東方霊術伝   作:モン太

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主よ、我々は
孔雀を見るような目つきで
あなたを見る

それは期待と、渇仰と
恐怖に似た底知れぬものに
縁取られているのだ


東仙要

私には愛していた女性(ひと)がいた。

 

『ねえ、要。』

 

・・・・その人は美しかった。

 

・・・・その容姿は知らないけれど。

 

私は目が見えないから。

 

『ねえ、要。今日は星がきれいよ。

普段見えない星まで見えているわ。』

 

・・それでも、その人は美しかった。

 

『星の光ってなんだか人の命みたいよ。闇の中で小さく光るの。

そうは思わない?要。』

 

・・・・彼女は何度も私の名を呼んだ。

 

・・・・穏やかな優しい声をした人だった。

 

その人が私の名を呼ぶのが、嬉しかった。

 

名を呼ばれるだけで、私は幸せな気分になれた。

 

いつまでも聴いていたかった。

 

『いやだわ。雲が出て来たわ。

星を覆っていくわ、要。

星の光が隠れてしまう。

 

私はね、要。雲が嫌いよ。

いつか・・雲を払う人になりたいわ。』

 

あまりにその人の声は心地よくて・・

 

私は本当は雲が好きである事を、何時もその人に言いだせなかった。

 

もし言ってしまえば・・・。

 

その人はもう私の名を呼ばなくなってしまうのではないか。

 

確信はない。何も。

 

しかし、私はその事を何より怖れていた。

 

何度もその人と二人で出かけた。

 

野山や川。しかし一番多かったのは星を見に小高い丘へ登る。

 

私は星を見る事は出来ないけれど、丘に行くのは好きだった。

 

なぜなら、その人は何処よりもその丘で私の名を呼び、話しかけてくれたから。

 

もっと聴いていたかった。

 

そして、その時間はもっと長く続くものだと思っていた。

 

・・・彼女が知らない男との結婚を報告し、そして貴族の家に入る事になるまでは。

 

・・彼女に一番近いのは私だと思っていた。

 

まさか今まで聞いたことも無い男と彼女が結婚するとは思わなかった。

 

「・・・その男は本当に君の事を理解してるの?

・・・本当にその男と結婚して幸せになれるの?」

 

そう言いたかった。

 

でも言えなかった。

 

彼女の僕に話す穏やかな声が変わるのが怖かった。

 

何より、この美しい人が結ばれる相手を間違える筈はない。

 

きっと幸せになれる筈だ。

 

私は腹の底の苦さを気付かぬふりをした。

 

そして見知らぬその貴族に男は、その美しい人を僕から奪い去った。

 

・・・結局会ったことも無いけれど。

 

だが、彼女が貴族に迎え入れられたことは喜ぶべきことだった。

 

彼女はそれを望んでいたから。

 

私は目が見えないから、彼女と同じ道は進めない。

 

当時の私はそう思っていたし、彼女もそうだ。

 

貴族に行ってしまえば私から彼女は離れてしまう。

 

心の底で本当は”破談になればいいのに。”

そう思っていた事は彼女には絶対言ってはいけない事だった。

 

にこやかに”おめでとう”と私が言う事を、彼女は望んでいる。

 

・・・だから私はそうした。

 

「何かぼくに手伝えることがあるといいのだけど・・。」

 

この言葉は私の望みだった。

 

嘘でもいいからあると言ってほしかった。

 

僕も一緒に連れて、平和を創る手伝いをして欲しいと言ってくれたなら・・。

 

けれどその美しい人は言った。

 

「ありがとう。でも要は要のままでいて。

そして時々帰って来る私の話を聞いてほしいの。」

 

あの人の望みがそうなのならば・・。

 

私に出来る事がそうだるというのならば・・。

 

私に「解った。待ってるよ。」以外の言葉を紡ぐ事など出来はしない。

 

「ありがとう。約束よ。」

 

彼女は本当に嬉しそうに・・そして一番美しい声で私にそう言った。

 

約束の証のように彼女は私の手を取った。

 

ほんの数瞬。

 

あの人に触れたのはそれが最初で最後だ。

 

温かな・・私よりも小さな柔らかな手。

 

