魔術史の観点からみれば、ソロモン王の時代は未だ神代ということになる。世界には神秘と不思議が溢れ、魔術はまだ特別なものではなかった。特にソロモン王が魔術を生み出してからは只人の手にも神秘が扱えるようになったのだから。
これは後の話となるが、魔術王の死をもって世界からは神秘が加速度的に失われる事となり、最期には神の子とされる者の生誕によって神秘の時代は幕を閉じる事となる。こうして魔術最盛期は終わりを告げられ、根源へと至る魔術師たちの探求は始まったのだ。
◇
共に国を治める者として、魔術王とシバの女王がよく席を同じくするのは自然な成り行きといえた。それはもちろん王としての責務からくるものもあるだろうし、マーキダが宣言した『心を教える』といった題材もある。反対にソロモンの方が魔術を生み出した者としてシバの女王へと教授することだってあるわけで。
今日はまさにそのような日であり、マーキダは魔術を生み出した者からの直々に薫陶を賜ったところであった。
「これまで特に気にもせず用いてきた
「そういう事になるかな。かつては神々に連なる者たちの特権であった神秘の操作は、既にして我ら只人の手中にまで降りてきた。君の操る術もそのうちの一つで、私はその事実を──あえて言わせてもらえば──嬉しく思うよ」
既にして魔術は生みの親たるソロモンの手元を離れて、ゆっくりと世界の隅々へ広まってきている。これから先で魔術を扱える者、扱えない者による差異はきっと浮かび上がるだろうが、それでも今この瞬間は魔術によって救われる者が居るのだからそれで良い。そこから先に関してまで干渉する気は、ソロモンには無いのだが。
ともあれソロモン王が魔術という存在を生み出していなければ、少なくとも目の前の麗しい女王はここにはいなかったと断言できるだろう。先日に自らが語ってくれた通り、竜退治の折に死んでいたとみて間違いない。この時代の魔術とは、それくらいには大きな要素なのだ。
「なら貴方は私の命の恩人となるのでしょう。心からの感謝を貴方に。ありがとうございます」
「そう畏まる必要もないさ。私はただ主の御心に従ったまで、それが偶然君を助ける一翼を担っただけの話だ。礼を言うならば私ではなく我らが主に申されるが良いだろう」
「もう、そういう問題ではないのですよ」
理屈としては最もなソロモンの言葉だが、マーキダはちょっと不満そうだ。腰に手を当てて、「私怒ってますよ」と見せつけるように頬を膨らませている。せっかくの目を見張るような美貌もこれでは形無しだ。
いったい何がいけなかったのか、知恵者として知られるはずのソロモンにはてんで理解できない。これまた理知的なはずのシバの女王が、こうも子供っぽく怒るほどのことを自分はしたのだろうか? かなり本気で考え込んでしまう。
そんなソロモンの様子を見て、マーキダはいよいよご立腹だ。
「礼を言われたならば、素直に受け取れば良いのです。貴方だって普段から臣民や民草の前で行っていることでしょう?」
「それは『王としてそう振舞う必要がある』からこそだ。こう言っては憚られるかもしれないが、君の前ではそう取り繕う必要もないと思っているからね。これが本来の私というわけさ」
「むむむ……地金を見せてくれているのは信用の証だと受けとっておきましょう。ですが! それとこれとは話が別です。一筋縄ではいかないと思っていましたが、やっぱり中々のものですね」
「……今のは褒め言葉として受け取っておけば良いのかな?」
「違います!」
これはまだまだ先は遠そうだ。すっかり市井の元気娘のようになってしまったシバの女王を前に、ソロモンは客観的な評価を下した。果たしてマーキダがここに滞在している内に目的を果たすことはできるのだろうか? さしものソロモンでも、純粋に疑問に思ってしまうところではある。
だけどもっとソロモンが疑問に感じてしまうのは。この途方もなく無為な作業をしているはずなのに、何故だか楽しそうにもみえるマーキダの姿であろう。さっきまで怒っていたのに楽しそうなど食い違いもいいとこだが、事実笑っているのだから間違っている訳でもないだろう。
