哀歌   作:ニコフ

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6話 捕鯨 中編

 

「赤い屋根の大きなおうちだ……」

 

 清美と桜の家へとやって来た伊吹は、その洋風な屋敷の大きさに思わず呆気にとられてしまった。使用人がいなければ掃除もまともに出来なさそうだが、呼び鈴を鳴らして出てきたのは相変わらず気弱そうな顔をした清美と無愛想な桜だった。

 伊吹の姿を見た途端に晴れる母娘の表情。その大きな胸を弾ませながら駆け寄ってくる清美に、思わず鋭い白い視線を向ける灰原。清美に案内され、桜に手を引かれながら大きな屋敷の小さな一室へと連れて行かれた。絢爛豪華な外観とは打って変わって室内に余計な派手さはなく、白を基調とした落ち着いたものだ。土足で上がってもいい割に、その床にも目立つ汚れはない。

 

「やつが来るとしたらこの3日以内、でしょうね」

「やはり……そうですか」

 

 伊吹が高そうな革張りのソファに腰をかけ、灰原がその隣に座る。清美は向かいに、桜は灰原とは反対側の伊吹の隣で、無愛想なまま伊吹の顔を見上げている。

 清美の話を聞くところによると、これまでは夫の葬儀関係や遠方の友人などがひっきりなしに家に訪れ、来客用の部屋で泊まっていくことが多かったらしい。しかし今日から3日間は狙ったかのように一切の来客の予定がなく、こちらから声をかけても不自然に断られるという。恐らく親戚一同が裏で手を引いたのだろうと清美は少し悔しげに語った。

 

「間一髪、間に合ってよかった。あなたと、……この子の未来を守れる」

「……」

「本当に、ありがとう御座います……」

 

 よほど気に入ったのか、先日伊吹があげたカフェオレと同じものを今日も飲んでいる桜。伊吹は隣に座り無愛想にストローを吸う少女の、艶やかな黒い頭を撫でる。心地良さそうに目を閉じ、小さな笑みを浮かべる。灰原もそんな桜の反応に優しい頬笑みを向ける。

 

「白鯨に依頼して既に数日が経っている。そして狙ったようなこの3日間。十中八九、このタイミングでやつは来ると思われます」

「はい……。ですが、どうすれば?」

「俺が3日間ここに泊まり込みます。あなたたちを他所へ逃がしたいところだが、盗聴器や隠しカメラの類でそれがバレれば白鯨はここに来なくなる。それじゃあ俺がここに来た意味がないので。……逃げても意味がない、まあ逃げ続けるなら話は別だが」

 

 真剣な表情で両手の指を組み、前屈みに語りだす伊吹。泊まり込むという単語に思わず灰原の耳がピクリと動く。

 そして低くドスの効いた声で、語りきかせるように伊吹は言葉を発した。

 

白鯨(殺し屋)を迎え撃つ」

 

 清美から見れば伊吹はまだまだ若い子供だが、その威圧と風格には相対する相手の心臓を鷲掴みにするような恐怖と、その頼もしさには言い知れぬ魅力があった。

 

「というわけで、哀はお帰り」

「どういうわけよ」

 

 清美との話を終えた伊吹が灰原へと向き直り、一言帰りを促す。それに腕を組んでいつものジト目で見つめ返す灰原。いまいち納得していないようだ。

 

「私がいるとなにか不都合なことでもあるの?」

「ある」

 

 嫌味を込めた灰原の質問に、彼女の目を見つめながら間髪いれず答える伊吹。思わず驚く彼女に伊吹は淡々と言葉を連ねる。

 

「俺は哀を大切に思っているけど、弱点でもある。もし本当に白鯨が来たとして、やつが噂通りの使い手だった場合、万が一にも哀が人質に取られたら俺は手も足も出せなくなる」

「……」

「哀には安全な場所で帰りを待っていて欲しい。俺の体の心配をしてくれるのは嬉しいけど」

「……そうね、あなたの体が心配だわ。いろんな意味でね」

 

 昨夜と同じく、自分を見つめてくる彼の目には嘘偽りがなく誠実なものだった。呆れたような、諦めたような顔で小さくため息を吐いて席を立つ灰原。伊吹と清美、桜に屋敷の門まで見送られる。

 

「昨日の約束、忘れないようにね」

「ああ……ちゃんと帰る」

「……」

 

