『白鯨』が来ると伊吹が予想した3日目。様々な人の不安や焦り、恐怖……それらを無視するように時計の針は止まらず、夜は冷たい風と不穏な暗雲を引き連れてやってくる。屋敷の中は海の底に沈んだかのような静寂に包まれ、肌に張り付く空気も昨日より冷たいようだ。
この日、伊吹は清美と桜の側から一切離れることなく過ごした。だが何気ない会話も日が傾くに連れて口数は減り、日付が変わる頃には全員が口をつぐんでいた。
家の電気は全て落とされており、伊吹と母娘の3人が集まっている2階の寝室も照明は落とされ、曇った空は月の明りも通さず、室内にはぼんやりとした薄く長い影だけが微かに見える。
腕を組んだ伊吹が窓辺に立ち口を開く。
「この部屋の明かりだけを点けていれば
「いえ、ここで待ちます。伊吹くんが……負けてしまったときには、どこに隠れていても同じことです」
うとうとと眠たそうに目をこする桜を膝に乗せ、椅子に腰掛けている清美。慈母のような優しい目をして、暖かい手で桜の頭をそっと撫でる。伊吹からの提案にゆっくりと顔を上げて、彼の目を力強く見返えす。彼の言葉をハッキリと拒否し、「それに」と続ける。
「守りに回るのは構いませんが、逃げるのは好きではありません」
その双眸は今までの弱々しかった彼女のものではなく、鋭く研ぎ澄まされ、口元には小さな笑みさえ見え隠れする。彼女の目と声には富豪の妻に相応しい気迫が込もっていた。
「わたしも……いっしょに、いる。ママを守る」
「桜……。散々ご迷惑をお掛けし申し訳ありませんが、どうかもう一つだけ、わがままをお聞きください」
ぼんやりと話を聞いていた桜が清美にしがみつく。清美は改めて伊吹へと向き直り、深々と
2人の前で曇天を背に立つ伊吹。彼女らの言葉と態度に小さなため息を吐き、まぶたを伏せ、観念したように苦笑いを浮かべる。
「わかりました。ただし、俺の指示を必ず聞いてください」
「もちろんです。誰にも守っていただけなかったこの命。警護を引き受けてくださったあなたに絶対の信頼をおいております。私たちはあなたを信じていますから」
影に埋もれる部屋の中でも暖かく輝いて見える、聖母のように優しくも自信に満ちた清美の笑顔に、場違いにも思わずどきりとしてしまう伊吹。
伊吹は頭をかきながら余計な意識を振り払う。向き直った彼女たちに1つだけ指示を出す。それは実に単純明快なものだった。
「部屋の外、廊下で奴を迎え撃ちます。……なにがあっても、ここを動かないでください」
*****
日付が変わり3度目の鐘の音が聞こえたのは少し前。時刻が午前3時を回る頃、伊吹は寝室の前で扉にもたれかかり、辺りを警戒しながらも物思いに耽っていた。
目の前には廊下の大きな窓が広がり、月は空に浮く黒い雲の向こうに隠れてしまっている。月光の遮られた廊下は濃い闇と溶け合っていく。
阿笠宅のベッドの上で寝息を立てているであろう灰原の姿が脳裏に蘇る。彼女の手料理が食べたい、話がしたい、声を聞きたい、頭を撫でたい、からかいたい、呆れられたい、怒られたい。枯れ井戸に水が湧き出すように、様々な思いが溢れてくる。いつの日かのやり取りを思い出して、小さな笑みが零れる。
やっぱり帰ったら自分が彼女に手料理を振舞おう。そんなことを思っていると静謐な屋敷の廊下の奥から重い足音が響いてきた。右の廊下から聞こえてくるその音に、顔を向ける伊吹。もたれていた背を起こし、廊下の真ん中に堂々と仁王立ち、相手を待ち構える。
「……」
近づいてくる男は雲の影の中に埋もれ姿は見えない。しかし、ぼんやりと浮かぶその輪郭はとてつもなく大きく、体や四肢の太さがわかる。
その足音が伊吹から数メートル離れたところで止まった。暗闇の中でも見えたその男の肌は白く、元々金に近かったであろう色素の薄いその髪は老いによる白髪が混ざり、ますます白く見える。2メートル近くはあろうかというその巨体と丸太のように太い手足。肌から髪まで白いその風貌はまさに『白鯨』の名に相応しかった。伊吹は男と向き合ったとき、その風貌はもちろん、押し寄せる気迫とプレッシャーから相手が本物の『白鯨』だと察する。白鯨もまた、佇む伊吹の姿を視界に捉えたとき、心がざわつき背中に冷たいものを感じていた。そしてこの男は自分の障害であると認識する。
2人が立会い相手の姿を視認したとき、互いが互いに「この相手は自分を絶命させるに至る力量を持っている」ことを悟る。白鯨はゆっくりゆっくり、体を丸めて拳を上げる。まるで流氷のように冷たく、感情の無い青白い眼が伊吹を捉える。伊吹もまた身をかがめ、その足の筋肉は隆起し、解き放たれるのを待っている。研ぎ澄まされた日本刀のように、眼は鋭く鈍く光っていた。
