哀歌   作:ニコフ

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7話 神様の言うとおり 前編

 

『ああ、まだ帰れそうにないかなぁ。早くてもあと2、3日はかかりそう』

「そう。じゃあ1週間くらいになりそうね。まあせっかくなんだし、里帰りでもしてきなさい」

『いや俺はアメリカ(こっち)で生まれたかもわかんないよ』

 

 眩しい朝日が差し込む阿笠宅のリビング。ソファの上で三角座りをし、気だるそうに背もたれに頭を預けて電話をしている灰原の姿が見える。受話器から聞こえるのは海の向こうにいる伊吹の声。アメリカからの国際電話のようだ。

 

「ところで、あなたが急にそっちに行っちゃったから聞きそびれたんだけど、どうしてアメリカに?」

『この間の白鯨の件だよ。数年なりを潜めていたとは言え、仮にもICPOの国際指名手配犯とやり合った訳だし。CIA(うち)でも問題にされてさ』

「工作員失格ね」

「おんなじこと言われたよ。“お前の任務はなんだ”とか、“お前は情にほだされるところがある”とかね」

 

 困ったような伊吹の声にからかうように返す灰原。あくびをしながら閉じた目に涙を浮かべ、口元は楽しそうにほころんでいる。

 

「笑い事じゃないよマジで。まだ怪我も治ってねえのに呼びつけられて……」

『あなたの体ならすぐに治るわよ』

「治んないよ。化物じゃないんだから」

 

 「十分化物じゃない」という至極真っ当なツッコミを彼女は飲み込み、代わりに大きなため息をつく。「差し歯も増えたし……」と耳元で愚痴を続けそうな伊吹の言葉を遮る。

 

「ところで、例のもの、よろしくね」

『あー……ニジムラのバッグ、だっけ?』

「……フサエブランドのポーチよ」

『はいはい』

「おーい哀君、そろそろ準備せんと」

 

 背後からかけられる博士の声に頭だけで軽く振り返り、小さく手を挙げて答える灰原。ソファから立ち上がりスリッパを鳴らし、電話片手に何やら外出の準備をしている。

 

『どこか行くの?』

「ええ。今から探偵団でキャンプよ」

『あー、そっちは朝か。てかキャンプ好きだねー』

「あの子達は私と違って普通の小学1年生なんだから、なんでも楽しいのよ。」

『擦れてるなぁ』

 

 大きな鞄を担いだ博士が玄関に腰掛け靴を履いている。上機嫌でまだ電話を切りそうにない灰原にちらりと目を合わせ、「そろそろ出んと」とアイコンタクトを送る。

 

「そろそろ出るわ」

『楽しんできな』

「……それじゃあね」

『はいよ。出来るだけ早く帰るから』

「……」

『……』

「……」

『……いや、切ったら?』

「……ええ。またね……」

『ああ、また』

 

 最後の言葉を残してブツリと躊躇いなく切られる電話。聞こえる途切れとぎれの機械音を聞きながら、灰原は納得がいかないような顔で目を細めて受話器を見やる。

 

「哀君、もうみんな外まで来とるぞ」

「……ええ、行きましょ」

 

 心なしか強めに電話の子機を置き、大きな鞄を肩にかけて灰原はそそくさと出て行ってしまった。

 玄関を開けた時にその柔肌を撫でた空気は日に日に冷たさを帯びていくようで、日差しの暖かさが嬉しくなる。玄関前に止められている博士のビートルにはコナンをはじめ、子供達が集まっていた。

 ふと視線を横に流すとビートルの隣には伊吹の愛車である黒を基調とした傷だらけの「ハーレーダビッドソンFLSTFファットボーイ」が停まっている。伊吹の運転で自分も後ろに乗ることは多いが、彼女はそのバイクの轟音があまり好きではなかった。だがバイクが目に付いたとき、今自分の隣には伊吹がいないことを改めて思い知る。それはどこか心許ない、久しぶりの感覚だった。

 

「灰原おせーぞー、寝坊かー」

「元太くん、時間ぴったりですよ」

「あーあ、伊吹お兄さんいないんだぁ。今日はあゆみの番だったのになぁ」

 

 見るからにウキウキとし、早く早くと博士を急かす子供たち。歩美だけは拗ねるように唇を尖らせてつまらなさそうにバイクを見つめる。

 キャンプなどの遠出する時は博士の車では小さいため、伊吹はよくバイクに乗って付いていく。その際に乗ってみたいとせがむ子供たちがローテーションで後ろに座っている。順番的に今回はあゆみの番だったようだが、それは次回までお預けとなった。

