凹凸の激しい岩肌を登り切り、ようやく頂点に達したアルは振り返って見下ろしたい気持ちを抑えて駆け出した。
岩の陰に横たわる影。血で塗れ、身体は弱々しく細っている。突出した岩の周りが血で染まっているのは常に陰に身体を入れる為這っていたのか。
アルは酷い吐き気と目眩、さらには動悸がする。必死に抑え込み、己の役割が何なのかを狂ったように自問自答した。
「ミラさん! 聞こえますかっ!?」
ミラの傍に膝をつき、鼓舞するように声をかける。だが、反応はない。
脈はある。息遣いも微かだが聞こえる。しかし、身体中の傷は惨たらしくアルはすぐに違和感に気づいた。
まるで、弄ばれたような打撲や切り傷。これほどの死なないような的確さと丁寧で悪意ある傷は果たしてモンスターによるものだろうか。否だ。
これは明らかに人間が行った極悪非道の紛れもない暴力である。
「っ……こんな、酷い……」
慎重に悪化させないように痛々しい傷口をしっかりと凝視しながら治療の手を加えていく。
できる限りの処置を終え、傍に携帯食料を添え、水分も少しずつ飲ませた。ジルバに言われたとおりの治療は終わった。後は信号弾を打って知らせなければならない。
作戦の工程を頭に思い浮かべていると突然、か細い声が聞こえてアルはハッとした。
「ァ……あぁ……っ」
「ミラさん? 良かった、助けに来ました。もう大丈夫ですよ」
必死に安心させようとして緊張が先走る。しかし、すぐにアルは素早く冷静にまるで、熱を大量の氷で冷やしたように平静を取り戻した。
「……罠……ダメ」
「大丈夫です。心配には及びません。僕たちはハンターですから。喋ると体に障るのでゆっくり、ゆっくり休んでいてください。後は僕たちの仕事です」
アルは立ち上がり、思考を切り替えると信号弾を頭上へと打ち上げた。
振り返り、ミラの容態を確認する。苦しそうだが心なしか表情は安定した。
「絶対助けますからね」
そう言い残すとアルは岩山の縁に駆けて風呂敷を広げ、弾丸を散りばめた。
展開した軽銃を隣に置き、双眼鏡でジルバ達の動向を探る。どうやら休憩を挟んでから再び挑むらしい。アルは肝心なところで集中力が切れないように深呼吸してから水筒に口をつけた。感情の揺れや集中力の欠落は弾道の精確さに大きく関わってくる。
真上に上がった陽が狩人らに昼時を知らせる。アルは携帯食料を齧りながらその時を静かに待ち続けた。
滴る汗の水分さえ勿体ない過酷な環境で待つこと数分。遂にジルバ達が動き始めた。群れから距離を保ちながら散開し、同時にこちらの方へと駆けてくる。
アルは全体を広い視野で確認しつつ照準をティガレックスへと合わせた。唇を舐め、引き金に手をかけた途端、軽銃が手の延長へと変貌する。この感覚を手に入れるのに幾多もの経験を積み上げてきた。
黄色い外殻、青の縞模様。前肢は従来の想起する飛竜とはかけ離れた形状へと進化し、四つん這いの体勢で構えている。あの格好が示すのは臨戦態勢。つまり、敵を追わずとも戦っている心持ちにあるのだ。
アルが引き金を作動。銃声が轟きティガレックスの左前脚で弾丸が爆発。アルは指の力を緩めスコープ越しにティガレックスを観察する。
不可解な攻撃に苛立っている様子だ。しかし、苛立たせるだけではなるべく注意をこちらに出来るのならジルバ達が群れの中に駆け込む前にティガレックスをこちらに引き付けたい。
そんな望みを持ちながらアルはティガレックスに通常弾LV2を的確に当てた。
瞬間、スコープ越しに目が合った。かなりの距離だが、心臓を握られたような威圧感だ。アルは思わず引き金から指を離し、全体を見回した。
「大丈夫。皆、順調だ」
ティガレックスが最も近いジルバへと引き寄せられた。群がるゲネポスを物ともせずに跳ね除けて咆哮をあげながら突っ込む。
火薬の破裂音。ゲネポスが弾かれたように倒れ込むのを確認すると再びジルバの方へと視線を戻した。巧く躱したようでジルバは無傷のままティガレックスから距離をとっていた。
次にティガレックスは標的を変え、ハザンへと一直線に走り出す。狩人らの作戦通り、数頭のゲネポスを蹴散らしていく。
