そこには見慣れた寮の天井があった。
「......あれ? 僕は生きているのか?」
「はい、僕らはみんな生きています。生きているから笑うのです」
視界の端ではクロエのうっすらと青みを帯びた長い銀髪が窓から吹く風に揺れている。
「......どこで覚えたの? それ」
「はい、以前、束様が歌っておられました」
「うん、たしかに歌っていそうだけど」
手のひらを太陽にかざす束の姿が目に浮かぶ。
「それにしても驚きました」
「ああ、倒れた僕がいきなり運ばれてくるんだものね。誰かに見つかったりしなかった?」
「はい、問題ありませんでした」
セシリアの料理を口にしたのは失敗だった。
そんな後悔が頭を過ぎる頃には様々な感覚が麻痺し始め、気が付けば学生寮の自室。道理でその場にいた誰も料理に手を付けようとしなかったわけだ。
「ちなみに僕はどのくらい眠っていたの?」
「戻られるまでの経緯を確認していませんので正確には分かりかねますが、運び込まれてから1時間が経過しています」
「となると、ここまで来る時間を足して...1時間半は経っていそうだな」
ベッドから身体を起こすと、とくにこれといって異常はなさそうだった。
「動いてはいけません。お身体が丈夫とはいえ曲がりなりにも食中毒、安静にする必要があります」
そういってクロエは背中の影に何かを隠すと阿九斗を押し倒すようにして寝かせる。
「ねえ、それはなんだい?」
「それとは?」
「今何か後ろに隠しただろう?」
「隠していません」
「いや、隠してるじゃないか」
クロエは何事もなかったように後ろ手に隠していたバスケットを阿九斗に差し出す。
「セシリアさんがお見舞いに頂いた粗品です。書き置きによると、目が覚めて食欲が戻ってきたら召し上がるようにと」
バスケットの中にはバナナやキウイ、メロンといった色とりどりの果物が詰め合わされていた。
料理とは違い、こういう類であれば昼間のような事を心配する必要はないだろうが、阿九斗はその中から無造作にりんごをひとつ手に取る。
すると指先に妙に湿った感触があり、そこにはなにやらかじったような跡がくっきりと残っていた。
「.........」
よく見てみるとバナナの房も数本もがれていて、メロンに至っては網目模様のの所々に小さな歯型がついている。
「......ねずみが出たかな?」
「そのようで」
「真顔で嘘をつかないでおくれよ。というか、メロンをまるかじりしようとしたのかい?」
「全部頂くのは申し訳なかったので」
平然と自白すると、クロエは口の端についたりんごの果汁を舌でペロリと舐めとった。
「......台所で切ってくるから、あとで一緒に食べようか」
「ありがたく頂戴します」
阿久斗はそのまま身を放るようにして、ごろりとベッドに横たわった。組んだ両手を枕にして部屋の天上を見つめる。
「なんというか、僕ってやつは普通の生活を送れないものなのか」
少年時代を孤児院で過ごし、奨学金を得てコンスタンツ魔術学院に入学できたかと思えば魔王として恐れられ、その挙げ句は神殺し。
こちらの世界に来てからも争いには事欠かず、自分から首を突っ込んだこととはいえ、流血失神生傷の絶えない日々。
そしてあろうことか今日はクラスメイトに毒を盛られた。
「なんともなぁ」
ややブルーになっている阿九斗の服の裾をクロエが引っ張る。
「ときに阿久斗様、セシリア様から頂いたフルーツはいつ切るのですか?」
「さりげに急かしてないかい?」
無反応のクロエ、しかし掴んだ服の裾を離さないでいることがある種の反応だった。
「今切ってくるから......あ、そういえばキッチンの調理器具って申請しないと設備されてないんだっけ?」
そう思い出して阿久斗はキッチンの棚を確認すると、案の定中は空だった。鈴が中華鍋を持参しているように自前の調理器具の持ち込みは許可されているが、無論阿久斗は持っていない。
「向かいの一夏のところでキッチンを使わせてもらうよ。部屋まで運んでもらったお礼も言いたいし、少し待ってて」
そう言って部屋を後にする阿九斗をクロエは見届ける。
正確には阿九斗が部屋から出ていくのを耳から聞こえる音で確認している。そして部屋のドアが閉まってからしばらく静寂が続いた後、ポケットから端末を取り出してスイッチを入れた。
するとクロエの目蓋の奥で《黒鍵》が反応し、端末から送信されたファイルが視界に映し出される。
それは束から届いた“次の指示”だった。
「亡国機業があっくんの存在に感づいて専用機の魔王を狙っているのだ。欲張りだよねー。あっくんたち専用機持ちが電脳世界にダイブしている間に魔王と未登録コア、あと白式まで奪おうってつもりらしいよ」
淡々とそれを読み上げるクロエの声からは感情を一切感じられない。
そう遠くないうちに亡国機業はIS学園にハッキングを仕掛ける。それに対する学園側の対応はおそらく代表候補生らによる電脳ダイブであろうと束は読んでいた。
クロエはファイルを閉じ、端末をしまう。
「私の役割は電脳世界で亡国機業が仕掛けてくるであろうサイバー攻撃の無力化、および阿久斗様のワールドパージからの離脱...」
このことは阿九斗にまだ話していない。一夏の部屋から阿九斗が戻って来たら詳しく内容を話すつもりでいた。
やがて部屋のドアノブが回ると、カットフルーツを持った阿九斗が帰ってきた。と、思ったクロエの油断が事態の悪化を招いたのだった。
「え?」
それは聞き慣れない女性の声。
「......ぁ」
そしてクロエが来訪者、簪の存在に気がつくこと数秒。
「...えっと...こんにちは?」
簪の一言で我に帰ったクロエはすぐさま《黒鍵》で自身の姿を消す。
「............」
目の前で起こった怪奇現象に簪は息を飲んだ。
こめかみに浮かんだ汗の雫が線になって頬をつたい、フル回転する思考が一周回って停止する。
状況を解析できない。現状が理解できない意味がわからない。
(とにかく、今起こったことをそのまま整理してみよう。阿久斗の部屋に入ったら見知らぬ女の子がいて声をかけたら姿が消えた)
整理完了。それからたっぷり10秒ほど考え込み、導き出された結論。
「......意味がわからない」
結局はそこに回帰した。そこで簪はあることに気が付く。
(それより阿久斗はどこ?)
