哀歌   作:ニコフ

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7話 神様の言うとおり 後編

「……ほんとに……ったく」

 

 気絶する伊吹の腕を押し退けてもぞもぞと抜け出した灰原は、意識なくぐったりと倒れる伊吹のヘルメットを慌てながらもゆっくりと脱がし状態を確認する。だが、彼がただ気を失っているだけだと気づくと、その頑強さに呆れたように、安心したように小さな笑みを零した。

 ふっ、と木々の隙間から見上げた崖は自力では到底登れるものではなく、伊吹を置いて行くわけにもいかないと、その場にそっと座り込む。

 眠っているかのような伊吹の頭をそっと撫でる。灰原の顔には喜びや感謝と共に、少し寂しげなどこか切なそうな色も浮かんでいた。その小さな唇がポツリポツリと動く。

 

「私のためなら平気で自分を犠牲にするあなたに……素直に気持ちを伝えたりしたら、ますます怪我が増えそうじゃない……。素直になるのも、難しいものよ」

 

 一人先ほどのおみくじを思い出して困ったように笑う灰原。しかし何気なく探ったポケットにはそのくじはなく、どこかに落としてしまったようだ。

 彼女の大きなため息に反応するように、伊吹がうめき声を上げて意識を取り戻した。

 

「あぁ……ぅぐ、……どれくらい寝てた?」

「ほんの5分くらいよ」

「うぅ……いてて。……怪我は?」

「ええ、お陰様で無事よ。……ありがと」

 

 ちょっと寝違えた、と言わんばかりに起き上がる伊吹に、呆れたようなジト目を向ける灰原。その眼には伊吹の人間離れした肉体に対する疑問も含まれていたが、一番は「なんであなたがここに居るの」というものだった。目を合わた伊吹はその彼女の疑問をすぐに察する。

 

「俺の体はちょっと特殊で……」

「そっちじゃないわ」

「……あー、ちょっと前に帰ってきたんだよ。それでツーリングがてら迎えにでも行こうかとバイクで来たんだ。キャンプ場のパンフレットがテーブルにあったし、道も何となくわかったし」

「それで、なんで飛び降りた訳?」

「そりゃ哀が落ちていくのが見えたから」

 

 腕と肩を回し、首を捻りながら話す伊吹。灰原からの質問に、キョトンとした顔で至極当然のことのように答える。

 その言葉に額に手を当てて小さなため息をつく灰原。彼の身を案じて文句を言いたいが、彼のおかげで助かったのも事実なため、何も言えないもどかしさがあるようだ。

 木々の葉に揺れながら差し込む日差しに引かれるようにゆっくりと空を見上げ、ぼんやりと考えを逡巡させた灰原は、「少しだけ、素直になってみようか」などと考えていた。

 

「体は大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないよ、まだ本調子じゃないのにまた吹っ飛ばされてさ。一張羅も破れてるし、こんなに擦りむいちゃ風呂もしみるだろうなぁ」

「あの崖、どうする?」

「ああ……、まあ、あれくらいなら哀を担いで登れるかなぁ」

 

 なんでもないかのようにサラリと呟く伊吹。灰原はもはや驚くまいと目を伏せる。再びその目を開いたとき、彼女の目は微かに恋慕に揺れており、頬は薄らと朱色に染まっていた。

 

「じゃあ……おぶってくれない?」

「……」

「……なに?」

「……あ、いや、うん。いいけど」

「なにか言いたそうね」

「いや……うーん、別に。……ほれ」

 

 どこか恥ずかしそうな表情を浮かべてお願いする彼女に、一瞬呆気にとられる伊吹。何かが引っかかったのか、軽く頭をかきながら不思議そうな顔をする伊吹だったが、「まあいっか」と流すことにした。

 念のため灰原にヘルメットをかぶせ、しゃがみ込み背中を向けながら乗れとジェスチャーする。灰原は自分から頼んでいながら、あるいは自分から頼んだからか、少し照れながら伊吹の背中にもたれかかる。灰原が乗っても全く苦にすることなく立ち上がる伊吹。優しく握られる彼女の腕を掴んで少し振り返って背後の彼女へ声をかける。