 

「……ッ!?」

 

 小さな欠伸をこぼして眠たそうに車のドアを開ける灰原だったが、不意に感じた視線に振り返る。感じたのは隣の工藤邸の2階の窓からだ。訝しげにその窓を睨む灰原の目に映るカーテンは、微かに揺れているようだった。

 不安げな表情で窓を睨むように見つめる灰原。以前から隣人に対しては快く思っていなかったが、コナンの自信ありげな「あの人は大丈夫」という言葉と、実際に彼と関わることで出会った当初ほどの不信感も薄らいでいた。なによりすぐ隣で自分を守ってくれる超人がいたため、安心できていた。しかし彼のいない無防備な今、消えかかっていた隣人へのモヤモヤとした感覚が再び、微かに湧き出してきたようだ。

 

「おい、大丈夫か、お前?」

「……ええ、隣人の不快な視線を感じただけだから」

「あん? だから昴さんなら大丈夫だって」

「……そうね」

「お前、もしかして萩原がいねーから恐がってんのか?」

「そんなんじゃないわ」

 

 ふっと興味なさそうにコナンから視線を外して目を閉じ、車の後部座席に乗り込む灰原。扉を閉める前に刺すようなジトっとした目でコナンを見つめ、吐き捨てるように口を開いた。

 

「私、そこまで彼に依存してないから」

「ははは……素直じゃねーな、ほんと」

 

 力強く閉められた扉の前で苦笑いを浮かべるコナン。心なしか家から出てきた時から機嫌の悪そうな灰原。睡眠不足だけが原因じゃなさそうな彼女の姿に、この先が思いやられそうだとため息を零す。

 白い日差しに照らされる高い群青色の空を、飛行機がまっすぐの白い尾を伸ばしながら横切っていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「哀ちゃん元気ないね」

「そうか? いっつもあんなだろー」

「元太くんには女性の心の機微がわからないんですね」

 

 博士の黄色いビートルが山中の山道を駆け抜けていく。舗装はされているも道は細く、片側は圧迫感のある山の壁面が続き、反対側は崖になっておりガードレールの下は深い森が広がっている。

 車内の後部座席には子供達と灰原が少し狭そうに座っている。その左端、助手席の後ろに座る灰原は頬杖をつきながら窓を流れる景色をぼんやりと眺め、彼女から距離を取るように少し離れた子供たちがヒソヒソ話をしていた。

 山の木々で陰る社内はひんやりとしており、先程まで暖かな日差しに照らされていた車には少し冷えるほどだ。灰原は無意識にその細く白い二の腕を手でさすっていた。

 すると唐突に、タイヤが石にでも乗り上げたのか、車が大きく揺れだした。

 

「おっ、な、なんじゃ……!?」

「は、博士ブレーキ! ブレーキ!」

 

 博士がコナンの言葉に慌ててブレーキを踏み抜く。タイヤがアスファルトの上を滑るように止まり、煙と共にアスファルトに黒い筋を残す。

 

「な、なんなんですか……?」

 

 子供たちは突然の恐怖体験に顔を歪ませ、光彦が涙目でポツリとこぼした。博士が「ふぅ……」と深いため息をつき、コナンは額に汗を浮かべて呆れたような表情を浮かべる。

 博士とコナンが車から降りてタイヤの様子を窺う。左前タイヤを見ていたコナンが「博士、ここだ」と鬱陶しそうに声を上げた。2人の視線の先ではタイヤの空気が抜け、車の重さに潰れていた。

 

「パンクかのぉ」

「おいおい、こんな山の中でどうすんだよ」

「代えのタイヤは持ってきてないの?」

 

 頭をかかえる博士とコナンに、窓から顔を出した呆れ顔の灰原が声をかける。子供たちも灰原の後ろから覗き込んでいる。

 

「荷物が多かったからのぉ、予備のタイヤを積んでおくスペースが無かったんじゃ」

「しゃーねえ、昴さんに頼んでスペアタイヤと工具を持ってきてもらうか。今日は家にいるみたいだし」

「……」

 

 面倒くさそうにコナンは頭をかきながら携帯を取り出す。その言葉を聞いた灰原は何も言わなかったが、腕を組んで不服そうにまぶたを伏せて座席に背を預けた。

 

「ああ、もしもし昴さん? 実は……」

 

 その電話を聞きながら灰原は静かに薄らと目を開き、複雑そうな顔で窓枠に切り取られた空を見上げていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「うわー、たっけーなー」