「どうして君はそうも楽しそうなのかい? はっきり言おうか、これは無為だ。無益だ。どれだけ努力しようと毛ほどの利益も君にはなく、また成功する保証もない。女王である君ならば、こんな私に構うよりももっと先に成すべきことがあるのではないかね?」
仮にも善意の行動を前にこのような事を言えば、きっと彼女は怒るだろう。事実を基にした推測としてソロモンはそう考えていたし、別にそれは一般常識に照らし合わせても間違いではない。
だから、
「いいえ、それは違いますよ。私はこうしてお話をしていること自体がとても楽しいのです。笑ったり、呆れたり、時には怒ってみたり。それら全てが貴方といれば楽しいからこそ、貴方の指摘に頷くことはできません」
──予想に反してふわり、花が咲いたような笑みをマーキダは零したのである。
「それはいったい──」
どういうことだ、とソロモンが続けようとした時であった。扉が三度、丁寧に叩かれた。
「ご歓談のところ申し訳ありません! 緊急の報告でございます!」、扉の外からソロモンの臣下の声が聞こえてきた。なにやら焦りを孕んだような調子である。明らかにただ事ではない。
ソロモンが目線でマーキダに問いかければ、彼女は一も二もなく頷いてくれる。よって客人の同意を得たうえで、彼は臣下に入室の許可を下した。
転がるように入ってきたのは伝令役の者だ。即座に膝を着く格好となったが、どうにも姿に余裕がない。まるで長旅から帰ってきたかのような──いや、それで間違いないのだろう。伝令兵の疲れたような雰囲気や、解れて破れた服装が両者の予想を裏付けてくれている。
「シバの女王におかれましてはご機嫌麗しく。このような礼節に反する態度を取ってしまう事、まことに申し訳なく思う次第であります」
「いえ、私のことはお気になさらず。それよりも貴方の務めを果たす方が先なのでは?」
「その通りだ。女王もこのように仰ってくれている。まずはそなたの話を聞かせてもらおうか」
「はっ!」
それから伝令兵はゆっくりと、しかし確実に内容を二人へと伝えた。最初は突然の事態に訝し気だった両者も、話が進むごとにあまり良くない表情が浮かび始める。確実に報告を咀嚼して、その危険性を理解した。
時間にすればそうは経っていないだろう。だが先ほどまでの穏やかな雰囲気はいつの間にか消え去り、緊迫した空気が流れだす。
全ての報告を聴き終えたソロモンは、座っていた豪奢な椅子から立ち上がった。その動きに迷いはない。
「すぐに玉座へ向かおう。あまり喜ばしい事態ではないらしいからね。そなたも大儀であった、今はよく休むと良い」
「寛大なるお言葉、ありがたく存じます」
「シバの女王、すまないが今日はこれまでだ。客人である貴女を関わらせるわけにはいかない」
「いえ、申し出はありがたい限りですが、そういう訳にもいかないはずです」
玉座へと向かおうとするソロモンの視線が、まっすぐマーキダを貫いた。全てを見通す規格外の瞳を前に、彼女は微動だにせずその赤い瞳で受け止めた。この程度のことがなんだと言わんばかりに、小動もしない。
だってそうだ、彼女はもっと直接的に恐ろしい相手と相対したことだったあるのだから。
「此度の話が
王として客人を問題に巻き込まない判断は非常に合理的である。
しかし不敵に笑ったシバの女王の発言もまた、確かに理に適っている言葉であったのだ。
◇
イスラエル王国をソロモン王が治めるこの時代、神秘の名のもとに人知の及ばぬ怪物は至る所にのさばっている。幻想種と呼ばれる彼らは格の低い魔獣から始まり、幻獣、神獣と次第に強大な存在となっていく。これらはただの人間ではとうてい太刀打ちできない存在ばかりだ。
そして幻想種の中でも例外なく最優とされるのが『竜種』である。かつてはマーキダも退治したとされるその竜種とて、珍しくはあっても決して貴重なものではない。
「ふむ、なるほどな。イスラエル軍による竜の討伐は失敗に終わったか」
「……口惜しい限りではございますが、その通りです。なんとお詫びをすればよろしいか」