この手が知らぬ誰かに取られると思うと、彼女は離そうとした手を思わず掴みそうになる衝動を必死に私はこらえていた。

 

・・私は待っていた。

彼女の望んだ私であるべく。

 

しかし彼女は戻ってこなかった。

 

殺されたのだ。夫に。

 

つまらぬ事で同僚を殺し、それを諌めた彼女を夫が殺したのだ。

 

・・・・貴族に。

 

そして、私は永遠にあの人を失った。

 

・・・貴族は、私から彼女を奪ったのだ。

 

・・・何も出来なかった。

 

彼女に何も出来なかった。

 

きっと何か出来る事があった筈なのに。

 

私は何も出来なかったのだ。

 

私が出来たのはただ話を聞く事だけだった。

 

もう遅い。

 

あの私の名を呼ぶ美しい声は二度と聴く事は出来ないのだ。

 

彼女の棺を前にしても、私は心の中で彼女の死を受け入れられなかった。

 

だから、無礼を承知で蓋をあけた。

 

花の香がした。そして僅かな死臭も。

 

手で探ると冷たい皮膚の感触があった。

 

以前触れたあの柔らかで温かな肌とは別物だった。

 

そして私は彼女の死をようやく受け入れた。

 

何故か涙は出なかった。

 

悲しい筈なのに。

 

・・それは・・悲しみよりもはるかに凌駕する怒りのせいだ。

 

貴族はあの人と私から全てを奪った。

 

あの人の美しい夢を。未来を。命までも貴族どもは奪い。

 

そして私から『あの人の話を聞く』という只一つの彼女の為に出来る事を奪い去った。

 

・・もう君の為に出来る事は本当に無いのか?

 

いや・・違う。

 

ある。

 

君が為し得たかった平和の世に・・正義の世にこの世をしよう。

 

この私の全てをかけて。

 

・・だから、せめて私に赦してほしい。

 

君の斬魄刀を使う事を。

 

君の想いを・・受け継いだ証として。

 

その代償に、私は残りの人生を君の夢の為に行きよう。

 

・・・君の願った正義の敵う平和の世の為に。

 

だからこそ、全てを見届ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

だが、現実は残酷だった。

 

「何故、何故あの男が死刑ではないのですか!」

 

それは、命を賭した叫びだった。

 

「どうか!帝にお目通りを!どうか!」

 

屈強な守衛が持つ鋼鉄製の六尺棒に遮られながら、私は声をあげ続けた。

 

門番達は貴族の縁者なのか、只の小作人な私を見る目には、明確な侮蔑の色が浮かんでいた。

 

だが、私は臆す事なく門の奥へと手を伸ばす。

 

私は断罪を叫んだ。正義の執行を求める純粋な嘆願だ。

 

しかし、門番達はそれに耳を貸す事はなく、盲目の私に対して六尺棒を振るい上げる。

 

布地の擦れる音、空気の蠢き、足運びの流れ。

 

盲目の私にはその全てを感じ取り、門番から自分に対して容赦の無い一撃が叩き込まれると判断した。

 

しかし、私は避ける気が湧かなかった。

 

その時の感情は最早憶えていない。

 

ただ、そこで怯えて退くという様なそぶりは欠片も無かった。

 

私は、ここに来た時点で既に己の運命を賭す覚悟を決めていたからだ。

 

門番達はそれに気付く事なく、盲目故に避けようがあるまいと思い込み、無抵抗の相手に迷わず武器を振り下ろす。

 

だがーー激しい衝突音が響き、門番達の一撃が弾かれる。

 

「!」

 

門番達の目に映ったのは、煌びやかな装飾が施された太刀。

 

そして、それを手にしている者を見た瞬間、門番達は表情を強ばらせる。

 

「物騒な真似はしないでくれ。まだ、歌匡さんの喪中だ。」

 

「あ、貴方は・・・」

 

「彼はこちらで説得する。君達は警備の仕事に戻るといい。」

 

「は、はい!」

 

私には最初何が起きたのか理解できずにいた。

 

私の意識は、自分を助けてくれたらしい男の発した人名に囚われる。

 

歌匡。

 

自分がここに命がけで訪れた理由。

 

