哀歌   作:ニコフ

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6話 捕鯨 前編

 

「それで、ご依頼というのはなんでしょうか? マドモアゼル」

 

 まだ朝も早い毛利探偵事務所では、ここの主である毛利小五郎が応接用のソファに腰掛け、ダンディな面持ちと、いつもより渋く低い声で目の前の依頼人と思われる女性へ声をかける。いつものヨレヨレのものとは違うキッチリとしたスーツを着込み、髪もしっかりとセットしているようだ。

 まだ登校する前の蘭やコナンも小五郎の側に立ち依頼人の話に耳を傾けている。

 

「はい、私の名前は一ノ瀬清美(いちのせ きよみ)と申します、こちらは娘の桜です。実は……毛利さんに身辺の警護をしていただきたく」

「……」

 

 依頼人は鳩尾程まである長さの栗色の髪をゆったりと巻き、ナチュラルな化粧に落ち着いた格好の清楚な女性だった。目尻は優しそうに垂れ下がり、眉は不安そうにハの字になっている。特に強調されているわけでもない胸元でも、やけに大きく見えるほど体は出るところが出ている。

 彼女の隣には探偵団の子供達より少し小さいくらいの女の子が無愛想に座っている。艶々な黒髪をボブカットにされており、水色の可愛らしいワンピースに身を包んでいる。一言も喋らない少女はまるで人形のようだ。

 

「警護ですか。いいでしょう、もう手とり足取り何取りお守りしますよ!」

 

 小五郎は依頼人の右手を自身の両手で包み込むようにしっかりと握り締め、テーブルに膝をつき身を乗り出して食いついている。綺麗な女性が相手となると俄然張り切る小五郎を冷ややかな目で眺める蘭。

 小五郎の勢いに若干怯えたようにビクついた清美だったが、仕切り直すように「こほん」と咳払いし、申し訳なさそうに続きの言葉をつむぐ。

 

「ただ、その……事情がありまして、すぐに報酬の方がご用意できない状況でして……」

「と、言いますと?」

「はい。実は夫に先立たれ、その遺産の相続で揉めておりまして、私とこの子の身が危険にさらされる可能性があり……」

 

 清美が心配そうに隣の桜の頭を撫でる。少女は無愛想ながらも心地よさそうに目を瞑る。

 

「はぁ、それで報酬が遅れるというのは、もしかして?」

「はい……、報酬はその相続した遺産からお支払いすることになりますので、揉め事が落ち着いて相続されるまでお支払いは難しく……」

「具体的には、いかほどに?」

「数ヶ月は、かかるかと……」

「すっ、数ヶ月ぅッ!?」

 

 清美の言葉に驚き仰け反るように自分の席へと座る小五郎。美人相手の仕事は受けたいが数ヶ月もの間報酬が支払われないのは困るようで、膝に肘をついて頭を抱えてしまっている。

 

「い、いやー、流石にそれはちょっと……」

「……」

 

 額に汗を流しながら申し訳なさそうに断ろうとする小五郎。それを雰囲気から察した彼女が今にも泣き出しそうな顔で見つめる。その顔に「うっ」と言葉を詰まらせてますます汗を流す小五郎。しかし小五郎もタダ働きはできないと、ここは心を鬼にして断る。

 

「す、すみません……この件はお受けできかねます」

「そう、ですか……。こちらこそ無茶なことを依頼してしまい、申し訳ありません」

 

 申し訳なさそうな顔で頭を下げる小五郎に対して、清美も同じく申し訳なさそうにお辞儀をする。娘の桜の手を引いて力なく事務所を出て行った。扉が閉まるときに、桜が小五郎に無愛想なまま舌だけを突き出して「あっかんべ」を残していった。

 

「お父さん……」

「しょうがねえだろ、こっちもボランティアじゃねえんだし」

 

 蘭が母娘の去っていったドアを見ながら何か言いたげに小五郎に声をかけるも、小五郎も母娘を何とも言えない気まずさと罪悪感の中で見送るしかなかった。

 