 

「ちゃんとしがみついておけよ、落ちると危ないから」

「ええ、大丈夫よ。離さないから……絶対に」

「……う、うん。ならいいんだけど」

 

 伊吹の首元に回された灰原の腕にグッと力が込められる。どこか冷えるような、意味深に聞こえる彼女の言葉に伊吹は思わずたじろいでしまった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「おいおいマジかよ、灰原おぶって崖登ってきてんぞ、あいつ」

「超人的ですねー……」

「伊吹の兄ちゃんすっげー!」

「かっこいいー!」

「てかあいつこの間までギプス付けてなかったか?」

 

 灰原を背に乗せて崖をよじ登ってくる伊吹に気づいた子供たちがその様子を眺めている。そのあまりに非現実的な光景はまるで映画のようで、思わず他人事のように感想を漏らしてしまう一同。

 道路まで崖を登りきった伊吹は灰原をそっと降ろし、疲れを抜くかのように低い声を漏らしながら腰と首を捻る。現場には既に地元の警察が到着しており、辺りは騒然としていた。戻ってきた伊吹は博士や子供達と軽く挨拶を交わすと、すぐに警察から話を聞かれることとなった。

 

「哀ちゃん大丈夫?」

「お怪我はありませんか?」

「ええ、大丈夫よ。心配かけてごめんね」

「まあ悪いのはあのぶつかってきた車だからな」

「全くじゃ。早く捕まってくれんかのぉ」

「大丈夫だよ、博士。ナンバーこそハッキリと見えなかったけど、タイヤ痕に剥がれた塗料、割れた部品の欠片まであるんだ。すぐに見つかるさ」

 

 息をつきながらメットを脱ぎ髪を整えるように頭を振る灰原。子供たちは彼女を囲んで心配そうに声をかける。

 例の衝突してきた車についてコナンと博士が話していると、歩美が思い出したかのように灰原に話しかけた。

 

「そういえば哀ちゃん、おみくじにはなんて書いてあったの?」

「ああ、あれね。落ちるときに何処かへ無くしちゃったみたい」

「えー、あゆみ気になってたのにぃ」

「そうね、私もちょっと……」

「え?」

 

 眉を垂れ下げて残念そうにする歩美から視線を外した灰原は、おみくじを無くしたであろう崖下へと視線を落とす。風にそよぐ木々を見つめながら、どこか切なげな目をした彼女は「気になっていた……」という言葉をそっと飲み込んだ。その顔にはさっさと最後まで読めばよかったと思う反面、下手に心乱されずに良かったという安堵も見て取れる。

 

「あーあー、またボロボロだよ。まあ動くみたいだからいっか」

 

 警察から解放された伊吹が倒れていた自分のハーレーを運びながら子供たちの元へと戻ってきた。バイクのボディはアスファルトに削られて大きく傷ついていたが、運良く走行には問題ないようだ。

 止めたバイクの側にしゃがみこんで具合を確認している伊吹へ灰原が静かに歩み寄り、困り顔の彼を見つめる。その視線に気がついた伊吹が振り向くと、灰原は自分のハンカチをペットボトルの水で濡らし、彼の手足や顔などに付いた血や土をそっと拭う。

 

「痛っ……」

「動かない。じっとしなさい」

「うぃ、ありがと。でも自分でやるよ」

「私がするから」

「大丈夫だよ。ほら、貸して」

「嫌よ、あなたの手油まみれじゃない。ハンカチが汚れるわ」

「いや、拭いたらどっちにしろ汚れ……」

「私がしたいの。黙って拭かれなさい」

「……はい」

 

 灰原が半ば強引に手に持った水の滴るハンカチを伊吹の汚れた顔に当て、伊吹も文句は言わず大人しく身を任せている。彼女の表情は満足そうな笑みを浮かべ、可愛い子供をあやすような慈愛に満ちた優しい顔だ。彼女なりに素直に自身の気持ちを伝えたのが恥ずかしかったのか、伊吹におぶられている時のように、ほんのりと頬を赤らめている。