重く伸し掛るような暗雲から溶け出した雨粒の一番槍が、どこか遠くて葉を打った。それは張り詰めた緊張の糸を弾き、2人の超人が激突する合図となった。
「うらァッ!!」
「……ッ!」
伊吹は溜め込んだ両足の筋力を爆発させるように駆け出す。大理石の床は薄くひび割れ、突風だけがその場に置き去りとなった。獣のような慟哭と共に、残像を残すような速度のまま全体重と膂力を乗せた右の拳が白鯨の顔面へと飛ぶ。しかしその鉄拳は白鯨の太い両腕の盾に防がれた。鋼のような肉体がぶつかり合い、人間の体から聞こえるものとは思えないような、まるで巨大な銅鑼を打ったかのような低く響く轟音が廊下に轟く。
右足を引き踏ん張る白鯨の体は滑るように床を後退しながらも、ガードした両腕で伊吹の鉄拳を弾き体制を崩す。即座に右腕を振り上げ、その大槌のような巨大な拳を伊吹の頭に振り下ろす。
「ッ!!??」
豪快な風切り音を伴いせまる拳に、咄嗟に両腕を持ち上げ受け止める伊吹だったが、その大男の体重と筋量の乗せられたハンマーの重さに押しつぶされるように片膝をついてしまう。信じられない程の怪力に思わず伊吹の顔には驚愕の色が浮かぶ。
流れるような白鯨の左脚が襲いかかる。低い位置へのローキックだが狙いはしゃがみ込む伊吹のボディだ。再び両腕を盾にガードする伊吹だったが、薙ぐように蹴り抜かれる一撃に、まるで巨大なナタで叩き切られたような錯覚すら覚える。そして決して軽くない、ましてやしゃがみ込み重心が低くなっている伊吹の体がふわりと浮き上がり、蹴られた勢いのまま壁へと叩きつけられる。
「ぅぐッ……!」
ぶつかった壁にはヒビが入り伊吹の体の衝突点を中心に大きくへこみ、頭上の窓は衝撃で砕けて飛び散る。降り注ぐガラスの破片は容赦なく伊吹の体を切りつけた。
*****
まるで猛獣がぶつかり合うような激しい戦闘音は寝室の中にも届いていた。
「ママ……お兄ちゃん、だいじょうぶ?」
「ええ、大丈夫よ。きっと、大丈夫……。伊吹くんを信じて……待ちましょう」
「うん……」
廊下から聞こえる爆音は寝室そのものを揺らしている。壁越しに届く振動は清美の体を震わせる。それを押さえ込むように桜をギュッと抱きしめる。椅子に腰掛けたまま、ただ黙して祈る。桜もまた、恐怖に体を震わし清美の胸にしがみつく手に力を込める。
本格的に降り出した雨粒は大きくなり窓を殴りつける。遠くで木々たちが風に悲鳴を上げていた。
*****
白鯨の強烈な脚力にも怯むことなく、伊吹は立ち上がりと同時に左の拳を下から叩き込む。白鯨は咄嗟に左腕で顎を守るも、腕と足の力を乗せた伊吹の拳はその腕ごと鯨の顎を打ち抜いた。歯が折れたか口を切ったか、唇の隙間から血が飛び散る。
「らァッ!!」
「ぐぅッ……!!」
思わず大男の頭が弾む。伊吹の眼光はその隙を見逃さない。ガードの空いた大木の幹のような白鯨のボディに渾身の右膝を突き刺す。白鯨の岩石のような腹筋に阻まれるも、無傷ではいられない。内蔵を震わす一撃に思わず呻き声を上げ数歩下がる白鯨。
さらに追撃をしようと踏み込んでくる伊吹に対し、右の豪腕を振り抜いて先ほどとは反対の壁に叩きつける。頭蓋を砕いてやろうと壁際の伊吹の頭に左のストレートで殴りかかる。しかし伊吹の姿が視界から消える。伊吹は咄嗟に足腰の力を抜いて崩れ落ちるように白鯨の左拳をかわしたのだ。空振る白鯨の左腕は壁を貫いて壁に埋め込まれる。足元にしゃがみ込んだ伊吹は眼前にある白鯨の股間に右のアッパーをぶちかます。重たい白鯨の足が一瞬浮き上がる程の一撃だが、目の前の大男は顔色一つ変えずに振りかぶった右膝で追撃してくる。
「ッ……!!」
伊吹は左に小さく転がるように回避、その膝から逃れる。白鯨の膝は壁に大きな亀裂を入れる。白鯨は伊吹へ向き直り、伊吹は慌てて立ち上がる。わずかに体勢を整えるのが早かった伊吹が追撃のために再び白鯨へと踏み込んだが、白鯨はそれにカウンター気味に前蹴りをお見舞いした。脚を踏み込む瞬間に貰ったその蹴りに伊吹は踏ん張ることができず、数歩分後ろに飛ばされてしまう。蹴り自体は腕で受け止めたものの、殺しきれない衝撃に背中まで突き抜けるような鈍い痛みが伊吹の体を襲う。
「あぁ……くそ……バケモンかよ」
「……」
2人はお互いの射程圏外まで離れている。思わず深刻に、どこか呆れたような声で愚痴を零す伊吹。両者の体はどちらのものかわからない血で赤く染まり、痛々しく変色している打撲痕が見て取れる。
割れた窓ガラスからは大粒の雨が吹き込み、廊下の大理石に水が溜まっていく。壁は両側ともにひしゃげて陥没し、無残な状態だ。
仕切り直しと言わんばかりにお互いが仁王立ちで向き合い、伊吹が口を開く。
「金的ガード入れてんな」
