翌朝、目を覚ますと、目の前には襖があった。もうここは自宅じゃないのだと、改めて思った。そして窓を開けた。空は薄暗く、曇っている。ユウナはしばらくその様子を眺めてから、窓を閉めようとした。その時だった。
「ワン、ワン!」
という鳴き声が真下からきこえてくる。ユウナは下を見下ろすと、初子が飼っている犬が、明らかにユウナの方を向いて吠えている。それを見たユウナはわざと大声で、
「おはよう!」
と言うと窓を閉め、中に入った。テレビの天気予報では、昼から雨になるとの予報だった。
ユウナは宿を出る時、初子に声をかけ、念のため持ってきていた傘を持って出かけた。ユウナは京都駅から一つ手前の駅で降車し、相場にもらった地図を頼りに、リカの家を探した。近くまで来ると、Y字型の分かれ道に出た。ユウナはどちらに行けばよいか分からず、迷っているとある声がした。
「ユウナちゃん!」
ユウナがふり向くと、ある家の庭にリカが笑いながら立っていた。リカは、庭の掃除をしていたのだという。ユウナは久しぶりに友人と再会したことに感動すら覚え、かけよった。
「久しぶり」
「久しぶり〜」
リカも、笑顔のまま返した。
「ユウナちゃん、高校卒業してちょっと大人びた?」
「冗談やめて。私は何も変わってないよ。リカこそ、雰囲気が少し変わった気がする」
「そう?」
二人が塀越しにそのような会話で笑いあっていると、リカは気がついたようにこう言った。
「ここじゃあれだから、うちの中入ってよ」
それをきき、ユウナは入ることにした。中に入ると、リカが和室に案内してくれた。ユウナは家の中を見渡すと、
「ご両親は?」
ときいた。するとリカが、こう答えた。
「二人とも今日は朝から仕事で、帰りも遅くなるって。いつもこの時期、忙しくて」
「そう、なんだ……」
思えば、ユウナの家庭でもこの時期は特に入学関係で、二人とも帰りが遅くなることが多くなる。
「そうそう、ユウナちゃんはさ、なんで龍山受けようと思ったの?」
リカが、卓袱台を出しながらそうきいてきた。
「面白い先生がいたの。その先生の学科って、何が研究テーマか分からないんだけど、何か感じるものがあって選んだの。でも、今はすごく心配してて……。どういう感じのところなのかな、とか。でも、後悔はしてないよ。心配だけど、楽しみでもあるから」
ユウナはそう答えるとリカも、
「へぇ、そうなんだ」
と、感心している。するとユウナが、
「でも、リカも龍山なんでしょ? 相場君、言ってたよ。でも学科は違うってきいたけど、ここに住んでるってことは、もしかしたら同じキャンパスなのかな。だったら、しょっちゅういろんなこと話せるね!」
と言った。しかし、リカの表情が少し曇った。それを見逃さなかったユウナは、
「リカ、どうしたの?」
と尋ねると、リカがこう言った。
「実は、そうじゃないんだ」
「え?」
「ここに引っ越してきたのは、親の都合。お父さんの会社が、この近くにあって。お母さんも、近所のスーパーでパートやってる。私の進路が決まる前だったから。私の通うキャンパスは、京都内にあるの」
「そっ、か……」
ユウナは、少し残念に思った。
「でもね、ユウナちゃんの下宿ってたしかキャンパスのすぐ近くなんでしょ?」
「う、うん」
「じゃあ私、今度行ってもいいかな。大家さんにも、挨拶しておきたいから」
「うん、大丈夫だと思う」
ユウナが答えると、リカはかけより、両手でユウナの手を握った。そして、少し戸惑っているユウナにこう言った。
「これで、私たち、いつでも会えるね」
それをきいてユウナは嬉しくなり、頷いた。
その後、縁側に座って二人は会話をした。
「ねぇ、大家さんってどんな人なの?」
「う〜ん……、やっぱり気難しい人で……」
「あ、結構いるよね」
「うん。あと洗濯機とか、電化製品がほとんどなくて、タライで洗濯するんだよ」
「えぇ? 今時そんな家があるの?」
「うん。あ、でもテレビはあるけど」
「なにそれ〜」
二人はそんなくだらないことを言っていると、ユウナは不意にあることを思い出して時計を見た。今日は初子から、夕飯の手伝いを頼まれていたのだった。時計は、すでに午後四時前を指していた。それを見たユウナは、
「あ、もうそろそろ帰らなきゃ」
と呟いた。
「今日、何かあるの?」
リカがきくと、ユウナは言った。
「晩ご飯の手伝いしなくちゃいけないの」
「大丈夫?」
「うん、多分まだ間に合うから」
ユウナはそう言うと立ち上がり、カバンを持って玄関に向かった。玄関まで行くと、見送りに出たリカの方を向いた。