玉座に腰を下ろしたソロモンの眼下で膝まずいているのは、傷だらけの身体に鞭打って礼節を尽くそうとしている兵士長だ。今にも崩れ落ちそうな苦悶の表情をしているのに、気合一つで押しとどめている有様だ。
そんな兵士長に近寄ったマーキダは、手にしている器を彼に差し出した。ほのかに湯気を立てているその中身からは、どこか良い香りが漂っている。玉座へ向かう途中に、彼女が臣下に命じて作らせていたものである。
「気休め程度ですが、ひとまずこれをどうぞ。薬草を煎じた薬湯を乳香で香りづけしたものです」
「女王の手ずから渡されるとはかたじけない……この恩は忘れませんぞ」
一息に薬湯を飲み干した彼は、最後の力が抜けたように静かに倒れ込む。気の緩みと、薬湯に混ぜ込まれていた睡眠導入の魔術が効いたのだろう。それを意外にもしっかり抱き留めたマーキダは、すぐに駆け寄ってきた臣下に預けるとソロモンへ向き直った。
「さて、これで彼は大丈夫でしょう。あまり無理をされて倒れられても困りますからね」
「女王の気遣いに感謝を。貴重な民の喪失はなるべく避けるべきだろう」
他国の来賓の手を煩わせたというのもこの際気にはしない。他の者たちは恐れ多いと気をやっているようだが、彼女がこの程度で気を悪くする狭量な者でないと知っているからだ。
だからソロモンはさっさと話題を本題へと切り替えてしまう。議題はシバの女王が来訪するしばらく前からイスラエル王国を騒がせている、貪欲なる竜についてだ。
「客人の手前、あまり表沙汰になる前に済ませてしまいたかったのだが……こうなっては是非もあるまい。良ければその知恵をお貸しいただけるだろうか、シバの女王よ」
「私などで良ければ喜んで。むしろ偉大なる王に恥じぬよう、精一杯務めさせていただくばかりです」
かくして、竜討伐の議論は進められた。
まず前提として、この竜は既に近隣の森や山を破壊し尽し、最近では村すら襲うようになったという。そこで五千からなる討伐軍を編成し、シバからの客人に事が露見する前に終わらせようとしたのだが失敗。今に至るという訳だ。
「そのうえ鱗は固く、火を吹き、狡猾で知恵も回ると。空を飛べないのは救いでしょうが、これではどれだけの人員がいようと太刀打ちは難しいでしょうね」
「経験者は語るというやつだな。では訊ねるが、我らはどのように竜を制すればよいと考える?」
「そうですね……」
少々考え込むような仕草をしてから、マーキダは驚くべき結論を下した。
「一番迅速にことを済ますには、この私を派遣してしまう事かと。竜との戦闘経験も、鱗を貫く剣も、なんとなれば空を飛ぶ手段もあります故。おそらくは最も確実かと思いますが、いかがでしょう?」
「論ずるまでもないだろう。見てみなさい、君の臣下たちが驚いておられるよ」
この場にはソロモンの臣下だけでなく、マーキダが連れてきた者たちも幾名か混じっている。その者たちは皆一様に驚きと不安の色を目に浮かべていた。さもありなん、彼らにとってマーキダとはシバの国を治める女王である。例え本人の提案といえども、大切な御身を危険に晒すなどもっての外という訳だ。
「申し出はありがたいが、大切な客人にそのような苦労をさせるわけにもいかないのでね。貴女には知恵をお借りいただく以上のことは要求しない」
「しかし、それではどれだけの民が犠牲になるとお思いですか? 五千では駄目でした、ならば一万でしょうか? いいえ、それで成功する保証などどこにもありませぬよ。果たして竜を討伐するまでの間に、この王国の民がどれほど血を流す羽目になると思うのです?」
まるで糾弾するかのように強い語調だ。もちろん、その程度のことが分からぬソロモンではない。
故に諭すように言葉を重ねる。この場はまず彼女を説得しなけれなならないと理解したからだ。
「誤解を恐れず言わせてもらうが、貴女はシバの女王であってこのイスラエル王国の女王ではない。それほどまでにこの国を想ってもらえるのは誇らしい事だが、同時に部外者でもある貴女がそれほど肩入れする理由は──」
「ないと仰いますか? ならば、私は違うと言わせてもらいましょう。肩入れする理由は確かに存在するのです」
