もう直ぐこの場は戦場となる。
嵐の前の静けさ……とでも言うべきなのか、アキラの放った怒号、人非ざる声の大砲がこの世界を揺らせた後、ある得ない程の静寂が場を支配していた。
その空気感は、この後何かが起こる……そう宣言しているかの様。
まるで均衡した刃の上でゆっくりと震えているかのようだった。
ベルトルトの超大型の出現による被害を最小に抑える為の牽制。弱さをアキラは捨てた、と思わせる程の殺意を纏った咆哮。
ライナーもベルトルトも、恐らくはアキラのこの【声】の事は知らなかっただろう。
物理的に巨人を破砕する事が出来るので、バカみたいな声量を持ったとしても何ら不思議には思わないかもしれないが、知っていても実際体感、体験するのは違うと言うモノだ。
嘗ての教え子を手にかける。
その覚悟を、ライナーやベルトルト、そしてあの獣の巨人に見せられただろうと判断させるには十二分。
風は弱く、灰が静かに舞うだけ。遠雷のような残響さえ、いつの間にか止んでいる。誰もが――次に来る音を待っている。
「!」
先ず先に気付いたのはエルヴィンだった。
周囲を見渡し、遠くまで確認する為に視界が開け、且つ最も高い建物の上で観ていたからだ。アキラやリヴァイ、そして他のメンバーはベルトルトを警戒し、主に空を見ている。
あの超大型の巨人が爆発するのに最適なのは空中からだと全員が認識しているからだ。
故に、エルヴィンが先に気付いた。
視界に映ったのは、低く地を這うように進む影を。
「前方、四足の巨人を確認! 以前、鎧と超大型を連れ去ったあの巨人と同型と思われます!」
エルヴィンの直ぐ隣に居る兵士、ナイクが声を張り上げる。
場はある程度の混乱を見せるが、それは直ぐに収束されていた。
たかが1体の巨人程度が何が出来るのか、と。
こちらは人類の総力を挙げた戦力が揃っている。
これまで虐げられ、苦しめられ、幾多の兵士達を屠ってきた歴史の全てを背負って駆逐してやる、と言う気概すら持っていた。
「待て!!!」
そして、次にエルヴィンが声を上げた。
あの巨人、四足歩行の巨人の傍に砂塵に隠れてしまっているが、1つの影があったからだ。
遠目だが解る。長身の男。見慣れぬ顔。だが、間違いなく人間。
「…………」
巨人の傍に居る人間。
それがどういう存在なのかは考えるまでもない。
ほぼ、間違いなく巨人に成る事が出来る人間であるという事。
状況を考えれば、あの巨人の横に居るあの男こそが【獣の巨人】という事になるが……。
矢筒を握りしめた若い兵士が、血走った目で叫んだ。
「隊長! 先制攻撃を! 巨人を操る者なら、敵であることに違いありません!」
だが、エルヴィンは片手を上げ、静かに制した。
「……待て。まだ動くな」
巨体の影ではない。一人の男が、埃を纏い、瓦礫を踏みしめるようにして歩いてくる。瞳は金属のように冷たく、だがその足取りは驚くほど穏やかだった。
「状況は?」
「待て」と制したエルヴィンの背後に、風を切る音が迫った。
リヴァイだ。立体機動のワイヤーを鋭く打ち込み、あっという間に指揮官の傍へと舞い降りる。
短く問う声。だがその響きには、確かな信頼が滲んでいた。
想定外の事態であるにも関わらず、一片の迷いも動揺もない。リヴァイとエルヴィンの並ぶ姿は、兵士たちに【冷静さ】を齎すに十分だった。
片翼が傍に居る、そしてもう片翼はベルトルトへの警戒を怠らず、空に注力、注意を向けている。
揺るがない牙城だと。
エルヴィンは前方の四足の影と、そこから降り立った長身の男を見据えたまま、低く答える。
「まだ攻撃は早い。奴が何をしたいのか、見極める必要がある。……連中が
リヴァイの鋭い眼差しが、その横顔を射抜く。だが次の瞬間、彼は小さく鼻を鳴らすと肩をすくめた。
「……了解だ。お前の頭が定まるまでは、俺も動かねぇ。アキラにも言って伝えさせる」
「ああ。だが、ベルトルトの件もある。全員が一か所に集まるのはまずい。アキラ、ペトラ、イルゼ、アニの4人はあの場で待機を指示して貰う。……そうだな、あの男が動くか、若しくは攻勢に転じるか、そのどちらかで」
「了解」