「はぁ……どうしましょう」

「ママ……」

 

 事務所を出た清美が階段を降りながらため息を吐く。彼女には不安そうに見上げてくる娘の頭を力なく撫でることしかできない。

 

「お姉さん」

 

 後ろから小さな少年の声に声をかけられ振り向くと、そこには事務所にいたメガネの男の子、コナンが両手を頭の後ろに組んで立っていた。

 

「僕が頼れる人、紹介してあげよっか?」

「頼れる……人?」

「……」

 

 自分の知る頼れそうな知人には全て声をかけ、ここをはじめ探偵事務所や警備事業所も訪ねたが、どこもダメだった。困り果てた清美は、ダメ元でその少年の言葉に乗ってみることにした。

 朝の清らかな日光が彼女たち母娘を暖かく包み込む。気のせいか、目の前の影が少し照らされていくような気がした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「灰原、今日ちょっとお前の家行ってもいいか?」

「いいんじゃない」

 

 帝丹小学校1年B組、まだ1時間目の授業が始まる前の時間。欠伸を噛み締めながら登校してきた灰原に気づいたコナンが、すぐさま本題を振る。めんどくさそうに目を細めながらランドセルの教科書を取り出していた灰原がどうでもよさそうに答え、博士にメカの修理でも頼むのだろうと当たりを付ける。

 

「萩原に用があんだけど」

「どんな?」

 

 コナンが伊吹に用があるというのは珍しいことではない。しかしいつもは勝手に家に来るため、わざわざ事前に断りを入れるコナンに何やら嫌な予感がする灰原。

 

「いやー、ちょっと頼みごとっていうか。客を連れて行くんだけど」

「……どんな?」

 

 灰原の目が半眼のジトっとしたものに変わる。嫌な予感も然ることながら、見知らぬ他人を余り家に入れたくないという思いもあった。

 

「ま、まあそんな怪しい奴を連れて行くわけじゃねーからさ」

「……」

 

 苦笑いを浮かべるコナンを訝しそうに見つめる灰原。伊吹に用があって、誰かを連れてくる。彼女の嫌な予感は益々増していった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ただいまー。ん?」

 

 ゆっくりと日が傾き始め、街が徐々にオレンジに染められる頃、伊吹はお気に入りのカフェオレを鞄に入れて阿笠宅へと帰って来た。鍵を開けて玄関に入ると、見知らぬ靴が2足。白く清楚なハイヒールと、同じく白くフリルのついた小さな可愛らしい子供の靴。

 誰かお客さんでも来ているのかとリビングを覗き込む。照明は点けられてない室内はまだ少し高い西陽の光だけで照らされている。そこにはソファに座りテーブルを囲む博士とコナンと見知らぬ女性と子供、そして不機嫌そうに半眼でテレビを見ている灰原がいた。

 

「おぉ伊吹君、帰ったか」

「ただいま、博士。コナンも来てたんだ」

「ちょっとおめーに話があってな」

「ふーん。で、こっちの美人さんとお嬢さんはどなた?」

 

 制服のネクタイを緩めながらテーブルの方へと近寄り、ソファの脇に立ったまま会話を重ねる。彼の何気ない社交辞令も耳を大きくして聞き逃さない灰原。不愉快そうな顔は更に恐くなる。

 

「はじめまして、私は一ノ瀬清美と申します。こっちは娘の桜です」

「……」

「あぁ、どうも、萩原です」

 

 相変わらず困ったような顔の清美が自己紹介をする。釣られて伊吹も答えるが、桜は無愛想に伊吹を見上げるだけだった。

 

「それで、どしたの?」

「ああ、実はな……」

 

 コナンは母娘が今朝事務所に来たこと、そこで頼まれた依頼、そして代わりに伊吹を紹介しようと思って連れてきたことなど、一連の流れを説明した。聞こえていないかのようにテレビを見る灰原だったが、ソファを叩く指の速度は徐々に上がっていく。

