2016年5月。気温も上がり、徐々に夏が近づいてくる季節だ。ユウナは卒業論文に向け、ゼミの授業で研究テーマを発表した。去年まではほかのことで忙しく、テーマがなかなか決められなくて焦っていたが、四回生になってからは余裕を持って調べたりしていた。そのせいか、周りの学生よりも発表の評価は高かった。
正彦もまた、自分の研究所でセインツ・パラダイスにスパイウェアが潜んでいないか、対策用のプログラムを組みこんでいた。そこへ、美千子が茶を持ってきた。
「あなた、最近部屋に閉じこもりっきりですけど、身体の方は大丈夫なんですか?」
美千子が、心配そうにきいた。
「なーに、この通りさ」
正彦もそう言うと、自分の腕を回して見せた。
「と言っても、私ももう来年で六十だ。たまには、休むことも必要かもしれんな」
「それが一番よ」
正彦は、自分の身体のことを少しは自覚しているようだ。それでも、あの世界を守り続けたい、休んでいる間にも、悪があの世界を蝕んでいくと思うと、いても立ってもいられないのだろう。それは、美千子もよくわかっていた。それでも尚、正彦に休息を勧めるのは、正彦の身体が何よりも大事だったからである。
第二十九回
ユウナは授業終わり、リンやリカと居残ってこれからのことを話していた。
「私、今度、面接受けることになったの」
ユウナが、二人に現状を報告した。
「やったじゃん、ユウナちゃん」
リカもそう言って、我が事のように喜んだ。そして、今度はユウナが二人に質問した。
「二人は、これからどうするの?」
すると、リンが先に答えた。
「私、やっぱりデザイナー目指そうかと思って」
「じゃあ、まだ諦めてなかったんだ」
「うん。だから卒業したら、イタリア留学しようと思って」
「イタリア?」
「そう。あそこなら、そういう学校いろいろあると思うから。今度、受験しに行ってくる」
「ご両親は?」
「昨日電話したら、金は出してやるからって」
「よかった……。頑張ってね、応援してる」
「ありがとう、ユウナもね」
リンは笑顔でそう言った。考えれば、リンが父親と仲直りできたのはユウナのおかげでもあった。そのことを、リンはまだ覚えていたのだろう。何もかも我慢していた一回生の時とは、リンの表情がまるで違っていた。
「そうだ、リカは?」
「うん?」
ユウナに声をかけられ、リカは少し戸惑った様子を見せた。
「卒業したら、やりたいこととかないの?」
「そうだなー。私、東京帰ることにした」
「えっ?」
ユウナは、リカから意外な言葉が出たので驚いた。そして、リカは続ける。
「ここにいてもいいけど、やっぱり故郷でもある東京で働きたいんだ。今からでも、間に合うかもしれないから。私、頑張ってるユウナちゃんを見ていて、自分にもできることがたくさんあるんじゃないかって思えたの。だから、もっと自分自身を高めていきたい。そして、いつかユウナちゃんを超えられる人になってみせる」
「私は、そんな大それたことしてないよ……」
するとリカは首を振って、
「ううん。自分では気づかないかもしれないけど、みんなのために一生懸命やってきたじゃない」
と言うと、リンもそれに同調した。
「そうそう。私の時とかもね」
それをきき、ユウナは言った。
「じゃあ、私が今まで頑張ってこられたのは、小さい頃からずっと支えて、見守ってきてくれた人たちのおかげかな」
ユウナ自身、両親や親友の存在がなければこんなに強く生きられなかっただろう。人との繋がり合いは、時として最強の武器になる。そのことを、強調するような言葉であった。
ユウナが帰宅すると、民宿の庭に真宏がいた。それを見て、ユウナは足を止めた。
『私と……、別れてくれませんか』