 灰原に口元を拭われ、「うぐぐ」と籠った声を出しながら伊吹は博士やコナンたちに問いかける。

 

「それで、今からどうすんの?」

「簡単にじゃがもう警察との話は済んだし、今日は帰ることになったんじゃが……」

「車があの状態だからな。タクシーでも呼ぶしかねえな」

 

 コナンが面相臭そうな顔で博士のビートルを親指で差す。車が大きくへこまされ、挙句高くつくだろうタクシー代を考えて博士はしょんぼりと落ち込んでいた。

 

「ですが、タクシー1台ではこの人数は乗り切れないのでは?」

「じゃあ、あゆみ伊吹お兄さんのお膝に乗る!」

「いや、仮にそれで乗れても法的にのぉ」

「俺のバイクなら問題なく動くし、俺はこいつで帰るよ。1人後ろに乗っけて帰れば大丈夫でしょ」

「はい! あゆみが乗るー!」

 

 灰原に一通り拭かれた伊吹は立ち上がり、博士に借りたタオルで手の油を拭いながら顎で自身のバイクを差す。彼の提案に真っ先に手を挙げて元気に立候補するのは歩美。そこに、鈴の音のような冷たく澄んだ声が待ったをかける。

 

「……私も、乗りたいわ」

 

 両腕を組み伏し目がちに答える灰原はいつもの澄まし顔だったが、どこか有無を言わせぬような雰囲気があった。思わず「うっ」と躊躇う歩美を見て、コナンは灰原へ呆れたような半眼を向ける。

 

「おいおい、歩美ちゃんに譲ってやれよ」

「バイクで帰るならタクシーより早く着くでしょ。私と彼で先に戻って、みんなで食べる今夜の夕食の準備をしておくわ」

 

 効率的でしょ、と言いたげにコナンを見つめ返す灰原。何故か今日は頑固で譲ろうとしない彼女。先ほどの伊吹とのやり取りを見ている限りでも、なにか様子がおかしい。触らぬ神になんとやらと、コナンは無理に理由を聞かず苦笑いのまま距離を取ることにした。そして一緒にタクシーで帰ろうと優しく歩美を諭す。

 伊吹はバイクのエンジンを吹かせながら調子を確認している。話はまとまったようで、隣に立つ灰原に別のヘルメットを渡し、自分は先程まで被っていた傷だらけのメットを被る。灰原の手を引っ張り上げて後ろに座らせ、腕を体に巻きつけるようにしがみつかせる。

 

「じゃあ先に帰ってご飯作っておくから、タクシーでのんびり帰っておいで」

 

 博士たちを一瞥したあと、メット越しのくぐもった声でそう言い残すと、伊吹は軽く手を振ってバイクを翻し山道を後にした。

 

「なんか、灰原さん様子が変でしたね」

「哀ちゃん機嫌悪かったのかな?」

「いっつもあんなんだろ」

「いや、むしろ機嫌良さそうだったけどな」

「そうじゃのう、何やら楽しそうじゃったわい」

 

 灰原が去り際に見せた、メットの奥の笑顔をコナンと博士は見逃さなかった。

 彼らが吹き飛ばされた森の中には、土に汚れた小さな紙が一枚、風に舞って流されていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「しかし意外だな」

「なにがよ」

 

 風を切って走っていた伊吹と灰原は途中のコンビニで小休憩をとっていた。お気に入りはなかったのか、いつものとは違うカフェオレを飲みながら伊吹は何となくポツリと呟く。灰原の手にも、彼と同じカフェオレが握られている。

 

「いや、てっきり哀はこのバイクが嫌いだと思ってたよ。うるさいって」

「ええ、そうね。あんまり好みじゃないわね」

「じゃあなんで乗りたいって言ったの?」

「別に、早く帰って夕食を……」

 