「キンテキ?」
「プロテクターだよ。日本語分かるか?」
「……ああ、わかるよ。アジア圏の言葉はの」
忌々しそうな目のまま小さく笑みを浮かべる伊吹。改めて目の前の大男を見やる。自分よりも2回り近く大きな体に老いを感じぬ屈強な体、多くの白髪の混じる頭髪。
「あんた、しばらく前に前線を退いてんだろ。今何歳だよ」
「……さあなぁ、ワシにもわからん。60だったか70だったか」
「
「褒めてもなにも出んよ」
彼らの言葉はひどく穏やかなものだった。口元には笑みさえ見て取れる。しかし2人の眼は戦いの最中から変わっていない。伊吹の眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭く鈍く、白鯨はシベリアの夜空のように白く冷たい。
「ワシもお主を知っておる」
「……」
「何年も前に西で仕事をした時にお主を見た。
「別に、合衆国万歳ってつもりもないけど」
白鯨が見下ろすように細めた目で伊吹を見つめ、口角の上がった口元は小馬鹿にしているようでもある。彼は伊吹がCIAの人間だということを知っているようだ。
伊吹は苛立たしげに白鯨を睨みつける。そんな自分を落ち着かせるように小さく息を吐く。
雨と血と汗に濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。既にボロボロになっている服を掴み、引きちぎるように脱ぎ捨てる。足元の踏ん張りが効かない。靴と靴下も脱ぎ、足に引っ掛けて蹴り捨てた。
伊吹の体もまた筋骨隆々であり、血管は押し上げられるように浮き上がっている。そこには数多の古傷も見て取れる。
首を鳴らし肩を回す。
「じゃあ第2ラウンドだ、おじいちゃん」
「お主は面白いのぉ」
挑発的な伊吹の態度に、さらに口角を吊り上げる。先程までの小馬鹿にしたものではなく、心底闘争を楽しんでいる、そんな笑顔だった。伊吹もまた、久しく感じていなかった命のやり取りに、心の底で血湧き肉踊るのを感じていた。
伊吹と同じく服と靴を脱ぎ捨てる白鯨。人間離れした2体の怪物が再び激突する。
*****
深夜の雨は闇に溶け込み見ることができない。雨だとわかるのはガラスの無い窓から聞こえる雨粒が叩きつけられる音と、漂ってくるどこか甘ったるい雨に濡れたアスファルトの匂いがするからだ。
全てのものが眠りにつく時間に、その2人の超人は血みどろの争いを繰り広げている。雨に冷える気温も、彼らの周りだけは熱気に満ちていた。
互いの体には打撲痕、擦過傷、裂傷、骨折……多くの真新しい傷が目立つ。汗と泥と雨にまみれ、血潮を飛び散らせながら殴り合う2人。それは喧嘩というほど生易しくなく、武術というほど端正なものではなかった。
「ぅぁ……ぐぅ……ぁ」
「もう……終わりじゃろう」
白鯨の渾身の右肘が伊吹の顔面を捉える。伊吹の顔が宙を舞い廊下を転がるように吹き飛んでいく。天を仰いで呻き声を上げる伊吹。
白鯨は「もはや動けまい」と構えを下げる。伊吹から視線を外し警戒を解こうとしたその時、床の大理石が砕ける音がした。
「……っ!?」
「ああ、ぐそ、痛え……」
伊吹の足の指が大理石を抉るように床を掴んでいる。そしてまるで逆再生されるかのように、床を掴んだ脚を軸にゆっくりと体を起こして立ち上がる。
伊吹の異常なまでに発達した背筋と体幹がこの異様な動きを可能にしている。筋骨隆々とはいえ自身と比べて2回りも大きな白鯨の体を殴り飛ばせているのも、その常人とは異なる肉体のなせる技だった。
「お主……面白い体をしておるの」
「あんたも大概だよ……あぁ……痛え」
鬱陶しそうに口をもごもごと動かす伊吹が、真っ赤に染まった2本の奥歯を吐き捨てる。口内に溢れる血も忌々しげに吹き出し、口元を拭う。彼の目は未だ死んではいない。
再び足に力を込め腰を落とす。白鯨を睨みつけ、一気に距離を詰めた。
先ほどの一撃は確実に入った。未だに脳は揺れまともに立つことも困難なはず。それでも最初と変わらぬように迫ってくる伊吹。全身に傷を抱え、疲労も蓄積しているにもかかわらず一層増すその気迫に動揺した白鯨は、思わず後ずさりしそうになる。
「逃がすかッ!」
「ッ!!?」
しかし伊吹はそれを許さない。踏み込む左足で、後退しようとする白鯨の右足を踏みしめる。大理石をも砕く伊吹の足の握力に縫い付けられ、ガクンと体が停止する白鯨。固まったその一瞬に伊吹の右拳が唸りを上げた。
「ぁがッ!」
その一撃が白鯨の鼻っ面に突き刺さった。軽く3桁はあるだろう白鯨の体が弾かれたように大きく仰け反り、伊吹に踏まれる右足が引っかかるように仰向けに傾いていく。