 正門を出たところでくるりと振り返った灰原が、ジトっとした目で釘を刺すように伊吹へと声をかける。彼の力強い返事を聞き、彼女は満足そうに微かに顔を綻ばせた。

 去り際に清美の顔をキッと睨みつけ、灰原はまだ明るい街の中、1人帰路についた。小さくなる背中を見送る伊吹の瞳はどこか寂しそうで、去っていく灰原の姿を目に焼き付けているかのようだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「わぁ、すごく美味しいです! ね、桜」

「うん……おいしい」

「ありがとう」

 

 その夜、清美宅では伊吹が腕によりをかけ、得意のパスタを振舞っていた。清美は思わず顔を綻ばせ、いつも表情の薄い桜の目もキラキラと輝く。彼女たちの疲れきった顔や、悲しげな表情しか見ていなかった伊吹も、その明るい声に嬉しくなる。

 料理に舌鼓を打つ母娘に伊吹が真剣な目を向ける。

 

「では、もう一度確認しておきます。これから3日間はお2人とも一切の外出をしないようにお願いします。家の中でも常に2人でいるように。俺も付きっきりで傍にいます」

「はい……」

「……」

 

 彼の言葉に真剣な顔を浮かべる清美。伊吹は彼女の目から視線を外し、手元のグラスに揺れる水を見ながら「もっとも……」と続ける。

 

「恐らく奴が来るのは3日目、最後の夜だと思いますが。緊張と恐怖で精神を摩耗させ、母娘2人だけの夜がもう直に終わると安堵したところに、来る」

 

 脅かすような伊吹の言葉に思わず清美が生唾を飲み込んでしまう。伊吹がグラスをゆっくりと傾けて一口水を飲んでからニヤリと挑戦的な笑みを浮かべ目の奥に闘争心を宿す。

 

「そこを叩く」

「……」

 

 彼の仕草の一つ一つが頼もしくも見え、恐ろしくも思えた。静かな室内には一時間毎に鳴る時計の鐘の音と、桜がパスタを吸い込むちゅるりという音だけが聞こえていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「お兄ちゃん……いる?」

「ああ、いるよ。大丈夫だ」

「ほらね、安心でしょ」

 

 浴室からシャワーの音と共にくぐもった声が聞こえてくる。清美と桜が入浴する間、伊吹はドア一枚隔てた脱衣所で待機していた。微かに漏れてくる湯けむりに混じったシャンプーの香りが伊吹の鼻腔を湿らせる。

 伊吹が浴室のすりガラスに目をやると、清美と思しき大人の肌色が動いていた。慌てて視線を外した伊吹だったが、逸らした先の脱衣カゴに清美の下着を見つけてしまい、また気まずそうに俯いて頭をかく。その顔に照れや恥じらいは見られないが、どうにもやりにくそうだ。

 

「あの……よろしければ、伊吹くんも入られますか?」

「お兄ちゃん……おいでー」

「いやいや、そういう訳にはいかないでしょう」

 

 シャワーは止められ、母娘が湯に浸かる小さな水音だけが脱衣所に聞こえる中、清美が誘惑めいた提案を出す。それに「ははは……」と気まずそうに笑いながら受け流す伊吹。

 

「恐らく3日目だとは言いましたが、絶対じゃないので。警戒は怠れませんよ」

「では伊吹くんは後で?」

「入浴は隙ができるので、まあ、後でカラスの行水程度に」

「一緒に入れば側で警戒していただけます。しっかりと暖まれますし」

 

 浴室の戸を開けて顔を覗かせる清美が「ね?」と、甘えるような、頼るような目で伊吹を見つめる。大きなタオルを胸元で押さえて体を隠し、戸の隙間から柔らかな肉付きの脚と滑らかな鎖骨を見せる。首元に張り付く髪からはお湯が滴っている。彼女の足の横から桜も顔をひょっこりと出して手招きしている。

 縋るような目で見てくる清美の表情と、隠していても漏れてくる不安に震える体。伊吹は少し顔を(しか)めて聞こえないようにため息を吐く。「仕方ない」と自身の服を脱ぎ捨てる伊吹。その体の屈強さと生々しい傷跡に思わず清美は息と生唾を飲み込んだ。

 

「お兄ちゃん、ムキムキ……」

「おう、ちゃんと守ってやるからな」

 