あの日以来、二人は言葉を交わしていなかったのだ。不意に真宏と目が合い、ユウナはそれから逃げるようにして宿の中に入った。真宏は無論、話しかけてこなかった。ユウナは実際、後悔していた。「交際」という枠組みが、互いの目標への行動を阻害しているのではないかと思い、別れ話を持ちこんだのだ。しかし実際はそういうわけでもなく、前より断然勉強や就職活動に集中できなくなってしまっていた。このままでは、今度の面接も大いに不安だった。しばらく玄関で立ち止まっていると、初子が出てきた。
「おや、帰ってきたなら声ぐらいかけな」
「あ、すみません。ただいま帰りました」
ユウナがそう言って靴を脱ごうとすると、
「あぁ、ついでに買い出しに行って来てくれるかい。ちょっと今、手が離せなくてね」
と言って初子は、ユウナに買い物袋を渡した。ユウナはそれを受け取ると、再び民宿を出ていった。歩いている時も、ユウナは真宏のことを考えていた。やっぱり別れたくないなどという、言い訳が通るはずもない。真宏もユウナも、あと一年足らずであの民宿の部屋を引き払うだろう。その前に、なんとか話せるようにしたい。考えすぎていたせいか、危うく車に撥ねられそうになった。ユウナは咄嗟に後ろに退いて、危機を逃れた。
誰か近くに、相談できそうな相手はいないだろうか。リンやリカは、将来のことでそれどころではないだろう。ユウナは、スマホのアドレスを下にスクロールさせていった。そうすると、ある名前が目に留まった。
ユウナが頼ったのは、雅也と真司だった。二人なら、何かアドバイスをくれるかもしれない。二人に連絡をとり、正彦の研究所で会うことにした。
リビングでは、ユウナが二人と向き合い、美千子が紅茶を運んだ。美千子が下がると、ユウナは切り出した。
「あの、実は……」
「待って。その前に、確認したいことがあるんだ」
雅也が言うので、ユウナは言うのを止めた。
「君は、ゲームをクリアするのかい?」
「えっ?」
「実は、ここに来る途中、こいつからきいてさ……」
雅也は、隣にいる真司を見て言った。
「はい。そのことで、相談したいことがあったんです」
「それは?」
「私と先輩、二回生のころから付き合い始めたんですけど、私、これ以上先輩を巻きこむわけにはいかないと思って、別れたんです。でも結局は、私から一方的にふる形になってしまって……。何て言えばいいかわからなかったんです。それで今、少し気まずくなっていて……。同じところに住んでいるのに、可笑しいですよね」
ユウナは、苦笑するしかなかった。その話をきいて、雅也と真司は顔を見合わせていた。
「それで、俺たちに相談しに来たと」
真司がそう言って確認をとると、ユウナは言った。
「はい。お二人なら、そんな経験もあるんじゃないかって思ったんです。勝手にそう思っただけなので、ご迷惑ならもう帰りますけど」
「あ、いや。でも俺たち、その手の話には疎いっていうきらいがあるからさ……」
真司が言うと、雅也もこう話した。
「ごめん、ユウナちゃん。本当は君に力を貸してあげたいところだけど、生憎僕たちどっちも付き合ったことないんだよね」
「まあ、お前はどっちかっつーとフラれてばっかりマンだったけどな」
「はぁ? 俺、そんなに告ってたか?」
「高校の時、惚れっぽかったじゃねーか」
「お前の方こそ、フラれて落ちこんでたことあっただろ!」
「ねーよ!」
二人はまた、喧嘩を始める。ユウナはそれをどう対処してよいか迷っていると、近くにいた美千子が救いの手を差し延べた。
「あら、あったじゃない。たしか一年生の時。クラスに好きな女の子がいて……」
美千子はそう言いながら、ユウナの隣に座った。すると真司が、
「母さん、なんで覚えてるんですか、そんな昔の話」
と言うと、美千子は返した。
「覚えてるわよ。大好きな唐揚げ、二個しか食べなかったでしょ?」
