ユウナは、布団に入って昨日の出来事を考えていた。
『僕と……、け、結婚してください!』
悠二郎は、なぜあんなことを言ったのだろう。本当に、結婚したいということだったのだろうか。考えれば考えるほど、目が冴えてくる。起き上がって時計を見ると、二時半を指している。明日も、朝から出勤しないといけない。
昨日はあれからすぐに別れたが、悠二郎の言葉が気になって何をしていても集中できない。それどころか、気がつけばあのことばかりを考えてしまう。どうしたものか、ユウナは布団の中で、気持ちをただ落ち着かせていたのだった。
第三十一回
朝、ユウナは出勤した。何気に悠二郎のデスクを見てみると、悠二郎はまだ来ていないようだった。すると上司の
「中谷さん。これ、仕上げといてもらえる?」
と、絵コンテを渡した。
「はい」
ユウナは答え、考える間もなく座って作業に取りかかった。
昼休みになっても、悠二郎は来なかった。そして、とうとう退社時間になっても現れなかったのだ。流石に、ユウナは心配になった。昨日、あれから曖昧なまま別れてしまった。何て返事をしたらよかったのだろう。出会って間もない相手から、あのように直球なプロポーズをされるなど、思ってもみなかった。悠二郎は、本当に自分と結婚したいと思っているのだろうか。ユウナは、そのようなことばかりを考えながら帰った。
そして次の日も、悠二郎は会社に来なかった。悠二郎のデスクは、寂しげに空いている。ユウナは作業をしながら、何度もその方を見ていた。隣では同僚の美奈が、
「喜多村さん、また休みなのかなぁ。無断欠勤なんて今までなかったのになぁ~」
と、手を動かしながら呟いている。悠二郎のことを案じているのは、ユウナだけではなかった。そこを、また横峯が通りかかった。ユウナは、横峯ならば何か知っているのではないかと思い、声をかけてみた。
「あの、横峯さん」
「何や?」
「喜多村先輩のことなんですが……」
「せやねん、何かきいてない?」
「えっ、連絡とか来てないんですか?」
「全然」
横峯はそう答え、またどこかへ行ってしまった。やはり無断欠勤ということは、隠すことのできない事実らしい。ということはあの時、逃げるようにして帰った自分が原因なのだろうかと、ユウナは内心、責任を感じるのだった。頭の中が真っ白になり、何を考えていたのか自分でも思い出せなかった。そしてその日も、最後まで悠二郎は職場に顔を出さず、やがて一週間が過ぎた。その噂は、次第にユウナのいる職場だけではなく、会社中にまで広まっていた。
ユウナはその日の作業を終え、廊下を歩いていた。すると、話し合う声がきこえてきた。耳を澄ますと、瀧田の声がきこえてくる。ユウナの上司に当たる社員と、立ち話をしているようだ。ユウナは素通りしようとすると、こんな会話がきこえてきた。
「喜多村君は今日も無断欠勤か」
「そうなんです。電話も全然通じへんし。それに、作業の割り当て、ほとんど喜多村君に偏ってるんです! 今作ってる作品も、まだ制作の段階で……。放送は来月ですよ! 何とかしてください!」
「じゃあ、彼の担当分をほかの人にやってもらう。明日彼が来ず、電話をかけても出ないようなら、クビにするしかないわな」
「仕方ありませんね……。ほんまに、こんなことになるなら部署変えてもろた方がよかったですわ」
ユウナは、その話を立ち聞きしていた。このままでは、悠二郎が「クビ」になってしまう。ユウナはその後、瀧田のところに行った。
瀧田が廊下を歩いていると、ユウナが走ってきて呼び止めた。
「あ、あの!」
「ん? 何や、あぁ、君か」
瀧田がふり向くと、笑顔でユウナを見た。息切れしているユウナに、
「何かあったんか?」
と、心配そうにきいてくる。するとユウナは顔を上げ、話し始めた。
「喜多村……、先輩の……、ことなんですが」
「あぁ。何や、きいてたんか。私も、彼には帰ってきてもらいたいんやけど、来うへんくなってからもう一週間や。流石に、これ以上は……」
「私が……!」
瀧田は言いかけると、ユウナが口を開く。瀧田もそれをきいて言うのを止め、ユウナを見つめている。そして、ユウナは続けた。
「私が、探しに行ってきます」
「探しに行くって……」
「明日までに、先輩を探して説得してみます。だから、もう少し待っていただけませんか」
ユウナの真剣な眼差しを受け、瀧田は口ごもった。
「いや、あんな……、携帯も通じへん相手を探す言うたって……」
「でも! 先輩が、失業してしまったら……、私……」
そうユウナが言うので、瀧田は完全に黙っていた。ユウナは息を整えると、改めて瀧田に向き直った。
「先輩には、何か事情があると思うんです。だから、クビにするのは、もう少しだけ待ってください。お願いします」