マーキダは腕を大きく広げてから、芝居がかった大仰な動きで周囲を見渡した。差し込んだ陽光が、あたかも彼女の独壇場であるかのように照らし出す。困惑や驚き、期待や呆れといった諸々の視線を全て集めてから、歌うように高らかに語りだしたのだ。
「私は、この王国が好きです。笑顔溢れる優しい人々も、美しいこの玉座も、荘厳な神殿も、美味しい食事も、豪勢な調度品も、そして偉大なる王もまた。この滞在の間に、全てが好きになったのです。なればこそ、好きなものを守りたいと願うのは、人として当たり前の事ではないでしょうか?」
それに何より、と女王は謳う。
「この国には恐怖など似合いはしません。暗闇も影も、全て全て似つかわしくない。ソロモン王、貴方の偉大なる王国が
「机上論、と言いたいところだがな……」
どれだけ他人が悲しもうが、まず己に実害がなければそれでよいと感じるのが人間であると、ソロモンは考えている。その千里眼を用いて数多の嘆きを見てきた彼だからこそ持ちえた結論、それもまた覆しようのない一つの真理であるのだろう。
だが、それとは対極の考えを抱いた女王が目の前にいる。竜なんて危険なもの、無視したって構わないというのに。どれだけ他国の民が苦しもうが関係はないはずなのに。彼女は悲劇など嫌だからという理由だけで、自ら危機へと飛び込もうというのだ。
果たしてマーキダとソロモン、どちらが賢いのか。その是非はここで問うべきではない。どちらの意見も一面は正しく、また一面では間違っているのだから。
よってこの場で一つ言えるのは。
「いいだろう。シバの女王よ、貴女させ良ければ竜退治に協力してはもらえないだろうか」
「ええ、喜んでお供いたしましょう」
誰よりも知恵を持つとされる魔術王は、この時はっきりと根負けしたということなのだろう。
ソロモンからのまさかの提案と、躊躇いもせずに首を縦に振ったマーキダに周囲が大きくどよめいた。口々に囁きを交わし合い、今の判断の是非を相談しようと躍起になっている。
「ただし」、ソロモンだった。彼の一言に再び場は静寂に包まれる。
「私もシバの女王と共に行こう。同意の上といえども、他国の王を竜退治に駆り出そうというのだ。その程度しなければ釣り合いが採れまい」
再びざわつきが大きくなる。魔術王もシバの女王も、これ以上なく竜退治には適任なのかもしれないが。よりにもよって王を二人も竜の前に送るなど正気の沙汰ではない。
思いとどまりください、誰かが叫んだ。しかし聞く耳持たない。どちらも既に決まった事として、準備を始めようとしているのだ。もはやこの二人を思いとどまらせることは難しいだろう。
かくして、魔術王とシバの女王による突発的なの竜退治がここに成立したのである。
◇
イスラエル王国の空を矢のように駆けるは、マーキダが保有する銀に輝く舟である。簡素な造りではあるが、確かな造形美を感じさせる芸術的なもの。だというのに機能性も損なわれていないのだから感服するばかりだ。
おそらく十名は軽く乗れるであろうその銀舟は、たった二人だけを乗せて竜を目指し進んでいた。
「これも竜のねぐらから回収したという品かい?」
「ええ、その通りです。見つけた当初は壊れて使い物にならなかったのですが、頭の回る方が弄り倒した挙句に修理してしまいまして。それ以来シバの女王の足として愛用させてもらってるのですよ」
「ここに来るときも、多くの荷物を載せたものです」と、銀舟を操るマーキダは朗らかに笑った。女王の舟を積み荷船のごとく扱って良いのかという謎はあるが、本人が気にしていないなら良いのだろう。女王として気取らない態度もまた、彼女の魅力の一つなのだから。
「……我がことながら、随分と肩入れしているものだな」
「何か言いましたか?」
「いいや、なんでもないさ」
首を振って誤魔化した。今までの人生において、こうも他者に肩入れした事などあっただろうか。それも王としての責務ではなく、一個人としてだ。心を持たぬはずの非人間が、そのような情動を感じることなど有り得るのか。