「細かっ!」
雅也もそれをきいて、失笑している。しかし、ユウナにとっては有り難かった。二人の言い争いが始まると、収拾がつかなくなる時がある。ユウナは、ホッと一安心した。
「それよりユウナちゃん、どうしてあの人の研究を手伝うことで、吉田君を巻きこんでしまうって思ったの?」
突然、美千子が尋ねてきた。
「体感型ゲームっていっても、ほかと勝手が違い過ぎるので、危険も多い気がするんです。そうなると先輩、きっとまた教授を責めると思うから……。また私のせいで二人の関係が悪くなるのは、嫌ですから……」
「そう。でもそれは、もうないんじゃないかしら」
「えっ?」
「だってあの二人、今はとても仲がいいのよ。あなたが知らないだけかもしれないけど、この間だって、あの人の手伝いをしてくれていたもの。引越しの時だって、文句も言わずに力になってくれた。本当は、とっても優しい子なのよ」
そう言うと、美千子は微笑んだ。それをきいて、ユウナも温かい気持ちになった。今まで悩んでいた自分が、バカバカしく思えた。それでも、心配の部分はある。
「先輩は、どう思ってるんでしょうか。ふったのはこっちですし、もう口もきいてもらえないんじゃないかって……」
「大丈夫よ。素直に謝れば、きっと許してもらえるわよ」
「そうだな。向こうも、君の性格からしてわかってるんじゃないか?」
「勇気を持って、当たって砕けろさ!」
真司と雅也も、前向きな言葉を放った。ユウナはそれをきいて、ますます嬉しくなるのだった。すると、雅也の発言をきいた真司が言った。
「砕けたら元も子もないだろ? お前、それでも雑誌記者か?」
「う、うるさいな!」
また喧嘩が始まろうとするのを、ユウナも見て笑っていた。あとは、実行あるのみ。それが、ユウナの中で強さを増していくのであった。
一方、真宏もまた、ユウナとの関係性の現状に不安を抱いていた。とある喫茶店では、元アニ研部員の西野夏姫と話していた。
「それで、話って何なん?」
「いや、実はその、ユウナのことでさ……」
「何? ユウナちゃんと何かあったん? もう、ちゃんと守ってあげなアカンやん! ほんま、不器用やねんから」
「ちげーよ、勝手に話を進めんじゃねえ」
「じゃあ、何があったんよ」
「実は、此間、フラれてさ……」
真宏から予想外の言葉が出てきたので、夏姫は驚きを隠せなかった。
「え、あんたあの子に何かしたん?」
「だから、なんでいっつも俺が悪いみたいになんだよ!」
「じゃあ、あの子が原因って言うん?」
「そうじゃねえけど……。理由とか話してくれねえから、ひょっとしてアイツの研究のことでまた何かあったんじゃないかって思ってさ。俺、ユウナに対して、あんまよくしてやれなかったから。付き合ってる間も、特に何か買ってあげたりとかしてやれなくてな」
「あの子は、そんなプレゼントとか欲しがるタイプとちゃうからな」
夏姫が言うと、真宏は店の窓から空を眺めながら話した。
「もしもあいつが何かで悩んでんなら、俺は最後に力になってやりたい。今までだって、実を言うともっと頼ってほしかったんだ。何でも一人で抱えこんで、逆に気遣わせてた」
「もしかして、アタシ呼んだんってそれ?」
「なんか、星見と連絡取れなくてさ。佐藤も、今日は授業あるらしくて」
それをきくと、夏姫はニッコリした。
「こらこら、真宏クン~。しょうがないなぁ、アタシでよかったら相談乗ったるわぁ~。なんでもっと早く言ってくれへんの~?」
夏姫がそう言いながら真宏の頭を叩くと真宏は、
「うるせーな! ほかに相談できる相手がいなかっただけだ!」
と言い、その手を払った。真宏も、ユウナと気持ちは一緒だったのだ。そして再び空を見上げると、雲が忙しなく流れていた。