 

「だいたい話はわかった。とりあえずもう少し詳しく話が聞きたいんだけど」

「はい。私の夫は一ノ瀬源蔵と申し、日本の経済界にもそれなりに顔の効く人でした」

「おぉ、一ノ瀬源蔵といえば有名な資産家の、ついこの間亡くなったとニュースで……」

 

 博士が顎に手を当てて天井を眺めながらぼんやりとニュースの内容を思い出す。

 

「はい、その一ノ瀬源蔵が私の夫です。夫が亡くなったことで私と娘の桜には莫大な遺産が残されました。ただ、私の親戚たちというのが、その……我の強い人たちでして、何とかしてその遺産を自分のものにしよう、と」

 

 顎に指を当てて困ったような表情で、言葉を選ぶように呟く清美。向かいに座って話を聞いていた伊吹は大体の話の流れの見当がついたようだ。

 

「なるほどね、それでその我の強いというか欲の強い親戚連中が、あんたら母娘をどうこうして、遺産を自分たちのものにしよう、と」

「はい……」

「金持ちも大変だねぇ」

 

 背もたれに寄りかかって呆れたような表情でため息を吐く伊吹。

 清美は俯き、両手を膝の上で強く握り決めながら涙をこらえて言葉を続ける。

 

「私はまだしも、娘にもしものことがあると思うと……それで有名な毛利探偵にもお願いした次第で」

「で、支払いをその遺産から出すから、相続ができるまで数ヶ月報酬が支払えないってなって、断られた、と」

「はい……親戚たちの妨害もあり、なかなかことが運ばず……。そのごたごたの間に私たちは消されるかも……」

「ママ……」

 

 その目から涙をポロポロと零し、雫を胸元に落としながら訴える清美。隣の桜が心配そうにその顔を見つめる。室内は痛々しい沈黙に包まれ、彼女のしゃくる声だけが響く。

 伊吹が優しい笑みを浮かべながらそっとハンカチを彼女に差し出す。

 

「子供の前で無闇に泣くものじゃない」

「あ、ありがとう……君、いくつなの?」

「えと……17、だけど」

「そう……。ふふっ、大人っぽいのね」

 

 伊吹の歳不相応な対応に思わず歳を尋ねる清美。彼から受け取ったハンカチで涙を拭っている。先程までの涙を流す清美の姿に灰原の怒りの表情も消えていたが、今の2人のやり取りに漂う暖かい雰囲気に、思わずこめかみに怒りが浮かぶ。

 

「お姉さんは幾つなの?」

「今年で30になるわ」

「三十路ね」

 

 なんとなしに質問したコナンに、「もうおばさんね」と涙で目を充血させながら笑って答える清美。興味なさげにテレビを観ていた灰原がすかさず辛辣な言葉を投げかける。「うぅ……」と泣く清美の涙は先ほどと違う理由のようだ。

 

「そんなお金持ちの家にいるなら遺産を相続しなくてもお金はあるでしょ。それに物を言わせて警備でも雇えばいいんじゃないの」

 

 顔はテレビ画面を捉えたままジト目の目線だけを清美に向け、ぶっきらぼうに先程から思っていた疑問をぶつける灰原。「それは俺も思っていた」と伊吹やコナンも同じことを考えていたようだ。そんな面々に、「それが……」と申し訳なさそうに話す清美。

 

「家にある資産などはほぼ全てが夫名義のため、私が自由に使えるお金はほとんどありません……毛利探偵に報酬をお支払いすることも、専門の警備を雇うこともできないのです……」

「まあ細かい事情はともかく、お金が用意できないみたいだし。伊吹兄ちゃんなら無料で何とか出来るんじゃないかと思って連れてきたんだ」

 

 コナンが外行きの顔と声色で、笑顔を伊吹に向ける。そんなコナンを半眼で睨みながら「余計なことを……」と目で訴える灰原だった。

 清美は泣き崩れるように伊吹の足元へと縋りつく。伊吹の膝に両手を重ねて置き、その豊かな胸元を押し付けるように身を寄せ、涙で潤んだ瞳で見上げる。

 