たが白鯨はひしゃげた鼻から血泡を吹き出しながらも右腕を地面に着き、腰を捻るように左足で伊吹の右側頭部を蹴り抜いた。
咄嗟に左手で防ぎ直撃を免れた伊吹だが、殺しきれない威力のせいで再び壁に激突する。更に窓ガラスは弾け飛び雨が吹き込む。裸足の足が散らばったガラスや大理石の破片を踏み足元に血が滲むことも構わず、伊吹と白鯨は立ち上がろうとする。
しかし今回は白鯨の方が一歩早かった。伊吹が姿勢を整える前、中腰の状態に白鯨の踏み抜くような一撃が浴びせられる。
「がッ……!」
その一撃が胸に直撃してしまい伊吹は一瞬呼吸を失う。更に二発、三発と白鯨の豪脚が伊吹を襲う。このまま伊吹を沈めようと白鯨も決死の覚悟で攻める。振り下ろす両手の拳は砲撃のごとく、踏み抜かれる足と膝は爆撃のように激しい。伊吹は暴力の嵐に曝され全身の怪我はより深刻なものになる。
血みどろになる視界から微かに見えた、大きく振り上げる白鯨の拳。その大振りになる一瞬の隙を穿つように伊吹の右の拳が一閃となって走る。だがそこに立ちはだかるは培ってきた経験の差、読み切ったのは白鯨だった。
「ぅぐッ……!」
迫る伊吹の拳を捌くように掴み捻り上げ、持ち上がった伊吹の左側頭部に渾身の膝蹴りを食らわせる。その威力を利用してそのまま廊下の奥へと投げ飛ばす。右の肩と肘を壊された伊吹が受身もままならぬ状態で床を転がる。
「この……ッ!?」
這い蹲る姿勢から頭を上げた伊吹の視界に広がったのは、スローに見える白鯨の右足だった。
本来、人間の頭蓋骨からは聞こえるはずもない音を立てて伊吹の体がきりもみして吹き飛ばされる。そのまま壁を突き破り寝室の隣の部屋へと床を滑るように消えていく。
「はあ、はあ……頑丈な子だ」
一気呵成に攻め立てた白鯨が肩で息をしながら、突き破られた壁から中を覗き込む。薄暗い影の中で伊吹はピクリとも動かず天井を仰いでいた。
穴の開いた壁の側では花瓶が転がり、こぼれ落ちた花が力なく横たわっていた。
*****
廊下から聞こえていた鈍い音は静まり、寝室には窓を叩く雨の音しか聞こえない。桜は怯え、震えながら清美の胸元に顔を埋めて服に涙のシミを作る。彼女を守るように清美は桜の体を強く抱きしめ、なにも喋らず頭を撫で続ける。
「ま、ママ……」
「……」
廊下から足音が近づき、蝶番を軋ませながら寝室の扉が静かに開かれた。
「ママぁ……ぅぅぁ……」
「……」
暗い暗い影の中から、傷だらけの大男がゆっくりと姿を表す。真っ白だったその肌と髪は、誰のものかわからない真っ赤な液体に塗れていた。
その姿に更に恐怖する桜が縋り付くように清美の腕の中でもがく。震えは増していき、今にも失禁してしまいそうだ。そんな桜を庇うように、自分の体で隠すよう抱く清美。その表情は恐怖で歪むこともなく、ただ凛と男を見つめ返す。
「ワシを恐れぬか、女」
「私はあなたを怖がるほど臆病ではありません」
「ほお……。では逃げぬのだな」
「彼を信じておりますので」
「っ! ……ッ」
声が震えないように自分を制しながら淡々と話す清美。「彼を信じる」その言葉にハッとしたように、桜もまた涙の浮かんだ瞳で白鯨を睨みつける。袖で目をこすり、震える唇を噛み締めて、ただ睨み返す。
「彼にここを動くなと言われた以上、私はここで待ちます。それに……もし、彼がやられたのなら、どこに行っても逃げ切れないでしょう。私は背中に傷を負って死ぬつもりはありません」
「……そうか。楽でいい」
「お前なんか……お前なんか……ッ」
母娘の目の前に迫る白鯨。睨みつけてくる2人から目を逸らすことなく、その冷たい目で見つめ返す。伊吹との戦闘で傷だらけとなった右腕をゆっくりと振り上げる。皮膚も筋肉も骨もボロボロになっているが、母娘の柔肌を抉る程度は訳ない。
頭上に振り上げられる手刀の構え。桜は悔しげに唇を噛んでギュッと目を閉じ、清美は観念し受け入れるかのように静かにまぶたを閉ざす。
凶手が振り下ろされたその瞬間、寝室の壁が轟音と共に弾け飛んだ。
「さらば……ッ!!?」
「「!!??」」
「ゥオァァアッ!!」
部屋を震わす獣のような慟哭。
伊吹が体当たりで隣の部屋から壁をブチ抜き現れ、左の豪肩がその猛牛の如き勢いのまま白鯨へと突き刺さる。
「ぁがァッ!!」
右腕を振り上げていたためガラ空きとなっていた右脇腹。そこに迫る思いもよらない強襲に白鯨は反応できず、伊吹の全体重、全筋力を乗せた渾身の一撃を一切の守り無しに受けてしまう。その大木のように巨大な体が真横にくの字に曲がる。既にヒビの入っていたアバラは完全に砕け、臓物が体内で暴れまわる。口から血と息を吹き出し、眼球さえも飛び出した錯覚を覚える。
「伊吹お兄ちゃん……っ!」
「……ふぅ……」