それは忠誠でも、従順でもない。ただ戦友としての絶対的な信頼だった。
敵が何を仕掛けてくるか解らない以上、兵団の頭脳であるエルヴィンの傍を離れるのは悪手だろう、と判断したリヴァイは、ナイクに伝令を頼んだ。
アキラに対して、エルヴィンの指示以外にあのバカが暴走しない様に釘をさせ、と。
ウォール・マリアの壁の上に居ると言えども、立体起動を使えば直ぐだ。
そして、アキラはベルトルトを警戒し、空に注意を注いでいるから地の脅威にはまだ気づいてない可能性がある。
「生憎、遠距離からの攻撃対処は、オレじゃ無理だ。アイツしかいねぇ」
「はっ!!」
ナイクは右拳を胸元へと当てて、即座に移動開始。
それを観たリヴァイは、軽く含み笑いをした。
「オレも、あのバカの考えが伝染っちまったか」
心臓は要らん。早く行け、と言いかけた自分に対して笑みが零れる。
誰一人欠けさせない、と言う甘い考えが伝染した。そして……それが出来ると信じているのだ。
ここに集う戦力ならば。
「―――――」
そんなリヴァイの心境を他所に、エルヴィンの脳内は素早く、激しく回転を見せる。
影から歩み出た長身の男は、実に緩慢な足取りであった。
あの巨人から降りた後、ズレたであろう眼鏡の位置を直し、レンズに着いたであろう土埃を払う。そしてその次には、軽く後ろに手を上げた。
その仕草に、後方で控える巨人はわずかに首を垂れ、音もなく退いていく。
エルヴィンは目を細める。
――奇妙だ。
本来、否自身が巨人と言う戦力を有するのであるなら、巨人が戦場で下すべき行動は、単純な戦力、力の誇示であり、そして威嚇でもある、と判断する。
それをせず、わざわざ人の姿で歩み寄ってくる。しかも護衛を残さず、自らを晒すようにして。
あれは、アキラと言う戦力を知ったが故の無謀な行為か、それとも――これも計算の内か。
更にエルヴィンは思考を巡らせる。
――この状況をどう見る?
敵が敢えて人の姿を選んだ。それは「対話の意志」を暗に示すものの可能性がある。
しかし、交渉の前提は「力の均衡」にある。我々にそれを見せつける算段が、既にあるのかもしれない。
それに力の均衡とあるが、既にその力関係は決している、とも言っても差し支えない。巨人が戦力も何もならない、と言える相手に対しての対話だ。いわば武装解除と言う行為に他ならないかもしれない。
だが、あの男が、獣であるなら、即座に巨人となり我々に牙をむく事は容易いだろう。
擬態として接近している可能性が大いにある。
だが、あの巨人を遠ざけた真意。そこに着目すべきだとも思える。
やはり、武装解除の意思。攻撃の意思はないと言う意思表示? いや、或いは後方で別の作を温めているのか?
――否、見せかけに過ぎない。故に兵を不用意に動かすのは餌を散らすになる。
この場合は散開させるのが定石と言えるが、それこそが悪手と言える。
少なくとも―――力で敵わない相手に対して有効な手段は、動揺を誘う事。
1人の犠牲が、軈て大きな波紋へと繋がっていく可能性が否定できないのだから。
エルヴィンの胸中に、いくつもの仮定が浮かび、交錯する。
だがその全てを呑み込み、彼は冷徹にひとつの結論へと至った。
「――我々と交渉を望む……か」
低く呟かれたその言葉に、傍らのリヴァイが一瞬だけ眉をひそめる。
だが、エルヴィンの声音には迷いがなかった。
敵の動きがいかに不可解でも、そこに含まれる「意図」だけは確かに存在する。
それを読み解き、勝機に変えることこそ――指揮官の役目であった。
地面に踏みしめる足音は微かだ。
だが、張り詰めた空気の中では、まるで雷鳴のように響く。
その男――誰もがまだ名前も知らぬ存在――が、ゆっくりと歩みを進めてくる。
背後の影は四足で疾走する巨人。だが、それは一切こちらに向かっては来ない。
「総員、警戒を維持せよ」
小さな声だが、厳格な命令が走る。兵たちは自然と距離をとり、囲むことなく構えた。
リヴァイも、普段なら疑わしきは罰せよ、とまではいかずとも即座に半殺し及び拘束し、尋問くらいには頭の中で出来上がっていたのだが、エルヴィンの判断を尊重し、まだ行動に移していない。