ハザンは命の危険を察して強引にゲネポスを退けながらその場を離れた。直後、先ほどまでハザンがいた場所をティガレックスの四つの脚がゲネポスの血と肉と骨を飛ばしながらもの凄い速度で通過した。
アルは肝を冷やしながら再び狙撃に移る。エレナとジルバは滞りなく動けている。しかし、ハザンは未だにティガレックスの脅威に晒されている。
「あれ……?」
アルは並行していた狙撃と三人の安否確認を止め、暫くティガレックスに照準を合わせた。突然動きを止めたティガレックスは、まるで閃光玉を食らったように動かない。
それが暫く続いた。思わぬ好機か、と思われた直後のことだった。
充血した血管が全身を赤く染め上げ、正しく絶対強者と呼ばれる所以とも感じられる姿へと変貌した。
何が切欠か分からぬまま音の領域を超え衝撃波と化した咆哮が砂漠を揺るがした。大気が震え、弱者達は怯え、狩り場が轟竜の支配地と化す。
一瞬、時の止まった狩り場にいる者は皆、支配者に畏怖の視線を注いだ。刹那、前触れなく狩り場の時は動き出し、同時にティガレックスも動き出した。
猛虎のような両眼が真っ先に睨んだのはハザンだった。ゲネポスの血肉を纏いながら驚異的な速さで距離を詰める。
ハザンが横っ飛びに転がって瀬戸際で回避。しかし爪と怪力でティガレックスが早い段階で追跡を再開。ここで薄幸。ハザンの腕がゲネポスの牙に捕らえられ回避が不可能。
アルの背筋を冷たい何かがぞろり、と撫でて直後には覚えず叫んでいた。
「危ない……ッ!」
ハザンの身体がゲネポス達の頭上を飛んだ。
アルの叫び声にハッとしたジルバの視線は確かにハザンの身体が宙を舞うのを捉えていた。
ひやりとする間もなく、ゲネポス達を押し退けて群れの中から全速力で抜け出す。予め置かれていた小タル爆弾を担ぎ、エレナの位置を確認する。
緊急時には仲間を確認するように、という普段からの教えが役に立った。エレナはこちらに視線を向け、指示を待っている。
ジルバは直ぐにハンドシグナルで岩山の中腹に上るように指示をした。言葉が無くとも意思は伝わり、エレナが弾かれたように岩山へと駆けていく。
ジルバは再び群れの中へと飛び込むと小タル爆弾から伸びる導火線に火を付けた。跳びかかるゲネポスを肘で退ける。その動作中に爆薬を敷き詰めた竜骨の導火線を小タル爆弾の導火線に繋げた。
小タル爆弾を放る。小規模の爆発がゲネポスを飲み込み、更に竜骨爆弾を放る。一瞬で投げナイフを取り出し、迫るゲネポスの喉元に突き刺し弾き飛ばす。
ティガレックスとの距離を確認し、ハザンに駆け寄った。乱暴に振り回されたためか身につけた革袋やホルダーが外れ、今となっては太刀と歪んだ鎧のみを装備している。
「大丈夫か!?」
「っ、ジルバ……さん」
「できる限り肩を貸す。そこからは一人で岩山へ向かうんじゃ。良いな?」
「ぐっ……はい」
ハザンもただ単に直撃を許したわけではなく、激突する際でゲネポスから逃れて走り出したのだった。それでも身体的に弱小の人間が無傷で済む筈がなく、随分と苦しそうだ。
状況が状況だ。ジルバはハザンを無理強いしてでも岩山へと連れていく。その為に小タル爆弾と竜骨爆弾でこの辺のゲネポス達を怯ませたのだ。
そろそろティガレックスが此方に走り始める頃か、とジルバが肩越しに確認しようとした直後、岩山の頂点で銃口炎がチカッと光り、神速の狙撃弾は狙い過たずティガレックスに突き刺さって爆薬を炸裂させる。
岩山までは十メートルぐらいだろうか。ジルバは徐に力を緩め、ハザンに一人で行くことを促した。エレナの策動もあり、この辺りのゲネポスは数を減らしている。
ジルバは踵を返し、腰に手を回した。閃光玉を掴み取りすぐさま投げる。激しい光がティガレックスの目を焼き、視力を奪った。
ジルバは全方位に視線を巡らせ、ある時間を速算する。
知らずの内に口から諦めに似た吐息が漏れ、こんな混沌の最中にもかかわらずゆっくりと身体の熱が冷めていくのを感じていた。
覚悟は一瞬で。これは必然の義務だ。
ジルバは引き下がる事無く尚も戦鎚を振り回し、ゲネポスを吹き飛ばした。