それをきいて、瀧田は表情を緩めてこう言った。
「わかった。あと一日だけ、な」
「ありがとうございます!」
ユウナの気持ちが通じたのか、瀧田は承諾した。しかし明日になるまで、あと数時間しかない。ユウナは瀧田に、
「失礼します」
と告げ、急いで会社を出た。そして悠二郎の携帯に電話をかけるが、瀧田の言っていた通り通じなかった。そして、ユウナは心当たりのあるところを順に回った。初めて二人で入った居酒屋、その近くの商店街まで、人混みをかき分けながら目を配ったが、人が多すぎて見つかる気配がない。
やがて疲れきったユウナは、公園のベンチに腰を下ろした。首筋には汗が滲んでいる。夏にはまだ早い季節とはいえ、これだけ歩くとやはり汗をかくものだ。空を見上げると、夕焼雲が綺麗だった。日は、暮れかかっている。やはり、携帯なしで悠二郎を探すというのは無謀だったのだろうか。ユウナは、深く溜息を吐いた。
数分後、一休みして段々と息が整ってきた。そして、ユウナが立ち上がろうとした時、スマホの着信が鳴った。それをきいてまさかと思い、ユウナはスマホの画面を確認する。しかし、そこにあったのは悠二郎の名前ではなく、大輝からだった。
「大ちゃん……?」
ユウナは、その電話に出た。
「もしもし?」
「あ、ユウナ? もう仕事済んだのか?」
「どうしたの?」
「俺、今研修で大阪来てるんだけど。今日の実習終わったからさ、よかったら飯でもどうかと思って」
ユウナはそれをきき、少し迷った。大輝からの誘いは嬉しかったが、どうしても悠二郎のことが気がかりだったのだ。
「大ちゃん、ごめんね。今日は、ちょっと用事があって……」
「あぁ、べつにいいって。俺も、急に電話してごめん」
「大ちゃんは、本当に救命士になるんだね……」
「あぁ、そのための研修だからな」
「たくさんの人を、助けるんだね」
「まあな。それが、一番俺に合ってる気がするから。お前も、頑張れよ」
「うん」
「じゃあな」
そんな言葉がきこえてすぐ、電話が切れた。ユウナは目を閉じ、昔のことを思い出してみた。どんな時でも、大輝が自分を守ってくれた。それだけは、いつまで経っても色褪せない事実であるのは間違いない。
ユウナは気を取り直し、また悠二郎を探すことにした。そして、一つだけまだ心当たりが残っていることに気づいた。そう、最後に悠二郎と会った場所、プロポーズされた場所だ。綺麗な夜景が見渡せる、会社からそう遠くない場所だった。
ユウナはその期待にかけ、そこに向かった。そして、悠二郎が来ていないか見渡した。その頃には、日はほとんど沈んでいた。腕時計を見ると、十九時を回っている。しかし、そこに悠二郎の姿はなかった。見えるのは、夜景とライトアップされた通天閣のみだった。ユウナは、手摺りに手をかけ、それを眺めていた。しばらく時間が流れ、ユウナが引き返そうとした時、誰かの足に躓いた。ユウナが転びそうになると、それをその誰かが支えた。
「君、大丈夫?」
ユウナは顔を上げると、そこにはなんと悠二郎の姿があったのだ。
「せ……、先輩?」
「中谷さん……」
二人はそのまま、しばらく見つめ合った。突然のことで、言葉がなかなか出てこない。ユウナはその姿勢のまま、
「どうして、電話に出てくれなかったんですか? すごく、心配したんですよ」
と言うと、悠二郎は答えた。
「あ、ごめん……。また親父が倒れて……。それで、実家帰ってたんだ」
「でも、それならどうして連絡くれなかったんですか?」
「もしかして、まだあのこと気にしてる?」
「えっ……」
急にそうきかれ、ユウナは躊躇った。「あのこと」とは、きっとプロポーズのことだろう。気にしていないと言えば、嘘になる。しかし、ユウナにとっては、ずっと会社を無断欠勤していた悠二郎のことが心配だった。
「私も、最初は驚きました。私、ずっと後悔してたんです」
「後悔?」
「あの日、何も言わずに逃げ帰ってしまって……。何て返事をしたらいいかわからなくて、それで先輩を傷つけてしまったんじゃないかって、心配してたんです」
ユウナの言葉をきいて、悠二郎は優しく笑った。
「そんなことないよ。俺の方こそ、ごめん。余計な心配させちゃって」
悠二郎がそう言うので、ユウナはまた恥ずかしそうに下を向いた。やはり顔を見ると、どうしても意識してしまう。すると、悠二郎は続けた。
「でも、君が好きなのは本当だから。どんなことにも一生懸命で、何があっても前だけを見据えてて、そして人一倍努力家で。そんな女性と出会えるのを、俺は待ってた」
「それは……、誤解です。先輩が思ってるほど、私は大した人間ではありませんから」
ユウナは、恥ずかしさを必死に堪えながら言った。異性にそのようなことを言われるのは、生まれて初めてであったため、どう返答をすればよいかわからなかったのだ。すると、悠二郎は言った。