それともこれがマーキダの言う『心』なのか。いいや、分からない。勘違いかもしれないし、ただ観察した上で出た評価なだけかもしれない。はっきりとはしていないのだから、決めつけるのは浅慮だろう。
「失礼ですがソロモン王、貴方の千里眼によれば竜はあとどれ程の距離でしょうか?」
「この調子ならば、もう間もなくだろう。覚悟を決めた方がいい」
「そうですか」
いよいよ剣を引き抜いて、来るべき敵に向けて臨戦態勢を整える。その姿は常日頃にみせる智慧の女王というよりも、むしろ戦いの為の戦女神とでも呼ぶべきだろうか。凛と引き締まった横顔が鮮烈だった。
彼女はまだ見ぬ敵を睥睨するかのように眼下を見ながら、ふと問うた。
「ふふ、もしもこの舟旅を逢瀬のようと言ったら、多数の女性を妻に迎えたという貴方は怒りますか?」
「まさか。そもそも私には怒る自由もないからね。君も一々私に気を遣わなくとも結構だよ」
「……そんな寂しい事、言わないでくださいよ」
一瞬だけ、寂しそうな横顔がちらりと覗いた。だけどそれは刹那の間のことで、気が付いた時にはすでに彼女の意識は他にあった。
目標が、すぐ間近にいたからだ。
「なるほど、あれですか」
「どうやらそのようだね」
問題の竜は、砂漠の只中に陣取っていた。見た目は巨大すぎる蛇のようで、胴体がやけに長い。手足もあるが小さめで、翼に至っては取って付けたような適当さを感じさせるほど。この小ささでは到底空は飛べまい。
竜は空を飛んでやって来た闖入者に気が付くと、苛立たし気に唸り声を上げて舟に向かって大口を向けた。ズラリと並んだ鋭い牙が凄まじい。だが本命は牙ではない。牙の奥、喉元から赤い光が吹きあがり──
「おっと」
放たれた灼熱の業火を危なげなく舟は避けた。滑らかに横移動し、天を焦がすほどの火炎は掠りもしない。
「この舟、攻撃は出来ないのかい?」
「もちろんできますよ。とはいえ、これほどの相手に通用するかと言われれば怪しいのですが……」
魔力で構成された弾丸が四つほど、急速に生成されて竜へとぶつかった。轟音、ついで白煙があがる。だが竜の鱗は今の攻撃を欠片も通していないらしく、傷の一つもついていない。むしろ攻撃を受けたと認識した竜は怒りの咆哮を上げると、狂ったように銀舟めがけて灼熱を吐き続ける。
そのすべてを舟は優雅に回避するが、さりとて有効打もまた存在しない。舟体を舐めるように擦過する灼熱がなんとも心臓に悪い限りだ。
「状況は膠着化してしまったね。このままでは避け続けるだけでは、互いに千日手のように思えるけど」
「むしろ好都合です。このまま挑発し続けて相手の疲労を待ちましょう。それまでは世間話でもしていればよろしいかと」
「……へぇ、意外と肝が据わっているんだね」
冷や汗が一滴垂れたのをこっそり拭いつつ、やや震え声になっているのを自覚した。
さすがの魔術王であろうと、怒り狂う竜を前にして呑気に世間話はする気になれない。それだけの度胸があるなら、たぶんマーキダだってこうも苦労してないはず。
果たして、このような状況の中で普段の威厳ある魔術王らしくいられるのか──周囲を業火で炙られ続ける中、気がつけば呑気なことを考えてしまうのだった。
◇
「……攻撃が止まりましたね」
「どうやらそうみたいだ。狙いに気が付いたとみて間違いないだろう」
上空を自在に旋回する舟を前にして、竜は観察するかのような様子を見せ始めた。むやみやたらと炎を吐かず、体力を温存する動きだ。
抜け目のないこの竜は、頭が冷えた途端にマーキダ達の目論見に気が付いてしまったらしい。これは厄介な手合いだと二人は世間話を止めて気を引き締めなおした。
「次はどうするつもりだい? 私にできることがあるなら好きに頼ってもらって良いけども」
「いえ、貴方の手を煩わせる必要もないかと。ここからは本領の発揮と言えますからね」
腰に提げていた『呪魔の剣』をもう一度手に取って、慣れた手つきで左手の人差し指をわずかに切った。ソロモンが止める暇もない早業によって滲み出た血を、彼女は自身の剣へと塗り始めたのだ。
「見るに、それは魔術の媒介ということかな?」
「はい、その通りです。どうやら私の扱う