目の前で交通事故が起こったかのような衝撃に目を見開き驚くことしかできなかった清美と桜だったが、猛スピードでぶつかってきたそれが、祈り、信じて待っていたあの人だと理解するのに、時間はかからなかった。
希望と喜びに満ちキラキラと輝く桜の瞳。安心したような小さな息をつき、嬉しさと溢れかけた恐怖を必死に押さえ込むような清美。だが、無意識に握り締められた拳の震えは恐怖によるものではなく、隠しても隠しきれない喜びのものだった。
「ああァァッ!!」
伊吹は突進の歩を緩めることなく、白鯨を壁に叩きつけぶち破り、反対側の部屋まで押し込む。更に脚力のエンジンを奮い立たせて白鯨ごともう一枚壁を突き破った。
寝室から2つ隣の部屋でその豪脚はようやく止まり、白鯨は瓦礫と共に宙を舞う。伊吹は一気に距離を詰め、落下する白鯨に追撃するよう拳を振り下ろす。白鯨の頭蓋が堅い床と頑強な拳に挟まれるように殴りつけられ、床には亀裂が走る。倒れた状態から何とか反撃しようと手を伸ばす白鯨に、更にカウンターの左拳。白鯨の視界にはもはや揺れる天井しか見えない。沈みかける大男に更に右の一激。顔、首、胴、止むことのない疾風怒濤の暴力の暴風雨が白鯨を飲み込む。
痛みさえも感じなくなった白鯨は、視界が端から黒く染まるのを感じ、自分の意識が遠のいていくことを理解した。
天井に突き上げられた白鯨の手が力なく床に垂れ落ち。ついにその巨軀は地に沈んだ。
白鯨が一瞬のブラックアウトから意識を覚醒し、視界に光が戻ったとき、その眼前に広がっていたのは天高く足を振り上げる伊吹の姿だった。このままあの怪物のような脚力が、自分の顔面か首を踏み潰すように振り下ろされればひとたまりもないと、ぼんやりとする頭で思考する。だが体は指の一本すら動かすことは叶わず、避ける術はない。ここまでか、と白鯨は死への覚悟を決め、永遠の眠りに付くために瞳を閉じる。
修羅の如き形相で脚を振り上げる伊吹の脳裏に、愛する少女の姿が蘇った。
一瞬のためらいの後、その稲妻のような必殺の一撃は振り下ろされた。
*****
同時刻、深夜の阿笠宅。この家の住人たちも普段はすっかり寝ている時間。しかし、今日は誰も眠りについていない。月明かりもない暗い室内には淡いオレンジの間接照明だけが灯っている。静寂の中で先程から聞こえるのは雨の音だけだ。
灰原はソファに三角座りをし、立てた両膝に口元を乗せて寂しげな目をする。心配するような、考え込むような、物憂げな、切なげな、祈るような……彼女の瞳を薄らと涙のカーテンが包み、宝石のように柔らかい照明の光を反射する。彼女が頭を動かす度にお風呂上がりのサラサラな髪が頭を滑り、オレンジの明かりが小さく弾ける。
ダイニングに腰掛ける博士は灰原にかける言葉が見つからず、ただ共に、伊吹の帰りを待つことしかできない。
ソファのテーブルの上には伊吹のマグカップが置かれている。先程まで灰原がコーヒーを飲んでいたが、中身が半分ほど残ったまま冷めてしまっている。それを流そうと灰原がカップに手をかけるも、弱々しい手から滑り落ちてしまう。
「あっ……」
「哀君、大丈夫か?」
「え、ええ……怪我はないわ」
床に砕けるカップの欠片と、血のように広がっていく黒い液体。その破片を拾う灰原の瞳は、言い知れぬ不安に揺らいでいた。
窓を打つ雨の音は次第に弱くなっていく。
*****
「殺さんか……アメリカの犬も、牙が抜けてしまったか……」
伊吹の止めの一撃は白鯨の顔の横を踏み抜いていた。床は陥没し、大理石はひび割れ盛大に砕けている。
外れた訳ではなく、意図的に外したことは明白だった。
「そうだな……俺が人を殺すと悲しむやつがいる。お前を殺すには、大切なものが増えすぎた」
気がつくと地面に叩きつけられる雨の音は止み、雲は駆け足に流れていく。暗雲払われた瑠璃色の空に、大きな満月が白く優しく輝き出す。月光が窓から屋敷に光を差し込み、蒼く幻想的に染め上げていく。
月明かりに照らされる伊吹と、影の中で倒れこむ白鯨の姿は、今宵の闘争の雌雄を決しているかのようだった。
大の字で天を仰ぎ動けない白鯨。汗や血で顔に張り付く髪を鬱陶しそうにかき上げる伊吹は、彼を指差して言葉を吐き捨てる。
「白鯨、お前を逮捕する」
キョトンとした目で伊吹を見つめ返す白鯨は、呆れたように小さく微笑んだあと、瞳を閉じて「そうか」とだけ呟いた。再び開いた彼の瞳に、流氷のような冷たさはもうなかった。
抵抗の意思はないと感じ取った伊吹は、大きなため息と共にその場に座り込んで、疲れたと言わんばかりにまぶたをギュッと閉じて天井を仰ぐ。伊吹が心の内を吐露するようにポツポツと言葉をこぼし始めた。