「落ちたらひとたまりもないですねぇ」

「こわーい……」

「これこれ、あんまり近づくと危ないぞ」

「へ、へっ……えっくしょんッ!!」

「うわわわっ! あ、危ないじゃないですか元太くん!」

 

 コナンが昴と連絡をとってしばらく経った頃。子供たちが大人しく車で待っておけるはずもなく、辺りを散策し始めた。

 ガードレールの下に広がる崖を覗き込み、高い空へと吹き抜けていく風に前髪を揺らし鼻腔をくすぐられはしゃいでいると、山道の向こうから赤色の車「スバル360」が近づいてくるのが見えた。

 

「あ、昴お兄さんだ!」

「昴の兄ちゃんおせーぞ!」

「すまんのぉ、昴君。わざわざこんな所まで来てもらって」

「いえ、今日は暇を持て余していましたので。ドライブもできてよかったです」

 

 申し訳なさそうな笑みを浮かべる博士に、気さくな笑顔を向けながら早速代えのタイヤを持ち出す昴。

 博士のビートルの側まで歩み寄って来た昴が車内をチラリと覗き込むと、開いた窓から見えたのは興味なさそうに腕を組み目を閉じて車の整備が終わるのを待つ灰原の姿のみ。昴の気配に気づいたのか、灰原はジトっとした半眼で昴の顔を一瞥するも、あくびを一つこぼし眠たそうに再び目を閉じてしまう。

 そんな彼女の態度に昴は少し困ったような顔を浮かべながら小さく息を漏らす。辺りをぐるりと見回した昴が、「おや……」と不思議そうに呟いた。

 

「そういえば彼の姿が見えませんね」

「彼って、伊吹お兄さんのこと?」

「ええ。いつも灰原さんと一緒にいる屈強な青年です」

「別に、いつも一緒にいるわけじゃないわ」

 

 目を伏せたままサラリと質問に答える灰原。キョトンとした昴が「そうですか」と微笑み、受け流しながら博士へと視線を向け、言外に伊吹がいない理由を尋ねる。

 

「えと……伊吹君はちと野暮用でのぉ。日本を離れておるんじゃ」

「海外ですか、いいですね。……さぞ、お忙しいことでしょう」

 

 その意味深で小さな呟きは近くにいた灰原にしか聞こえなかった。彼女がその言葉の真意を確かめようと窓から顔を覗かせると、昴は既にしゃがみ込み、子供たちに囲まれながら博士と共にタイヤの整備にあたっていた。灰原は子供たちに笑みを浮かべながら工具をいじる彼に疑うような視線を向けていた。

 

「これでパンクは直りましたよ。古いタイヤは僕の車に積んでおきますね」

「すまんのぉ、ワシの車には積めんから助かるわい」

「そうだ。彼がいないのでしたら、僕がキャンプに参加してもよろしいですか?」

「昴さんが?」

 

 昴の提案にキョトンと聞き返す光彦、子供たちも珍しそうに彼を見ている。

 

「ええ、彼ほど屈強な体はしていませんが、キャンプでの力仕事くらいはできますよ。博士1人で子供たちを見るのも大変でしょうし……この子達の安全くらいなら、僕が見ますよ」

「別に、ただのキャンプ、自分の身くらい自分で守れるわよ。あなたに守ってもらわなくてもね」

 

 灰原は目を閉じたまま、ひっそりと敵意のようなものを含ませて言葉を返す。

 昴は細い目を更に細くし、口元に優しい笑みを浮かべる。微かに鋭い目を開き、ビートルの中で無関心に待っている灰原の様子を窺うように見つめる。

 

「うーむ、そうじゃのう。昴君がそう言ってくれるなら」

 

 顎に手を置く博士が昴の提案を飲もうとしたとき、小さくも耳に届く電子音が鳴り響いた。「失礼」と断って電話の主である昴がポケットから携帯電話を取り出し、一同から少し離れてから通話する。

 誰かと小声で話す昴の後ろ姿を、灰原はサイドミラー越しに眺めていた。その目に明確な敵意こそ見て取れないが、あまり快くも思っていないようだ。

 

「すみません、急用が入ってしまいました」

 

 電話を終え戻ってきた昴が申し訳なさそうに眉を下げて博士に話しかける。

 

「こちらから提案しておいて申し訳ないのですが、僕はこれで失礼しますね」

「そうか、残念じゃのぉ」

「また今度ご一緒させてください。タイヤと工具は持って帰りますので」

 

 そそくさとパンクしたタイヤと持ってきた工具を自分の車へと乗せる昴。チラリとビートルから出てこない灰原を一瞥し、「それに」と続ける。

 