苦笑してから、見事な早口で二言三言の呪文を唱える。すると黒塗りであった『呪魔の剣』が、ほのかに赤く輝き始めたではないか。血を代償にした、その禍々しくも鮮烈な赤にソロモンもしばし魅入られる。
魔術に通じるソロモンだから、一目見ればその効果も読み取れた。おそらくその効果は剣の鋭さを増し、また傷口の修復を阻害するもの。竜の硬い鱗を貫き、強靭な生命力による回復すら阻害するその術は悪辣で効率的という他ない。
「では、行ってきますね。舟の操作方法は先ほど教えたとおりですので、危なくなったら適当に動かしてくださって結構です」
「ああ、吉報を期待させてもらおう」
頷いて、マーキダは躊躇いなく舟から飛び降りた。地上までの距離は相当なもの、普通ならばまず命はないはずだが、ソロモンは特に心配などしていなかった。
下を覗き込めば、落下する彼女の速度はかなり遅い。魔術による落下制御なのだろう。よく慣れた鮮やかな手際は、きっと何度となく舟から飛び降りているのだと想像させる。
「だが竜もこの隙を見逃してくれるとは思えないが……どうするのかな?」
ソロモンの呟きに応えるかのように、竜が唸り声をあげて落下するマーキダへと襲い掛かった。この時を待っていたとばかりに、自身の誇る巨躯の射程に入った瞬間、牙の並ぶ口で彼女を引き裂かんと突貫する。
けれど彼女もまたそれは予測済みだったのだろう。空中で、なんの支えもないのに急に身体が横へと動いた。まるで見えない何かに押されたかのような不自然な挙動に、竜も対応しきれない。
噛み合わされた顎はむなしく宙を捕らえただけ。代わりにマーキダは竜の長い胴体に危なげなく着地すると、お返しとばかりに逆手に握った剣を思い切り突き立ててみせたのだ。
「ふっ──」
即座に剣が引き抜かれ、返り血を浴びる前にマーキダは胴体から飛び降りた。次の瞬間、不愉快な竜の呻き声が響き渡る。その大音声に顔を顰めつつ、ソロモンは今の動きを冷静に分析していた。予想通りなら、なんてことはない仕掛けだ。
「魔力をあらかじめ身体に蓄積させて、必要に応じて噴射させることで勢いを得たのかな。これなら空中で軌道を変えることも、逆に剣を振る際に勢いをつける事だって出来る。なんとも汎用性の高い魔力の使い方だね」
相応しい言葉を見繕うなら、『魔力放出』といったところか。マーキダの場合は少しづつ貯めこんだ魔力を要所要所で用いることで、戦局を有利に運ぼうとしている。しかしもしこれが無尽蔵の魔力を持つ者なら、いっそう凄まじいことになるだろう。なにせ全ての行動に途轍もない勢いが乗るのだ、戦闘においてその利点は計り知れない。
そのようなことを考えている内にも、マーキダは華麗に地面へと着地して剣を握りなおす。過去には彼女が素振りをしている姿もみたが、竜と対峙している今は、あの時と比べていっそう清廉さを感じさせる佇まいだ。
痛みに呻く竜も、眼前のちっぽけな存在が手傷を負わせた犯人だと気が付いたのだろう。ありったけの憎悪を視線に注いでマーキダを射抜いた。鮮血のように赤い竜の瞳は、常人ならばそれだけで卒倒してしまうほどの圧が籠っている。
女王は、涼やかにその視線を流していた。同じ赤い瞳に宿る闘志は些かも衰えてはいない。
「ソロモン王の手前、あまり時間をかけても申し訳ないですし。手早く終わらせてしまうとしましょう」
「────ッ!!」
先に仕掛けたのはマーキダの方だ。大地へと勢いよく踏み込み、放たれた矢のように竜へと接近した。咄嗟に目で追えないほどの足の速さだ。軽々と長剣を振るえる膂力といい、華奢な見た目にそぐわずかなり肉体を鍛えているらしい。
とはいえ竜の動体視力ならば余裕をもって追いきれる。竜は身体を捩らせると、マーキダの進行方向へと尾を勢いよく薙いだ。触れる者すべてを粉砕する城壁の如き大質量を前に、しかし彼女は動じない。引き付けて引き付けて、紙一重を冷静に見極め跳躍を行うことで回避、さらにはすれ違い様に再び竜の肉体を斬ってさえみせたのだ。
「これはまた……」
