妻は重病を隠したまま死んでしまった。
年端もいかぬ息子は行方を晦ましてしまった。
ジルバも、死にたくなった。あれほどに死を恐れたのに今では死にたがる。きっと人間が死に恐怖するのは死ねない理由があるからだ。あるいは、生きたい理由があるからだ。
あのまま焼かれ尽くされてしまえばよかった。そうして灰になってしまえばよかった。
妻が死んでから五年間、ハンターを続けたものの体の衰えと意義の喪失を徐々に引き摺っていって引退した。
頑張る理由もない。
命を懸ける意味もない。
もう家族を失ってしまって孤独だから。誰も自分を待っていてくれないから。
全てを失ってしまった。
幸せを教えてくれて、生きる理由になってくれて、あんなに愛した妻を失ってしまった。その妻との間にできた宝物を超える息子を失ってしまった。
火葬に出ることもできなかった。メルラの両親はジルバを嫌っていたからだ。妻が重病に侵されているというのに仕事に専心する夫を嫌わない訳がない。
もう死んでもよかった。
それからジルバはすっかり老け込んでしまった。髪は白髪に変わり、鍛え上げてきた体はこれでもかと衰えた。あの時、焼き尽くされて灰になりたかった、と切望したが、今も別の意味で灰かもしれない。
そうしてまた五年の月日が流れた。
この街に、あの家にいるだけで苦しい過去を思い出すジル バはこの時に引っ越しを密かに決めていた。
年月が過ぎるのは早いもので、もう明日には北エルデ地方の都市へと発ってしまう。
ジルバはあの時の特別な日が忘れられなくて、西に傾く夕日を見る為にまたもう一度、家を出た。
世界から取り除かれたようにジルバの眼に映る、歩き過ぎてゆく人々は嬉しそうでもなく悲しそうでもなく寂しそう。そう、まるで感情の欠片もない人形のように。
そうして何か用がある訳でもなく、あの時と同じ人影の疎らな街角で腰を下ろした。
何も変わっていないといえば嘘になる。周りを囲む家の壁は少し古くなっていて風化したものもある。またその逆もあり傷一つないほどに新しいものもあった。
刻々と色を濃くしてゆく、燃えるような茜の夕陽はあの日と何 も変わらない。
だから思い出してしまう。ハンターを志したあの日を。大切な仲間と故郷を失ったあの日を。生きる理由だったあの人を。
きっと、いない。誰もいない。分かっているけど、振り返ってしまう。儚い希望を抱いて。
いきなりその娘は現れた。まるでずっとそこにいたかのように。
やたらと大きい茜の夕陽には目もくれずジルバの背中をまじまじと見つめてそこに立っていた。
金髪に可憐な花を挿し、翠色の眼をした少女は心配そうな幼い瞳でジルバを見つめていた。
「何か用か。お嬢さん」
「ううん」
久方ぶりに声を出した気がする。首を横に振るのに少女は静かに近づいてきて隣にちょこんと座った。
不思議な少女だ。隣に座って夕陽を眺める少女の横顔を盗み見てからジルバも視線を夕陽へと戻す。
茜色に映る二人の瞳。全くの初対面でありながら、毎日ここでこうしているようでとても不思議な空間。
「おじさん、何かあったの? ……悲しそう」
少女は視線をそっと向けてきて唐突にそう聞いてきた。
ジルバは瞳を茜に染めたままゆっくりと口を開いた。
「大事な人を亡くしてな……」
「あ……その……ごめんなさい」
申し訳なさそうな抑揚でそう言うと、少女は何かを考えるように黙り込んだ。
気まずい空気が流れだす。二人の瞳は茜を映したまま。
「私ね……お花が好きなんだよ。お花はね、人を元気に出来るんだってお母さんが言ってたんだよ。だからね、おじさんに持ってきてあげる」