幼い頃から一緒に育った、かけがえのない親友であり、密かに想いを寄せていた人物だ。

 

その名を口にした男は、私に優しげな声で語りかける。

 

「君の事は知っているよ。確か、歌匡さんの葬儀に来てたね。」

 

「.......あの人を.......知っているのですか。」

 

「同僚というやつさ。私も貴族で陰陽師だよ。.........だが、私は彼女を護れなかった時点で陰陽師として失格なのかもしれないが。」

 

沈痛な面持ちで語る男は、そのまま私に対して手を差し出した。

 

「場所を変えよう。あの頑冥な門番達と語る事は、もはや何もないだろう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「そうか、君が東仙要君か。仕事の時でも、彼女はたまに君の名前を出していたよ。だから君は、特別に貴族の葬儀に呼ばれたんだろうね。」

 

私ーー東仙要はただの小作人であり本来、都の中心部に自由に出入りする事はできない。

 

そんな私がここに来れたのは、特別な計らいだった。

 

「歌匡さんは陰陽師として、真央霊術院に入学する時に、あらかじめ遺言状を残していたんだ。妖怪との闘いでいつ死ぬか解らないからね。寧ろそれは真央霊術院では推奨されている。」

 

歌匡の知り合いだという陰陽師が言うには、遺言状の中には、「自分が死んだら遺体は東仙要の元に埋めて欲しい」という旨が書かれていた。

 

「星の見える丘の麓に埋めて欲しいそうだ。場所は、東仙要という親友が知っていると。」

 

「.......はい、その丘には、心当たりがあります。」

 

私の脳裏に蘇るのは、かつて丘の上にある村の側で、親友と共に夜空を見上げた記憶。

 

ーー「私は夜空が好きよ。要。」

 

ーー「だって、夜空は世界に似ているもの。」

 

ーー「全てが闇に包まれていて、小さな光がたくさんあって」

 

ーー「でも、それを隠そうとする雲があるの。」

 

ーー「わたしはね、要。その雲を取り払う人になりたいの。」

 

ーー「光が一つだって消えてしまわないように。わたしは雲を払うのよ、要。」

 

星を見上げながらそう言っていた彼女は、やがて夢を叶えた。

 

世界の光を守る為の力と立場を手に入れたのである。

 

陰陽師。

 

この都の全ての基盤となり、この国に生きる者達を妖怪から守る者達。

 

悪しき魂である妖怪を打ち払い、人々の希望となる。

 

彼女はまさに星を守る権利を与えられたのだ。

 

だが、夢が叶った彼女は、その続きに足を踏み出す事はできなかった。

 

「..........彼女の夫が、殺したと聞きました。」

 

「ああ、そうだね。彼女の夫は同じ陰陽師隊の同僚を些細な諍いから斬り殺し、それを諌めようとした己の妻も殺した。それは事実だ。」

 

「........何故、彼女が........あの人が死ななければならなかったのですか?」

 

悔しさに拳を握り締める私に、貴族の男が答える。

 

「これは私の推測だけれど、彼女が誰よりも真っ直ぐな人で.........正義と平和を心に抱き続けたからだと思っている。」

 

それは私も理解している。

 

親友である歌匡は、誰よりも平和を愛していた。

 

誰よりも正義を重んじていた。

 

だからこそ、自らの手を妖怪の血に染める覚悟をしたのである。

 

「私も、いつかこうなるのではないかと彼女を日頃から案じていた。彼女は正義を貫くには平和を愛し過ぎる。もしも愛も平穏も否定し、ただ苛烈なる正義のみで生きていたならば、彼女は逆に夫を斬っていた事だろう。だが、彼女にはそれができなかった。」

 

「彼女の願いが間違っていたというのですか!?彼女を殺した男は、大した罪にも問われぬと聞きました!」

 

「だから、君は朝廷にお目通りを願ったのだろう?」

 

貴族は小さく溜息を吐き出し、言い淀むように言葉を続けた。

 

「........五大貴族、というのを知っているかい?」

 

「具体的な家名は知りませんが、確か......平安京の貴族の中でも最高位の家柄だと.......」

 