 伊吹の素朴な疑問に、灰原は先程コナンに言ったことをそのまま話そうとする。しかし、それは彼女にとっての本心ではなかった。灰原の頭に一瞬おみくじの内容が蘇り、思わず額に手をついてしまう。

 

「夕食?」

「いえ、その……えっと」

 

 なにか言いづらそうに口ごもり、視線を落として泳がせる灰原。紙パックを掴んだ右手は垂らしたまま、左手は口元に当てる。駐車場のポールにもたれるように腰掛けて足先を小さく組んでいる。

 落ち着かない彼女の視線は微かに潤みを増し、うまく言葉にできないのか、それとも口に出すのが躊躇われるのか、頬は火照り桜色に染まる。

 

「私は、あなたの後ろに……一緒にいたかったのよ」

「おーよしよし、可愛いやつめ」

 

 精一杯の灰原の言葉は伊吹の耳には届いていなかった。彼の口から漏れ出している愛撫の声は灰原に向けられたものではなく、彼の足元にじゃれつく人懐こい三毛猫にかけられたものだった。

 思わず少し肩を落とし、冷たい半眼で彼を睨んでしまう灰原だったが、その愛らしい猫の姿には嫉妬心や呆れも溶けていき、思わず笑顔が零れてしまった。

 

「ん? ここか、ここが撫でられるのがええんか。素直で可愛いやつだなお前は」

「……」

 

 それでも伊吹の何気ない言葉に、大きなため息をついてしまうのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 大きな屋敷の中に携帯電話の電子音が響き渡る。山道でコナンたちが事故に見舞われて少し経った頃、工藤邸では人相の悪い屈強そうな大男、アンドレ・キャメルが顔をしかめながらパソコンを操作していた。

 FBI捜査官である彼は同じくFBI捜査官である赤井秀一、もとい沖矢昴の指示で工藤邸にて待機していた。手元に置いていた携帯が鳴り、画面に赤井秀一の登録名を確認すると同時に、キャメルは弾かれたように携帯をとる。

 

「はい、キャメルです」

『キャメルか、少し手を貸して欲しいことがある。こちらに合流してくれ』

「了解です。ですが、今日帰ってくる例の、隣に住んでいる少女はよろしいので?」

 

 受話器の向こうからは沖矢昴ではなく赤井秀一の声が聞こえてくる。赤井は先日の電話の要件か、何やら諸事情で工藤邸を離れているようで、自分が留守の間キャメルに灰原の警護を頼んでいたようだ。

 

『ああ、彼女なら問題ない。優秀な番犬が戻ってきたようだ』

「番犬、ですか?」

本国(ホワイトハウス)の首輪に繋がれてはいるが、彼女を守ることに関しては、右に出るものはいないだろう』

 

 受話器から聞こえてくる赤井の声はどこか愉快そうに弾んでいた。話の内容がうまく掴めないキャメルは「はあ」と生返事しか返すことができなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 一同がキャンプから帰宅して数日後。伊吹はまだ完治しない体に鞭を打って学校へと通っていた。

 夕日も沈みはじめる下校途中、西日に照らされた長い影を地面に落としながら伊吹は阿笠宅の近くをトボトボと歩いていた。彼が工藤邸の前を通りかかったとき、道の向こうからスーパーの袋を片手に提げた買い物帰りの沖矢昴の姿が見えた。

 お互い相手の存在に気づいていないかのように、会釈も挨拶も視線を合わせることもなく2人は静かにすれ違う。数歩ほど離れたときに、どちらからともなく彼らは足を止めた。沖矢昴、もとい赤井秀一は薄らとその鋭い目を開き、甘く重たい赤井秀一の声で話しかける。

 

「戻って来られてなによりだ」

「心にも無いことを。CIA(私たち)が邪魔でしょうに」

 

 伊吹もまた静かに口を開き、テノールのような低い声で答える。その目は鋭く鈍く研ぎ澄まされており、瞬間的にCIA工作員としてのスイッチが入る。

 

