ふんわりと鼻腔に広がる香ばしい匂い。それがなんなのかは分からないが、とても落ち着くものであることは確かだ。思わず目を閉じてその芳香に浸っていると、なにやらフェンリルが耳打ちをしてきた。
『……私を呼ぶときは先ほどの涼花という名前で……一応姉弟ということでお願いします……』
フェンリルであることを隠しているのか、それとも人の体を乗っ取っていることを隠しているのか。どちらにせよ、発覚してしまえば存亡に関わる事なのでノらない訳にはいかない。
「分かったよ。涼ねぇ。」
フェンリルさん、いや凉ねぇが一瞬顔を赤く染めてそっぽを向いてしまったが何かが起きたのだろうか。彼女はそのままいくつものテーブルに目もくれず、一人の老翁がいる奥へと進んでいくので二歩後ろをついていく。
「マスター、いつもの頂戴……砂糖なしで……」
「どうした凉ちゃん。いつも甘くないと飲めないってうるさいのに。それに男の子なんて連れて。拉致でもしたんか?」
「そんなわけないじゃん…………ぉ、弟だよ。義理の」
大きくため息をつく凉ねぇ。今までとも、さっきとも様子がまるで違う。これが宿主の人格なのだろうか。
一方、老翁は納得したのかガチャガチャと作業を始める。焦げ茶色の豆を機械に入れハンドルを回す。ごりごり、ごりごりと音をたてながら粉末状にした豆を、今度は先にお湯をかけていたカップのようなものがついた容器に入れてさらに上からお湯を入れる。粉が浮いていき溢れそうになったところで止めると、下の容器には一滴、二滴と豆と近い色の液体が落ちる。暫くして粉の膨らみがほんの少し和らぐとまたお湯を注ぐ。今度は少し量が多く、液体はどんどん溜まっていく。お湯が全て落ちるまで待つのかと思いきや、ある程度残したまま上部を外し、容器からちゃんとしたプレートつきのカップに中身を注いだ。僕の幸せを感じる匂いはより強くなる。
……あぁ、これなんだ……!
「あい、砂糖抜きいつもの。少年にも同じのでいいか?」
「うん。たぶん飲めるから。」
「二人分挽いてて正解だったな。」
再び容器から別のカップに注ぐ老翁。満ちていく様子は、まるで僕の心情を表しているようだ。
「はい、少年。まだ熱いから気を付けろよ。」
ありがとうございます。とカタコトに返事して置かれたカップの持ち手に指をかける。確かに熱い。けど、そんなことは気にならないくらい、早く飲みたい気持ちが勝った。
「いただきます。」
軽く匂いに酔いながら、少し口に含む。
「……苦い。」
けど不快じゃなくて、寧ろ心地いいくらいだ。今まで味わったことのない感覚に感動して、少し涙が出てきた。
「大丈夫か?砂糖入れるか、少年。」
言葉が出ないので、首を横に振って応える。その動きでより口腔に拡散されて香りが鼻から抜ける。五感を全て刺激していく素晴らしい飲み物だと言うことを改めて実感する。
「小さいのによく飲めるな。涼ちゃんですら砂糖入れなきゃ飲めないのに」
「きょ、今日は飲めてるじゃん!」
「『カッコつけるために我慢』って顔に書いてあるぞ。」
涼ねぇは口を尖らせて黙りこむ。
「あの、砂糖、入れてみたいです。」
「ん、やっぱ苦かったか。」
「はい。でも僕、この味好き、です。だから、どう変わるのか、知りたい。」
出し得る言葉を一斉に動員してカタコトで喋った言葉はなんとか伝わったようで、白いサイコロのようなものが入ったビンを出した。
「好きなだけ入れな。入れたらその匙でかき混ぜるんだ。」
ためしに一個だけ入れて混ぜる。ゆっくりと、円を描くように。四角い固まりは形を失っていき、ザラザラとした触感に変わっていく。ついにはその感覚すら薄れた。飲みごろだろうか。
匙を起き、再びカップに口をつける。匂いは特に変わった様子はない。半信半疑のまま、液体を舌に触れさせる。
……成る程。さっき感じた苦みが和らいで、代わりに少し甘味が付与された。これはこれでいいな。
「どうだ?ワシはその深さには二個がちょうどいいと思っとるが。」
「一個でも、おいしい、です。僕はこの、くらいが好き。」
「味の好みは人それぞれだからな。」
そういって老翁は口角をあげる。僕もつられる。
「私もやっぱ砂糖入れてこそだわ。」
凉ねぇは僕の前にあるビンを横からとって三、四個入れる。
「少しは成長したと思ったんだがな。」
今度は鼻で笑う老翁。その光景で少し吹き出しそうになってしまったのは一応堪えた。うん。
シリウス君のコーヒーとの出会い。この話はかなり初期から考えてた話だったりします。