「人間として見てるんじゃない、女性として見てるんだ!」
「えっ?」
それをきいたユウナは、咄嗟に顔を上げた。そしてまた、悠二郎と目が合う。その時、顔面が熱くなるのが体感でわかった。生まれて初めての感覚に支配され、思うように頭が回らなかった。しかし、ユウナにもこれだけはわかった。悠二郎は、本気で自分のことが好きなのだということを。この時、ユウナの中にも、悠二郎であれば、自分を幸せにしてくれるのではないかという気持ちが芽生えた。沈黙のあと、ユウナは口を開こうとした。
「ユウナ?」
きき覚えのある声が、ユウナの耳に入ってきた。ふり向くと、視線の先には大輝がいる。大輝も、この夜景を見に来たのだろうか。その時、ユウナはハッと気がつき、自分の手元を見ると、その手は悠二郎の手によって握られていた。咄嗟にユウナは手を引っこめると、立ち上がった。
「ち、違うの! こ、これは……」
すると、大輝は言った。
「お、おう。邪魔して悪かったな」
そして、大輝はどこかへ行ってしまった。
「待って、大ちゃん!」
ユウナはそれを追いかけようとしたが、大輝が信号を渡りきったところで赤に変わった。ユウナは交差点の前まで行くと、立ち止まるしかなかった。あのようなところを見られるとは思っていなかった。ユウナは立ち止まったまま、いったい何から手をつけてよいか、わからなくなっていた。すると、後ろから悠二郎が声をかける。
「あ、ごめん。ひょっとして、知り合いだった?」
「はい……。小さいころから高校まで一緒で……。ずっと、私を守ってくれたんです」
「そっか……。そんな大切な人がいるのに、勝手なことしてごめん」
すると、ユウナはふり向いて言った。
「いえ、いいんです。あとで、電話で話しておきますから」
ユウナが言うと、
「本当に、申し訳ない」
そう言って、悠二郎は頭を下げた。それを見たユウナも驚き、
「あの、そういう意味じゃ……。先輩にも、いずれ話そうと思ってて、彼のこと。だから、あまり気にしないでください」
と、あたふたしながら答えた。すると、悠二郎は顔を上げ、こう言った。
「いや、でも誤解させてしまって……。君は、彼のこと好きなんだろ?」
それをきいたユウナは、また顔が熱くなった。
「ち、違います! 彼は、その、ただの幼馴染なんです! だから、そんな気持ちは……。先輩も、幼馴染の女の子とかいるんじゃないですか? それと同じです」
「わかりやすいんだな……、君は」
「えっ……?」
そう言われ、ユウナは黙った。悠二郎はユウナと違い、至って冷静な顔をしている。
「でも、俺は諦めないから、君のこと」
「先輩……?」
「じゃあ、明日また会社で」
「あ、あの!」
悠二郎が歩いていこうとするのを、ユウナは呼び止める。そして悠二郎はふり返り、
「大丈夫。部長たちには、ちゃんと謝っておくから」
とだけ答えると、歩いていってしまった。ユウナはそれを見送り、ただぽつんとその場に立ち竦んでいた。悠二郎は、いったい何を伝えたかったのだろう。しばらくして、ふとユウナの頭を過ぎったことがあった。大輝のことだ。どうにかして、今日中に誤解を解かなければならない。ユウナは、スマホから大輝に電話をかけた。しかし、繋がらない。
仕方なく、ユウナはアパートに帰ることにした。日は完全に沈み、街の灯かりがユウナを寂しく照らしている。狭い路地まで来ると、人影はほとんどなく、光も電燈の灯りだけだった。油断していると、事件に巻きこまれそうな匂いがする。早くそこを抜けようと、ユウナは足を速めた。すると、電話が鳴る。名前を見ると、そこには大輝の名前があった。ユウナは、急いでその電話に出た。
「あ、もしもし、大ちゃん?」
「あぁ、ユウナ? さっきは、その……、悪かったな」
「ち、違うの! あれは……」
ユウナが必死に弁明しようとすると、
「いいんだ。それより、お前仕事は順調? 俺なんか、実習中にやらかしっぱなしでさぁ。相場の方が、教官たちから気に入られてるみたいで……」
と、大輝は笑いながら言っているようだった。
「相場君も、いるんだ……」
「あぁ。アイツ、ユウナのこと気にかけてたぞ」
「えっ……?」
「あ、でも安心しろ。今日のことは言わねえから」
「うん……、ありが……、って違うよ! だから……」
「じゃあな」
ユウナが言うよりも先に、大輝からの電話は切れた。ユウナはしばらく、そこに立ったままだった。大輝が帰るまでに、何とかしなければいけない。ユウナは、もう一度電話をかけようと履歴を開いた。その時、後ろからある声がかかる。
「やあ、君。そこで何してるん?」
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