「それはお互い様じゃないか。CIA(お前たち)FBI(我々)を邪魔だと思っているのだろう。だが、我々の敵は同一だと思うが」

「……」

 

 赤井が軽く振り返り、伊吹の背中へと語りかける。

 

「水無玲奈も我々と協力関係にある」

「らしいですね。ですが、CIA(私たち)も一枚岩ではないので。敵の敵は味方という単純な話でもないでしょう」

 

 伊吹も静かに振り返り、赤井の鋭い瞳を見つめ返す。

 

CIA(私たち)合衆国(ステイツ)の利益のために行動しています。FBI(あなたがた)正義の味方とは根本的に異なるのです。CIA(私たち)にとっては組織(奴ら)を潰すことが最大目標ではありません。静かに、気づかれず、悟られず、組織(奴ら)の中に根を張り、生かさず殺さず操り利用し、利益を搾取する。場合によってはFBI(あなたがた)と敵対することもあるでしょう」

 

 伊吹の言葉を聞いた赤井の目は一層に鋭さを増す。そこに怒りなどの感情は見られないが、警戒心のようなものが写っている。

 対する伊吹の目にもまた、敵対心のようなものは見えないが、相手の様子を窺っているようだった。

 

「まあ、もし上が決めれば、FBI(そちら)とも仲良しこよしで頑張りますが。……だが少なくともあいつは……哀に関しては、立場も仕事も関係なく、俺が守る」

「……そうか。お前が絶対の味方となるなら心強いと思っていたのだが」

 

 赤井の瞳の鋭さは消え、残念だと言わんばかりにため息を零す。赤井の言葉を聞き伊吹の脳裏には灰原やコナン、子供たちの笑顔が思い返されていた。

 

「そうですね。私もできることなら、そちらに協力して組織(やつら)を潰したいですよ」

「……」

 

 それだけ言うと、話は終わったと言わんばかりに伊吹は振り返って歩き出す。少し進んだところで何かを思い出したように再び立ち止まる。今度は振り向かないまま、言葉を紡いだ。

 

「私の一存では決められないので。……ですが、私のいない間に(あいつ)の警護をしてくれたことには、感謝します」

 

 伊吹はそのまま歩を進める。去っていく彼の背中を見ながら、赤井はどこか敬意を込めたような声色で、少し大きく声をかけた。

 

「白鯨を素手で仕留めたそうだな」

「……」

 

 伊吹は背を向けたまま片手だけを振って応えた。そのまま夕闇に溶けるように、阿笠宅へと消えていく。

 去っていく伊吹を見つめながら、赤井は小さな笑みを口元に浮かべる。

 

「……戻って来られて何よりというのは、本音さ。彼女のこと、よろしく頼む」

 

 日が傾き冷気を帯びた風に髪をなびかせながら、赤井、もとい沖矢昴は工藤邸へと姿を消した。隣同士の家に、小さな明かりが灯った。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「灰原おせーぞー、寝坊かー」

「確かに、今日は遅れてますね灰原さん」

「今日は伊吹お兄さんいるから歩美が乗せてもらう!」

 

 あのキャンプから一週間後の休日。少年探偵団はまだ陽が登りきっていない時間から阿笠宅へと集合しており、伊吹が帰ってきたことと、前回の口直しと言わんばかりに、再びキャンプへと出かけるようだ。

 ちなみに、例のハマーの運転手はあの後すぐに逮捕され、巻き込まれた車の運転手も大した怪我もなく助かったらしい。

 

「お前らキャンプ好きだねー」

「えー、だってせっかく伊吹お兄さんが帰ってきたんだし。コナン君はキャンプ嫌いなの?」

「そうだぞコナン。今日は仮面ヤイバーのリメンジだしな!」

「それを言うならリベンジです、元太くん。それにもうお祭りは終わってると思いますよ」

 