「……あんたと闘ってみたいって欲求もあったんだと思う。大切な人に心配かけて、誰かを助けるためにって偽善者ぶって、どこかであんたと拳を交えてみたいって気持ちが……少なからずあったんだ」
伊吹がどういう経緯で今宵自分の障害となったかは、白鯨の与り知らぬことだが、伊吹の言葉に黙って耳を貸している。
「お主も、暴力の因果に囚われておるのぉ。気をつけることだ……人を傷つける度にお主の心もまた傷ついていく。それは多くの小さな傷の一つとなってお主の中に残る。暴力の渦の中では痛みを感じることのなかったその傷が、穏やかな平和の中でどのように……膿んで
白鯨の言葉に、伊吹もまた黙って耳を傾ける。
「大切な者がおるなら、その者と共にいることだ。そうすればお主の心の傷も、次第に癒えていくこともあるだろう……」
「……なんであんた今回の殺しを受けたんだ」
「……殺し屋が殺す理由など、金が必要なだけだ。何の為かなど、どうでもよいこと」
伊吹の質問に自傷気味な笑顔を浮かべ、心底どうでもよさそうに答える白鯨。そして視線だけを伊吹へと向け、今度は子供のように笑う。
「ところで、強いなぁ、お主は」
「……悪いが俺も、
伊吹もまた、子供のように笑って答える。
「……あの母娘が待っている。行ってやるといい。……ワシは逃げん。いや、動けんから安心せい」
「ああ、わかってる」
手を膝について「あー、痛え」と呻きながらゆっくり立ち上がる伊吹。ふらつく覚束無い足取りで、突き破ってきた穴から寝室へと戻る。
目に涙を溜め慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべる清美と、今までで一番の満面の笑みを浮かべて伊吹にしがみつく桜。2人に迎えられる伊吹の顔もまた、優しい笑みが浮かんでいた。
先程までの豪雨が嘘だったかのように空には星と月が輝いている。雨によって空気は澄み、夜明け前の蒼い空はいつもよりも綺麗に見えた。
「あーあ……こんなにボロボロじゃ、また怒られるなぁ……」
目を吊り上げながら冷たい声を荒げて怒る少女の姿が頭に浮かぶ。
その呟きも、雨上がりの湿った空気の中に溶けていった。
*****
「……」
「哀君?」
「……博士、寝ましょうか」
「あ、ああ。哀君が眠れるならいいんじゃが」
「ええ、大丈夫よ……」
窓から瑠璃色の空を見上げる灰原。彼女の顔はどこか安心したように見える。その瞳に大きな満月を浮かべ、口元を小さく綻ばせる。
「なぜかしら……もう、大丈夫な気がするから」
月の光を背にそっと振り返り微笑む彼女の姿は、どこか神秘的で、幻想的で。まるで月の女神のようだった。
*****
「その子、そんなに愛想良かったかしら」
「あれ以来懐かれちゃってね。可愛い妹ができたみたいだ」
「はい……お兄ちゃん、飲んで」
白鯨との激闘から数日。爽やかな風と明るい太陽光の降り注ぐとある休日の午後。
阿笠宅には頭や肩、肘、指、胴体、脚……全身包帯まみれ傷だらけの伊吹と灰原、博士とコナン。そして清美と桜、この一件に関わったメンバーが一堂に会していた。
ソファに腰掛ける伊吹の隣には桜が座り、お気に入りのカフェオレにストローを差して右手の使えない伊吹の口元に持っていく。伊吹以外には無愛想な態度は変わらないが、彼に対してはすっかり心を開いているようだ。伊吹が空いている左手で桜の艶やかな黒いショートボブの髪を撫でると、くすぐったそうに目を細めて笑顔を浮かべる。
反対の隣に座る灰原は2人のやり取りを微笑ましそうに見つめて「お兄ちゃん、ねえ」と零す。彼女の中で子供は問題ないようだ。
「それで、結局例の事件はどうなったんじゃ?」
「ああ、ざっくりとは前にも話したけど、白鯨は取り押さえて公安のツテを通して日本警察に引き渡したよ、俺の名前は出さないようにしてね。そんで清美さんの親戚連中の悪事もバレて、全員揃って殺人教唆やらなんやらで逮捕だってさ」
「はい。伊吹くんには本当にお世話になりました。感謝の意はお言葉などで表しきれるものではありません。本当に、本当にありがとうございました」
「お兄ちゃん……ありがとう」
「どういたしまして」
「……伊吹くん? 清美さん?」
最初に出会った日のように、伊吹の向かいに座っていた清美が畏まって深々と頭を下げる。桜も釣られるように隣で頭を下げる。伊吹が優しく目を細めながら桜の頭を撫でる横で灰原が半眼のまま訝しがるような声を上げる。
「邪魔をする連中もいなくなったし遺産の相続も無事済むでしょう。そうすればもう命は狙われないし、警備も雇える。もっとも親戚たちは捕まりましたけど」
桜の突き出すカフェオレのストローを一口すする。
「これで、任務完了ですわ」
「……本当に、ありがとうございます」
