十一月に近づこうとする頃に光秀は石黒と学会に参加していた。だが疲労感のためかうまく集中力が働かず他事ばかり考えてしまう。
数日前に救急で運ばれてきたあの患者はその後で傷が開いたからと再診に来た。簡単に開くはずのない傷を開かせるということは、かなり過酷な仕事をしているのか。他にもあの手に触った限り、何種類か武道をしているように思えた。そのためそれらすべてを控えるように告げたが心配は付きまとう。しかしだからと光秀があの患者のためにできることは何もなかった。
学会からの帰り道、助手席でまどろんでいた光秀は肩を叩かれて目を覚ます。
「明紫波、事故のようです」
運転手である石黒の言葉に光秀は飛び起きて周囲を確認した。前方は渋滞しているらしく周囲もほぼ徐行状態が続いている。
「どうしますか?」
「行くに決まってンだろ」
のろのろと進む流れの中で車線を変更して車を路肩に止めさせた。その上で応急処置用のバッグを取り出して車を降りる。
「石黒は軽傷者の対応な。出血したヤツがいたらすぐに呼べ」
「受け入れ医院への連絡はどうしますか」
「ここなら月城まで車で十分だろ。受け入れ要請頼む」
「わかりました」
ふたり並んで走り現場へ向かいながら指示を出す。その中で見覚えある背中を見つけて光秀は自然と足の向きを変えた。男は石黒と同じように血が苦手なのだろう。吐き気を抑えるため口に手を当てるその背中をたたいて横を抜けた。
どんなヒーローでも苦手なもののひとつくらいはあるだろう。月城のスーパードクターも社交性の低さと言う難点がある。
そう思いながらも光秀は親近感にあふれる笑みを抑え込んだ。
「石黒は向こうの負傷者を救護な」
指示を出しながら、光秀は事故車両近くに倒れている男性に近づく。負傷者を見た瞬間、光秀の脳裏からあの男の存在が消えていた。地面に倒れたまま動かない男性に近づき傷の具合を見る。出血の様子、意識の有無、骨折など。発見すべき事は多く他に意識を向ける余裕はない。
迅速に重傷者を処置させるためのトリアージを済ませる。その上で意識レベルの低い男性の元で頭部を圧迫止血しながら声をかけ続けた。その間に救急と警察が到着する。
警察官は通報者らしき若者と言葉を交わしながら事故処理を始めた。しかし警察官と話し終えた若者はすぐさまあの男の元へ向かう。
青白い顔でたたずむ男へ、若者は心配そうに声をかけている。その様子からただの先輩後輩の関係でないことは読み取れた。それだけの認識を済ませて石黒の元へ向かった。
軽傷者の対応をしていた石黒は、それでもやや苦しげな顔を見せている。おそらく遠目でも出血を見てしまったのだろう。
「大丈夫か?」
「明紫波のほうがキツそうですよ。死亡者がいたんですか?」
「いやいねぇけど……そこはいいんだよ。なんかたぶん終わったし」
「何の話ですか?」
いくら石黒が優秀な男でも何も語らずにいては理解できるわけがない。それをわかった上で光秀は何も語らずにいた。
「あー、そうだ。おまえさっき買ったコーヒーまだあるよな」
「ええ、こちらの荷物に入れたままで」
石黒は応急バッグの他に学会資料の入った荷物まで持ってきている。その荷物に手を突っ込むと缶コーヒーをふたつ取り出した。
「通報してくれたヤツにあげていいか?」
「構いませんよ」
「ありがとな」
諦めようと決めても無視するわけにはいかない。傷の具合はどうなのか吐き気はあるのかと、確認したいことはいくつもある。そうしてあの男の元へ近付いた光秀素知らぬ態度で声をかけた。
通報してくれた礼を言いながらコーヒーをふたつ渡す。
光秀自身わりと世間では長身だと言われていた。だが男の身長はそれよりもさらに高い。大柄で筋肉質で、どう見ても体育会系な外見をしている。しかし育ちが良いのか容姿のせいか、けっして下品には見えなかった。
腕が痛む様子はないと視認した上で光秀は早急に石黒の元へ向かった。石黒は何やら不機嫌な顔で時刻を確認している。きっともう早く研究室へ帰りたいのだろう。そう考えながら歩いていると不意に腕を捕まれ足を止める。
何事かと振り向いた先にあの男がいて、なぜか連絡先を聞かれた。あまりに予想していなかった事に光秀の思考が停止する。
この展開は何なのか。こんなことをしてあの若者は怒らないのか。そんな事を考えていた思考が、ふと今まで目にした患者の親族と重なる。部下たちに「助けてくれてありがとう」と頭を下げる姿を何度も目にして来てきた。
おそらくこの男もそんな部類の感情をこちらに向けているのだ。そう考えながら男と言葉を交わしていると石黒に呼ばれてしまった。
やはり早く帰りたいのだろう。そう思うまま光秀は男と別れる。そしてふたり車に戻り、警察官が駐車違反を取り締まっている現場と遭遇した。
警察官はこちらが医師で事故の応急処置をしていたと訴えても聞かなかった。むしろ本当に医者なのかと光秀に疑いの目を向けてくる。
「あぁ!? どっからどう見ても医者だろうがよ」
これだから警察は嫌いなんだと怒りをそのままぶつけようとした。だが石黒に制されたあげく、後ろに下がっていろとまで言われてしまう。そのため光秀は苛立ちを抱えたまま自分の車に戻り荷物を後部座席に投げた。
しかし苛立ちは消えず、光秀は説明する石黒を眺めながら煙草を取り出す。