朝の目覚ましが鳴った。春の日差しが、カーテンの隙間をすり抜けてユウナの部屋に舞いこんでいた。卒業式から、一週間が過ぎたころだった。この季節になると、外を歩く人の服装が、コートから厚めのセーターへ変わっていた。
ユウナの部屋には、荷造りのためのカバンや服やらが散乱していた。ユウナはカーテンを開け、机の上に置いてあるカレンダーを目にした。今日は、もうすぐ住まうことになるかもしれない下宿先を見に行く日だった。
『本人も連れてこないで、話すことはない。住みたいのなら、本人が一人で来い、だってさ』
一度下見に行った父からきいた言葉は、予想を遥かに超える厳しい言葉だった。ユウナは覚悟を決め、日を決めて自分で見に行くことにしたのだ。その人に何と言われようと、そこにしかもう住めるところがないのだから、まずはその人と仲良くならなければならない。ユウナの心は、もうすでに決まっていた。
ユウナの大学は、キャンパスがいくつもあるマンモス大学だ。ユウナの世話になるキャンパスは本拠地の京都からは少しばかり離れ、滋賀県に位置する。そのキャンパスから、徒歩十分程度しかかからないところにあるため、父はその民家を勧めてくれた。父のその気遣いが、ユウナにはどれ程の救いとなっただろう。ユウナは窓の外を見ると、白い太陽が笑いかけるように、ユウナとその部屋全体を照らしていた。
第十二回
ユウナは、玄関に立った。後ろから、
「ユウナ」
という、母の心配そうな声がきこえる。ユウナはふり向くと、案の定、百合子が心配そうにユウナを見ている。ユウナは笑顔で、
「大丈夫。電話しておいたから。結構いい人そうだったよ」
と、答えた。
「そう、じゃあ気をつけてね。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ユウナは、ドアを開けると外に出た。冷たい風が、家の中に舞いこんだ。そして、ユウナは駅へと向かう。三月とはいえ、まだ七時過ぎだったため、外はまだまだ寒かった。ユウナは、首にかかっているマフラーをぎゅっと握りしめた。
まずは東京に出て、九時頃の新幹線に乗れば昼前には着くだろう。ユウナは父の惟英からもらった、行き方を書いたメモを頼りに駅に向かった。
そのおかげで、ユウナは特に迷うことなく目的地に早く着いた。京都駅に着いたら、あとはJRに乗り換えて大学の最寄り駅で降りるだけだった。そして、ユウナは昼前に民家を訪ねた。周りは静かで、風の音、そしてかすかに鳥の鳴き声がきこえるだけだった。ユウナはいつまでも立っているわけにもいかないと心を決めて、
「ごめんください」
と言いながら、足を踏み入れた。しかし、返事はない。
「すみません」
それでも尚、返事が返ってくることはなかった。ユウナは、だんだんと気まずくなってくるのだった。そして庭を見渡しながら、もう帰ろうかなという考えも徐々に芽生えてきていた。すると、足元で犬の鳴き声がした。
「ワン!」
ユウナはびっくりして下を向くと、犬が尻尾を振りながら口を開けてユウナをじっと見つめている。ユウナは少し、後退りした。すると犬も、ユウナに迫ってきた。
「ワン、ワン!」
ユウナは、いないのならもう帰ろうと本気で思った時、民家の窓が開いた。ユウナはそこを見ると、六十代前後の女性が出てきた。
「誰だい?」
女性は厳しい口調でそう言った。
「あの……、この前今日伺うと電話した、中谷です」
「あぁ……、勧誘じゃなかったのか」
「はい?」
「最近多いんだよ。用があるなら入りな」
女性は無愛想にそう言うと、プイと中に入っていった。ユウナは玄関に行き、戸を開けた。鍵はかかっていなかった。そして靴を脱ぎ、恐る恐る奥の方に入っていった。
和室に行くと、女性は卓袱台の前に座っている。ユウナは少し怯えたように、
「あの……」
と声をかけると、女性が言った。
「あんた……、お茶入れてくれるかい?」
「え?」
ユウナは思わずきくと、女性はこう続けた。
「下見に来た学生にはいつもそうさせてるんだよ。さぁ、早くしな」
「はい!」
ユウナはそう答え、部屋を出た。するとハッとして立ち止まり、引き返した。