すると、直ぐに上からアルの力の限りの声が降ってきた。
「ジルバさん! 早く上がってください!」
――分かっていた。だからこのような立ち位置を仕向けた。
アルは声が届かなかったのか、と不審に思い今度は腹の底から声を突き上げた。
「気球船が……助けが来たんです! 早く、早く上がって下さいッ!」
王立古生物書士隊を象徴する紋章を刻んだ気球船が岩山の真上からゆっくりと降りてきている。しかし、ジルバはハザンが吹き飛ばされた時からその存在を既に知っていた。
ジルバからの返事がない。アルの心を嫌な予感がゆすぶり、足元がぞわりとした。
「早くッ!」
警告の声はやがて、怒鳴り声に変わる。しかし、ジルバは頑固として岩山に上ろうとしなかった。
岩肌ではエレナがハザンを必死に押し上げている。まだ高さが足りないのだ。ティガレックスの跳躍なら優に届いてしまうだろう。
タイムリミットは非情にも過ぎ去った。怒りの赤に身を染めた轟竜が咆哮と共に駆け出す。
「っ、ハザンを狙うつもりか!? させんぞ!」
執念深く轟竜は岩肌に貼りつくハザンへと急速に加速して走り抜ける。
ジルバの意図を読み取ったアルは酷く焦燥しながらも身体は拡散弾の装填を手際よく行う。撃ち出された拡散弾は轟竜に当たらずとも連鎖する爆炎に巻き込んだ。しかし、轟竜は速度を落とさず見る間に距離を詰めていた。
ハザンとエレナが轟竜に潰されるまでの数秒間、アルの視線はジルバへと注がれた。轟竜のやや前方を駆けながら拍子を合わせ、全速力で並走している。
猛烈な勢いで轟竜の右前脚に身を躍らせ、腰を捻り、腕を振るい、力を効率的に伝動させて放たれた一撃が轟竜の左前脚を掬った。
轟竜の進路が斜め右に逸れ、ジルバが疾走の勢いそのままに転ぶ。僅か鼻先という距離で轟竜とジルバが擦れ違い、強運にもジルバの身体が潰れることはなかった。
砂塵を舞い上げ、破壊的な音とともに轟竜が岩山に激突した。激しい揺れにエレナの悲鳴があがるも何とか二人は岩肌に貼りついていた。
「っ……無事みたいじゃの」
砂に塗れて倒れながら見上げたジルバが安心したように呟く。その眼に先ほどまでの燃えるような闘争心はなかった。口は穏やかに笑んで心は栄光のような充実感に満ちている。まるで、何か大事なことをやり遂げたように。
轟竜はしばらく登っていくハザンの姿を見届けた後、地面に視線を落とした。
そこには力感溢れる死闘の果てに取り残された一匹の狼が役目を終えたはずの牙を光らせていた。
「時間が流れるのは早いものじゃのう。もう、気づけば……最期だ」
戦鎚を構え、再び歴戦により培った覇気がその両眼に蘇る。身体は衰えてしまったが、その覇気だけは若返ろうとも劣ることはないだろう。
激震を生じる雄叫びをあげ、轟竜が身を縮ませた。
人が死ぬ時、恐怖を感じなくなるのは死ねない理由を失い、生きたい理由を失くした時だ。そして、死んでもいい理由ができた時だ。
きっと心の端で恐怖があるのはミラの生存を確認できない心残りだろう――本当は幸せを――いや、考えないでおこう。
もう引き返せないのだから。
「なっ――」
空を駆ける影があった。
それは夕焼けの逆光を浴びながら澄んだ声を発しながら轟竜の背中に飛び乗った。
「どうしてお主はッ――エレナ、飛ぶんじゃ!」
轟竜の背中に剣を突き刺し、体を無茶苦茶に振り回されながらも師の声をしっかりと耳にしたエレナが身体を折り畳む。
剣を抜き、足場を確かめ、轟竜の推進力に合わせて再び空を駆けた。
ジルバが突風のごとく駆け抜け、ジルバの全てを捧げた戦鎚が景色を縦に光った。
轟竜のその名に相応しき痛みを訴える絶叫がジルバの背中を押す。空に上がって上がったエレナの下へと激走する。
間一髪でエレナを巻き込みながら砂の上を転がり、砂塵が舞い上がって二人の姿を隠した。
丁度、夕陽が地平線に着いた時だった。砂塵から二人が抜け出し、アルとハザンの打ち震えるような歓声が上がった。
昏倒状態に陥った轟竜が目を覚ました頃、砂漠は静寂に包まれ、夕陽に向かう気球船のシルエットがそこはかとなく慶祝の感に満ちていた。