無意識に、感嘆の声が漏れていた。まるで剣舞でも見ているかのような鮮やかさに、目が奪われてしょうがない。端的に言って、その美しさに見惚れていたのだ。
ある時は繊細に動きを予測し、ある時は大胆にも攻め込んで手痛い傷を竜に負わせる。まるで羽毛のように軽やかに身体を操って、舞い踊るように邪悪を圧倒する。単純な実力では話にならない差があるはずなのに、痛烈ほどにマーキダは竜を翻弄しているのだ。
──これは自ら竜退治を行うと言い出す訳だ、空から眺めていたソロモンはそのように感じた。並の者では恐怖で動く事さえままならない相手を前に、生と死の境界を見極めて着実に剣戟を重ねている。このような事は誰にだって出来る事ではない。戦いに戦いを重ねた生粋の武人か、それとも恐怖の麻痺した蛮勇があって初めて到達できる境地に他ならない。
なら、戦いをこうも美しく行うシバの女王はいったいどちらなのだろうか。ふと気になってしまい、過去をも見通す千里眼を用いようとして……
「いや、それは無粋というものか」
止めた。それよりもむしろ、眼下に広がる剣舞を心ゆくまで眺めていたかった。別に彼は剣に通じているとかそういう訳でもないのに、下手に過去を覗き見るよりも遥かに良いと感じたからだ。
気がつけば戦闘も佳境に入っていた。どちらが優勢かは一目で分かる。多少攻撃が掠ったらしいマーキダではあるが、致命傷は一つも貰っていない。逆に竜は全身を鱗の上から切り刻まれ、血を流して荒い息を吐いていたからだ。
「とはいえ、怖いのはここからですね。手負いの獣ほど恐ろしいものはないので」
「その通り、竜を相手に油断など愚者のすることだ」
ずっと遠くにいるはずのマーキダの呟きが、ソロモンには確かに理解できた。
格下相手にいいように翻弄され、簡単には癒えぬ傷を無数に刻まれた竜はもはや正気を失っているようにも見えた。遮二無二身体を動かし、炎を吐き、牙を突き立てようと腐心する。これまでと比べれば単調な攻撃だが、そこにはこれまでになかった必死さがあった。生き残るために、目の前の敵を打ち倒すために、なりふり構わぬ体勢だ。
──そしてこれが、これまでと違い思わぬ展開を生み出す事となる。
「つっ……!」
「……! これはいけないな」
その一撃はなんの理屈も読み合いもない、ただの苦し紛れだった。それが偶然にもマーキダを捉え、その細い身体に打ち付けられる。彼女は反射的に剣を盾にしたものの、しかし衝撃はいっさい殺せず、吹き飛ばされて無残にも大地に叩きつけられてしまったのだ。
即座に立ち上がったマーキダだが、右腕が明らかに不自然な方向に曲がっている。今の衝撃で折れてしまったのだろう。残った左腕一本で『呪魔の剣』を握るが、そんな状態で竜を倒すことなど不可能だ。
これこそが竜という、生まれからの強者にのみ許された特権なのだ。どれだけ劣勢であろうとも、ほんの少し自分の有利を生み出せば途端に形成を逆転させてしまう。理不尽にもほどがあるが、現にマーキダはたかが一撃で劣勢に追い込まれたのだから是非もない。人間と竜の間には、かくも巨大な埋めがたい溝が横たわっているのだから。
であれば、今自分がするべきことは如何なることか。自問してから、即座に答えは出た。
シバの女王を助ける。それがこの瞬間における自分が出来る最善であり、力を乞うた王として正しいことだ。だけどそんな理屈などすべてすっ飛ばして、ここで彼女に死なれるのは
「これはちょっとまずいですね……! 少々勝ちを急ぎすぎましたか」
一方で、先ほどまでと違い肩で息をしながら、マーキダは自嘲した。反省点はいくらでもあるが、それはまず生き残ってからだ。
女王を弑すべく竜が迫る。勝ちを確信したのか、それとも憎き敵を喰らってやりたかったのか、大口を開けてマーキダへと迫る。即座に躱したが、まだだ。次の瞬間には尾が迫る。だがそれすらも奇跡的に回避した彼女に、次の瞬間には天すら焦がすような豪火が吹きつけた。
まともに受ければ骨すら残らず灰になるような地獄の火炎に、せめてもの抵抗。咄嗟の判断で
「だから言ったじゃないか。少しくらい私を頼ってもらっても良いと」
「あ……」
目の前に、魔術王が降臨していた。