「それにしてもあなた、最初の弱々しい雰囲気はどこにいったのかしら」
当初この家に来たときとは打って変わって凛とした清美。灰原は腕を組んでジト目で清美に問いかける。
「これでも私はしたたかな女ですので」
「涙ながらに弱々しさを演じて同情を買おうとした、と」
「ええ、ごめんなさい」
苦笑いを浮かべる伊吹に、そっとカップを持ち上げてコーヒーの香りを楽しむ清美が、申し訳なさそうにイタズラっぽい笑みを浮かべる。そんな彼女に対して苛立たしげに深いため息をつく灰原。
「お兄ちゃん」
「ん? どした?」
伊吹の服の裾をくいくいと引っ張る桜が、伊吹に顔を近づけて小さな声で恥ずかしそうに話す。色白の頬は赤みがかっている。
「さくらが大人になったら……お兄ちゃんのお嫁さんにしてね」
「そうだねー、桜ちゃん可愛いからなってもらおうかな」
小首を傾げサラサラの髪を揺らしながら照れくさそうに笑う桜。無邪気な甘えに思わず癒され笑みが零れる伊吹。ついつい彼女の頭を撫で回してしまう。
コナンが様子を窺うようにそっと灰原の方を見るも、彼女もまた桜の無垢さに口元に笑みを浮かべて優しく見守っている。コナンはほっと息をついた。
「じゃあ私もお嫁さんにしてもらおうかな」
「ママはダメー」
「……」
「あ、哀君……?」
コナンがほっとしたのも束の間、上品に口元を手で隠しながら話す清美の冗談めかした言葉に灰原の機嫌は急転直下。自分の冗談に照れてしまったかのように、ほんのり頬を染める清美を灰原は流氷のような冷たい目で睨みつける。おろおろする博士の言葉も耳に届いていなようだ。
「お兄ちゃん……またおうち、来てもいい?」
「もちろん。なあ、哀」
「……っ、え、ええ。もちろんよ。いつでもいらっしゃい」
「じゃあ私も」
「あなたはダメ」
薄い表情ながら眉を少し垂らして不安げな顔をする桜に、優しく微笑みかける灰原。小さな子供であることと、特殊な経験と境遇による共感からか、その笑顔は普段より柔らかい。しかし続く清美には変わらず鋭い氷の刃のような目を向ける。髪は警戒する猫の尾ように逆だっている。灰原の気迫に「あらあら」と微笑みで返す大人の女。心なしか室温が下がっていく気がする。
清美が小さく口元を綻ばせた余裕の笑みを浮かべ、大人の色気が溶け込むような目を細めて伊吹を見つめる。長いまつげがパチパチと弾んだ。
「伊吹くん」
「ん? なんでしょ?」
「ふふっ、また一緒にお風呂入りましょうね」
「……ッ!」
キッと鋭く冷たい灰原の眼光が伊吹へ向けられる。
少し傾けられた顔にかかるブラウンの髪が目元に影を落とし、目を反射する鈍い光りが突き刺さりそうなほどに尖る。言葉こそ出してはいないが、彼女の目はまさに口ほどに物を言っていた。「なんだそれは」と。
視線を合わせることのできない伊吹は下手くそにとぼけるように、明るい窓の外を眺める。白いカーテンを揺らすそよ風と、部屋を洗うように流れる少し冷たい空気。名も知らぬ草が庭でそよぎ、小鳥がさえずる。懐かしいような、胸が心地よく締めつけられる感覚がする。
灰原の鋭い視線と穏やかな光景。伊吹はどこか、自分の中の小さな傷が癒えていくような気がした。「ああ、この感じが……、あのじいさんの言ってたことなのかな」と、ぼんやり考える。
何気ない日常が自分を癒していくことに、彼は気づいた。それが本当に白鯨の忠告を理解したからなのか、信じられない形相で自分を睨みつける灰原から逃れるための現実逃避なのかはわからないが。
「いい天気だ……」
「……は?」
彼女の声もまた、容赦のない冷たいものだった。
*****
「伊吹兄ちゃん大丈夫かよ!?」
「ひどい怪我ですねー……ミイラ男みたいになっちゃってますよぉ」
「伊吹お兄さん、痛そう……」
清美と事の顛末を話した翌日。阿笠宅からは少年探偵団の声が聞こえていた。
「大丈夫、大丈夫。これくらい平気だよ」
「病院で大人しくしとけよな」
「前にも似たようなこと言ってなかったか、コナン。病室で寝込んでいるよりこうやってこの子らの相手してる方が、元気が貰えていいんだよ」
「にしても、改めて見るとこりゃまた酷くやられたもんじゃのぉ」
「日が経って腫れや痣が目立ってきたのね」
リビングのソファに腰掛ける伊吹。向かいに座る子供たちがボロボロの彼を痛そうな表情を浮かべて恐る恐る見ている。伊吹の隣には呆れたようなコナンの顔。博士はキッチンから持ってきたジュースとコーヒーをテーブルに並べる。
コナンと反対側の隣に座る灰原も呆れ顔で伊吹の頬をつつく。
「いてっ……。あれ? 俺のマグカップが新しい」
「ああ、前のは哀君が……手を滑らせてのぉ。それは哀君が代わりに新しく買ってきたものじゃよ」