「あの、お台所は……」
「そんなもん、入ってすぐのところにあっただろ。まったく、観察力がないねぇ」
「はい、すみません……」
ユウナは急いで台所へ行き、湯を沸かし始めた。やがて沸騰すると、火を止めて茶を入れた。それを、ゆっくりと女性がいる和室へと運んだ。
それを卓袱台の上に置くと、女性はそれを飲んだ。
「あんた、よく家の手伝いはするのかい?」
「はい。小さい時、よく母を手伝っていましたから」
「私はいつも、この宿を貸す時にこうやってテストをするんだよ。ここに住むからには、私の手伝いをしてもらわないと不釣り合いだからね」
「じゃあ……、もしかして私を、試したってことですか?」
「はぁ、もっとましな言い方をできないもんかね」
「すみません……」
ユウナはそう言って、軽く頭を下げた。するとユウナは、女性にきいた。
「それで……、私は……?」
「あぁ、あんたは不合格だね」
ユウナはそれをきき、しばらく唖然とした。
「あ、あの、どうして不合格なんですか?」
「お湯を沸かしてからここまで運んでくるのに、三分もかかっている。そんなノロマなやつに部屋を貸すわけにはいかないからね」
女性はそう言って立ち上がった。でも、ユウナにはそれが少し理不尽な理由にも思えた。いくら手際が良かったとしても、湯を沸かし終えてから部屋まで運ぶのに、どうしてもそのくらいはかかってしまうだろう。ユウナは、部屋を出て行こうとする女性を呼び止めた。
「あの、待ってください!」
女性はため息をついて、
「まだ何かあるのかい?」
ときいてきた。
「私、もうほかに下宿できる場所がないんです。実家は東京だし、ここしか頼る場所がありません。どうか、お願いします!」
「そんなこと、私が知ったこっちゃないね。私は、ここにあんたを住まわすつもりはないよ。わかったら、もう帰んな」
そして、とうとう部屋を出ていってしまった。それを見て、ユウナが女性を追いかけようと立ち上がった、その時だった。玄関の戸が開く音とほぼ同時に、
「ごめんくださぁい」
という、違う女性の声がきこえてきたのだ。宿主の女性が玄関に行くと、そこには帽子を被ったマダム風の女性が立っていた。その女性は帽子を脱ぎ、
「お久しぶりですわね」
と言い、挨拶をした。その女性は
「なんだい、ミッちゃんか。来るなら来るで電話の一本もしてくれりゃあいいのに」
宿主の女性はユウナの時とは打って変わって、明るく振る舞った。ユウナがいる部屋にも、その会話は筒抜けできこえてくる。そして、ユウナは帰るに帰れない状況に陥っていた。
「先日、東京に行く機会があって、これ、御土産」
美千子は、そう言って宿主の女性に土産袋を渡した。
「それより、初さん。例のあの件はどうなったの?」
美千子がきいた。すると宿主は、
「やだねぇ、せっかく久々に会えたんだから嫌なこと思い出させるんじゃないよ」
と答えた。
「じゃあ、また断ったのね?」
「そうだよ。役に立ちそうになかったからねぇ、もう帰ったよ」
「そう……、残念ねぇ」
「さぁ、お上がり」
「じゃ、遠慮なく」
美千子は笑顔でそう言うと、中へ上がった。
そして和室に美千子が入ってくると、ユウナと目があった。
「あら……、初さ~ん! もしかして、先客だった?」
美千子が宿主にきくと、宿主はその部屋に戻ってきた。すると、ユウナを見て表情を変えた。
「なんだ……。あんた、まだいたのかい」
「じゃあ、もしかしてあなたが……」
美千子はそう言ってユウナの側に座ると、ユウナはこう言った。
「あ、中谷優奈といいます」
「やっぱり。あなたがユウナちゃんね!」
それをきいたユウナは驚き、
「私を、知ってるんですか?」
ときくと、美千子はこう答えた。
「えぇ、もちろん。夫がね、龍山大で教授をしているの」
「それってもしかして……」
「横大路正彦さんよ。あなたも、会ったことがあるでしょう?」
「そうですか……、横大路先生の……」
すると美千子はふり向いて、宿主に言った。
「初さん、お茶三つ用意してくれるかしら?」