それと同じ時分、アニメ研究室には数人の部員が作業をしていた。そこには、ユウナと同じく四回生の恵もいた。
「はぁ~、うちら三回生だけど、四回生まで時間ないわけじゃん? そろそろ卒論のテーマとか考えた方がいいのかなぁ」
部員のミコが、同じく部員のおし美に話しかける。
「たしかに、あっという間に時間経っちゃうもんね。そうだ、長谷川先輩は卒論とか大丈夫なんですか? 就活とかも、あるって言ってましたけど」
おし美が恵に尋ねると、恵はこう答えるのだった。
「私は、もう内定もらってて……」
「ほんとですか、おめでとうございます!」
ミコが、すかさず言った。すると、おし美はますます不安そうな顔をした。
「そっか~、就職の話もあるし、今年いっぱいで部活辞めよかな~」
「でもタヌキ、就活してなかったっけ?」
「だからタヌキって呼ぶな~! そりゃ、インターシップとか参加するでしょ。もしかして、カミ行っとらん感じなの?」
「行っとるよ。ばってん、どこがいいのかとかもまだわかってない感じ」
恵も、二人の方言と標準語が入り混じった会話をききながら、苦笑していた。おし美は話を続けた。
「それよりさ、最近はこの部活も部員減ってきたよな~。部長さんも来とらんし」
「そういや、中谷先輩になったんよね?」
アニ研の部長は、真宏が卒業して今年からユウナになっていた。しかしそのユウナも、就職活動に専念しているため、部活にはほとんど顔を出しておらず、実質恵が部長という形になっている。恵は、ユウナのことを思い出した。
『先輩に、思いを伝えて。じゃないと、きっと後悔する』
『私は、べつに後悔なんてないよ』
『あなたがしなくても、私がする!』
あれから、二人はうまくいっているのだろうか。恵は作業をするのを忘れ、そんなことを考えていた。おし美とミコの二人も、私語を続けていた。
「最近は卒業生の人たちも、全く顔出さんしね。星見先輩とか」
「あ、おし美ずっと気にしてたもんね!」
「え、違う違う。そんなんじゃ……」
「でもたしかに、優しくて、顔もまあまあだもんね!」
「だから違うってのに~!」
そうしていると、ガラッと部屋の扉が開いた。
「みんな、久しぶり! 元気してる~?」
噂をすれば、星見渉が顔を出した。サークル設立に関わった一人であるため、卒業してからもたまに部室に来るのだ。
「これ、差し入れな」
星見はそう言って、紙袋を机の上に置いた。
「そう言えば、今日も部長さんは来てへんみたいやな。まあ、言うても四回生やしな」
星見が呟いているのを見て、二人は固まっていた。
「ん? どしたん?」
「あ、いや、何でもないです……」
おし美はそう答えると、再び作業に取りかかった。するとミコが、
「そう言えば、星見さんってお仕事何されてるんですか?」
ときくと、星見が答えた。
「あ、僕? 建築関係。でもまあ、まだ下っ端やから地味な作業がほとんどやけどな」
その後、星見の視線は恵の方に移った。
「また、来てくれてるんやね」
星見に話しかけられ、恵は手を止めた。
「はい。私、ここにいるのが好きなので……」
「四回生って、結構大変な時期やろ? ほかのことせんでええん?」
「はい、あとは卒論だけですので」
「まあ、君がいてくれるだけで全然ちゃうからな。引退まで、後輩たちの面倒見たってな」
そう言われ、恵は部室内を見渡した。おし美やミコを含め、部屋にいるのは後輩ばかりだ。恵は星見を見上げると、
「はい!」
と、元気よく答えた。星見も、
「ありがと」
そう言い、部室を出ていった。恵自身もユウナや真宏みたいに、後輩を束ねられる存在になりたかったのかもしれない。
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