘にすら見捨てられるとは、貴様の塵ほどにしかなかった人望もいよいよ底をついたようだ」
「まあ中華料理は後々教えるとして……とにかく家電だな。明日一日で、せめて一般的な電化製品は使えるようになるまでみっちりと使い方を叩き込んでやろう」
「とりあえずイシュタルさんは痛い目を見てもらわないと! ルビー、全機能解放を許可するよ!」
『了解しました。カレイド流活殺術の真髄をお見せしましょう!』
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ーーーーその後朝日が昇るまで、この駄女神へのお仕置きは続いたそうな。
初めまして。そうでない方はお久しぶりです。
すみませんメチャクチャ時間かかってしまいました。新生活に中々慣れず、筆が乗らなかったです……。今後はもうちょっと早く更新できるように頑張ります。
皆様CCCイベはいかがでしょうか? まさかの人物がピックアップされましたが、この人あるならあのヤンデレ根源姫もあり得そうな気がして怖いですね。ちなみに筆者はあのエロ尼を引くために課金額が過去最高になりそうです。そこまで好きなキャラでもなかったはずなんですが、魔性に囚われてしまったようです。
あと、この作品についてアンケートを取りたいので、興味のある方は活動報告までお越しください。
ご感想お待ちしています。