 伊吹は左手に掴んだタオルで下半身を隠し、曲げた右腕に桜をぶら下げる。無愛想な少女の顔にも薄らと笑みが見える。じゃれ合う2人の姿を細めた優しい目で見つめながら清美は再び大きな湯船へと浸かり、心に巣食っていた残りの不安がお湯に溶けていくような気がした。思わず色っぽい深いため息が彼女の口から漏れ出した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 直に日付が変わろうかという時刻。屋敷の2階にある母娘の寝室では小さな少女が静かな寝息を立てていた。腰の裏に枕を置いてベッドに座る清美の太ももに頭を預け、桜の意識は夢の中だ。

 伊吹はベッドの脇に置かれた椅子に腕を組んで腰掛け、穏やかな桜の寝顔を憂うように眺めている。

 

「この子のこんな安心したような寝顔を見るの、久しぶりです……。あの人が亡くなってから、周りから向けられる敵意を子供ながらに感じていたのでしょうね……」

 

 自分の非力を悔やむような、申し訳なさそうな表情を浮かべて桜の頭をそっと撫でる清美。痛みもない綺麗な黒髪が清美の指の隙間から零れ落ちる。

 

「子供は敏感ですから。その子がメールで言っていましたよ、わたしがママを守るって」

「……こんな小さな子に、気負わせてしまっていたのですね……母親失格です」

「まあ、この状況は、一般的なものじゃないですし。普通の家庭であればあなたは十分に母親をこなせていると思いますよ」

 

 腕組んだまま瞳を閉じて呟く伊吹。彼女に対する慰めではなく、ただ純粋に思ったことを淡々と口にしているようだ。そんな彼の方へ暖かな視線を向ける清美。

 

「伊吹くんには、本当に感謝しています……」

「……感謝するのは、面倒な刺客を排除できてからにして下さい。現状ではまだお二人を守りきっていないので」

「いえ、既に感謝しているのです。誰に助けを求めて手を伸ばしても、払われていたこの手を……あなたは掴んでくれましたから。それだけで救われた気がしました」

 

 右手をそっと胸元で握り締め、憂いを帯びた目を細める清美。膝で眠る桜を見つめたあと、その視線を再び伊吹へと向ける。彼女の瞳には安堵と喜びと感謝が滲んでいるが、それと同時に諦めや悲しみ、罪悪感のようなものも薄らと見て取れた。

 

「だから、もし、どうにもならなくて……最悪の結末になったとしても……どうか、あなたは自分を責めないでください。今ここにいてくれたこと、それだけで私たちは、もう、十分……」

「俺がここに来たのはあなたと、その子の未来を守るためです。押し寄せる障害は確実に排除します」

 

 清美の諦めの混じった声色を、伊吹が冷静ながらも力強く響く声で遮る。ゆっくりと開かれた目は逸らすことなく清美を見つめ、強がりではない確信にも似た自信が彼女を射抜く。

 時折見せる、見るものを安心させるような伊吹の笑顔が、清美の心を落ち着かせ溶かしていく。

 彼に期待してもいいのか、殺し屋なんて非日常なものが来るならもう期待するだけ無駄なのか、必死に祈るべきか、傷つかないよう心を沈めるべきか……。伊吹が来てくれると聞いてから頭をぐるぐると巡っていた思考。それが沈殿するように静かに心の奥へと消えていくのを感じる清美。

 

「……ありがとう」

 

 彼女は消え入りそうな声でそう呟いた。

 清美が睡魔に抗えないように横になると、伊吹がそっと電気を消す。彼女にとっていつぶりかの深い眠りへと落ちていく。

 直に満月になりそうな丸々と太った月の光が寝室の窓を透き通る。椅子に腰掛けた伊吹が何度目かの時計の鐘の音を聞いたとき、桜がむくりと体を起こした。熟睡する清美は目を覚まさない。

 

「おしっこ……」

「わかった、連れて行こう」

 

 ふらふらと足取りのおぼつかない桜の手を引いてトイレへと案内する伊吹。極力2人から目を離したくはなかったが、幸い2階のトイレは寝室のすぐ近くにあった。チラチラと寝室の方を気にしながらトイレの前で待機する伊吹。

 

「お兄ちゃん……いる?」

「ああ、いるよ。安心して」

 

 桜の声は無愛想に平坦だったが、微かに不安に揺れているようだった。そんな彼女を安心させるように抱っこで寝室へと戻る伊吹。桜は小さな唇を伊吹の耳元へ近づけると、どこか照れくさそうに囁く。

 

「お兄ちゃん……」

「ん?」

「……ありがと」

「……ああ。どういたしまして」

 