「あ、いや、その……」

「……」

 

 ベルモットとはまた異なるその色気に思わずドギマギとしてしまう伊吹。灰原は視線だけでなく、顔や体ごと伊吹と清美の方へ向け、怒りの瞳で彼らを睨む。困ったように声を上げるだけで彼女から離れようとしない伊吹に、こめかみがヒクつき眉間にシワが寄る。

 灰原が「ゴホンッ」と咳払いをすると伊吹がハッとしたように彼女を見る。その表情と背後に燃え盛る炎の幻影に思わず顔を青くする。慌てて清美の両肩を掴んで体から引き離す。足元に座り込む彼女の目をまっすぐ見つめる伊吹に、先程までのドギマギした様子はない。彼女を諭すように静かに話しかける。

 

「あなたは可哀想だと思うし、同情もする。だが、遺産を相続して正式に警備を雇うまでの数ヶ月もの間、あなたたち母娘に張り付いて警備することは無理だ」

 

 伊吹は申し訳ないという罪悪感を感じながらも、決して彼女から目を逸らさない。

 

「俺には守るべき人がいる、そいつを放っておくことはできない」

 

 伊吹の力強く、照れる様子もなく言い切る姿に灰原は腕を組んで瞳を閉じ、満足そうな笑顔を浮かべる。

 彼のその言葉には一分も隙はなく、これ以上はどう頼んでも無駄だと理解する清美。思わずまた溢れそうになる涙を見られないように俯き、そっと拭う。

 

「いえ、……お話を聞いてくださって、ありがとうございました。私たちはこれで失礼します……」

「……」

 

 指で目尻を拭った清美がそっと立ち上がり、深くお辞儀をして桜の手を引き玄関へと向かう。

 

「お姉さんちょっと待って」

 

 帰ろうとする母娘を呼び止めるコナン。振り返った清美に連絡先を聞いているようだ。

 

「万が一何かあった時のために、ね。伊吹兄ちゃんも交換しておきなよ」

「ん? んー、まあ万が一何かあった時に手を貸せそうなら……」

「必要なの?」

 

 コナンに言われたまま伊吹も念の為に連絡先を交換する。灰原の低い声がソファの方から聞こえた。

 

「それでは私たちはこれで失礼します……」

「力になれなくて悪いね」

「いえ、お話を聞いていただけただけでも……ありがとうございました」

「……」

 

 玄関まで母娘を見送る一同。桜に愛想なの無い目で睨まれながら「あっかんべ」をされる。

 

「持ってきな、選別だ。美味いぞ」

「……」

 

 そんな少女に伊吹がお気に入りのカフェオレを渡す。桜は無愛想なままだったがそれを受け取り、じっと伊吹の顔を見つめる。感謝の意なのか小さな頭をこくんと頷かせて、母親に手を引かれていった。

 玄関の扉を開けると足元を冷やすように外気が流れ込み、伊吹が帰宅した時よりもオレンジがかった西日が見えた。影は長く伸び、空は徐々に夜に飲み込まれていく。夕闇の中に消えていった母娘の背中は影に暗く染まっていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「博士っ! 萩原はいるか!?」

 

 あの母娘の訪問から数日ほど経った休日。日がまだ頭の上まできていない午前10時頃、コナンが慌てた様子で阿笠宅に飛び込んできた。

 眉間にシワを寄せ肩で息をしながらリビングにいた博士に伊吹の所在を尋ねる。騒がしいその様子に、何事かとソファでコーヒー片手に寛いでいた灰原が目を細めて振り返る。

 

「伊吹君なら直に起きてくるんじゃないかの」

「まだ寝てんのか、まるでオッチャンだな。灰原、叩き起してきてくれねーか、“万が一”が起こるかもしれねえ」

「なんなのよ」

 

