ツォーネ1984   作:夏眠パラドクサ

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【深淵に潜む】夢のベアリン王国 4【そは敵なるや】

 

 共和国宮殿を出たベアトリクスは駐車場に待機していた装甲兵員輸送車に乗り、東へ向かった。

 ベルリンの壁はすぐ西にあるが、目的地は逆方向だった。ブランデンブルク門から七~八キロメートルばかり主要道路を東進したところに、シュタージ本部がある。これから同志たちとそこを制圧し、ベアトリクスが共和国総帥となるのだ。

 悪いがエーリヒには総帥の座を退いてもらう。

 国家保安省長官として優秀だった彼も、この瀬戸際で独裁体制の維持に固執するあまり行動できなくなっているように見える。

 オラニエンブルクで一敗した反乱軍は新たに声明を発し、西側に支持を求めた。オラニエンブルク幕僚監部に代わり指導者となった(ハイリゲ=)ウルスラなる者は、フランツ・ハイムの安否には言及せず、こう呼びかけた。

 

 ヨーロッパに東西対立は、今や実在していない。

 その証拠に、資本主義諸国では自由経済が失われ、共産主義諸国では社会そのものが失われた。

 冷戦は継続しているという主張は、アメリカとソビエトが東西陣営諸国の宗主でありつづけるための詐欺に他ならない。超大国の特権階級は、冷戦と地球戦争を意図的に混同させることで、恐怖による支配を継続しようとしている。

 地球戦争下のヨーロッパに経済および社会イデオロギーの対立は、今や実在していない。大事なことだから二回。

 深淵に潜む見えざる敵は、BETAへの盾として全ヨーロッパを滅びるまで利用するつもりなのである。騙されないで♡(媚び声)

 我々はソビエトの妄想に囚われたシュタージ政権を折伏し、DDRを正常化する。

 革命のあかつきには、理性の光に導かれて、東西ドイツが統一されることを望む。

 

 おそらくベルリンとオラニエンブルクで攻防戦がおこなわれる前に録音し、戦況不利となった場合にはこれを使えと指示したのだろう聖ウルスラは、それなりに手強い相手らしかった。

 一九七〇年代後半、西ベルリンはNATOにより軍事基地へと変えられた。今はオーデル戦線のBETAを阻止するため、大規模な戦力が即座に出撃できる態勢でいるに違いない。

 EUは、共和国の救援要請と内戦終了を待っている。

 高貴なる寛大さでもって見守っているわけではない。国連の「東ドイツは西ヨーロッパの自我なき盾となれ」という冷酷な意向に、共和国がどれだけ抵抗できるかを見定めたいからだ。遅かれ早かれ自分の番がやってくることは、彼らもよくわかっている。

 西ベルリンのNATO軍としてもオーデルが一刻を争う事態であることは同じだから、まだ実在しているのか怪しい現行政府がエーリヒに背いて音をあげるなり、戦線の司令部が敗北を知らせるなりすれば、事実上の救援要請とみなすだろう。

 それまでにベルリン一円の内戦を鎮静化し、間違ってもNATO軍へ流れ弾を浴びせないようにできた側が勝者だ。

 この勝利条件を達成することは反乱軍には難しい。

 勝利の分は、まだ体制側にある。

 合成食料を供給させる必要から、エーリヒは国連の意向には従っている。しかし権力を失うことを恐れてか、NATOに救援要請を出そうとはしていない。

 反乱軍の攻撃が休止しているあいだにシュタージ本部を押さえ、NATOに救援を要請するという極めて合理な決断を実行できれば、そのまま戦闘によらず内戦に勝てる可能性もあった。妄想じみた楽観かもしれないが自分たちに残された博打の目は、そこにしかないと思われる。

 どうにか思考力を回復させたベアトリクスが大急ぎで、一人で立てた、計画ともいえない窮余の策だった。出たとこ勝負であり、不備だらけでもあろう。残された時間と戦力でできる、これが精一杯だ。

 BETAの破壊的攻勢を凌いだあと、共和国の体制が崩壊し連邦に吸収されるとしても、もうそれはそれでしかたがなかった。

 本部に新版・シュタージ文書があれば、ヨーロッパに今や東西対立などなく、もっと恐ろしい新たな世界秩序があることを調べ出したあれがあれば、西側の腐敗堕落した特権階級の友情を買える。今は政権指導部を掌握し、反乱軍に勝つことだけ考えればよい。

 

「――えっ……?」

 

 なにか重大なことを忘れている気がして、ベアトリクスは車内を見まわした。

 装甲輸送車に乗っていた一〇人ほどの〝同志〟たちは、正規に編成された一個分隊ではなかった。AK‐74を持った武装警察軍の兵士と、新式のヴィーガーを持った人民軍の兵士とが混ざっている。まるでベルリン派の分裂したマヌケどもを味方につけた、反乱軍の一部隊のようだった。

 ほんの数秒、なぜ自分がここにいて、なにをしようとしていたのか、ベアトリクスは理解することができなかった。

 

「ああ、……ピストーレ」

 

 空いていた砲士席に(この席は上からの攻撃に弱く、危ない)つかまるベアトリクスに、同志たちが視線を向けた。

 

「機内に忘れたわ」

 

 同志たちは虚空に視線を戻した。無愛想な連中だった。

 装甲輸送車に積んである予備の小銃は、左手の痛みでまともに撃てそうにない。

 一人だけ愛想良くベアトリクスに笑いかけて「銃は持っていないほうがシュミットも油断する」とユルゲンが言った。ベアトリクスも頬笑み返した。

 いつの間に同志たちが集合したのか少し戸惑っていたが、ユルゲンが知らせてくれたのだ。シュタージ本部奇襲計画について、ベアトリクスは同志たちに説明する必要もなかった。見事な仕事だと関心はするがどこもおかしくはない