「僕では彼女の御眼鏡に適わないようなので」

「……」

「それじゃ、僕はこれで失礼します。楽しいキャンプを」

「ばいばーい、昴お兄さん!」

「またなー!」

 

 そう言い残し昴は赤い愛車を走らせて山道を去っていった。小さくなる車に手を振る子供達と、車内でバックミラー越しにどうでもよさそうに見送る灰原。コナンの小さなため息と博士の苦笑いを残し、一行も調子を取り戻したビートルで昴とは反対方向に車を走らせていった。

 再び窓の外を流れ出した緑の木々と青い空を眺めながら、灰原の頭には先ほどの昴の「彼女の御眼鏡に適わない」という言葉がモヤモヤと離れずにいた。

 別に昴が付いてくることに反対する気などは微塵もなかったし、彼が自分を含めて子供達を守るという言葉に不満もなかった。だが、昴の言葉を聞くに、自分の態度は“あなたでは満足しない”と言っていたようだ。無意識に“伊吹()がいたら……”とでも考えていたのだろうか。

 

「別に……誰でも……」

 

 自分は思っていたよりも伊吹に執着していたのかもしれない、と頭を抱える灰原。小さなため息を零して自分に呆れるように目を細める。そんな灰原を見ながら子供達は顔を突き合わせて再びヒソヒソと話す。

 

「やっぱり哀ちゃん元気ないね」

「そうか? いっつもあんなだろー」

「いえ、先ほどよりも沈んでいるように見えますよ」

「伊吹お兄さんがいないからかな」

「悔しいながら、ありえますね」

「だな、だな」

 

 彼女自身が気づいていないその気持ちは、子供たちにも筒抜けだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「うまかったー!」

「もう食べたんですか元太くん!?」

「元太くん、ちゃんと噛まないと体に悪いんだよ?」

「うっせーなぁ、次はちゃんと噛んで食うよ」

「次って、まだ食う気かよ……」

 

 空が夕暮れの橙に染められる頃、キャンプ場に無事到着した一同は夕食のカレーに舌鼓を打っていた。

 元太が何杯目かのおかわりを皿に注いだ時に、博士が思い出したようにスプーンを立てて声を上げた。

 

「そうじゃ、ここの近くの神社で今日祭りがあってのぉ。このあと食休めに一服してから、みんなで行ってみるかの」

「あゆみ行きたーい!」

「いいですね!」

「まじかよっ! 祭りの食い物あんのにカレーいっぱい食っちまったよ!」

 

 はしゃいで目を輝かせる子供たち。灰原は興味なさそうに黙々とカレーを食べながらも、無邪気に喜んでいる子供たちに小さな笑みを向けていた。

 呆れたように確信をつくコナンに、博士は困り顔で抗議する。

 

「博士、元太で散財しないためにわざと腹いっぱい食わせてから祭りの話したな」

「ええ、せこいわね」

「し、仕方なかろう、祭りの露店は割高なんじゃ」

 

 食事を終えて後片付けをしたあと、まだ一休みしたいという博士を引っ張って、子供たちは祭りへと繰り出していった。

 当初はテントで待っておくと言った灰原だったが子供たちに執拗に誘われ、仕方がないと肩を竦めながらも共に出かけることにした。

 空はすっかり日も沈み、米花では見られない満天の星空が広がっている。

 

「あー! ヤイバーのフィギュアだー!」

「すげー! 欲しいぜ!」

「しかも去年の劇場版限定モデルですよ!」

 

 それほど大きな神社ではなかったが、現地の人々と観光客が集まるらしく、祭り自体の規模はなかなかのものだった。綺麗に澄んでいる夜の空気に露店から立ち上る美味しそうな煙が絡み合い、鼻腔をくすぐる。辺りは人々の熱気と活気に賑わい、雑踏の中に周りの笑い声や掛け声が混ざり合っていた。

 歩美がチョコバナナを片手に射的の景品を指差して声を上げる。唐揚げを頬張る元太と焼き鳥を食べる光彦も釣られて景品を見つけ、興奮しているようだ。

 

「博士! これやらせてくれよ!」

「うーむ、それじゃあ1人一回ならチャレンジしてもよいぞ」

「「わーい!」」

 

 子供たちのおねだりに博士が3人分の料金を支払う。歩美、元太、光彦が横に並びコルク弾を銃に装填して構える。その格好だけは一丁前だ。

 片目を閉じて舌をペロリと出す。ポンッという小気味よい音と共に3人の銃から次々と弾が発射されるも、目的の仮面ヤイバーのフィギュアにはかすりもしなかった。

 