「……そうか。おじさんにくれるのか」
ジルバは少し笑ってそう返した。
「うん。だからね、明日、また会える?」
「そうじゃなあ……同じ時間の同じ場所ならまた会えるかもしれないのう」
考えなしに言葉を漏らしてしまった。明日はこの街を発つことになっている。
慌てて訂正しようとしたが、目を輝かせて喜ぶ少女を見るとその気も失せてしまった。どうせ一日遅れたところで何か支障が出る訳でもない。
それに小さな可愛らしい少女との約束だ。破るのもどうかと思う。
「じゃあね、合言葉を決めないといけないんだよ」
「合言葉……か。どうしようかのう?」
嬉々とした声ではしゃぐ少女に引っ張られ、ジルバも声を弾ませる。
「ふむ。じゃあ、ワシがお嬢さんに質問をしよう。それと同じ答えが返って来たらそれが合言葉じゃ」
「分かった。じゃあ、どんな質問っ?」
飛び跳ねて喜ぶ少女が夕陽を背景に詰め寄ってくる。
夕陽に照らされ輝く金色の髪。幼い顔にはくりくりした翠色の眼と潤った唇、ほんのり赤い頬。それらが全部笑顔になると向日葵のように明るくなって見える。
ジルバは頭を撫でてやりながら、おもむろに口を開いた。
「一番好きな花は何じゃ?」
「えっとねー、私は――――」
思った以上の答えを聞いたジルバは嬉しそうに微笑んだ。
◆ ◆ ◆
空に浮かぶ真っ赤な夕日。
赤く照らされた人影の疎らな街角に、ジルバがふらふらと現れた。
昨日、約束した通りに同じ場所、同じ時間にそこに立ってみた。
ドンドルマに別れを告げるつもりで、妻を偲ぶ思いで立ち寄っただけなのに少女との邂逅から変な気まぐれを起こしてしまった。
物憂げなジルバの顔を容赦なく照らす赤々な夕日。
幾時間経とうとも少女が姿を現すことはなかった。彼女の身に何かあったのだろうか。不安が積もる一方で自分だけが馬鹿みたいに本気になっていて彼女はそもそも守るつもりなどなかったのではないか、という思いも過ぎる。小さな少女が提案した約束だ、本気にしてしまう大人の自分が間違いだったのだ。
また一人になってしまった。この光景が、時間が、状況が特別なあの日を思い出させてしまう。
涙が零れてしまう。弱い人間だと罵られても良い。女々しい男だと思われても良い。亡くした妻はそれほどに大切で欠かせない唯一の人だったから。
長かった人生を振り返っているといつの間にか街は宵を迎えていた。
ハッとしたジルバは重たい腰を上げ、特別なあの日と同じように振り返る。
そこにはぎこちなく手を振る彼女がいた。
もしも自分が愛し亡くした、たった一人がそこに立って手を振っていたら何と思うのだろうか。
時を駆けたのだろうか。神の悪戯だろうか。
彼女はあの人の若い頃そのままだった。茶色の澄んだ眼にくるんと巻いた栗色の髪。身に包む赤いワンピースまでもが似てしまっている。
ジルバは酷く困惑し、そして苦しんだ。
会えないと思っていた最愛の妻が目の前にいるのだから。愛したいに決まっている。抱きしめたいに決まっている。
ジルバはそっと歩き出し、瞳に悲しみを湛え、彼女の傍を虚しく通り過ぎていった――彼女がまだこちらに手を振っているとも知らずに。
夢だったと一蹴してもいい嘘みたいな時間。
分かっていることは少なくとも、この時間を招いたのはあの、少女だ。
◆ ◆ ◆
長い一つの物語を見ていたようだった。
ゆっくりゆっくりと目を開けたジルバは感情を与えない白色の天井を見ながら、カーテンから差し込む陽の光に目を眇めた。
何か温かいものに包まれている。ふわりと全身を覆うそれは無性に心地良い。続いてやって来たのは薬品の匂い。
