朝とネクタイ。
「ただいま」
リビングに彼女が日課であるランニングを終えて戻って来た。お気に入りの白のジャージ姿、その袖で頬を伝う汗を
「おかえり千冬。もうすぐ朝食できるから、シャワー浴びて汗流しておいで」
「ああ、いつもありがとう、准」
「いや、好きでやってることだから」
「そうか」
そう言って微笑むと千冬はタオルを手に取ってバスルームへと姿を消した。その間に俺は朝食の準備の最終段階に取り掛かる。
アジの開き焼き加減を見つつ、隣の味噌汁の味を調え、それが終わったらほうれん草のお浸しにかつお節を乗せた。盛り付けができた物はさっさとテーブルへ、ご飯も炊飯器からお茶碗によそる。
この動作に淀みは無い。あっては困る。何故なら今の俺は専業主夫。仕事にはプロ意識を持っていたいのだ。彼女に気持ち良く、日常を送ってもらうために。
そんなこんなでテーブルに本日の朝食のメニューを並び終えたあたりで、彼女がバスルームから姿を現す。
水気を帯びた黒い髪。体温が上がったからか、ほんのりとピンクに染まる肌。要所要所を隠す白いバスタオル。全ての要素が料理におけるスパイスの様に彼女を引き立てる。
いつ見ても風呂上りの彼女は色っぽくて、俺はじっと見つめることができずにいた。もし、舐めるように彼女を眺めたとして、逆に俺が赤面することが目に見えていたし、それをからかわれるのも容易に予測ができるからだ。
だから俺は俺なりに足掻いているのだ。彼女にはお見通しらしいが。
「ふむ、今日は焼き魚か。良い匂いだ」
彼女はそんな俺の気持ちをいざ知らず、俺の隣へ立って話し出した。視線をそちらに向けると角度が付いたからか、正面からとはまた違う景色が見える。
うっすらと浮き出る鎖骨。そしてバスタオルから顔を覗かせる山と谷。それらから即座に目を逸らして、適当に話を合わせる。
「昨日、魚屋のおじさんにサービスしてもらってね。美味しく焼けたと思うよ」
「そうか、それは楽しみだな。さっさと着替えてくる」
彼女は寝室へ行った。俺の心音が少しずつ速度を落としていく。胸を撫で下ろす。これ以上あの姿を見せつけられたらまともな自分でいられる気がしなかった。
とはいえ、ここからも難所が続く。これは習慣。彼女がこの後どのような姿で現れるのか、俺は知っている。それに備えて、席についてしばらく待つ。少しでも精神的な余裕を持つために深呼吸を繰り返す。
そうしているうちに足音が聞こえた。ドアが開く。その音に反応して、唾を飲み込んでから視線を送った。
彼女の肌を遮るのはワイシャツのみ。いや、正確に言うのなら下着とワイシャツだ。それに湿った髪をターバンの様にタオルで包んでいた。特に目に付くのは、ワイシャツの端から伸びる生足。髪を上げた事によって露わになったうなじ。的確に俺のフェチズムをくすぐってくる。
先程のバスタオル姿は全体的な魅力だとすれば、このワイシャツ姿は特化型。例えるなら男の性癖を打ち抜くスナイパーライフル。この数分の間で「ええい! 織斑千冬の私服は化け物か!」と大佐でなくても叫んでしまいたくなっていた。
「待たせたな」
「いや、それほど待ってないよ」
「そうか、じゃあ、頂きます」
「はい。召し上がれ」
二人で向き合って食事を摂り始める。彼女は基本的に黙々と食事を撮るタイプなので、俺も同様に食事中に話すことは無い。故に皿にのみ目線を向けていればいいのだ。それは唯一の救いである。その間に別の事(次の献立)を考え、心を休ませる事ができるからだ。
そうして食事を終えて、皿を片付けて水に付ける。そして、スポンジを手に取って洗剤を付けて、皿の上をなぞった。
その合間合間で、ふと視線を皿からリビングに移したりする。恥ずかしいとはいえ、俺とて男、恥ずかしがっている姿を見られるのが好きじゃないだけで、見るのは嫌いじゃない。
ほらあれだ、例えるならそう、小説を読んで、ニヤニヤしているのを見られるのは好きじゃないけれど、読むこと自体は嫌いじゃない……みたいな。我ながらめんどくさい人間だな。