「あー、失敗しちゃいましたぁ」

「俺も、全部外しちまった……」

「あゆみも全然ダメだった」

「まあ、そう甘くはないのぉ」

 

 子供たちが残念賞の10円駄菓子を片手に、悔しそうな目でコナンと博士を見つめる。

 

「おいコナン、おめーやってみろよ」

「そうですね、コナン君はこういうの得意そうですし」

「コナン君、お願い」

 

 その言葉を受けチラリと博士を見上げるコナン。博士はどこか嫌そうな顔を浮かべるも、渋々料金を支払う。コナンは肩を竦めて「期待すんなよ」と呟いてから、狙いを定めコルクを撃ち出した。

 景気のいい発射音とは裏腹にコナンの顔は晴れず、その手には駄菓子が握られていた。げんなりと落ち込む子供たちにコナンは「しゃーねーだろ」と菓子を頬張る。その光景に博士は苦笑いを浮かべ、灰原は愉快そうに口角を上げる。

 

「だいたい見てみろ、あのヤイバー。固定なんかはされてねえみてえだけど、“フィギュアを立たせる”って名目で足元に台を置いてやがる。あれを倒すにはあの小さな頭か突き上げた手を撃ち抜くしかねえよ」

 

 食べた菓子のゴミを博士の持つゴミ箱代わりの紙コップに入れ、コナンは屋台の人形を親指で指し呆れたような目を向けながら、「それに」と更に続ける。

 

「景品が豪華な分、距離もだいぶあるし、まっすぐ飛ぶとは限らないコルクであんなピンポイントに当てるのそうそう出来やしねえよ」

「あなたが……、ぁっ」

「あん?」

 

 負け惜しみではなく、淡々と事実を伝えるコナンに一層落ち込む子供たち。

 それを見ていた灰原が何かを口走る。隣にいた博士が頭に「?」を浮かべ、コナンも彼女に振り返った。

 灰原は「しまった」と言わんばかりに口元に手を当ててそっぽを向き、博士とコナン2人の視線にどこか恥ずかしそうに目を閉じる。

 

「なんだよ灰原、なんか言ったか?」

「哀君?」

「……別に、何でもないわ」

 

 灰原はつい「あなたがやってあげれば?」と、居もしない伊吹に声をかけそうになったようだ。とっさに口を閉ざしたものの、自分でも信じられないほど自然に出そうになった言葉に、思わず頭を抱えてしまう。彼が隣にいることがこれほど自分の中で当たり前になっていたのか、と。そして無意識に話しかけてしまうほど、自分の中で彼の存在が大きくなっていたことに気恥かしさを覚える。

 胸の奥がもどかしいように暖かくなるのを感じるも、それを危うく露見してしまうところだったと、灰原は胸を撫で下ろす。

 

「どうしたの、哀ちゃん? 頭痛いの?」

「灰原さん、車の中でも調子悪そうでしたし」

「拾い食いでもしたのか?」

「え、ええ大丈夫よ。小嶋君と一緒にしないで」

 

 騒ぐ子供たちに囲まれている灰原を眺めながらコナンは不思議そうに頭をかいていた。

 

「なんだ、灰原のやつ」

「さあのぉ、伊吹君のことじゃとは思うが」

「あいつ萩原にべったりだからな」

「哀君と伊吹君がこれだけ長い時間離れたことは記憶にないからのぉ」

 

 灰原の胸の奥にくすぶる想いはコナンと博士にもすっかりバレてしまっていた。いまいち気づいていないのは本人だけらしい。

 

「あー! ラブリーみくじだ!」

「なんだぁ、ラブリーみくじって? 食いもんか?」

「いや、おみくじですって、元太くん」

「おいおい、ラブリーみくじってまさか……」

 

 祭り会場内をぼちぼちと歩き、石畳を鳴らしながら本殿へと向かっていた一行。すると、りんご飴を片手に声を上げた歩美が今度は本殿を指差す。その先には可愛らしい文字で「ラブリーみくじ」と書かれた看板が掲げられていた。

 ラブリーみくじとは都内にある「乱舞璃(らんぶり)神社」が毎年酉の市に出す女性限定の恋愛おみくじである。コナンは前に蘭や園子と一緒に、その乱舞璃神社でとある事件に巻き込まれ、そのおみくじのことを知っていた。

 コナンが苦笑い気味に改めて神社について確認してみると、この神社はその乱舞璃神社の分社であり、こちらの神社では観光客相手に常時このおみくじが設置されているらしい。

 