「歌匡さんを斬った男というのは、その五大貴族の血筋だ。」

 

「!」

 

貴族と結婚した事は知っていたが、五大貴族程の名家だとは聞いていない。

 

困惑する私に、貴族は更に言葉を続けた。

 

「本家筋ではない、分家の末裔だからね。その男にさしたる権力もないが、そんな立場の男だろうと、貴族というのは殺人自体を無かった事にしていたか、歌匡さんに叛逆の罪を着せて処刑したという形で落ち着けていただろうね。」

 

「そんな!そんな.......馬鹿な事が.........ッ!」

 

私は、思わず声を荒げる。

 

親友を殺した男が大した罪にならぬと聞いた瞬間から、心の中で、そのような可能性がある事も考えてはいた。

 

だが、その彼女自身が『正義の為の力だ』と断じていた組織の中でそのような事が起こるなどと信じたくなかったのである。

 

だからこそーーそれを否定したかったこそ、私は命がけで朝廷へ直談判するためにここまで来たのだ。

 

「陰陽師とは、貴族とは都とこの国の平穏を守る集団ではなかったのですか!朝廷とは世界の理を体現する方々ではなかったのですか!」

 

「平穏を守ったのさ。貴族も世界の一部だからね。彼らの平穏を守ったんだ。そして、まさに今の朝廷はそうした理不尽な世界の象徴という事だよ。」

 

「........ッ!」

 

断言する貴族に、私は呆然と立ち尽くす。

 

そんな私に、陰陽師は口惜しげに顔を歪めながら口を開いた。

 

「君の気持ちは痛い程解る。私も彼女を殺した男がさしたる罪に問われぬなど、どう考えてもおかしいと思っている。しかし、それが貴族だ。朝廷は五大貴族の........特に力を持つ藤原家の言いなりなんだ。」

 

沈痛な面持ちで語り、男は私と同じように拳を握りしめた後ーー

 

周囲に人がいない事を確認した後に、静かな声で問い掛ける。

 

「だが、それを踏まえた上で、敢えて私は、彼女の親友である君に聞きたい。」

 

「..............?」

 

果て無き憤りに心を蝕まれかけていた私だが、男の真剣な声色に気圧されるように、聞きかけていた口を閉ざして相手の言葉に聞き入った。

 

「もしも復讐に足る力を私や君が持つとして、それを我々は成すべきだろうか?」

 

「それは.......」

 

「これは、彼女の願いや尊厳と私達がどう向き合うかという問題でもある。果たして彼女は.......東仙君、君に対して復讐を望んでいるだろうか?」

 

相手の表情を見る事はできない私だが、その貴族の言葉の端々に、僅かな殺気のようなものが感じられる。

 

それが逆に自らの冷静さを取り戻す結果となり、私は怒りを辛うじて押し込めつつ、親友の言葉を思い出しながら言葉を紡ぎ出した。

 

彼女の同僚がこのような殺気を滲ませる事など、あの人の望んだ世界とは程遠い。

 

自分の中で必死に折り合いをつけようとしながら、私は貴族の問いに対する答えを口にしようとした。

 

「..........あの人は、復讐は望まないと思います。それがあの人の望みであるのならば........私も...........」

 

だが、そこで言葉が止まる。

 

ーー『私も、復讐を望まない』

 

その言葉を、口から上手く吐き出す事ができない。

 

自分の為に他者が復讐に手を染めるなどと、彼女は決して望まないだろうという事は解っていた。

 

しかし、臓腑の奥底で絶え間なく脈打つ感情が、それを認める事を良しとしなかった。

 

ーー彼女の願いなど関係ない。

 

ーー自らの為に復讐を成せ。

 

己の内から湧き上がる黒い感情の塊が訴えかけるが、私はその声に従う事もできない。

 

私は知っていたからだ。もしも自分や他の誰かがその憎しみに従ってしまえば

 

ーーその時こそ、彼女が二度目の死を迎える時であると。

 

彼女の生きた証の全てを踏みにじる事になる、自らの手で彼女の願いを殺す事になる。

 

それだけは出来ないと、私は己の感情を殺すのと引き替えに言葉を紡ぎ出した。

 