話を戻そう。
リビングにいる彼女は頭に巻いていたタオルを解いて、ドライヤーで髪を乾かしている。温風で揺れる髪に窓から日光が差し込んで、キラキラと輝いて見える。さながら森林浴で見る木漏れ日のようだ。本当に何をしていたとしても絵になる。日常の動作一つでさえドキドキしっぱなしだ。
そのまま眺めていると、彼女と目が合う。俺はビックリして視線を逸らす。すると彼女は一言、俺の名前を呼ぶと笑って手招きをした。
それを見て俺は洗い終わった最後の皿を水切りカゴの中に立てかけて、リビングに向う。
ソファに腰をかける彼女はその隣を二度叩いて、座る位置を指定してきた。俺はそれに従って体を預ける。拳一つ分ほど間を空けていたのだが、彼女はピッタリと俺へ張り付いた。
「ど、どうかした?」
「まあ、なんだ。ちょっと……話したい事があってな」
そう言って彼女は乾いた髪の先をくるくると指に巻いたりして弄る。何か言いにくい事なのだろうか。
「話したいこと?」
「ようは、相談だな。お前には絶対に聞きたいんだ。いいか?」
ふむ、何だろうか。彼女が改めて相談とは珍しい。俺はそのまま「いいよ」と頷いて、彼女に耳を傾ける。
「准、お前はその私の髪についてどう思ってる?」
「どう思ってるって?」
「特に何も考えずに思うがままに言って欲しい」
そう言われて顎に手を添えて考え始める。さっきじっと見られていたのを気にしているのだろうか。しかし、俺だけが彼女の気持ちについて考えた所で、解が得られる訳でも無し、素直に返して彼女の言葉を直接聞くことにした。
「綺麗だと思うよ。見ても、触っても気持ちいいし」
言葉にはしないが、いい匂いがするという事も付け加えておく。
「……そうか」
「でも、どうしてそんな事を聞くんですか?」
「いや、今度美容院に行く事にしたんだが、悩んでいるんだ。髪を短くするかどうか」
「髪を短く? どうして? そのままでも十分綺麗だと思いますよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、面倒な事も多くてな……」
頭をワシャワシャッとかきつつ、彼女は続ける。
「例えば、ほら。髪を乾かすのも時間がかかるし、トリートメントやらいろいろとしないとすぐ毛先が荒れてしまうのがな。髪が長いといろいろと髪型にアレンジが効くのが利点でもあるのだが、私は……」
「あまり弄らない、か」
「ああ、だからもういっそ、短くしてしまおうかと思ってな」
「成程」
だから俺に髪について聞いたのか。納得がいった。
そして想像してみる。ショートカットの千冬。隠れていた首元や耳が見えて、ボーイッシュな感じの彼女。そのイメージに意外とは感じない。全然ばっちりと似合いそうだ。
「――いいんじゃないか? 千冬はずっと長い髪のイメージだったから新鮮だと思う」
「そうか。楽になるとは言っても、切ってお前に気にいられないんじゃ意味が無いからな。そう言って貰えてちょっと、安心できた」
彼女は胸に手を当てるとフー、と息を吐き出す。どれほど彼女が悩んでいたのかは俺には分からない。だけれど、それほど俺について考えていてくれたことを嬉しく思う。自分がそれだけ彼女に想われているのだと実感できたからだ。
その幸福感に浸りつつ、ふと時計を見るともう彼女が出かけるまであまり時間が無い事に気がついた。話はここらへんで締めて彼女を送り出す事にしよう。
「でも俺は今の髪型の千冬も好きだし、まだ見ていないから何とも言えないけれど、短い髪の千冬も、きっと好きになる。だから、自分の好きなようにしたらいいんじゃないか?」
「お前は、普段は恥ずかしがりな癖に、時々とんでもない発言を持ってくるな……そういう所、何か……ずるい」
「ははっ、面白い事言うね千冬。俺は昔から、ずるくて予想外、相手の裏をかくのが好きなんだよ」