「あら、知ってるの?」

「ああ、前に蘭と園子に付き合わされて行った神社にもこのおみくじがあったんだよ。確か、女の子限定で、好きな男性の好みのタイプが分かるとかなんとか……」

「歩美引いてみたーい! 哀ちゃんもやろうよ!」

「え、いや、私は別に」

 

 恋愛事に興味津々な歩美。目をキラキラと輝かせてほんのりと頬を染めながら女性限定だというラブリーみくじへ、有無を言わさず灰原の手を握って連れて行く。特に興味なさそうな灰原だったが、歩美に引っ張られ石段に躓きそうになりながら本殿横のおみくじへと駆けていった。

 

「うーん、なにが出るかなぁ」

「……ほら、こういうのは直感で引くのよ。おみくじなんだから」

 

 たかがおみくじだと思っていた灰原だが、隣の歩美があんまり真剣に悩んでいるため、思わず笑みを零してしまう。彼女は歩美と一緒に引いたおみくじを開くことはせず、そのままそっとポケットにしまった。

 

「あ、あゆみちゃん! ど、どんな内容でしたか!?」

「教えろよ、あゆみ!」

「えへへ、ひみつー!」

 

 思わず歩美に詰め寄る光彦と元太。歩美は照れくさそうに笑いながらくじをポケットに入れる。

 

「哀ちゃんには後で教えてあげるから、哀ちゃんのも教えてね!」

「え、ええ」

 

 天真爛漫な笑顔を向けられる灰原は、無意識にポケットの中のくじを指先で握りしめてしまう。たかがくじびきと思う反面、どこか見るのを躊躇っている自分がいることに気がつく。彼女の頭の片隅に、脳天気に笑う伊吹の姿がチラついて消えなかった。

 ざわつく喧騒に高鳴る胸を打つような祭囃子の音が遠くから聞こえてくる。みんなの視線が音の方へと集まる中、灰原だけは視線を落としてそっと取り出したくじを見つめる。手の中で小さく折りたたまれたそれを眺める彼女を、夜空に凛と佇む三日月がまた見下ろしていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あーあ、もうキャンプ終わりかよぉ」

「仕方ないですよ。土日の一泊二日ですから」

「そうよ、元太くん。明日も学校があるんだから」

「あーあ、カレーと祭りしか覚えてねーよ、オレ」

「まあ、実際それくらいじゃったからのぉ」

 

 キャンプ場で一泊した翌日。昼食をキャンプ場で食べ、探偵団一行は帰路についていた。昨日と同じ青空には薄い雲がかかり、開けた車の窓からはひんやりとした心地いい風が吹き込んでいる。

 ビートルが前日パンクした山道に差し掛かる頃、助手席に座っていたコナンが何か思い出したように振り返り、自身の後ろにいる灰原にからかうような声色で話しかける。

 

「そういや灰原、おめーが昨日引いたおみくじ何て書いてあったんだよ?」

「あ、あゆみも聞いてない! 哀ちゃん、どんなだったの?」

「……まだ見てないわ」

 

 身を乗り出してニヤつきながら後部座席を覗き込むコナンに冷たい視線を返す灰原。小さなため息を吐いて興味なさそうに頬杖をつき、開いた窓から流れていく外の景色を眺めながら車内に響く音楽を聞き流している。

 

「えー、なんで見てないの? 哀ちゃん気にならないの?」

「なんで灰原見ねえんだよ、せっかく引いたのによ」

「そ、そうですよ灰原さん、その、ぜひ見てみるべきかと……」

 

 子供たちからの素朴な疑問がぶつけられる。相変わらずからかうように見てくるコナン、博士もどこか気になるようだ。

 みんなの意識が向けられることに辟易するように大きなため息を吐いた灰原は「わかったわよ……」と半ば諦めたようにおみくじを探る。鬱陶しそうに引っかかるシートベルトを外し、ポケットに手を入れ小さく折りたたまれた可愛らしい紙を取り出した。

 子供たちはワクワクしながら読み上げられるのを待ち、コナンもからかうネタができたと言わんばかりにいやらしい笑みを浮かべている。

 灰原の目が静かに紙の上を流れ出した。

 

『飄々としてどこか掴みどころのない彼の心を射抜くには素直になること。本心を隠して冷静に装っても、あなたが彼にべったりなのは筒抜け! たまには開き直って、素直に思う存分に甘えれば、そのギャップに彼もイチコロのはず!……』

 

「…………」

「黙読じゃなくて読み上げろよ!」

「あゆみが読んであげる!」

「あっ、ちょっと!」

 