「私も...........彼女の願いを、彼女が望んだ正義と平和を...........重んじたいと思います。」

 

「そうか...........。そうだな。確かに彼女は平和を愛した。だからこそ命を落としたが.......しかし、私はそれが彼女の弱さだったとは思わない。」

 

貴族は殺気を薄れさせ、淡々とした調子で私に対して言葉を続けた。

 

「彼女の祈ったものが弱さではなく強さであったと証明できるとすれば、それは君のような者が今後どう生きるかという事だろう。」

 

「...................」

 

「どうか、彼女の願いを君が受け継いで生きてくれ。これ以上、無駄な血がこの世界の中に流れぬように。」

 

「..................」

 

貴族の言葉に、心の底から納得できたわけではない。

 

だが、私の目の前にいる男が親友の事を自分と同じように理解している者だと悟り、憎しみに染まりかけた心を押し止めてくれた事に感謝した。

 

「........ありがとうございました。」

 

「いや、こちらこそ礼を言わなくてはならないな。こうして、君のような人間が彼女の遺志を継いでくれるという事に。」

 

「いえ、私にそのような資格は...........」

 

今も湧き上がる憤怒と憎悪を必死に抑え付けている自分に、彼女の志を護る資格などない。

 

そう思う私に、貴族は優しげな笑顔で語りかける。

 

「人の祈りを受け継ぐ事に、資格など要らないだろう?彼女がかつて言っていたよ。自分の願いは大したものではなく、空の星々のように、ただそこにあるだけで輝き続けるものを護りたい、そんなささやかな希望だとね。」

 

「...............」

 

その話をしたという事は、目の前の男を含め、本当に彼女は同僚の陰陽師達に希望を抱いていたという事だろう。

 

私はそう判断し、彼女の尊さを重んじる者が貴族の中にもいたという事に安堵した。

 

「あの......宜しければ、お名前を教えて頂けませんか」

 

だから、私は名前を聞いた。

 

彼女の内面を見ていた者が自分以外にも確かにいるのだと、世界は残酷だが無慈悲ではないのだと己の心に刻み込む為に。

 

すると、男は穏やかな口調で、淀みなく自らの名を口にした。

 

「ああ、私の名は時康だ。藤原時康。」

 

「はい、フジワラ様です.........か.........。.........。...........?」

 

そこで、私の思考が一瞬止まる。

 

強い違和感。

 

聞き覚えのある名が、目の前の男の口から語られたからだ。

 

ーーいや、しかし。まさか。

 

ーー私の思い違いだろう。

 

そう思い、再度尋ねようとした私の表情を見て、男は小さく首を振る。

 

「勘違いでも聞き間違いでもないよ、東仙要君。」

 

「え.......?」

 

「君は私の顔はもちろん、声も知らなかっただろうからね。いやあ、偽名を名乗るのはあまり好きではないんだ。」

 

「あの、貴方は何を........」

 

困惑する私だが、私の臓腑は叫びを上げ、本能が二つの相反する単語を並べ立てる。

 

『殺せ』

 

『逃げろ』

 

と、憎悪と恐怖が入り乱れた感情が全身の血管を駆け巡り始めた。

 

しかし肝心の理性がそれに追いつかず、どちらの行動にも出られずにいた私に対し、男は淡々とした調子で自らの立場を相手に告げる。

 

「もう一度言おう。私が、藤原時康........君の親友の夫だった男だよ。いや、今となっては、君の親友の仇、というべきか。」

 

「.................」

 

「いやあ、君が復讐を望まないでいてくれて良かったよ。失うもののない小作人の貧民に恨まれ続けるなど、保身を考えて二の足を踏む貴族達に恨まれるより余程恐ろしいからね。」

 

いけしゃあしゃあと語る男は、変わらぬ笑顔のまま私の頬に手を添えた。

 

同時に、これまでに体験した事の無い寒気が私を襲う。

 

親友などから感じていたものとは違う、ひたすらに不気味で重々しい重圧感で全身を射抜かれ、体内の激しい衝動を力尽くで抑え込まれた。

 

度を越した恐怖の感情が、『逃げろ』という本能の叫びすらをも打ち消したのである。

 