男は一定の距離で立ち止まる。
周囲の兵士たちは息を飲む。
ゆっくりと視線を巡らせ、こちらの陣形と反応を確認しているのか――その沈黙の時間が、異様な緊張を生む。
「こほんっ。あー……先ずはこれだけは言わせて欲しい。降伏するって訳じゃない。やる前に出来るだけはしたい、って意思表示だ」
男はどさっ、と地に胡坐をかいて座った。
エルヴィンの脳裏で思考が走る。
――敵は交渉の場を望んでいる事は確か。だが、戦争するつもりもあるらしい。……こちらの反応を探っているのか。
ただ、背を向けることは許されぬ愚策だろう。
彼の動きは、一歩間違えば全滅する可能性だって否定できない。隠密に行動をして一気に爆発させるような攻め方がまさか巨人側にあるとは思っていなかった。
「(……いや、
その足元で、地面が微かに震える。
巨人の影は去ったはずだが、その存在感は残る。
――判断は、ここで下さねばならぬだろう。
その後、エルヴィンは前に出る。リヴァイを傍に行動し、ある程度の距離を開けた場所、声は届くが離れた位置へと来て止まった。
相手は巨人故に、近づきすぎる訳にはいかない。
そして、アキラを呼ぶか否かは最後まで考えたが、結論はこのメンバーだけで交渉に応じる事にした。
胡坐をかいた男の姿を、エルヴィンは静かに見つめていた。
砂埃が微かに舞い上がり、風が肩口のマントを揺らす。遠く、瓦礫の影に立つ兵士たちは、息を殺してその動きを追っている。
誰もが、あの巨人の背後に潜む、もう一体の影――かつて見た四足歩行の巨人――の存在を意識していた。
リヴァイは立体機動装置をいついかなるタイミングでも稼働出来る様に臨戦態勢を整えている。最悪この嘗ての死にたがりバカが死なない様にするために。
鋭い視線を男の動きに集中させる。
その背後を警戒しつつも、その顔には緊張よりもエルヴィンへの信頼がにじむ。
間違える事はしない。死にたがっていた事もあったが、それ以上に過ちを犯さないのがエルヴィンと言う男だと知っているからだ。
思考が自然と体に沁み込む。エルヴィンの判断を最優先にする、それが今の戦略だ。
「やぁ、初めまして……だな。無論この場に居るやつ全員がもれなく初めまして、になるが。……
胡坐をかき、おどけている所作の男の一言一句、聞き逃すまいとするエルヴィン。
あの悪魔……とは誰の事を言っているのだろうか? そんなの考えるまでもない。
「我々からすれば、お前たちこそが悪魔なのだがな」
エルヴィンはそう返す。
何代にも渡り、人類を殺してきた巨人。そしてその巨人を率いる男こそが、悪魔の総大将だと言える。
その言葉に、男はゆっくりと背筋を伸ばし、静かに息を吐いた。
砂埃の向こう、光が彼の輪郭をぼんやりと照らす。座したままの彼の目は、鋭く、そして冷たい。何を考えているのか、何を狙っているのか、わずかに眉間に寄せた皺の奥に見える思惑を、エルヴィンは必死に推理する。
そして奇妙な時間がゆっくりと流れる。
風の音、遠くの瓦礫が崩れる音、兵士の息遣い。すべてが、座ったままのジークの存在感を際立たせ、緊張の針を読者の胸に刺す。彼の手の動き、微かな呼吸、わずかに傾く肩の角度。すべてが意味を持つかのようだ。
「我々が殺し合うのは変わらないのであれば、お前は何故ここへ来た? ……出来るだけしたい、とは何のことだ?」
殺し合い上等。と言うつもりは無い。
世界の深淵に近づく事が出来るピース……。それは間違いなく目の前の男も同じなのだ。
幼き頃より知的好奇心が抑えられないエルヴィンは、喉から手が出る程欲しているそれを前に、好奇心が高まる半面、いついかなる行動をとったとしても、あの男を殺す手段も模索している。
「ああ、オレ達の目的。やる前に一応話しておいた方が良いって思ってな? どう転んでもオレの口から説明できると思えないから……。だから、先に言っておきたくて」
男はゆっくりと立ち上がった。
砂塵が再び舞い上がり、大地を彩る。
そして、誰もが予想もしない言葉がこの直ぐ後、発せられた。
―――目的は、悪魔。その身柄をこちらへ渡せ。