背後から犇々と伝わる殺気をジルバは感じていた。アルの警告を聞かずともジルバはナルガクルガの奇襲を予見していた。回避の動作も見込んでいた。
右半身を引いたナルガクルガはジルバの不意を突き、脆い身体を引き裂かんと爪を振るった。それを予見してバックステップで躱し、反撃の一手に出る。
しかし、そんな予測は砕け散った。
一瞬、膝の下から指先にかけての感覚が無くなったようだった。膝は力なく折れ、視界ががくんと傾ぐ。無意識に戦鎚を構えたのは狩人としての本能か。
渾身の一撃。ヘルムが宙を舞う。膝が折れ戦鎚を構えたことで真面に受けずに済んだのは不幸中の僥倖。
体は何度もバウンドして幹にぶつかって止まった。口の中から血が噴き出て地面を温かく濡らす。ジルバは重い目蓋を震わせてナルガクルガに焦点を合わす。この圧倒的な状況においても警戒しているようだ。
これもまた不幸中の幸い。ナルガクルガが願ってもない、と跳びかかって来ればジルバの命はもう無かっただろう。
必死に駆けてきたエレナが靴跡を引きながらジルバの前に立ちはだかる。足が震えている。本音は恐怖で溢れ返っているのか。
「絶対やらせない……ッ!」
「見捨っ……っろ、づッ……!」
見捨てろ、という短い言葉さえ口から出ない。
「グルルゥゥウ」
赤眼がエレナを捉える。痛みに動けず遠くから通常弾を連射するのはアル。しかし、ナルガクルガにとっては非常に微力であった。
隊の最強を失った以上、撤退戦をすべきである。立ちはだかったエレナは恐怖に支配されて剣を向けるばかりである。腰にぶら下がった閃光玉には目もくれない。
膠着状態は続く。警戒するナルガクルガはどうやって最強を葬ろうかと。対する狩人らはどうやって遁走しようかと。しかし、狩人らは冷静でなくナルガク ルガは冷静である。今も尚、幾つもの攻撃パターンを組み立てている。
突如、膠着が破られた。尋常ならざる殺意を感じ取ったナルガクルガが飛び退く。
「ッ、逃ゲルナ」
「ハザンッ? 何やってるの!?」
「……殺シテヤル」
撤退戦をすべきところを復讐の狩人は果敢に攻めていく。
憎むべき仇敵を切り苛もうと駆け出す。自分の為に大怪我を負った命の恩人を放り出して。エレナは顔を顰め、アルは見ていられないほどの憤りを覚えた。
エレナ一人で成人の男性を運ぶのには時間がかかる。アルが手助けしようにも暴走し切ったハザンを置いてはいけない。二人で残り、運ぶのに必要な時間を作る必要がある。
狂ったように攻めるハザンを支えつつ時間を作るべくナルガクルガをジルバとエレナ抜きで抑え込む。最悪の場合、死ぬかもしれないが、やるしかあるまい。
「エレナ、行って! 僕が何とかする!」
仲間の命を助けられるなら。いや、それ以前にこれ以上の最善の策が見つからない。
「……分かった。絶対、二人で帰ってきてよ!」
「保証は……できないかな」
「絶対だよッ!」
エレナが怒鳴る。しかし、その怒りの裏腹に優しさと悲しみがあった。エレナは混ざり合った感情を抑え込み、溢れ出そうな涙を堪える。
「ワシの……こと、は……良い……」
「っ、良くないです。そんなこと……言わないでください」
震える声。もう涙は流れてしまった。それでも急がないと。絶対に振り向かない――生き残るために。
ジルバを担げながらエレナが退路を歩き出す。ゆっくりと遠退く背中を見ながらアルは最後の拡散弾を装填する。残りの弾丸は広げた風呂敷の上である。
吠え散らしたナルガクルガがハザンを素早く避けて駆け出す――速い。
あっという間に距離を縮め――しかしエレナは振り向かず。
迫る殺気と死期。信頼と恐怖が激しく葛藤する。
転瞬の後、熱気が背中から後押ししてきた。
アルが撃ち出した拡散弾による爆破の連鎖である。
迅竜の悲鳴、転じて白い閃光が破裂。アルが投げた閃光玉だ。
「後は……」
軽銃を背負う。ハザンへと向き直ったアルは痛む身体を労わらず疾駆していく。
ハザンは視力を奪われたナルガクルガの一点のみを見つめ、太刀を握り締める。その手から血が滲み出ていることには気付きもしない。
ハザンは憎き仇敵を狂った凶眼で睨んだ。衝動に駆られ走り出そうとして、体勢が崩れた。
「ッ!?」
押し倒された。そう気づくのに時間はかからなかった。
「邪魔スルナラ、斬リ殺スゾ!」
「――やってみろ。僕はハザン君が言うように優しくないから君の脚を切ってでも……止めてやる」
訳が分からない。ハザンは目の前の人間が認識できなかった。
兜越しに見える蒼い眼。いつもは優しい目が鬼気迫った憤りを孕んでいた。
「自分を見ろ。君はハザンで狩人だ。君は今、ジルバさんを見捨てて僕を斬り殺そうとしたんだ! 目を背けるな、自分自身から!」
◆ ◆ ◆
――目を背けるな、自分自身から!