 コナンに追い立てられるように伊吹の部屋へと送られる灰原。イラつくように頭をかくコナンの様子を見て「仕方ないわね」と呆れ顔のままキッチンに立ち寄り、伊吹を起こしに行く灰原。

 遮光カーテンの締め切られた伊吹の部屋は眩しい外の日光に微かに照らされながらも、暗い影が部屋を満たしている。彼はベッドの上で気持ちよさそうにぐっすりと眠っていた。灰原は呆れ顔で彼を見下ろしながらため息を零した。そのジトっとした目のまま両手に握り締めた金物を頭上に振り上げた。

 

「何なんだ一体。……俺の至福の時間を邪魔しないでくれ」

 

 目に涙を浮かべて大きな欠伸をしながら伊吹がリビングへと顔を出す。後ろから付いてくる灰原の手にフライパンが握られていることから、よほど不愉快な起こされ方をしたのだろう。

 リビングのカーテンが開かれた窓から、明るい外の様子を眩しそうに目を細めて見つめる伊吹。穏やかな風が吹く陽気な青空と、庭で跳ねるスズメたちに平和な休日を感じているようだ。

 

「おい萩原、この間来た母娘がいただろ。彼女らが殺されるかもしれねえ」

「なんじゃと!?」

「……寝起きから物騒だなぁ。何があったの?」

「これを見てくれ」

 

 コナンの真剣な顔に、意識を覚醒させて頭を働かせる伊吹。コナンが向けてくる携帯の画面を覗き込む伊吹と博士、そこには清美からのメールが表示されていた。

 

「清美さんからのメールじゃん」

「……あなたは連絡とってるの?」

「いや。なんかあのちっさい子が清美さんの携帯使って他愛もない連絡とかしてくるけど」

「そう」

 

 灰原は元いたソファに腰掛けテーブルに置いていたコーヒーカップを拾ってひと啜りする。伊吹を起こしただけでそれ以上は我関せずといった様子の灰原だったが、清美からのメールに反応した伊吹に思わず「あなたはどうか」と鋭い目で尋ねてしまう。特に気にした様子もなく答える伊吹の言葉に「子供ならいいわ」と言わんばかりに視線をテレビへ向ける。

 

「んなこたぁどうでもいいから、これを読んでみてくれ」

「どれどれ」

 

 コナンから携帯を受け取り目を通す。そこには自分と娘が殺されるかもしれないという内容が書かれていた。たまたま盗み聞いた親戚たちの会話によると、普段はお互い(いが )み合っている連中が「とりあえず、まずはあの母娘を消す」という事で意見が一致したらしい。そしてただでさえ金を持っている親戚連中が金を出し合い、1人当たりの負担を減らして殺し屋を雇ったという内容。そして会話の中で「白鯨」という言葉がぼんやりと聞こえたという。

 

「……!?」

「なんだ、どうした」

「……どうしたの?」

 

 携帯画面の上を流れるように動いていた伊吹の目がその「白鯨」という言葉に釘付けになり、見開いて露骨に反応する。珍しく深刻な顔をする伊吹に気がついたコナンが嫌な予感に顔を曇らせ、灰原も伊吹へチラリと視線を向ける。

 

「……いや、まさか」

「博士、『白鯨』ってのが何者なのか調べてくれ」

「あ、ああ、わかった」

 

 口元で左手を握り締め、何かを考え込むように黙り込む伊吹と横目で見つめる灰原。コナンは咄嗟に博士へ「白鯨」なる人物の調査を頼み、博士は慌てた様子で膨らんだお腹を弾ませながらパソコンへと駆けていく。

 携帯を片手に宙を見つめて突っ立ったまま動かない伊吹を呆れたようなジトっとした目で見る灰原が、彼の服の裾を引っ張りソファへと座らせる。伊吹は抵抗する様子もなく、されるがまま灰原の隣に腰掛けた。