 忘れ物を思い出せて、ベアトリクスの心はおちついた。これから政権を奪取しようという大事にさいして、拳銃のことなど忘れてしまってかまわなかった。

 路上に転がるなにかを轢くとき以外は減速もせず、装甲輸送車はシュタージ本部前まで走った。

 停止した装甲輸送車の外から誰何の声が聞こえ、ベアトリクスは砲塔へ登り、車上に顔を出した。

 シュタージ本部駐車場の警備兵はベアトリクスと目を合わせると、大きく手ぶりして進入を許可した。

 駐車場の戦力は、装甲車が二輌、歩哨が数班。グローサーベアは有効射程を伸ばしたRPGも豊富に持っていると確認できている。警備兵が駐車場にたくさんいても砲弾は止められないから、大部分は周辺の街区へ散り、反乱軍歩兵を探しているはずだった。

 つまり、シュタージ本部は手薄になっている。

 〈ドイツ民族の真なる指導者〉ユルゲンが宣告した。

 

「シュミットに死を」

 

 ベアトリクスは復唱した。

 

「シュミットに死を」

 

 同志たちも唱和した。

 

「シュミットに死を」

 

 かくのごとく人類は団結し、理想へ向けて進歩できた。すばらしいことだ。

 同志たちにつづいてベアトリクスも装甲輸送車を降り、玄関へ歩いた。

 あと一時間もすれば復讐をなしとげる準備が整う。理想という正義を示し、ツォーネから諸悪を一掃し、ユルゲンの無念を晴らす。すばらしいことだ。自分はそれを目的に生きてきたのだ。

 悪いがエーリヒには死んでもらう。

 ツォーネを生贄に捧ぐ祭礼は、ユルゲンは頭を割られてちょっと人前に出られないから、死の祭司をベアトリクスが代行して執りおこなう。罪深きドイツ民族は戦って苦しみもがきながら見神の域へいたるか、あるいは死なねばならぬ。

 視界が傾き、ベアトリクスはその場にうずくまった。

 連戦による疲労と負傷で、体が思うように動かなかった。胃の具合が悪く、頭痛もする。

 なにか重大なことを忘れている気がする。

 共和国宮殿で重要な人物に会い、とてつもなく重要な話をした憶えがある。疲労のせいで、しかし肝心の内容を思い出せなかった。

 自分はエーリヒに、なんの復讐をしたかったのか? ユルゲンの無念とはなんだったか。……ユルゲンならそこにいる。聞いてみたらどうだろう?

 

「ユ……、う……ぐっ」

 

 吐き気がこみあげ、ベアトリクスは喉を押さえた。

 血まみれの割れ目に、砕けた脳に隠れて、なにかおぞましいものが見えた。

 それは深淵から現実へと延びる血管や臍帯のごときものであり、地下でアーネンエルベに育てられた怪物の末梢だった。

 ユルゲンは怪物となっていた。理想を崇拝した報いとして。

 ユルゲンは死を超越し、見神の域へいたったのだ。すばらしいことだ。

 異次元から力を運ぶ導管は、この世のものならざる瘴気を噴き、現実を汚らわしい霞に染めている。あれを見つめてしまった人間は、超常の力を得られたとしても正気でいることはできない。

 肘をついた右の手が、封筒を持っている。通りすがりの本部職員に手渡されたものだった。

 中身はわかっている。封筒の中身には、なんの価値もない。視覚で検めるまでもなく、異次元のエネルギーで神経細胞を短絡されたベアトリクスにはそうであることがわかった。

 こんなゴミを寄こしてエーリヒを始末しろだとは、アーネンエルベも焼きがまわっている。写真の若きアンドロポフも「今さらなんの用だ」と言いたげな顔をしている。

 彼は、一九四〇年代のソビエトでも人類の進化を研究していた。

 グレゴリー・アンドロポフとなったのはいつか、どのようないきさつがあってのことかは不明だが、ソビエト政府中枢は、出世したエーリヒが絶対に公表されたくない秘密を自分たちは握っている、と愚かにも思いこまされているわけだった。

 エーリヒ・シュミットとしては、ドイツ政府が記録した公式の経歴としては、敗戦でソビエトに抑留されたドイツ国防軍の兵士ということになっている。

 これらは、どちらも偽りだ。祖国のために戦うエーリヒ・シュミットも、KGBの特務工作員グレゴリー・アンドロポフも、魔術師が戯れ半分にこしらえた空虚な仮面にすぎなかった。

 同志たちがファールシュトゥールに乗りこんでいる。

 ベアトリクスは〈ドイツ民族の真なる指導者〉に助けられ、糸に操られる傀儡めいた動きで身を起こした。

 玄関内で冷えた体を休める警備小隊は、カカシのように無反応だった。不都合なことは詮索せず、認識せず、思考もしない。それが東ベルリンに住むことができる選良階級の正しい生きかたなのだ。

 彼らは正しく指導されている。

 ファールシュトゥールの扉が開くと、長官室へ通じる受付にいた本部職員は、なぜか廊下を逃げ始めた。正しく指導されていない彼女らは、背中を撃たれて倒れた。

 同志の一人が急に呻き、女の名を呼び、自らも撃たれたように身を折って嘔吐した。

 死を礼拝する者をベアトリクスたちは跨ぎ越え、かまわず長官室へ進んだ。

 

「開けろッ、水道局だ!」

 

 お約束を武装警察軍の同志が怒鳴り、五~六発をテューアクナオフに撃ちこみ破壊した。扉を蹴り開けダイナミックエントリー。

 

「どうも、ゲネラールコマンダンテ=シュミット」長官の椅子に坐るエーリヒにベアトリクスは一礼した。「下水道の調査に来ました」

 


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