 大きな屋敷は静寂に包まれており、夜空に溶け込むような暗い廊下は星明りに照らされ、まるで世界から切り取られたかのように幻想的だった。

 1日目の夜は穏やかに、平和に、何事もない日常のように過ぎていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんか今日は一段と機嫌悪くねえか、あいつ」

「ほれ、伊吹君が昨日から例の母娘の家に泊まっておるから」

「あいつは納得してないって?」

「いや、一応納得はしているようなんじゃが……」

 

 伊吹が清美の屋敷に泊まった翌日の午後8時。2日目の夜となるこの日、阿笠宅には少年探偵団が集まっていた。夕食を食べ終えた食器と、部屋に充満しているスパイシーな香りから察するにカレーパーティーを行ったようだ。子供たちの荷物を見る限りではこのままお泊り会もする様子。

 ムスっとした顔でパソコンとにらめっこする灰原はいつも以上に不機嫌そうだ。キーボードを叩く指が気持ち強く見える。コナンと博士は関わるまいと遠巻きに様子を窺う。

 

「博士、砂糖入れすぎるとまたメタボるわよ」

「あ、ああ、そうじゃの……」

 

 食後のコーヒーにこっそり角砂糖を入れていた博士に鋭く言葉を投げつける灰原。こっちをチラリとも見ずに話す彼女に「バレていたか」と苦笑いの博士。灰原が八つ当たり気味に声を上げたのは明らかだった。

 

「そ、そういえば福引でこんなものを貰ったんじゃが、みんなで遊ばんかの」

 

 灰原から逃れるようにそそくさとリビングの隅へ逃げていく博士。そこに立てかけていたボードゲームを子供たちの前に広げる。

 

「『生涯ゲーム・大人のブラック版』ですか?」

「へー、面白そうじゃん!」

「大人だって、あゆみやりたーい!」

「コナン君と灰原さんも、みんなでやりましょう!」

 

 有名なボードゲームのようだが、全体的に黒を基調としたそれは何やら穏やかでない雰囲気を醸し出している。乗り気の子供たちに引っ張られるようにコナンと灰原も参加することに。

 灰原はイライラを忘れるように小さくため息をつき、肩をすくめて子供たちとゲームを囲む。食後のジュースとコーヒーを持ってきた博士も参加するようだ。

 様々な色の車に模したコマを各人1つずつ配され、自身の分身であるピンを運転席に差し込む。伊吹がいればきっと左側にピンを差し「俺のは外車仕様で」なんて子供みたいなことを真剣にするだろうなと、思わず笑みが零れる灰原。

 お金に模したアイテムを配り、それぞれがルーレットを回しコマを進める。細かいルールは様々あるようだが、要約すればすごろくに職業やお金などを絡ませて、より大金を稼いでゴールしたものが勝ちというものらしい。だが大人版と銘打っているだけあり職業には『水商売』やら『売人』なるきな臭いものもチラホラと。止まったマスにも不倫やら罰則金やら何かと黒いものが多かった。

 何巡目かの後、自分の順番が回ってきた光彦がルーレットに手をかける。

 

「では次はぼくですね、えーと『お金持ちの未亡人に誘惑される、プレイヤーが男性の場合は5万$貰い一回休み』ですか……まあお金が貰えるのは嬉しいですけど、やけにディテールが細かいですね……」

「……」

「灰原……?」

「……なに?」

「ほら、ゲームなんだし」

「別に、なにも言ってないけど」

 

 光彦の止まったマスを冷ややかな目で見る灰原に、苦笑い気味にコナンが声をかける。ジトっとした目をゆっくりとコナンに向け、怒気を孕んだ低い声を漏らす灰原。コナンは「めんどくせえ」と言わんばかりの表情でため息をつくしかなかった。

 

「じゃあ次はあゆみだね。えーっと、1、2、3……『我慢できずにワンナイトラブ。口止め料として3万$支払う』? ねえねえ、ワンナイトラブってなあに?」

「うーん、一夜の愛、ですかね?」

「ロクでもないことよ、覚えなくていいわ」

「てか博士、小学生にこのゲームはダメだろ」

「貰い物じゃから、まさかこんな内容じゃったとは」

 

 呆れ顔のコナンに、薄い頭をかきながら苦笑いを返す博士。灰原は目を伏せたまま、頭に「?」を浮かべて頭を傾ける子供たちに鋭く吐き捨てる。

 