 半分ほど目を通した灰原だったが、途中で紙を歩美に奪われてしまう。目をキラキラと輝かせながら声に出して読み上げようとする歩美。

 

「えっとね、うーん……なんとかして、『どこか』……なんとかの、『彼の心を』、えっと……」

「歩美ちゃん貸して! 俺が読むから!」

「ダメよ、江戸川君には見せちゃっ……きゃッ!」

「「うわあっ!」」

 

 灰原のラブリーみくじを巡って騒然とする車内。歩美の手からコナンに渡ろうとしたそれを灰原が慌てて奪取したとき、博士がアクセルを踏んだのか、ビートルの速度が急に上がった。

 

「お、おい博士っ、なに飛ばしてんだよ!?」

「い、いや、後ろの車がのぉっ」

 

 慌てる博士の言葉に振り返るコナン。リアウィンドウから後ろを覗き込むと、見るからにごついアメリカ車「ハマー」が煽るように接近してきている。迷彩柄のその車がビートルの後ろを蛇行しながら追従し、今にもぶつかりそうな距離に迫ってくる。

 

「な、なんですかあの車!」

「ぶつかっちまうぞ!」

「こ、こわーい……」

 

 コナンに習って後ろを覗き込む子供たちが口々に文句を零す。

 

「ったく、危ねえなぁ。こんな山道で煽ってくんなよな」

「ああいう手合いは痛い目に合わないと反省できないのよ」

「しゃーねえ。博士、この先の直線で脇によって先に行かせてやれよ」

「ああ、そうじゃのぉ」

 

 もうしばらく続くやんわりとしたカーブ。そこを抜けてから道を譲ろうと考えたコナンと博士だったが、次の瞬間にはその表情が驚愕に染まった。

 

「おいおい、ここで追い越す気かあの迷彩ハマー!」

「危ないのぉ、まったく!」

 

 カーブを抜けきる前に後ろの車が対向車線にずれ、速度を上げてビートルを抜き去ろうとする。煽られていた博士の車も速度が出ていたため、それを追い越そうとするハマーはさらに速く走り出す。

 呆れと怒りの混じった声をあげるコナン。さっさと行かせようと博士が速度を落とそうとしたその瞬間、唐突に激しい衝撃がビートルを襲った。

 

「「うああああ!」」

「キャーーー!!」

「なな、なんじゃ!?」

 

 ハマーが博士のビートルを追い越そうと横に並ぶ。その時突如カーブの先から現れた対向車に驚いたハマーが、それを避けようと咄嗟にハンドルを切ったために、博士のビートルの土手っ腹にぶつかってきたようだ。

 金属の衝突する轟音とタイヤがアスファルトを滑る甲高い音が山道に響き渡り、山にこだまする。対向車もハンドルを切ったらしく反対側の山の側面へと突っ込んでいく。一瞬速度を落としたハマーだったが、すぐさまアクセルを吹かし走り去ってしまった。

 博士のビートルは右側からぶつかられたことで、速度をそのままに車体の左側をカーブするガードレールに激しくぶつけてしまう。車は激突により強制的に急停止され崖下に落下する事は免れた。だが、ガードレールに車体を叩きつけられる激しいクラッシュ音の中で1人の少女の声だけがやけに大きく車内に響き渡った。

 

「きゃっ、ふぁあっ……!」

 

 その声に自然と全員の視線が集まった。みんなの目には、車の衝突する勢いで開いた窓から外へと吹き飛ばされ宙を舞う灰原の驚いたような、キョトンとした表情が写っていた。

 彼女の目にも驚愕する子供達とコナン、博士の顔が見えていた。一瞬の内に様々な光景が走馬灯のように頭をよぎり、視界を流れる全てがスローモーションに見える。「シートベルトを外したから……」ぼんやりそんな事を考えたとき、彼女の体は重力に引っ張られて崖下の森へと落下し始めた。

 

「……哀ッ!!!」

 

 次々襲ってくる突然の出来事に全員の思考が追いつかない中、くぐもった力強い男の叫び声だけが聞こえてきた。一瞬遅れて更なる金属音が鳴り響き、ビートルの横を横転したハーレーダビッドソンが滑るように現れガードレールに激突した。

 いち早く動いたコナンが助手席から身を乗り出して崖下を見ると、落ちていく灰原とそれを追いかける伊吹の姿が見えた。

 

「灰原ッ!! 萩原ッ!!」

 

 深い森に飲み込まれる前に伊吹は灰原に追いつき彼女を抱きしめたようだが、そのまま深緑の中へと飲み込まれていき、コナンの視界から消えていった。

 