突如、鼓膜に流し込まれた声は 聞き覚えがあった。
ナルガクルガをこの目に映して心悸がこれ程までに無い加速を重ねてから記憶がない。底から噴き上がった想いが体を内側から侵食していったのを他人事のように感じていた。
獣のように力だけを求め、復讐に固執したソレに人間であったハザンの自我は必要なかった。
まるで、泥沼に沈み込むような感覚。深海の奥底の真っ暗闇にいる感覚。
もうどうでも良い――そう思っていた時、脳内に犇々と声が響いた。
『……憎イ。殺シタイ』
聞こえたのは自分の声。気づくと辺りは白の世界、何がある訳でもなくいるのは不可視の自分と黒い人影。
目の前に浮かぶ人影は真っ黒に塗り潰されていてシルエットでしか窺えない。
彼が呟いたのか。ふと、黒い顔に二本の白い線が伝う。それが涙なのだと理解するのに時間は要らなかった。
『アイツガ憎イ。オ前モソウダロウ?』
自然と脳裏に浮かぶのはナルガクルガの全貌。憎いさ。憎くて堪らない。皆を殺したコイツは殺したいほどに憎い。
『サァ、殺ソウヨ。コノ手デ……刀デ』
手元に伝わる感触。慣れ親しんだ、握り続けてきた愛刀。姿形は変われども、根底にあるモノは何も変わらない。
父さんに握らされた時から何も変わりはしない。この刀で幾多もの命を斬り裂いてきた。この刀にはハザンが振った数だけの物語が注ぎ込まれている。
だから、心に流れ込んでくるのだ――願いが。根底にあるモノが。
『良いか、ハザン。この刀は大切な人の為に振れ。……約束だぞ?』
そうか、この刀は仲間の為に。握れば握るほどその願いは強く濃く伝わってきて。
ある時仲間が死んだ。皆死んだ。俺は悔しくて情けなくて。そんな俺が大嫌いだから死に物狂いで力を求めた。
沢山の時間が流れて俺の周りには沢山の人たちがいた。大切な人たちだ。
でも、俺は欲張りだから亡くなった大切な人たちにまだ手を伸ばしていた。まだ話したい。また笑いたい。また狩りに行きたい。俺を置いて逝かないでくれ。
悲しみが、怒りが、願望が。行き着く先が無いから俺は――復讐を志した。
坩堝の感情が苦しいから、復讐に差し替えた。
ああ、そうか――
これは復讐じゃない。俺の中で混ざり合った感情が暴走しただけ。だから、殺したいわけじゃない。もう大切な人たちがいるから。
今が――幸せだから。だから――
「お前はもう要らない」
『ソウダナ』
――
◆ ◆ ◆
「……アル。スマなかッタ」
「……おかえり。行くよ、ベースキャンプで集合だって」
「あァ」
振り向いて見ると、見えない恐怖で荒れ狂うナルガクルガの姿があった。
まだやっぱり憎いけど――今は申し訳ない気持ちで一杯だ。
先を行くアルはハザンと顔を合わせるのが辛くて黙って歩を進めた。ハザンも俯いたまま無言で足を運んだ。
◆ ◆ ◆
鎧を外し、ジルバはベースキャンプの寝台に腰を下ろした。激痛に顔を顰め、垂れ流れる血の行先を眺める。
少しでも気を抜けば、倒れてしまいそうだ。今も目眩と頭痛に襲われている。
包帯やら薬草やらを持ってきたエレナがジルバの前に座り込む。
傷だらけの身体を一見してエレナの表情が苦痛に歪む。先程出来た傷だけではない。以前からあった火傷の痕、無数の古傷はもう目を当てられないくらいに凄まじい。