「あ、そうだ。今度の日曜日、生活に必要な家具とか買いにいこうと思ってるんだけど、一緒についてきてもらってもいいかな。私一人じゃ、何買っていいかわからなくて」
ユウナが言うと、リカも優しくこう言った。
「うん、いいよ。むしろついて行きたいって感じ」
「ありがとう。じゃ、また連絡するから」
「バイバイ」
ユウナは玄関の戸を閉めると、急いで駅まで走った。
そして、なんとか四時半頃に帰宅した。ユウナは空を見上げると、雨どころか綺麗な夕焼け空が広がっていた。
ユウナは扉を開け、中に入ると初子に声をかけた。
「ただいま帰りました。初さん?」
すると、
「こっちだよ」
と、台所の方から声がする。ユウナは急いで向かうと、初子がいた。初子はユウナが来るなり、
「あぁ、あんたか。待ってたんだよ。ほれ、このカゴに野菜を入れてきてくれ」
と言い、洗濯カゴほどのカゴをユウナに手渡すのだ。
「あの、野菜って……」
ユウナが何のことかわからずにいると、初子はきょとんとしたように言った。
「なんだ、あんた見てないのか」
「見てない?」
「この宿の裏に畑があるだろ。そこからそのカゴに入るだけの野菜を分量よく採ってきてくれって言ってるんだ」
「は、はい!」
ユウナはまだ話の内容を整理できていなかったが、行けばわかるだろうととりあえず外に飛び出した。よく見ると玄関を出てすぐのところに、裏庭に続く道のようなものが見える。その道を通り抜けると、そこには広い庭があり、そのすべてが畑であった。ユウナはそれを見て目を輝かせた。そして、初子に言われた通り野菜をカゴに詰めることにした。
詰め終わると、今度は入ってきた道と逆の道を通り、中に戻ろうとした。すると、宿の前でまたあの犬が吠えているのが見えた。ユウナはその犬に近づき、
「どうしたの?」
と、声をかけた。当然のことながら、犬は何も言わずに尻尾を振っていた。しかしユウナには、それだけではないような気がした。犬が、どことなく寂しそうに見えたのだ。そして、またあることに気がついた。犬は、ずっと上の方を見上げている。ユウナは、犬の視線を追った。すると、ユウナの借りている部屋が見え、そのすぐ向かいに家があったのだ。それも一階は初子の民宿とつながっており、二階には階段で行けるようになっている。ユウナの部屋からは、向かいの家の二階には行けないようだった。もしかすると、あの家も初子が管理している民宿なのかと思い、あとできいてみることにした。
中に入ると、初子が火を焚いていた。ユウナが初子に、
「あの……」
と話しかけると、初子はふり向かずにこう言った。
「なにをぼさぁっと立ってるのさ。早く採ってきたもんをここへ置きな!」
ユウナはまた怒られると思い、言われるまま今は従うことにした。
そしてその晩は、初子に料理の作り方などを教わった。
二人は夕食をとっていると、ユウナはどうしても夕方のことが気になった。そして初子に、思いきって尋ねることにした。
「あの、初さん」
「なんだい?」
「この家の隣にある家も、初さんの民宿ですか?」
「だとしたらなんだって言うんだい」
ユウナの予想通り、あの家も初子の民宿のようだった。
「あの家には、どなたもいらっしゃらないんですか」
「あぁ、一人住んでるやつがいるよ」
「え?」
ユウナは、言葉を失いかけた。初子は食べながら続けた。
「二年前、龍山の新入生が入居してきたのさ。あんたの二学年上だよ」
「でも、さっき見たら、カーテンが閉まってたような……。留守だったんですかね」
「違うよ」
ユウナはそれをきき、手を止めて初子を見つめた。
「彼はずっと部屋にいるのさ」
「ずっと?」
「あぁ。人と顔を合わせようともしない。困ったもんだねぇ。犬の世話まで私に押しつけて」
「じゃあ、あの犬は……」
「彼の飼い犬さ」
「そうだったんですか……」
ユウナはそう呟くと、頭の中で何かが引っかかったような感覚を覚えた。
「あの、その人に何かあったんでしょうか」
「さぁね」
「それって、引きこもりだと思うんです。外に出られない理由、きっと何か大きなショックがあったからそうなったんだと思います」
ユウナが言うと、初子はこう言うのだった。
「あまり気にしない方がいいと思うがね」
「なぜですか?」
「人ってのは、傷つきやすい生き物さ。部屋に閉じこもってるやつの中にも、それぞれの言い分ってもんがある。それを無視し続けてきたのもまた、私ら人間だからさ。無闇に声なんてかけるんじゃないよ。多分、あんたが来たことすら知らないだろうからね」