「じゃあオレだな、1、2、3、4……びじょと、びじょ、ん? なんて書いてあんだ?」

「どれどれ、『美女と混浴。プレイヤーが男性の場合、英気を養い一回休み』じゃな。元太くんは温泉に入って一回休みのようじゃな」

「ほえー。光彦、えいきって、なんだ?」

「え、ええと……元気、とかですかね」

「綺麗な姉ちゃんと温泉入ったら元気になんのか?」

「いや、それはじゃのお……」

 

 口ごもる博士に灰原の冷たい半眼が突き刺さる。コナンが空気を変えるようにゴホンと咳払いをしてルーレットを回す。

 

「えーっと、なになに、『いけない恋に火が灯る。結婚相手を車から降ろし、慰謝料として2万5千$払う』……。なんだよ、たまたまだろ、このマスに止まったのは」

「……別に、何も言ってないわよ」

 

 先程から止まるマスがことごとく灰原に“嫌なこと”を思い出させる。ムスっとつまらなさそうに頬杖をつく彼女に、気まずそうなコナン。

 不貞腐れた猫の様に気だるい様子でルーレットを回す灰原。

 

「……『伴侶の浮気が発覚。慰謝料として2万$貰う』……」

「「……」」

 

 灰原がマスの指示を読み上げると、コナンと博士は思わず視線を逸らして黙り込んでしまう。めんどくさいと言わんばかりに引きつった笑みを浮かべるコナン。博士は気まずそうに額に汗を流す。

 灰原は顔を伏せたまま自分の車から結婚相手の男性ピンを引き抜き、無言で投げ捨てる。垂れる前髪でその顔は見えないが、その目が不機嫌そうに吊り上がっているのは火を見るより明らかだ。

 

「だから、ゲームなんだし」

「……なに?」

「ほ、ほれ哀君。結婚相手を降ろすとは書いておらんし……」

 

 灰原が投げ捨てたピンを拾って手渡す博士。それを忌々しそうに受け取った灰原は音もなく、しかし力を込めて差し込む。車がミシリと音を立てたような気がした。

 それからしばらく順番が巡り、そろそろゴールが見えてきた頃。何度目かの灰原のターンがやってくる。

 

「そろそろ誰かゴールしそうじゃのう」

「このままじゃコナン君が勝っちゃうよー」

「おめーズルしてんじゃねえのか?」

「このゲームでどうやってズルすんだよ」

「私の番ね。えっと『不慮の事故で……伴侶が亡くなる。結婚相手を降ろし保険料として8万$貰う』……」

 

 灰原の声は尻すぼみに小さくなっていく。先ほどまでの苛立ちによるものではなく、どこか寂しげにその瞳を細める。なにも言わずに静かに自分の車から伴侶のピンを抜き、つまんだその小さな彼を指先で転がしながら眺める。物思いに耽る視線は、ピンの向こうの誰かを見ているようだ。

 

「どうしたの、哀ちゃん?」

「腹でもいてーのか?」

「っ! ……なんでもないわ、ごめんなさい。次は博士よ」

「う、うむ……」

「……」

 

 灰原は子供たちに安心させるよう小さく微笑むも、その眉は悲しげに垂れ下がっている。

 その後も続けられたゲームは結局コナンの勝利で終わった。子供たちは悔しがりながらも最後まで楽しんでいたようだ。灰原も楽しそうな笑みを浮かべてはいたものの、その顔に微かにかかる不安の霧が払われることはなかった。

 そのゲームから数時間後。みんなが寝静まり時計の日付も変わろうかという頃になっても、灰原は眠れずにいた。ベッドに対し横向きで、子供たち5人が並んで眠っている。

 一番端で仰向けになる彼女の視界には、高い天井と2階の窓を透過する星明りが映る。暗闇に慣れた目には静まり返った部屋の温度や音まで見えるようだった。

 

「……そんな心配しなくても、あいつなら大丈夫だろうよ」

 

 部屋の影から声がかけられる。反対側の端で寝ているコナンが目を閉じたまま呟いた。

 

「……そうね」

「じゃあ早く寝ろよ。明日もみんなで出かけるんだろ」

「……ええ」

 

 コナンの言葉に答えてはいるものの、彼女の瞳が閉じられることはなく、憂いの浮かぶ瞳にはキラキラと白い月光が揺れていた。

 ほんのわずかに欠けた月は流れる雲に見え隠れしながら、暗い空におぼろげに佇んでいた。

 


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