「……ワシがやるから大丈夫じゃぞ?」
「いいえ。大丈夫ですっ! ジルバさんはゆっくり休んで下さい」
表情を改め、真剣な眼差しで酷い傷達を凝視する。内心で我慢、と連呼し表情を変えないように努める。
この時、エレナは必死に無表情を作ろうとして不自然な変顔になった。勿論、ジルバは意識に反して肩を震わせる。
「痛てて……」
「だ、大丈夫ですか?」
「……べ、別問題でな」
頭の上に疑問符を浮かべながらエレナは再び薬草を優しく塗ってジルバの肩と腰に包帯を器用に巻く。あらかじめ消毒しておいた布で額から流れる血を拭ってからすり鉢とすり棒を取り出した。
「スマンな」
「当然のことをしているだけです」
次にエレナが回復薬をつくるべく道中で拾ったアオキノコと薬草を混ぜ始めた。しかし、ジルバの表情を一瞥し、はたと手を止めた。
すり鉢を置き、首だけで振り返る。もう太陽が西の海へと沈もうとしているが、エレナが優先して見たのはアルとハザンだった。
ハザンが立ち止まり無言でヘルムを外す。血が滴って、ハザンも治療しなければならないほどの手負いだ。だが、それ以上に面持ちが悲し過ぎて見る者の心を押し潰す。
「本当にすみまセンでシた」
「そ、そんな改まらなくたって……」
「いヤ……皆ノ命を危険に晒シた。当然ノ報いヲ受ける覚悟はあります……」
空気が重々しい。開こうとした口が無意識のうちに閉じられる。
皆が視線を落とした頃、ジルバだけがハザンを真っ直ぐと見て。
「もう良い。次は大丈夫じゃな?」
「……俺を……叱らないんですか? だって俺は皆の命を……何とも思わずにッ!」
「そうじゃな。ハザン。お主は悪かった。しかしな、お主だけじゃない。エレナは最初の方、怖くて前に出ようとしなかった。アルは高い位置にいることに安心していた。ワシはお主の本音に気付いてやれなかった……皆、悪かったんじゃ」
「でもッ……!」
「ワシはな、こんな年だから反省した者をもう一度叱るほどの元気が残っておらん。強いて言うなら思い詰めることと反省することを一緒にするな……これくらいかの。後は二人に聞くといい」
そう言ってジルバがエレナとアルに視線を配る。
「わ、私は、ばば、馬鹿だから! ……難しいことは、言えないよ」
俺は視線を移し、アルを見る。
「僕はライバルを手助けするような真似はしたくないな」
大切な人たちを俺は蔑ろにした。しかし、温かな笑顔は絶えず俺を向いている。
もしも―――ほんの少しでも許してくれる可能性があるのなら。
もしも―――こんな俺の願いでも叶うのであれば。
「俺は無鉄砲で、感情に流されやすくて、仲間を危険に晒すような……どうしようもない男だけど……。だけど―――
――……もう一度、一緒に戦ってくれますか?」
深々と頭を下げ、涙を落とす。
皆は笑顔を絶やさず得も言われぬ一体感で。
「勿論じゃ」
「次は絶対勝とうね」
「僕で良ければ」
その言葉たちは温かくて。
こんな俺には勿体なくて。
でも、涙が出るほど嬉しくて感極まって。
「……ありがとう、ございます」
夕焼けの赤色が落ちる涙を赤く染める。
その場に崩れた青年は顔を両手で覆い隠し、大粒の涙を流した。
そして、紅蓮の天を仰ぐ。
この時、俺は――この刀を大切な人たちの為に振るう、と心の中に深く誓った。