「もしも先刻の問いに『歌匡は復讐を望むだろう』と答えていれば、私は君を斬るつもりだったよ。彼女を全く理解していない愚か者と話すのは不愉快だからね。同じ貴族ならともかく、貧民の住人などいくら殺しても問題はないしな。」

 

先刻の男の言葉に感じた殺気が自分に向けられていたものだと気付くが、もはやどうでも良い事だった。

 

相手の言っている言葉の意味も理解できない。

 

したくもない。

 

だが、私の感情を爆発させ、のし掛かる恐怖から身体を解放するには充分だった。

 

目の前に親友の仇を名乗る男がいる。

 

それが嘘か本当かはもはやどうでもよい。

 

だが、このような禍々しい気配を人に向ける男が、親友について語る事が許せなかった。

 

これまで身体の奥底に押し込めていた負の感情が弾け飛び、眼前の貴族、藤原時康に向かって襲いかかった。

 

「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッ」

 

声にならぬ声。

 

まさしく獣のような叫びと共に、私は目の前の男に掴みかかった。

 

だがーー

 

「我が妻の良友よ、何故そうも憤る?」

 

私の世界が、ぐるりと大きく回転する。

 

背中から地面に叩きつけられ、身動きが取れなくなる。

 

口の中に血の味が広がり、手足は激痛と共に麻痺しているのが理解できた。

 

それでもなんとか起き上がろうとする私の上から、穏やかな声が響き続ける。

 

「私の妻.........歌匡ならば、私を許すぞ?」

 

「おま.........え........。お前が........ッ!」

 

私は声の元に向かって叫ぼうとするが、喉から溢れる血が上手く言葉を象らせない。

 

「先ほどの問いに君は答えたろう?彼女の願いを重んじる、と。妻の事を想うならば、私の事を許し、憎しみを忘れ、我ら貴族に護られた安寧の中で日々を生きるべきじゃあないのかな?」

 

「...........ッ!」

 

「我が妻も、君がそうする事を望むだろう。理解したまえ、彼女の為にも。」

 

そして、時康は起き上がろうとする私の喉に刀を鞘ごと押し当て、喉を潰しながら地面に押し付ける。

 

「もっとも、斬拳走鬼を一つなりとも使えぬ君に、最初から復讐する力などなかろがね。」

 

そして、私の叫びを聞いて集まってきた門番達に声をかける。

 

「やあ、君達。仕事だぞ?貧民の住人が私に手を上げようとした。早々に叩き出してくれないか?」

 

「は、はいッ!」

 

門番達は笑顔のままでそう語る五大貴族を前に、空恐ろしい何かを感じながらも指示に従う。

 

彼らと入れ替わる形で私の元を去りながら、時康は思い出したように口を開く。

 

「ああ、誤解のないように言っておこう。私は君に嘘は一切ついていない。私のような男がろくに罰されないとは、本当におかしな世界だよ。それに、歌匡を世の中の理不尽から護れなかった事も残念だと思っているし、彼女の願いが尊いものである事も理解している。」

 

「ーーーー」

 

喉を潰された私は、それでも何かを叫ぼうとしながら時康を睨みつける。

 

盲目である筈の私にも、ハッキリと見えたからだ。

 

去りゆく貴族の顔に貼り付けられた、悪意と愉悦に満ちた凶悪な微笑みが。

 

「ただ、私はそういう願いが反吐が出る程に嫌いというだけの話さ。」

 

そして、そんな男に対する怒りよりも深く、親友の願いを踏みにじった世界に対して深い絶望を抱いた。

 

あの日、彼女が見上げた星々はーー決して彼女を照らしはしなかったのだと。

 

彼女こそが世界を照らす光であり、それはもう、永遠に失われてしまったのだと。

 

深い絶望と怒りに包まれた私の頭上に、再び門番達の六尺棒が振り上げられーー

 

此度は、誰もそれを止める者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

朝廷への面会を求めていた、盲目と思しき貧民の青年。

 

彼を件の『妻を斬り殺した貴族』が連れて行ってから数分後、その貴族はほがらかな笑顔と共に、こちらへと声をかけてきた。

 

「やあ、君達。仕事だぞ?貧民の住人が私に手を上げようとした。早々に叩き出してくれないか?」

 