 相変わらず黙り込む伊吹と、向かいに座って頭をかくコナンの様子に「やれやれ」と言わんばかりの小さなため息を吐く灰原は、興味なさそうに目を閉じて一口コーヒーを口に含んでほのかな苦味と芳醇な香りを1人楽しんでいた。

 

「わかったぞ、新一!」

 

 印刷した資料を片手に慌てて戻って来る博士。机に叩きつけられるように並べられたその情報に目を通すコナン。真剣だった表情は益々険しくなっていく。

 伊吹もゆっくりと反応を示し、コナンの携帯をテーブルに置くとソファの背もたれに体重と頭を預けてぼんやりと天井を眺める。

 

「ICPOの犯罪者情報にアクセスしてみたところ、『白鯨』という通称の殺し屋の情報が出てきおったわ」

「白鯨は10年ほど前にアジア一体で暗躍し、かつては伝説とまで謳われた殺し屋、か」

「ああ、じゃが関連する情報はいくつか出てくるが、それ以上はわからん。詳しい情報は深いところにあるようじゃ」

 

 資料を手に眺めていたコナンだったが、詳しい情報が無いとわかると頭をかいて伊吹の方へ視線を向ける。何か知っていそうな彼に「情報をくれ」と目で訴える。

 ぼんやりしていた伊吹がその視線に気づくと、小さなため息をついてゆっくりと呟くように話しだした。

 

「俺も白鯨(やつ)に関しての情報はCIA(うち)の資料で見たことがある程度にしか知らないけど、10年くらい前に前線を退いた殺し屋だよ。本人の性癖か矜持かなんか知らないけど、殺り方はこっそり暗殺なんてもんじゃなくて、素手で殺すことを好んでた」

「素手で殺し屋稼業を?」

 

 体を起こして前屈みになり怪談話を聞かせるような小さくも低く響く声で話す伊吹に、思わず生唾を飲み込む博士。無関心を貫いていた灰原も聞こえる話の内容に興味を持ったのか、彼らの方へ振り返る。

 コナンの問いに小さく頷いた伊吹が宙に視線をさまよわせて、頭の片隅にある情報を引き出すように言葉をつむぐ。

 

「その殺しのスタイルから銃火器の入手所持使用が比較的難しいアジア圏で重宝されて名を馳せた。もっとも欧米でも仕事はしてたみたいだけど。生で見た事はないが写真とデータを見る限りでは筋骨隆々のロシア人。その巨体と肌の色から「白鯨」って呼ばれてるんだろ」

「また随分と目立ちそうな殺し屋じゃのう。アジア圏では特に」

「ああ、だが空港の金属探知機だろうが職質されようが関係ない、丸腰だからな。巨漢で逮捕はできないよ、博士。殺し方も暗殺じゃなくて正面から行く奴だから隠れる必要ないしな」

 

 どこか嫌そうな顔を浮かべていた伊吹だったが、なにか思い出したようにキョトンとした顔で「でも……」と続ける。

 

「さっきも言ったけど白鯨は10年くらい前に前線を退いたはずだ。一部では死んだとか言われてるし、生きていたとしてももういい歳のはずだ、隠居してると思ってたけど」

 

 これ以上の情報は無いと言うように再び背もたれに体重を預けて目をつむる伊吹。彼の話しにコナンの眉間には更にシワが刻まれていく。

 ふっと静かにまぶたを開いた伊吹がどこか悲しげに瞳を揺らしながら、西日の中に去っていったあの母娘の姿を思い出していた。

 

「とはいえ、もし本物の白鯨を金に物言わせて引っ張ってきたとしたら、警護もロクにいないあの母娘にはどうすることもできないだろうなぁ……」

 

 伊吹の呟きに室内は沈黙に包まれる。顎に手を当てて考え込むコナン、「弱ったのぉ」と同じく悩む博士。いつもの澄まし顔を崩さず目を閉じて無関心そうな灰原。

 

「とりあえず警察に通報するかの?」

 

 真剣な顔で黙り込むコナンと半眼で天井を見上げる伊吹に博士が提案する。

 

