屋上にて 作:VRT
「時に先輩、生きていく上で大切なものって何だと思う?」
空には羊雲の群れが漂い、穏やかな秋風が優しく辺りを吹き抜けていく昼下がり、いつも通りの屋上で彼女は、毎回お馴染みの定位置に腰を下ろしながらそう言うと、手に持っていた弦楽器の弦を指で弾く。柔らかな音色が辺りに響いた。
そんな彼女の質問に俺は読んでいた雑誌の記事から目を逸らすことなく応える。
「何かこの前もそれ聞いてこなかったか?」
少し前にもそんな事をコイツから聞かれたような覚えがあった。
――あの時は何て答えたっけな……。
少し思い出してみようと努力をして見たが、海馬の方のやる気はないようで霞が掛かったようにあと一歩思い出せない。
――まぁ、別にいいか。
そいつに何て返したのかなんてさしたる重要性はない。当時の俺も恐らく思いつくまま適当に答えたに決まっている。彼女が問いかける問いは確かに小難しいことが多いが、ただ小難しいだけだ。答えのない問いであり、答えしかない問いを投げかけてくる。別にその問いになんと答えようとも何の問題もない問いかけを彼女は投げかけてくることが時たまあった。
長いとは決して言えない付き合いだが、それでも彼女が聡明な人間だと言うのは分かる。そんな聡明な彼女だからこそ、このような問いを投げかけるのだ。
――ここは、非人情には持って来いの理想郷だ。
学校の試験の様に答えのある問題を問いかけてきたのなら、この屋上はすぐさま理想郷でなくなる。人情を感じざるを得なくなる。それでは面白くない。生きていく上では避けられない人情から束の間の間でも逃れようとして俺はここに辿り着いた。ある画工の言葉を借りるのなら芸術的観点から物事を見るためと言ってもいい。
だからこそ、俺はここに居る間は芸術的観点の立場からあらゆる物事を、あらゆる人々を、人情という色眼鏡をとってただ純粋に眺めることが出来る。同級生も、先輩も、下級生も、担任の先生も、教頭も、校長も、ことごとこく大自然の点景として描き出されたものと仮定して見ることが出来る。もっとも彼らは画中の人物とは違って自分自身で勝手な真似をするだろう。その行動の原因を、動きの理由にあるものを勘ぐってしまうと、俗である、人情が生まれる。なら、こう考えればいい。
別に動いても構わない、と。
画中の人間が動くと見れば何も差し支えはない。人情も生まれるはずもない。この屋上と言う場所を理想郷に変える方法はただそれだけだ。
「あの時聞いたのは、“生きていくために必要なことは何だと思う?”という問いかけで、今回は“生きていく上で大切なものって何だと思う?”という問いかけさ。似たような問いかけだけど、大きく違うよ」
ソイツはそう言うとまた楽器の弦を指で弾く。柔らかな音色は秋風に解けてすぐに消え去った。
「確かに違うな」
読みかけの雑誌をわきに置き、高い秋空を眺めながら少し考えを巡らせる。
生きていくために必要なことは何だと思う、という問いと、 生きていく上で大切なものって何だと思うという問いは一見似通っているように見えるが確かに違うものだ。
考えるついで上半身を起こし、胸ポケットから煙草とライターを取り出す。そしてそのままタバコを何時もの要領で吸い口を縛ると、火をつけて大きくゆっくりと煙を吸い込む。
――はぁ。
豪快に吐いた紫煙はゆっくと高い秋空へと昇って行った。風はどうやら吹いていないようでたなびくことはなくただ真っ直ぐ上へ上へと。
「本当に美味しそうにタバコを吸うね、先輩は」
「まぁ、これが生きがいみたいなもんだからな」
「うふふふふふふ。何を言っているんだい、高校生の癖に」
自称後輩と目が合った。ソイツはニコニコと嬉しそうに笑った。何がそんなに楽しいのか俺には分からないが、楽しそうで何よりだ。そして出来ればその楽しさの何割かを俺にも分けてほしいものだ。
「そういう高校生がいてもいいだろう。それにここの学生なら酒もタバコも結構な割合でやってるから珍しくはないだろうし」
「まぁ、それもそうだね。で、答えは出た?」
「答えねぇ……生きていく上で大切なものか」
「そう生きていく上で大切なもの」
タバコを燻らしながら思いついた言葉を口から音にして見る。
「何て言ったらいいか、イマイチよく分からないけど、信念やら哲学ってやつだと思う」
「信念とか哲学?」
「そうそう、適当な言葉が思いつかなかったけど、ようするに、その人の人生の筋となるもんだよ。ソイツの人格を形成する考えみたいなものさ。人によってそれは違うだろう。哲学や宗教、知人の言葉や、今までの経験体験で培ってきたもの……要するに“俺の人生はこのためにある”っていう確証だな」
自分の口から出した言葉にも関わらず、心の中でストンと落ちた。
浮かんだ言葉を適当につらつらと口から出していただけだが、非常にしっくりきた。きっと、俺がどれだけ思い悩もうともこれ以上の答えはだせないだろう。それくらいにしっくりときた。
「宗教、哲学、自分自身の芯となる考え方ね……」
彼女はどこか納得したように頷く。
「そうだな、言い換えればこうだな。I am I。俺は俺だってこと 」
他人がどうこうではなく、自分が自分であるという確証こそが人生において最も大切なことだと俺は思う。この考えこそが俺の哲学だ。
「お前はどう思うんだ?」
俺ばかり答えていただけでは面白くないとばかりに、後輩に問いを投げ返せば、
「…………」
ソイツはしばらく楽器を片手に何かを考えた後に、その繊細な細指で、弦を弾くと、
「私も先輩と往々にして同じ意見かな」
「――私が私である。その確証こそが人生において一番大事なことで、私の芯でもあるよ。そしてその確証こそが生きていく上で大切なものだと思う」
そう言って薄く微笑むのだった。なるほど、どうやら俺と彼女も似たようなところが少しはあるらしい。