夜、僕が都の散策を終え、屋敷に着いて中に入ると、普段よりも静まり返っている感じを覚えた。
「…? みんなもう帰ったのかな?」
豊聡耳神子の部屋を訪ねても中に居なかったので、屋敷の中を歩いていると、中庭に沿った形で設けられている縁側に座って、顔を出し始めた月を一人ボンヤリと眺めている豊聡耳神子を見つけた。
「やあ、今帰ったよ。」
豊聡耳神子は俺に気付いた様で、ゆっくりこちらに振り向いた。
「そうか。」
「ああ。………どうしたい豊聡耳神子?」
「え?」
「何か……悩んでるのかい?」
ずっと気にはしていたが、やはり何か悩みが有るのだろう。それに…何となく、何かを怖がっている感じもする。
神子は再び月を眺め始め、答えた。
「まぁ…そうだな。悩んでいるのかも…しれない。……、少しお話がある」
「ん?なんだい?相談なら乗っよ」
僕がそう言うと、豊聡耳神子は立ち上がった。こちらを振り向いて見る表情は憂いを帯びている。
「少し歩かないか?」
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街灯も何もないこの時代に夜になってから、出かけるなど、普通は無い。
だが、今日は満月。視界を予想以上に良好だ。
都からかなり離れて、嘗て豊聡耳神子と手合わせたした高原にやって来た。
「以前、ここで手合わせたした時を思い出すね。あの時は昼だったからか、見える景色も違ったものに見えるよ。」
「ああ.........そうだな。」
思わず苦笑いが出てしまう。
言葉少なく、小さく震えているようにすら見える背中。
豊聡耳神子の姿は、以前とは比べ物にならない程小さく見えた。
そのまま、言葉無く歩き続けて崖の前で行き止まりになった。
彼女はしゃがみ込みと、岸壁の一輪の花を撫で始めた。
「私は死を許せない。」
「私は大衆から希望として、崇められているが、死が齎す絶望を拭う事が出来ない。」
「..........いや、言い訳はよそう。正直に白状すると完璧と持て囃された私は、ただの死に怯える小娘だったわけだ。」
「だが............」
花びらを撫でる手が止まる。
「仙人になる事で死を克服し、不老不死となる。」
彼女の言葉に被せるように僕は言う。
「.......なんだ知っていたのか。いや、お前なら知っていてもおかしくないか。」
「霍青娥。あの仙人の事だろう。」
「道教という宗教は最終的に仙人、不老不死になることができる。世を平和にするには時間がかかる。仙人になって未来に生きる民達を救う事もできる。しかし...」
「......」
「...その為の修行には同じくらいの時間がかかる。これでは意味がない。だから…私はもう一つの方法を選ぼうと思っている。」
彼女は少し言うのを躊躇っていた。僕は無言で彼女が話し出すまで待つ。
「それは……一度死に、未来で蘇る事。」
「…………………」
特に驚きは感じなかった。彼女の表情がそれを如実に物語っていたからだ。
「だが…怖いのだ。蘇り、仙人になるためとはいえ、死ぬのが……とても怖い。死んだら、どうなってしまうのか分からない…。蘇るまでに何があるのか、分からない。….ずっと、暗闇なのかも、しれない…」
彼女はいつの間にか涙を流していた。話すたびに、その量は増えていく。それを止める事も出来ない。
僕は彼女を後ろから抱きしめた。
「あ、藍染?」
「君が今触れている花は美しいかい?」
「何を言って....」
「我々が岸壁の花を美しく思うのは、我々が岸壁に足を止めてしまうからだ。悚れ無きその花のように空へと踏み出せずにいるからだ。」
「.......」
「君が悚れを抱くなら、僕が力となろう。君が決めたことならそうすればいい。でも後悔だけは絶対にしない事だよ。過去には戻れない。やり直すことはできない。それでも仙人になるのなら…死ぬのが怖いなら、落ち着くまでこのままでいよう。」
僕の言葉を聞いた途端、彼女の瞳から川が氾濫したように涙が溢れてきた。彼女はそのまま僕の胸に顔を埋め、泣いた。
「死の恐怖を乗り越える事は並大抵の事ではない。人はただ生きるだけでも歩み続けるが、それは恐怖を退けて歩み続ける事とはまるで違う。」
「だから人はその歩みに特別な名前をつけるのだ。」
「勇気と」
僕の胸に顔を埋めていた彼女が、僕の顔を見上げる。
涙で輝く彼女の瞳が僕を捉える。
お互いを見つめ合い、そして瞳を閉じる。
「神子。」
「そ、惣右介。」
僕達はお互いの名前を呼び合った。
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差し込んだ朝日に目が醒める。障子からの日差しが目に眩しい。部屋全体はまだ薄暗く、肌寒さに肌を震わせる。
そういえば服を着ていなかったな。
昨日のことを思い出す。
凍てついた私の心を解す一夜だった。聖人としての私では無く、
そこまで思い出して、自分の頬が熱を持つのを感じた。
「おや、目が覚めたかい?」
声がした方を振り向くと、私をこんな気持ちにさせた
「ああ、お陰様でな。誰かのせいで、身体が今も怠いな。」
「天下の太子様がそんな柔な訳が無いだろう。でも、まさかあの様な可憐な声で鳴くとは、誰も思うまい。」
「そう言うお前は、眼鏡を外すと随分と雰囲気が変わるな。偽りの姿では無く、普段からその姿ならどうだ?」
「僕としてはそんなつもりは無いんだけどね。」
困った様に笑う惣右介。そうこの男は眼鏡が外れると、自分でも自覚出来ていないのだろうが、普段感じている偽りの姿が無くなるのだ。何より
「お互い立場が有るからね。特に君の場合は尚更だ。だから僕は帰るよ。」
惣右介はそう言うと部屋の戸を開けようとする。その
「ありがとう、惣右介。お陰様で決心ができたよ。」
「........」
「......私は仙人になる。」
「......そうか。」
結局、一度もこちらを振り返る事なく、部屋を出て行く惣右介。だが、それでいい。彼は私の決断に寄り添ってくれると誓ってくれた。ならば、私も全力で彼を支えていける人間になろう。
身体を重ねて感じたが、やはり600年の月日はとても大きく、私では推し量る事すら困難な孤独を想起させた。今は支えられてばかりだが、いつか本当の意味で対等な関係になる為にも私は、自分の殻を破る決意をした。