簪の聞いた話では、セシリアの料理に倒れた阿九斗がベッドに運び込まれたということだが、部屋を見渡しても阿九斗の姿はない。
それが恐怖感を増大させた。
(まさか......阿久斗になにかあったんじゃ......)
その時、後ろから聞こえたドアの開く音に心臓を撃ち抜かれたようだった。
「あれ? 簪さんじゃないか」
「あ、阿九斗...もう動いて平気なの?」
見ると、色とりどりのフルーツの盛られた皿と空のバスケットを持った阿九斗がいた。
テーブルに一旦それを置いて自身の身体をポンポンと叩いてみせる。
「もう心配はないみたいだ。それにもともと僕は体が頑丈みたいだからね」
「そ、そっか...それならよかった......」
平静を取り繕っても、簪は内心は穏やかではない。
極度の緊張からか果てまた恐怖なのか、今にもまたあの少女が現れそうな、むしろ背後に忍び寄ってきそうな予感すらした。
「ひゃっ!」
「のあっ!」
突然、その場から飛び退くように簪は阿九斗に抱きついた。
「い...今っ! なにかが背中に当たった...!」
「えっ!?」
阿久斗の頬を冷たい汗が流れる。そんな様子に気づくことなく簪は掴んだ手に力を込めた。
気のせいでは済ませられない恐怖感が簪にはあった。
「実は...さっき阿久斗の部屋に入るとき見たの」
「......見たってなにを」
ゴクリ、そんな息を飲む音が聞こえなかっただろうかと阿九斗は思った。
「髪が白くて長い、小さな女の子の......幽霊」
恐怖を押し殺すようにして発した“幽霊”の二文字は、阿久斗を再び頭痛目眩へ陥れるのに十分過ぎるものだった。
(間違いない...簪さんが見たのは間違いなくクロエだ)
簪が見たのも、たった今ぶつかってしまったのも、間違いない。
「......っ」
震えているのがわかりすぎるほどの密着に、ドキリとする阿久斗。当然その原因を隠していることへの後ろめたさもあったが、それ以上に目の前の簪を意識しないではいられなかった。
「......クロエ、出ておいで。このままだと簪さんが可愛そうだ」
状況に耐えかねた阿久斗がそう言うと簪の真後ろの景色が揺らいで、クロエが姿を見せた。
「失礼致します」
「ひゃっ!?」
「簪さん落ち着いて。今事情を話すよ」
ひとまず阿久斗はベッドに腰を落ち着けると事の発端から知る限りの事情を簪に話した。
「...事情は理解した」
「理解はしても、納得はできない......」
「でもクロエの力が必要なのは確かなんだ。実際僕も束さんに協力することになっているけど、スペックを制限されている今はできることにも限りがある。」
「そもそも、篠ノ之博士の目的ってなんなの? 阿久斗を元の世界に戻すことなんじゃないの?」
「それは......」
阿久斗は言葉を濁した。
違うと言えばその通りなのかもしれない。しかし阿久斗はそれ以前の束の目的。ISのコア全てを回収し破壊するという真の目的を知っている。
そんな自分がここで答えを否定で返すのは嘘のような気がしてしまったのだ。
「ごめん、君にも話すのが道理かもしれない。ただそれは僕一人が勝手に決めて話していい事じゃないんだ」
「わかった」
「簪さん...」
「......でも条件がある」
簪はずいっと距離を縮めて言った。
「朝と夜は必ず私と一緒にご飯を食べること。それから阿久斗はすぐに無茶するから週に一度は私のところにISのメンテナンスに来ること」
そこまで言った後、簪はふと阿久斗から視線を外してモジモジとすると、呟くように続けた。
「......それをちゃんと約束してくれるなら、もうこれ以上は聞かない」
「わ、わかった。そんなことでいいなら」
そう承諾した阿久斗に対し、ニヤけそうな頬を必死に堪えて、あくまでも不機嫌そうな様子を取り繕う。
「そう...じゃあ、許す」
(いったい僕はなにを許されたんだろう?)
とはいえこれで丸く収まったというのであれば、阿久斗には願ってもない事だ。
簪自身も別にクロエのことを秘密にしていたことに不満があるわけではない。
ただ単純に、自分と入れ替わるようにして数日前の自分のポジションにクロエが収まっていることが癪であったのだ。
そして結果的に、阿久斗との接点が無くなるという最大の懸念は無事解決された。