それをきいた宿主はやれやれと言わんばかりの表情で、卓袱台に置いてあった茶碗が乗った盆を下げ、部屋を出ていった。そして美千子は再びユウナと向き合うと、こう言った。
「あの人は、
「そうだったんですか……」
「でもね、去年は一人も住人を取らなかったの」
「どういうことですか?」
「あの人、やっぱり自分の身体のことを気にしていて、特に旦那さんが亡くなってからは思うように動かないんですって。だから最初は学生にも手伝わせていたんだけど、あんな人でしょ? みんな嫌気がさして引っ越していっちゃったの。だからもう閉めようかって話になって。でも大学からはせめてあと一年は続けてくれって言われてて。でも彼女には、もう誰にも部屋を貸すつもりはないの」
その話をきいたユウナはしばらく考え、こう言った。
「でも私、やっぱりあの人の手伝いがしたいんです。どんな厳しいことを言われても、私は、やっぱり誰かの役に立ちたいんです。そのために、ここへ来たんですから」
すると、それをきいていた美千子は笑った。
「私も、それがいいと思うわ。あの人を、どうか支えてあげてほしい」
そこへ、初子が盆に茶碗を三つ乗せて入ってきた。するとユウナは立ち上がり、
「あの、誠に勝手なお願いだと思いますが、私をどうかここに住まわせてください! どうか、手伝いをさせてください。どんなことでもいたしますので。お願いします!」
と言い、頭を下げた。すると美千子も身体を初子の方に向かせると、
「私からも、お願いするわ。彼女なら、きっとあなたの役に立てるわよ」
と、言った。それをきいて初子は、しばらく黙り、ユウナを見つめていた。そして、ようやく初子の口が動いた。
「ミッちゃんが言うってんなら、部屋は貸してやる」
「ほんとですか?」
ユウナは嬉しさのあまり、顔を上げてそう言った。
「ただし、途中で泣き言なんか言うと承知しないからね。そこんとこは、覚悟しておきな」
ユウナはそんなことはきこえていないように、
「はい!」
と、笑顔で返事をしていた。美千子もユウナを見上げながら、
「よかったわね」
そう言うと、
「はい」
とユウナも答えるのだった。そして、美千子には感謝の気持ちでいっぱいになった。
夕方、ユウナは駅までの歩道を歩きながら、隣を歩いている美千子に言った。
「あの……、今日はありがとうございました」
「いいえ。私の方こそ、会えて嬉しかったわ」
「先生は、何か仰ってましたか?」
ユウナがそうきくと、美千子は少し口ごもった。そして、こう言った。
「ええ。東京から、なかなか未来性のありそうな子が入学してくるんだって、すっかり元気になってたわ。実はというと、私少し心配してたの。家にいる時は、部屋に閉じこもりきりで、研究に没頭するあまり、ご飯もろくに食べないことが多くて……。でも、あなたの話をする時だけは、まるで子供みたいに、笑顔を見せてくれるの。昔のようにね」
それをきき、ユウナも地面を見つめながらこう言った。
「私も、あの先生に出会ってから、自分が変わった気がするんです。自分から友達も作れるようになって、好きなことや、やりたいことの区別も、知らず識らずのうちにできるようになってたんです。だから、私もあの方に恩返しがしたい」
ユウナはそう言いながら、顔を上げた。
「そう……、あの人がきいたら喜びそうね」
そう言った美千子から笑みが消え、ユウナから視線を外してこうきいた。
「ユウナちゃんは、何も感じていないの? あの人に」
「えっ?」
ユウナは戸惑ったように美千子を見つめると、美千子も気がついたように、
「あ。いえ、何でもないの。ごめんなさいね」
と言い、また笑った。ユウナはそれを見て、不自然に思いつつも、何もきかなかった。
駅に着くと、ユウナは美千子と別れた。
「横大路先生に、よろしくお伝えください」
「ええ、もちろんよ。入学式まで、いろいろと大変だと思うけど、頑張ってね」
「はい」
ユウナはそう言うと、改札を通ってホームに向かった。美千子は、それをしばらく見つめていた。するといつの間にか、美千子からはまた笑みが消えていたのだった。
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