「いや、なにも証拠がない。あの母親が話を聞いたといっても録音も何もないし、立ち聞きしただけでハッキリと聞いたわけでもない」

「それに、日本の一刑事が「白鯨」なんて知らないだろうしね。調べりゃわかるだろうけど、コナンの言う通り証拠は何もないよ」

 

 顎に手を置いて視線を落としたまま答えるコナンと、それに付け加えて、無気力げに右手をふらふらと振る伊吹。

 顔を上げたコナンが「どうする?」と、ぼんやり宙を眺める伊吹に尋ねる。

 

「あの母娘が可哀想だと思うし同情もするよ。でも俺に彼女たちを助ける義理はない。この間断ったところだし」

 

 両膝に手をついて立ち上がった伊吹は慣れた手つきでキッチンのコーヒーを注ぎ、カップから立ち上る湯気の香りで鼻を楽しませる。一口すすり、いい出来だと言わんばかりに小さく微笑み、ソファへと振り返る。左肘をキッチン台に乗せて体重を預けながら口を開いた。

 

「それに、もし白鯨を相手取るなら俺も相応の覚悟がいる。彼女たちのためにこの命はかけられない」

 

 伊吹はあの母娘を思い同情するように、何かを諦めたような小さなほほ笑みを浮かべて上を見上げる。彼の言葉を聞いていた灰原のクールな瞳にも、微かな同情と罪悪感が見て取れた。

 ハッキリ言って赤の他人である母娘のために命をかけられないという伊吹の言葉に、文句を言うことができないコナンと悔しそうに顔をしかめる博士。

 静まる部屋にはどこか遠くから聞こえるようなテレビの音と香ばしいコーヒーの香りに包まれる。明るい朝の日差しが差し込む2階の窓に、絵画のように切り取られた群青が見えた。青色を反射する伊吹の瞳にも、言葉には出さない罪悪感と歯がゆさが写っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 どこからか博士のいびきが聞こえてくる暗い深夜の阿笠宅。明かりも点けられていない室内は窓から差し込む月明かり照らされ、深い蒼色に染められる。

 耳鳴りがしそうな静寂の中、伊吹は1人ダイニングの椅子に腰掛け右手で携帯弄びながら眺めている。画面のバックライトは彼の顔をぼんやりと照らし、影を壁に映し出す。

 

「わたしがママを守る……か」

 

 彼が見つめる携帯には、清美の携帯から送られてくる娘の桜と交わしたメールが表示されている。

 カフェオレのお礼のメールから始まった何気ない会話のやり取り。その日の夕食や家での出来事、お母さんとのおままごとや好きな動物の話。そして自分たちに迫る危機的状況と、健気にも自分が母親を守るという言葉。

 携帯の光を反射する伊吹の瞳には画面の向こうにいる少女の、近いうちに潰えるかもしれない未来を思い描く。無垢な少女に紡がれる、ひらがなの文章に伊吹の心がチクリと痛んだ。

 

「起きてたの」

「あぁ……哀か。ちょっと目が覚めてね」

 

 伊吹の後ろから小さな足音が聞こえた。振り返ると小さな少女の姿が青白い月明かりに照らされて影の中から姿を表す。伊吹はその灰原の姿に一瞬、桜が重なって見えた気がした。

 伊吹と向かい合って座る灰原。彼の物憂げな表情と手元の携帯を見て何を考えていたのかを察する。灰原自身も気づかぬうちに視線を落とし、暗い表情を浮かべてしまっていたようだ。伊吹が慰めるような小さな頬笑みを灰原へと投げかける。

 

「……行っていいわよ」

「ん?」

「あの母娘のこと、考えていたんでしょ」

「まあ……」

 

 伊吹の困ったような顔に目を向けてその小さな唇から言葉を零す。言葉を濁して視線を彷徨わせ、どこか煮え切らない彼に対し灰原は小さく息を吐く。彼女もまた物憂げな、罪悪感を感じているような表情を浮かべている。

 

