アカリは目を覚ますと、正午を過ぎていた。階段を降り、ダイニングへと向かった。しかし、誰もいない。仕事へ行ったのかと思い、アカリは冷蔵庫を開け、ミルクを出した。そして台所へ注ぎにいこうとした時、テーブルの脚元に、人の足が見える。アカリはミルクを台所に置くと、走ってそこへ向かった。そして恐る恐る覗きこんでみると、なんと政介が倒れていたのだ。
「お父ちゃん!?」
アカリは、それを確認するとすぐさま駆けよった。そう声をかけても政介からの返事はなく、片手で脇腹をおさえている。アカリは、ひどく混乱した。救急車を呼ぼうと電話に駆けよった時、買い物から帰った嘉代子も部屋に入ってきて、事態に気づいた。嘉代子は、政介を呼びかけながら起こした。アカリはその間に救急車を呼び、二人は政介とともに病院へ行った。
そこで、アカリは嘉代子から真実を打ち明けられた。
「ガン……?」
嘉代子の話をきき、アカリは動揺しながらつぶやいた。
「一月くらい前に、どうも胃の調子が悪いって言ってたから病院連れていったんじゃけど、大腸ガンって。それもだいぶ進んだ後のようやって、あと一年ってお医者様から。アカリには言うたらあかんて、お父さんが。隠してて、ごめんね……」
嘉代子はそう言うと、泣きだした。アカリは呆然とし、目の前の光景をなかなか受け入れられなかった。
アカリは一人、父の病室に行った。中に入ると、政介は意識があり、アカリのこともわかった。
「おぉ、アカリ。すまんな、心配かけて」
アカリは横の椅子に腰かけ、こう言った。
「なんで、言ってくれんかったの?」
「アカリに心配かけとうなくて。ほら、夢叶えるために東京まで出ていったんやろ? 父さん、それを邪魔しとうなかったんよ」
「そんなこと、気にせんでええのに……」
「母さんの収入だけじゃ、学費が不安なんじゃろ?気にせんでええけん、父さんにも多少の貯金はある」
父の気遣いは、アカリにはこの上なく嬉しいものであった。しかし、アカリは耐えられなかった。
「でも、やっぱり無理じゃ。うち、諦める」
「アカリ……」
「お父さん、無理しすぎたんよ。うちが東京いる間、仕送りもしてくれて、親のお金で音大行こう思とったうちが間違いやったんよ。うち、卒業したらどこにも行かん。だからお父さんは、もう何も考えんと、治療に専念して」
アカリはそう言うと、病室を走り去った。涙を散らしながら、一目散に家まで走った。日が傾き始め、まぶしい夕陽を避けるように、下を向いてアカリは走り続けた。
家に着くと、嘉代子が出迎えた。一緒に部屋に行き、アカリは嘉代子にこう話した。
「うち、やっぱり音大行かん。代わりに、こっち戻ってきて、仕事探すから」
「でも……、今までの努力はどうするん?」
嘉代子は、不安そうにきいた。アカリは、
「うち、今まで人に頼りっぱなしじゃった。自分の意見持たずに、周りに流されてばっかりで。今までもそうじゃった。理数系が得意やから、なんとなく理系行って。本当はやりたくない勉強までして、ずっと変わらないかん思とった。でも、これは自分の考えやけん。こんなわがまま、許してくれんかもしれんけど、でも……」
と言いかけると、嘉代子はアカリを抱きしめた。
「ええんよ。あんたの好きにして。もう、何も言わんけん」
その言葉をきき、アカリの目からは涙があふれた。嘉代子はアカリから離れると、アカリの涙を拭き、こう言うのだった。
「でも……、最後にこれだけは言わせてほしい。大学には行き」
それをきき、アカリは嘉代子をただ見つめていた。嘉代子は続けて、
「学費は、何とかするけん。いい仕事に就くためには、大学には行っといた方がええけん。心配せんでええよ。それからあとは、何してもええけんね」
と言うのをきいてアカリは、
「ありがとう……」
そう言って、また涙を流した。父と母のその優しさに、何度支えられたかしれない。恵まれていなくてもいい、アカリは自らが生まれ育ったこの環境に深く感謝した。昼間は太陽が笑いかけ、そして夜は月が静かに見守ってくれた。アカリは、この環境が大好きだった。そして東京に行ってからは、改めて故郷の恋しさに気づくのだった。
アカリの決心は、すぐに固まった。母ともう一度病院に戻り、父親にそのことを報告してから、家に帰って東京に戻る準備を始めた。父は眠っていたが、アカリは気にせず、これからのことを伝えた。母は、今度ゆっくり伝える、政介もわかってくれるはずだと言ってくれ、アカリの気持ちは少し軽くなった。
その夜。アカリはユウナに連絡した。