「な、なんじゃ、いきなり!? なにがどうなって、あ、哀君は!?」

「哀ちゃん!!」

「灰原さーん!」

「灰原ー!!」

 

 車から降りた一同が慌ててガードレールから下を覗き込むも、既にそこに彼女の姿は影も形もない。事態の急展開に全く頭が追いついていないようだ。そんな彼らをコナンが落ち着いた口調で諭す。

 

「多分、灰原なら大丈夫だ。萩原が追っていったから」

「なんじゃと、伊吹君が来たのか!?」

「ああ。ほら、そこのハーレー見ろよ、あいつのだ」

 

 コナンが指差した先には横転しガードレールに引っかかったままタイヤをくるくると回している伊吹のハーレーがあった。子供達や博士はコナンに言われてようやくその存在に気がつき、徐々に事態が飲み込めてきたようだ。

 

「確かに一瞬黒い影が落ちていったような気がしたが、まさか伊吹君じゃったとは」

「で、でもでも、この崖すっごく高いよ……?」

「ええ、この高さから落ちたら流石に怪我では済まないんじゃ……」

「伊吹の兄ちゃんヤベーんじゃねーか!?」

「あん? 多分そっちは大丈夫だって。それより、俺たちはあの車の人のためにも、救急車と警察を呼ばないと」

 

 反対側にぶつかって動かない車の運転席ではエアバッグに倒れこみ気を失っている男性の姿が見えた。それを指差すコナンは落ちていった伊吹達を信頼しているのか、それほど心配はしていなようだが、その眉間にはシワが寄っており、怒りの表情を浮かべている。

 

「萩原なら無事に灰原を連れて戻ってくるさ。俺たちは、さっきの車をぜってー逃がさねえ」

「……ええ、もちろんです!」

「絶対に捕まえるもん!」

「ただじゃおかねーぞ!!」

 

 コナンの自信ありげな言葉に子供たちも灰原と伊吹の無事を信じる。そしてコナンと共に、例のハマーに対する怒りで燃え上がっていた。

 伊吹と灰原が落ちていった森の木々は、静かに風に揺れていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 灰原を襲ったのは激しい衝撃と、無重力体験だった。自分が車から投げ出されたのだと理解した時には体は急速に崖下へと吸い込まれていく。

 天を仰ぎ、背中から地面へと落ちていく。思わず空に手を伸ばしても、手は空を切るばかりでどうにもならない。視界には青空がいっぱいに広がり、白い雲が呑気に漂っていた。

 午後の高い日に目が眩み細めたとき、自分を呼ぶ彼の声が聞こえてきた。空耳かとも思ったが、太陽を背負った黒い何かの影が迫ってくるのが見えた。

 

「伊吹……」

 

 暗い逆光の向こうに見えたのは、無意識にもこの一週間考え続けてしまった伊吹の姿。思わずポツリと彼の名前を呟き、こちらに伸ばされる屈強な腕に自分の手を絡ませた。その手を力強く握り返されたとき、どこかぼんやりとして現実味を帯びなかった彼女の頭がハッとする。気づいた時には灰原の小さな体は伊吹の体躯に包まれるように抱きしめられていた。

 身を翻した伊吹によって2人の位置が入れ替わり、伊吹は自分の体をクッションにするように灰原が上にくるように抱きかかえる。何かを言いたげな彼女の口を塞ぐように自分の胸板へと押し付ける。灰原の体が自分の体からはみ出さないように注意しながら、伊吹は生い茂る木々を緩衝材にしながら森に飛び込んでいった。

 

「ぅぐぅッ……!」

「……ッ!!」

 

 走行するハーレーから飛び降りた勢いと高所から落下する勢いそのままに伊吹の体は木々の枝葉をへし折って落下し、斜面へと叩きつけられる。咄嗟に体を捻り転がるように受身をとることで衝撃を極力受け流していく。ライダースーツは体中いたるところが破れて出血し、泥と血にまみれて転がり落ちる伊吹。しかしその腕から灰原を離すことはなく、自身の背面のみを地面に打ち付ける。

 伊吹は相当な距離を転がり、滑り落ちたあと、一際大きな大木に背中を打ち付けてようやくその動きが止まった。

 

「ぁぁ……ぅぐっ……」

「ちょ――しっ――い――ッ!」

 

 背中と共に、メット越しとは言え後頭部を激しく打ち付けた伊吹の視界はブラックアウトしていった。耳鳴りのする中、遠くの方から聞こえるくぐもった灰原の声が頭の中にこだましていた。

 

 


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