「へー」
「……」
伊吹のコーヒーが注がれたカップには可愛らしい黒猫のイラストが描かれている。それを珍しげに眺めていた伊吹が、ふと隣でコーヒーをすする灰原へと向けられる。彼女の小さな手が持っているカップにも別の種類の黒猫がプリントされていた。
「哀のも新しくなってるね」
「ええ、ついでにね」
興味なさそうに目を閉じ、澄まし顔でコーヒーの風味を楽しんでいる灰原。
「同じ種類のカップだね」
「……そうね」
「なんでまた」
「……セットで買うと安かったのよ」
「ふーん……」
2人は並んでお揃いのカップでコーヒーを味わう。同じ豆の同じコーヒーだが、2人にはいつもよりも美味しく感じる気がした。
「熱いコーヒーなんて飲んで、口は痛くないの」
伊吹を横目に見ながらポツリと零す灰原。
「歯の折れたのは左だから、気をつければ……」
「なんと、歯も折れておったのか?」
「うん。まあこれくらいで済んでよかったよ、博士。左の奥歯上下が2本、左手の小指と薬指。あとはアバラがバキッとね。それと右肩と肘と手首をグキッといかれて、左足首もゴキッとかな」
「あ、アバウトな表現じゃのぉ……」
「目も耳も2つあるし、玉も潰されてない。内臓も無事で骨折も少し、大金星だよ」
「……」
無邪気に「よかったよかった」と笑う伊吹に、灰原は不機嫌そうに呆れたような大きなため息をつく。
傷だらけでもいつもと変わらない伊吹の態度に、今度は興味津々に尋ねる子供たち。
「伊吹さんはいったい、なにと戦ったんですか?」
「ちょっと動物とじゃれてただけだよ」
「象か!? キリンか!?」
「ライオンさん? トラさん?」
「あー……鯨さん」
からかうような笑みで話す伊吹に子供たちは、はぐらかされたと文句を言う。思わず灰原は小さく笑みをこぼし、コナンと博士は苦笑いをする。
「あ、そうだ博士、伊吹さんもいますし、この間のゲームしましょうよ!」
「さんせー!」
「あゆみもやりたーい!」
子供たちの言うゲームとは例の『生涯ゲーム・大人のブラック版』である。そのアダルティな内容を思い出して博士は困ったように笑う。コナンもゲンナリしたような顔をし、灰原は「仕方ないわね」と肩をすくめるも、どこか楽しそうだ。なんのことかわからない伊吹は流されるままにゲームに参加する。
様々な色の車に模したコマを各人1つずつ配され、自身の分身であるピンを運転席に差し込む。伊吹はそれを自分のコマの助手席側に突き差した。
「じゃあ俺のは外車仕様で」
「…………」
「……え、なに?」
「……別に、何でもないわ」
視線を感じた伊吹が隣に目をやると、どこか驚いたようなキョトンとする灰原と目が合う。普段の彼女であれば、こんな伊吹の子供っぽい行動なんて無視するか、呆れたような目で見てくるかだ。機嫌が悪いと「くだらない」「バカみたい」と吐き捨てられることもある。こんな反応は初めてで、思わず伊吹の方もキョトンとしてしまう。
ハッとしたようにいつもの澄まし顔をする灰原。頭に「?」を浮かべる伊吹だったが、気にした様子もなく準備を進める。そんな彼を横目に、思わず頬が緩んでしまう灰原。上機嫌な笑顔に沖野ヨーコの鼻歌をハミングさせる。
「やけに上機嫌じゃねーか」
「そうかしら」
訝しげなコナンの質問をさらっと受け流すも、明るい笑顔が消えることはない。
「さて、今回は負けないわよ」
「灰原さんも今回はやる気ですね! コナン君をギャフンと言わせましょう!」
「哀ちゃんご機嫌さんだね!」
「灰原が、明るく笑って、遊んでる」
「お、職業にヒットマンなんてあるじゃん」
「おいオメーら、順番決めっからさっさとルーレット回せよ」
平穏な日常の中に楽しそうな声が響き渡る。子供たちの笑い声も吸い込むような青空には、雲一つ見当たらない。
テーブルの端に寄せられたカップ達の中で、2匹の黒猫は仲良く寄り添い、差し込む暖かい日差しにできた持ち手の影は、愛の形に重なっていた。
*****
「なあ、哀」
「なに?」
「ちょっと……俺に怒ってみてくれない」
「……嫌よ」
「……そうか」
2人並んでソファに座りテレビを眺めていたが、彼女の「意味がわからない」と言いたげな冷たい目が伊吹の方へと向けられる。
ぼんやり画面を見つめている伊吹の「まあ、その目で見られるのもいい」という呟きに、灰原は呆れたように目を閉じる。小さくため息を吐いたあと、少し恥ずかしげに口を開いた。
「……バカ」
「…………ん? え、なに。まさか、今の怒ったつもりなの?」
「……」
「そうそう、それが怒っている人の目だよ」
からかう伊吹と呆れて怒る灰原。そんな2人の穏やかな時間に伊吹の心は癒えていった。そしてそれは、灰原も同じように……。