いつの間に船から降りたのだろうか。マーキダの前に堂々と姿をさらした彼は、右手を前に突き出していた。たったそれだけの動作で炎は二つに割れて、二人の横を通り過ぎていく。身体には火傷一つついてはいなかった。
「ソロモン王……別に貴方の手を煩わせる必要はないと言ったはずですが」
「まず前提として、君はイスラエル王国にとっての大事な客に他ならない。だというのに客にばかり苦労を押し付けて、王が何もしないなど失礼にもほどがあるだろう?」
「それとも、こうして手伝うこと自体が失礼にあたるかな?」と問えば、女王は嬉しそうに「いいえ」と答えた。だからソロモンは誰に憚ることなく竜と対峙する。これより竜は彼の獲物だ。もはや女王といえども譲る気はない。
「君は特等席で見ていると良い。なに、そう時間は取らせないさ。君の剣舞には些か劣るだろうけど、それなりに美しいものを見せると約束しよう」
「ふふっ、では期待させてもらいますね。またも助けてくれて、本当にありがとうございます」
「……なるほど。なら、その気持ちは受け取っておこう」
「……! ええ、そうですよ、その調子です!」
姿は見えないが、きっと今の彼女は満面の笑みを浮かべているのだろう。千里眼を用いなくたってそれくらい容易に想像できる。そんな彼女に、魔術王として格好のつかない真似は見せられない。
「さてと、では続きといこうか。あいにくと私もそう簡単には倒れられないのでね、君にはここで死んでもらおう」
魔術王の異名は、魔術を使わないでこそ保たれた異名であるのだが……やはりそう、シバの女王の前では気にする必要はないだろう。彼女の前でだけならば賢王としての自分ではなく、素の自分を見せても良いのだから。
だから彼は心地よい解放感のままに、竜へと啖呵を切ったのだった。
◇
結局、ソロモンが出張ったことで竜退治はつつがなく終わってしまった。魔術王に相応しい強大な魔術と召喚術による猛攻に、竜もたまらず打倒されたからだ。かくしてイスラエル王国を襲った脅威は過ぎ去った。
その死骸はどうにか舟で引っ張ることにして、エルサレムの方で有効活用できないか考える所存である。竜はいうなれば神秘の塊であるわけだから、その死骸も多くの使い道が存在するのである。
「ソロモン王」
「おや、なんだい?」
夕暮れの鮮やかな色が空を染め上げる頃。帰路の途中の事だった。振り向いた表情はどこまでも華やかで、夕焼けの色がついたそれは何よりも美しいと感じるほど。
ちなみに、彼女の右腕は既にほとんど治っている。魔術による治療のおかげだ。
「竜退治という華のないものではありましたが、それでも私は非常に楽しかったです。貴方はどうでしたか?」
「そうだね……」
楽しかったか? 怖かったか? 辛かったか? 面白かったか?
感情を表す様々な言葉を自分に当てはめてみて、もっとも適していると思しき答えをはじき出す。いや、きっと最初から答えなど決まったいたのだろう。そうでなければ、こうも簡単に答える事などきっとできなかっただろうから。
「普段よりも少しばかり違う気分になれた──ような気がするよ。竜退治という滅多にない大業に、もしかすれば昂っていたのかもしれないね」
「ええ、そうだと良いですね。だって私は、とても楽しかったから。貴方もそのように感じてくだされば、これほど嬉しい事はございません」
「……そうか」
竜退治なんて辛い事を楽しいというその精神が、ソロモンには理解できない。そんなこと、誰だって嫌で嫌でたまらないはずなのに。
だけど他ならぬソロモン自身が、別段嫌だったと感じていないのだ。それは感情を介さない故に起きた事象かもしれないが、それでも露程だって嫌とは思わなかった。
ああ、本当にそうであるならば、きっとこの身はシバの女王によって魔術を掛けられていたのだろう。甘くて蠱惑的な、逃れようのない幸せの魔術に。思いも知らぬところから、それはやって来ていたのだ。
「君が楽しんでくれていたなら、それで良いさ。私としても安心したよ」
そう言ってからマーキダの頭を撫でてみれば、彼女は嬉しそうに喉を鳴らしたのであった。