「あ、ユウナちゃん? うち、明日東京帰るけん。あ、うん。大事な話があるんよ」
アカリは電話を切り、スマホをカバンに入れた。そして立ち上がり、カーテンを開けた。空には、蒼白い月が何食わぬ様子で浮かんでいる。その時、父の言葉が脳裏に浮かんだ。
『月はどこにおっても美しく見えるやろ? だからお前も、どこにおっても頑張れるように、どこにおってもあの月みたいに輝けるように、その名前に決めたんや』
十七年以上生きてきて、初めて自分の名前の意味を知った時、アカリは心から嬉しさがあふれてきた。父が自分にその名前を付けてくれたこと、将来を考えてくれていたこと、それらが重なって、こうして毎月仕送りをしてくれたり、貯金してくれたり、行動してくれているのだとアカリは思った。そして、無意識のうちに涙が伝っていることに気づいて指でそれを拭い、それからしばらく月を見上げていた。
翌朝、アカリは家を出た。嘉代子がまだ心配そうに、
「何かあったら、戻ってくるんよ」
と言うのでアカリは、
「心配せんでええけん。お父さんのこと、よろしくね」
そう言い、駅へ向かった。父のために下した決断だった。悔いは微塵もない。今まで自分に尽くしてくれたのだから、今度は自分が父母を支える番だと、アカリは固く心に誓ったのだった。
アカリは電車の中で、流れゆく景色を見つめ、心の中で故郷にしばらくの別れを告げた。東京に帰ると、また明るい仲間が待ってくれている。そのことが今の救いなのかもしれない。だから、何も寂しくなどなかった。
東京に着き、アカリはカバンを引きずって学校の近くまで来ると、そこにはユウナ、そしてミカがアカリの帰りを待っていた。
「お帰り」
ユウナが言うと、アカリはまた泣きそうになった。アカリが必死に涙を堪えていると、ユウナとミカが歩みよってきた。
「どうしたの?」
ユウナが心配そうにきくと、アカリは言った。
「うちって……、ほんと恵まれとるね」
その言葉に二人は顔を見合わせ、そして笑った。そしてアカリは顔を上げると、こう言った。
「二人に、話があるんよ」
それをきき、二人は笑うのをやめた。ミカが、
「何?」
と尋ねると、アカリは単刀直入に切りだした。
「うち、吹部辞める」
『え?』
二人は驚き、アカリを見つめた。
「音大には行かずに、実家帰ろうって思う」
「プロに、なるんだよね?」
ユウナがきくと、アカリは首を横に振った。
「その夢も、叶えられそうにないけん。地元に帰って、そこの国立大、挑戦してみる。無謀かもしれんけど、今からできるとこまで頑張ってみる。それでもしあかんかったら、仕事見つける。今度はうちが、家族を支える番やけん。話しおうて、そう決めたから」
それをきいてユウナは、
「じゃ、応援するよ」
と、笑顔で言った。
「え……?」
急な話で戸惑うだろうとアカリは思っていたが、ユウナはすんなりと受け入れた。そしてミカも、
「じゃぁ……、今度三人で勉強会しない?」
そういう提案まで出してきた。
「二人とも、反対とか、せん感じなん?」
戸惑っているのは、アカリの方だった。
「私も、アカリの思うようにやったらいいと思う。何があったのかとかよく知らないけど、それがアカリの気持ちなら、反対なんかしない。むしろ、できる限り応援したい」
ユウナは言った。アカリからは、堪えていた涙がこぼれた。
「ありがとう……、ありがとう……」
アカリはそう言って涙を流すと、ユウナはアカリを優しく抱いた。ずっと夢見てきたことを捨て、家族を守るというアカリの決断はかなり辛いものだったと、ユウナにもわかった。それまでには、幾度の迷いもあったのだろう。自分自身は何もできないが、気持ちを受け止めることはできる。ユウナは、アカリのすべてを受け止めようと思った。この友情が壊れぬよう、いつまでも続くように、そう願うのだった。
翌日、アカリは音楽室へ行った。智美に退部届を提出し、
「すみません」
と、一言言った。智美は、
「本当にいいのね?」
と念を押すと、アカリは頷いた。
「自分で決めたことですので、後悔はしません」
アカリがそう言うと智美も微笑み、
「そう。残念だけど、仕方ないわね。お疲れさま」
そう優しく言った。アカリは頭を下げ、部屋を出ていった。中学のころから見続けてきた、プロのクラリネット奏者になるという夢はもう叶わないが、これでいいのだと自分に言いきかせた。中庭からは、きき慣れた楽器の音色がきこえてくる。アカリは、耳に神経を集中させ、その音をききながら帰った。
『月はどこにおっても美しく見えるやろ?』