正直わけが解らなかったが、門番を務める男達に、その指示を断る理由はなかった。

 

「は、はいッ!」

 

門番達は貴族の言葉に不気味なものを感じるものの、素直にその指示に従う事にする。

 

何か裏があろうと、自分達には関係の無い事であり、貴族に逆らうよりも、目の前の貧民の住人を打ちのめす方が遥かに有用だと理解していたからだ。

 

貴族は何か盲目の男に対して言葉を続けているが、その意味を理解する必要はない。

 

分家の末席とは言え、五大貴族の揉め事に絡んではろくな事はないと彼らは考えた。

 

喉を潰された盲目の貧民の住人が、何かを叫ぼうとしながら貴族を睨みつけている。

 

小作人の貧民の分際で、なんと反抗的な態度なのか。

 

門番達は二度とこの貧民が朝廷に足を踏み入れぬよう、徹底的に打ちすえる事にした。

 

盲目の青年が絶望する表情に嗜虐心を刺激され、門番達は知らず知らずの内に自らも貴族と同じような笑みを浮かべる。

 

この身の程知らずの若者に、自分達は教育を施すのだとばかりに。

 

そして、深い絶望と怒りに包まれた盲目の男の頭上に、再び六尺棒を振り上げーー

 

 

此度は、誰もそれを止める者はいなかった。

 

 

六尺棒の打撃音が響き続ける中、盲目の青年ーー東仙要は、呆然とその音を聞き続ける。

 

ーーなんだ?

 

ーーこの門番達は........何をしている?

 

 

絶望と怒りに包まれ、熱く煮えたぎっていた魂が、困惑によって僅かずつ鎮まり始めた。

 

盲目である彼の目には映らないが、音と空気の流れだけで何が起こっているのかを感じる事はできる。

 

門番の一人は嗜虐的な笑みを浮かべながら、東仙の目の前で六尺棒を振るい続けていた。

 

隣に立っていた、相方であるもう一人の門番に対して。

 

「き、貴様、何を........ぶひゅッ」

 

殴られた側の門番が呻き声を上げるが、その言葉が顔面への打撃で遮られる。

 

「口答えをするな!この薄汚い平民が!」

 

自分を見逃してくれたのだろうかという考えは、打ちすえる側の男の鼓動や下卑た息づかいなどからすぐに否定される。

 

この門番は、隣にいた相方ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

意識を失った相方を通りの外まで引き摺っていく門番。

 

そのようにして遠ざかる門番達の音を聞き続け、混乱さめやらぬ東仙の背後からーー不意に、知らぬ男の声が響いた。

 

「彼らの水筒の水を酒にすり替えておいた。今の行動は、職務中の飲酒による喧嘩という形で収まるだろうね。あの貴族は怪しむだろうが、せいぜい疑心暗鬼にさせておけばいい。」

 

穏やかな声。

 

しかし、先刻の貴族ーー時康とは違い、その奥にある力の塊のようなものを隠さぬ、聞いただけで圧力を感じさせる声だった。

 

「誰だ........お前も..........お前も陰陽師か........!」

 

東仙は困惑しつつも再び心の中に憎しみを灯し、目の前の男の喉笛を食い千切らんという殺気を籠めながら問い掛ける。

 

すると、男は隠し立てする事もなく、堂々と答えた。

 

「ああ、その通りだ。君が今しがた絶望し、厭悪の炎で燃やし尽くそうとしている下らない世界の一欠片だよ。」

 

新たに現れた陰陽師は、東仙に対して一つの提案を持ちかける。

 

「その胸に満ちた憎しみを、暫し僕........私に預けるつもりはないか?」

 

訝しむ東仙だが、目の前の男の声からは、既にこちらの心臓を掌握しているかのような自信とーー根源的な支配者と話していると錯覚する、圧倒的な『力』が感じられた。

 

男は穏やかな口調のまま東仙に手を差し伸べーー自らの名を口にする。

 

東仙要という男に一つの『道』を示し、後に世界を敵に回して天を目指す男の名を。

 

「私の名は、藍染惣右介。今はまだ........ただの矮小な人間だ。」


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