ようやく視覚が機能し始めた。窓際に添えられた黄色い花。花瓶から生えてこちらを覗くその姿にあの少女が思い浮かぶ。
空がより青く見える。白いだけの部屋が少しばかりか温かく感ぜられる。目覚めは良いようだ。
ジルバは自分が昏倒した瞬間を思い出し、顛末を悟った。
(また……生き延びたのか)
ナルガクルガと一戦を交えたあの石造りの港町は見間違う筈もない、古びてしまった故郷。きっと視界の端に見えた木の廃屋は家族と過ごした忘れがたき場所。
あんなところで寝てしまったから、きっと過去を巡ったのだろうとジルバは思った。
視界にエレナが映り込んだ。狩人としてあるべき姿で、しかし、その顔は天変地異でも見たかのように呆けた驚き顔だった。幼気があるせいか、天然でうぶな町娘にしか見えない。
「ふ……どうしたんじゃ。死人が起きたみたいな顔をして」
「だって……だってぇ……!」
ポカンと口を開けていたエレナの眼からぽろぽろと涙が零れ落ちる。エレナは言葉を出そうにも嗚咽ばかりが出てしまう。
エレナはしばらく落ち着こうと努めるも断念し、目を潤ませながら懸命に微笑んだ。
「心配したんですよ……本当に……」
「うむ、心配をかけてしまったな。じゃが、ワシはもう大丈夫じゃ」
ジルバがエレナの崩れた笑顔に苦笑する。
「どれくらい寝ていたんじゃ? ワシは……」
「三日です。医者も驚いていましたよ。この歳でよくやっているなって。もう……無茶はしないでくださいよ?」
「んー、約束はできんな」
サイドテーブルに置かれた夕食の形跡にジルバが目を丸くする。
「ずっと看病してくれたのか」
「居ただけですけどね。それに寝てばっかりですし」
「二人、ハザンとアルはどうしたんじゃ?」
「クシャルダオラが去ったので古龍観測隊の方たちに連れられて調査に向かいました。昨日出発したばかりですね。ミラちゃんもそれに同行しています」
「そうか……」
宙を見て、伸びた顎髭を擦るジルバを見つめて何かを悟ったのか、エレナは訝しめな視線を飛ばす。明後日の方を向くジルバの視線をさえぎるようにエレナが覗いて、念押しにと厳しめな声をあげた。
「分かっていると思いますけど、調査に加わろうなんて考えないでくださいね。絶対安静なんですから」
「さすがにワシも限界を感じておる。そんな無謀な事はせんよ」
苦笑いを浮かべるジルバをしばらく見つめ続けて、納得したようにエレナは頷いて安堵の息をついた。
その後も言葉がついて出ていたが、突然、二人は話題を尽くして沈黙が訪れた。
どれくらい話したのだろうか。鋭角に差し込んできていた陽光はやがて直角に入り込むようになってきた。ジルバは重たい体をゆっくりと持ち上げ、今は大きな枕に上半身を預けている。
二人は視線を合わせる訳でもなくお互いが窓の外を眺めていてそれはまるで、喧嘩したばかりの夫婦のよう。いや、この例えは場違いかもしれない。何故なら他でもないその二人は幸せそうに微笑んでいるからだ。
「エレナ」
沈黙が破られた。エレナが窓の外から視線を外し、声のした方、ジルバの方を振り向く。しかし、ジルバの視線は花瓶に挿された黄色い花に釘付けだった。
物憂そうな瞳に何かを感じてエレナはごくりと喉を鳴らした。
「エレナは確か花が好きじゃったのう」
「は、はい」
微かに重なる記憶。そこにある違和感は時の流れによるものか。
「一番好きな花は何じゃ?」
その花瓶に挿された黄色い花だったか。
もっと可憐な美しい花だったか。
それとも予想もできないような未知な花だったか。
「私はぜーんぶ大好きですよ。だって“お花”が好きなんですから」
「……そうじゃったな」
ジルバは緩く、納得したように微笑んだ。