初子は、それ以来何もしゃべらなかった。いや、何も言うことができないのだとユウナは思った。いったいいつから、どのような理由で部屋に閉じこもりきりになってしまったのか、ユウナは気がかりでならなかった。
ユウナは寝る前、もう一度窓を開けて向かいの家を見た。まるでアパートのような構造になっており、二階にはドアが一つついている。部屋は昼と変わらず、暗かった。カーテンを閉めようとした時、その部屋の窓から一瞬、ふと淡い灯りが見えた。ユウナは目を凝らすと、その灯りは消えた。やはり誰かいるのだろう。初子は気にしない方がいいと言っていたが、やはり気になるのが心情というものである。それは、いつの間にかユウナがその人を助けたいという感情を抱いていたからなのかもしれない。
日曜日、ユウナは出かけた。リカと京都へ買い出しに行くためだ。宿を出ると、ユウナはふと例の部屋を見上げた。しかしいたって変化はなく、カーテンは閉まっていた。そして、ユウナは歩き出した。すると不意に誰かの視線を感じ、ふり返ってまた上を見上げた。そうすると、窓からカーテン越しに影が見えたような気がした。しかし、顔はまったくわからない。ユウナは驚いてそれを見ていると、その影はまた奥に入っていった。ユウナはしばらく、その窓を見つめ続けるのだった。
その後、ユウナはリカの家に行き、リカと一緒に電車で京都まで向かった。電車の中で、リカがユウナに言った。
「ここって、なんか落ち着くの。街の雰囲気とか、景観、あと、優しい人が多い気がする」
ユウナはそれをきいて、大いに共感できた。それは、ユウナも感じつつあったのだ。
「そうだ、ユウナちゃんは何買うの?」
リカが話を変えた。
「あ、うん。シーツとか、あと、自分専用の食器とかかな。毎日、初さんの使ってるから、悪いなって思って」
「やっぱり優しいよね、ユウナちゃん」
リカにそう言われ、ユウナは少し顔を赤らめた。そうしている間に、アナウンスがきこえた。そして、京都駅がすぐそこまで見えた。
電車が停車すると、二人は改札を出て八条口側から外に出た。するとリカが右を指差し、
「あっちに大っきなショッピングモールがあるから、そこへ行こ」
と言うので、何もわからないユウナはそれに従うことにした。
そこで買い物をし、布団に使うシーツや毛布、そして細かい食器などをたくさん購入した。そして帰る時には、段ボールなど手荷物がいっぱいになってしまった。二人は外で、
「これ持って電車乗るのか〜。ユウナちゃんどうする?」
「う〜ん、どうしよっか」
と悩んでいると、急に誰かから声をかけられた。
「ユウナちゃん? おぉ、こんなとこで会うなんて!」
ユウナが後ろをふり向くと、そこにいたのは
「あ、鶴ケ崎さんの……」
と、声を上げた。するとリカが小声で、
「ねぇ、この人誰?」
そうきいた。
「あ、うん。同じ学年だった、鶴ケ崎さんのお兄さん」
ユウナは、雅也のことをリカに説明した。
「あぁ! いつも学年トップだった?」
それをきいて、リカも納得したようだ。雅也は笑顔で、
「いやぁ、まさかこんなところで会うなんてな〜。その荷物、どうしたの?」
と、きいてきた。ユウナは少し恥ずかしそうに、
「あ、あの……。実は、下宿先で使う日用品を買いに来たら、少し買いすぎちゃって……」
そう言うと、雅也が言った。
「じゃあ、俺が車で運んであげるよ」
「えっ?」
ユウナは、完全に予想外の返答に戸惑ってしまった。ユウナの気持ちを察したのか、雅也がこう言った。
「大丈夫大丈夫。俺の車、すぐそこの駐車場に停めてあるから」
「いや、でも……」
「いいじゃん、せっかく運んでくれるって言ってくれてるんだから。お言葉に甘えさせてもらおうよ!」
リカがそう言うので、ユウナも仕方なく、
「じゃあ……、よろしくお願いします」
と、雅也に言った。雅也は、
「よっし、じゃあ荷物が積み終わったら、一緒にお茶しない? レイカと待ち合わせてるんだけど」
そう言うので今度はリカが、
「はい、是非!」
と言い、
「ユウナちゃんもいいよね?」
そう促すとユウナは、
「う、うん……」
と答えた。雅也もそれをきいて、
「よし、じゃあ早くこの荷物を片付けてしまおう」
そう言い、三人はそれぞれ購入した荷物を持って車へと向かった。
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