十一月に入ると学会だの接待だの会合だのと忙しくなってくる。その間にも光秀はあの男から何度も誘いのメールをもらっていた。そのため約束した日に向けてなんとか時間を空けようと仕事の調整をする。しかしそんな日に限って急患が運ばれたり院長に呼ばれたりで予定がつぶれてしまう。
そうして断りと謝罪のメールを送るたびに、光秀の中に罪悪感が生まれていた。
「……つらい」
研究室で論文の仕上がりを待ちながらポツリとつぶやく。すると軽快にキーボードをたたいていたその音が途切れる。
「そういえば最近、不整脈がと言ってましたね」
「不整脈は真琴に検査してもらったけど問題なかった。伊達川には仕事の詰めすぎだとか言われた」
「では忠告を聞いて休めば良いんですよ」
「んなこと言われてもな。休むどころかなにもできてねぇ」
インオペ対象患者ばかり診てきた光秀はもう何年も患者に感謝されていなかった。だからなのかあの男から向けられる気持ちがとても輝かしいものに思える。しかしひとつひとつ断りを向けるたびにその輝きがくすんでいく気がした。
そして今はもう最初の頃のような誘いも来なくなっている。毎日夕方に来ていたメールも一週間前に途切れていた。
「さすがのヒーローも嫌になるよな」
「明紫波」
うんざりした気分でつぶやいた光秀に石黒のため息がぶつかった。
「うっとうしいです。それほど気になるなら自分で連絡しなさい」
「あ? んなのムリに決まってんだろ」
「あなたの意見は聞いてません。連絡しなさいと言ってるんです。それができないのなら携帯から連絡先を消してしまいなさい」
何が石黒の逆鱗だったのか、不機嫌顔に命じられて光秀は舌打ちした。勢いよく立ち上がるとできた論文は自分で持ってこいと告げて研究室を後にする。
連絡しろと石黒は言うが、連絡をしたところで向けるべき言葉がない。約束を反故にしたことを謝罪しても意味はないだろう。そう思いながら仕事に終われる日々を過ごして週末の学会が近づいた。この学会の後で運が良ければ時間が空く。その時なら会うことができるかと思いながら携帯電話を手にした。
晩秋の風が吹き付ける屋上でひとり携帯電話を手に固まる。電話帳から男の連絡先を出しても、通話ボタンが押せない。
「あー、くそっ……落ち着け」
携帯電話を一度ポケットに戻して煙草を取り出す。最近よく不整脈に襲われることがある。検査でも問題の出ないそれは、今も光秀を戸惑わせていた。
自分を落ち着かせるために吸った煙草の煙が秋風に流れていく。相手はこちらに感謝を伝えたいだけだとはわかっていた。それに男のそばにはあの若者がいる。若者は事故の現場に遭遇しても戸惑うことなく自分にできることをしていた。その上であの男を気遣うこともしている。
若者の小綺麗な顔を思い出していると気持ちが落ち着いていった。不整脈もいつの間にか消えて、冷たい風に頭も冷えていく。
「感謝を受け取って、飯食って……終わって、できたら連絡先も消せれば良いよな」
医者と患者の間に感謝や恩と言った感情が生まれるのは当然のことだ。ただもう何年もそれを受けて来なかったため、柄にもなく動揺しているのだろう。そう自分に言い聞かせた光秀は再び携帯電話を取り出した。
子供の頃に憧れたヒーローは今も光秀の上に月城医大の院長としていてくれている。だから光秀はそんなヒーローに憧れ、役に立ちたいと今の地位に立った。
しかし自分は院長や部下たちのような有能な人間でも天才でもなかった。いくら努力を積み重ねても人の命を救うと言う神の所業をするには力が足りない。だからと光秀は天才たちを支えるためと理由をつけて影にこもることにした。
けれどヒーローというものは、天才医師以外にも存在しているらしい。それを教えてくれた男は、光秀の誘いに迷いなく応えてくれた。
どんな仕事をしているのか、なぜあの時に人を救うことをしたのか。どんなことをすればそこまで硬い手になれるのか。
聞きたいことは山ほどあったがすべて飲み込んでいつもと同じ態度を心掛ける。
ただ男のそばにいると謎の安心感が生まれてしまい格好がつけられなくなっていた。おそらくそれは男から向けられる態度が長年の親友のようだったからかもしれない。