「調子に乗って強がりは止めろ。照れ隠しなのは分かってるから」
……ばれてたか。その言葉を無視して俺は続ける。
「ところで千冬、そろそろ時間だし、着替えて行く準備をしないと遅刻するよ」
「……そうだな。追及はこの程度にしておいてやる」
ソファから立ち上がった彼女は振り返りつつ、笑ってそう言った。
▼ ▼ ▼
いつものスーツ姿へと着替えた千冬は玄関先でつま先で地面を何度か叩いて、しっかりと足を靴にフィットさせていた。その様子を見つつ俺は彼女に確認の言葉を投げかける。
「弁当は持った?」
「ああ」
「水筒は?」
「ああ、問題ない」
「財布とスマホは?」
「それも大丈夫だ」
「それじゃあ、俺が知る限り忘れ物はないか」
「毎朝心配性だな准は。私とて社会人になってからそれなりに経っている。そう簡単に忘れ物はしないさ」
「性分なんだよ。野球にしろ、IS整備にしろ、要所での確認は必須だから」
「そうか。しかしそう思うと、私はその慎重さに知らず知らずのうちに救われているのかもな」
「そう? それは言い過ぎだと思うけど。……でも、そうだったら嬉しいな」
「ああ、私が言うんだからそうに違いない。太鼓判を押してやる」
そう言って拳を握って胸を叩く。あまりにも自信たっぷりに言うものだからあっけに取られて、反応が遅れる。『ありがとう』と一言って、ふと違和感に気が付いた。ネクタイがずれているのだ。千冬にしては珍しい、こんな初歩的なミスをしたのは結婚生活史上初だ。
そこで俺は少し悩む。指摘して彼女本人に直してもらうか、それとも俺がドラマのように結び直すか。選びたいのは当然後者。だが、問題点が一つあった。それは俺がネクタイを逆の目線から結んだことが無いのだ。
誰だって最初は初めて。確かにそうだ。だが、ぶっつけ本番って言うのは気に食わない。それは俺にとって上司の無茶振りの次に嫌いな事なのだ。
では前者を……いや、こんなビックチャンスみすみすと見逃すのか? それは余りにも
「准、大丈夫か? 私はもう行くが、体調が悪いならゆっくり休んで……」
「いや、大丈夫。大丈夫だから」
千冬の言葉を遮って、いやいやと手を左右に振って誤魔化した。
「そ、そうか。私はもう行くが、無理はするなよ」
そう言って、彼女は俺に背を向けてドアノブに手をかけた。まずい、このままでは彼女がそのまま職場に行ってしまう。せめて伝えるだけはしないと。だがそれは……。
諦めて伝えようとしたときだった。俺の脳裏に電撃が走る。全ての条件を満たす第三プランが出現したのだ。俺は悩むことなくそれを実行した。
「千冬」
「ん?」
足を止めた彼女が振り返るのを待たずに、俺は後ろから彼女に抱き着いた。
「なっ……いきなりなんだ、准。こんなことされても、その、仕事の前だから困る……」
「そのままじっとしてて。すぐに、終わるから」
耳元でそう囁くと彼女は目をつむって小さく「分かった」とだけ口にした。彼女の肩から顔を出して、その間に見慣れた視点でネクタイを結び直す。そして彼女の肩を叩く。
「終わったよ。ネクタイずれてた」
「へ? ああ……」
千冬はネクタイを触って確認する。それも二度三度間違いないように念入りに。
「そ、それだけか?」
「ん? うん。本当は正面から結んであげたかったんけど、上手くできる自信が無かったから」
俺がそう言うと、千冬は額に手を当てて深くため息をついた。
「……期待した私が馬鹿だった」
「期待? ……何を?」
「分からないか? なら、教えてやる」
彼女は俺の頭に手を回すと、強引に引き寄せて唇を奪った。そっと触れるだけのキス。時間にして数秒だったと思われるのだが、俺にはその時間が三倍以上に感じられた。
唇が離れた後、まだ何が起きたのか、頭の中で整理できずにいた俺は、人差し指で自分の唇を繰り返しなぞる。
「じゃあ行ってくる。それと……明日の朝も期待してるから」
そう言って彼女はドアノブをひねって外に出た。