また、父の声を思い出す。そのたびに、一瞬歩く速度が遅くなるが、すぐにまた早く歩きだした。後ろをふり返らず、ただ前だけを見つめて、アカリは歩いていった。
そのころ、今治の病院では嘉代子が政介に話していた。話をきいて政介は、
「あいつらしいのぉ……」
とつぶやき、ベッドの中で笑みを浮かべた。
「アカリは、ほんとにええ子じゃねぇ。でも、ほんまはすごく心配なんよ」
嘉代子もそう言うと、政介は言った。
「心配になるんは、幸せになってほしい思うとるゆうことじゃろ」
「そうやね」
嘉代子はそう答え、政介に笑いかけた。政介も笑いながら、窓の外を見た。そこには、夕陽が燦々と輝いているだけだった。
さらに数日経ち、上禅高校ではサッカー部が全国選手権都内代表をかけて決勝戦まで勝ち進んでいた。三人は、その応援に行った。
「いよいよじゃね」
アカリは、いつも以上にワクワクしていた。それを見て、ユウナも一安心した。部活を辞めて、多少落ち込んでいるのではないかと心配していたが、そのようなことはなかった。ミカが、
「これ勝ったら、初めてらしいよ、全国行くの」
と言った。ユウナは、それをきいてフィールドの方を見た。大輝と相場がいる。スターティングメンバーとして、二人はそれぞれのポジションについていた。
そしていよいよ試合が開始され、前半に一点先制されたが守備力の高い上禅は粘り、後半へとつないだ。そして後半開始五分で、大輝がゴールを決め、同点に追いついた。それを見ていたほとんどの生徒たちは、立ち上がって喜んだ。しかし勝ち越しはならず、PK戦となったが、皆慎重に決め、相手のミスによって上禅は全国大会への切符を手につかんだ。初優勝を果たした上禅に、観客席は大いに沸いた。
試合終了後、大輝と相場はハイタッチした。
「全国でも根性見せろよ」
先に相場がそう言うと大輝も、
「あぁ、お前もな。絶対日本一にしてやる!」
と、意気込みを言った。ユウナも、遠くの席でその様子を見ていた。
その後、大輝はキャプテンの
「大ちゃん!」
大輝がふり向くと、ユウナが立っていた。すると西城は、
「じゃ、俺先に行くわ!」
と、大輝に言った。
「お、おう」
大輝もそう答えると、西城は走って向こうへ行った。ユウナは大輝の前まで行くと、
「全国、おめでとう」
そう言った。
「あ、あぁ……」
大輝も、恥ずかしそうな表情で言った。
「私、ずっと応援してるから。頑張ってね」
「お前も受験、頑張れよ」
「うん」
ユウナは、笑って頷いた。その様子を少し遠くで相場も見ていたが、二人は気づくはずもない。大輝は、
「じゃあ、俺、帰るから」
そう言うと、背を向けて走っていった。ユウナはそれを見ながら、自分も頑張ろうと思った。二人のそれぞれの戦いは、もうすでに始まっていたのだ。
第七回「
次回予告
ユウナ「それが今自分に与えられている使命だと思えば、どんなことであっても、頑張れそうな気がするんです」
「やっぱり、まだ先生との間に何かあるみたい」
「どうしてもっと、人を信じようとしないの?」
智美「うちの吹奏楽部のコンクールがあるの」
ユウナ「待って!」
佳帆「鶴ケ崎さん、今回三位だって!」
ユウナ「私のせいかもしれない」
レイカ「疲れるのよねぇ、最近」
ユウナ「このままだと先生、一生あなたと解かりあえないかもしれないよ」
智美「どう思ってるの? これからのこと」
レイカ「集団から逃げて、一人になって、しかもそれを人のせいにして、言い訳ばっかりだった」
智美「レイカ……」
レイカ「ほんの少しだけ感謝してるから」
ユウナ「ありがとう」
次回(第八回)
「
序盤のキャラで、最も印象深い登場人物は?
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中谷優奈
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鶴ケ崎麗菓
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月見里美香
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夢野あかり
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池谷大輝
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相場善秀