「あなたがこのままあの2人を無視できるような人間じゃないことは知っているわ」

「……殺し屋の始末は俺の任務じゃないんだけどな……」

「諜報機関の工作員としては失格ね」

「ははは……かもね」

 

 目を閉じて呆れたように笑う灰原に、何かを考えるように視線を静かに泳がせ「弱ったな」と苦笑いを返す伊吹。

そんな彼を慈しむように細められた優しい瞳で見つめる。

 

「……でも、私はそういうあなただから……」

「ん?」

 

 彼女の吐息を漏らすような小さな囁きは静寂の中でも伊吹の耳に届くことはなかった。

 間の抜けたような顔で聞き返してくる伊吹に、いつもの冷めたジト目を向ける灰原。一つ咳払いをして呆れた半眼にいたずらな笑みを浮かべ、挑発的に彼を見つめながら、「それに」と続ける。

 

「あなたじゃなきゃ、どうにもできないんでしょ?」

「……ああ、俺ならなんとかできる」

「……、ただし」

 

 いたずらな彼女の目を力強く見つめ返し、同じく挑発的な笑みを口元にたたえる伊吹。いつもの調子に戻った彼に対し、釘を刺すようにキッと目を鋭くし真剣な顔で右手の人差し指を立てる灰原。

 

「……必ず帰ってくること」

「……ああ、もちろんだ」

 

 鼻先に突き出される灰原の手を両手でしっかりと握り返し、前屈みに乗り出して顔を近づける伊吹。その視線は一切のためらいも恥じらいもなく彼女の瞳の奥を見据える。

 

「哀以外のために死ぬつもりはない」

「……」

 

 見ただけで嘘偽りないとわかるような誠実な彼の双眼。窓から差し込む蒼い月光が彼の優しい頬笑みと精悍な眼差しを照らし出し、低い穏やかなテノールが灰原の鼓膜を心地よく揺らす。

 その様に灰原は思わず胸が高鳴る。頬に熱が集まるのを感じ、握られる右手が熱い。差し込む月明かりが弾けるようなその赤みがかった眩いブラウンの髪を揺らし、赤くなる顔を見られないように、慌ててそっぽを向く。

 逸らした視線はいつものジトっとした半眼で暗いリビングを泳ぎ、窺うような横目で伊吹の顔を盗み見る。こぼれる小さなため息は、真っ直ぐな目で歯の浮くようなセリフを言い切る彼と、そんなものに反応する自分自身の体に呆れているようだ。

 伊吹が暗い影の中でもハッキリと見えたのは、彼女の歳相応な愛らしい横顔だった。その姿は伊吹の目に焼き付けられ、彼の心に覚悟の炎を灯した。

 

「ちゃんと戻ってくるから」

「……当然よ」

 

 雲一つかからない空に満天の星が瞬き月が輝く夜。繋がれた2つの影はしばらく離れることはなく、静寂な部屋には囁くような会話と漏れるような笑い声だけが聞こえていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 翌朝、珍しく早く起きた伊吹は清美に連絡をとり家へ訪問する約束を取り付けた。そそくさと身支度を整えてリビングのドアを開けたとき、目の前に現れた少女の声に止められる。

 

「ちょっと」

「ああ、おはよう、哀。珍しく早起きじゃん。どこかお出かけ?」

「私も行くわ。とりあえず話をしに行くだけなんでしょ」

「……まあ、今日は、いいけど」

 

 ちゃっかりと寝巻きを着替えて外出の準備をしている灰原は、両腕を組んで目を閉じ壁にもたれ掛かるように玄関で待ち構えていた。伊吹の許可は最初から無視するつもりだったのか、歯切れの悪い彼を無視してさっさと靴を履く。

 

「なにしてるの、行くわよ」

「あ、はい」

 

 玄関の扉を開けた際に吹き込んだ風がふわりと彼女の髪を撫でた。鬱陶しそうにするその顔には、どこか敵意が見え隠れしていた。

 

 

 


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