 事故に巻き込まれた博士のビートルは幸いなことに致命的な損傷もなく、ボディを修復するだけで済んだ。無事帰って来た愛車に博士は涙を流し喜んでいたとか。

 コナンたちはそのビートルにもたれ掛かるように博士と灰原、伊吹が出てくるのを待っている。

 

「いやー、遅れてすまんのぉみんな」

「博士おせーぞ!」

「あれ、灰原さんは?」

「伊吹お兄さんもいないよ?」

「それが哀君が全然起きんくてのぉ。伊吹君が起こして後からバイクで追いかけてくるそうじゃ」

「えー、じゃああゆみ、今日も伊吹お兄さんのバイクに乗れないの?」

「ああ、伊吹君がすまんと謝っておったわい。また帰りにの」

 

 ムスっと膨れる歩美を諭しながら一同はビートルへ荷物を詰め込み、乗り込んでいく。

 博士たちが車を走らせて阿笠邸を出て行った頃、伊吹は未だ起きる気配のない灰原のベッドに腰掛け、暖かな笑みを浮かべ彼女の寝顔を見つめていた。そっとその頭を撫でる指の隙間からは、痛みのない艶やかで鮮やかなブラウンの髪が零れ落ちた。

 

「んん……ぅ……」

 

 撫でられるのが心地よいのか、眠りながらに頬を綻ばせる灰原。薄く開けられた薄桃色の小さな唇から吐息混じりの声が漏れる。

 2階の窓から差し込む日差しに照らされる姿は、まるで彼女自身が優しく輝いているかのようにも見えた。

 

「んんぅ……、ん……?」

 

 伊吹の手の感触とまぶたを照らす日の光に、眉間をしかめながら目を覚ます灰原。鬱陶しそうに寝返りを打つように頭を動かしながら、腕で目元を隠す。彼女が動くたびに流れる茶髪は光の粒が弾けるように綺麗だった。

 

「目が覚めた?」

「……おはよう」

「おはよう」

 

 まどろみの中でぼんやりと天井を眺めていた灰原だったが、ハッとしたように伊吹の存在に気がつき、彼の顔をぼーっと見つめる。年相応の小さな子供を可愛がるような頬笑みを向ける伊吹。

 

「キャンプだよ」

「……ん」

「コーヒー淹れとくから、さっさと顔洗ってきな」

「……ん」

 

 伊吹の声が聞こえているのかどうか、気の抜けたような生返事だけを返す灰原。彼女の脇に手を入れふわりと持ち上げ、ベッドから降ろして立たせる。灰原は右手の甲で目元を擦りながら覚束無い足取りで洗面所へと向かう。

 伊吹は寝ぼける彼女をからかおうかと思ったが、後が怖いのでやめとくことにした。

 

「なんで起きなかったんだよ、この前は電話する余裕もあったのに」

 

 顔を洗いシャキっと目を覚ました灰原がスリッパを鳴らしながらリビングへと来ると、明るい日差しに照らされる室内で伊吹が朝食の準備をしていた。テレビからは朝のニュースが流れ、辺りはコーヒーの香りに包まれている。

 彼女がダイニングテーブルに座ると、伊吹は手際よく彼女の前に皿を並べた。

 

「別に、ちょっと夜更かしして眠たかっただけよ」

 

 彼女は瞳を伏せてコーヒーを飲みながら、イチゴジャムの瓶を差し出す。いつものことなのか、伊吹は何も言わずその瓶を開けて彼女へと返す。

 既に食事を終えている伊吹はコーヒーだけを飲みながら、目の前でこんがりと焼かれたパンをサクサクとかじる灰原を眺めている。

 未だ眠そうに時々目をつむりながら食事していた彼女だったが、半分ほど食べたパンを静かに皿に置いた。そしてゆっくりとまぶたを持ち上げて伊吹を見つめ返し、「いえ、違うわね……」と自傷気味に呆れたような笑みを浮かべる。

 

「あなたと一緒に行きたかったから。また、あのバイクの後ろに乗って、あなたと2人で、行きたかったから……わざと寝坊したのよ」

 

 その眼にはもう恥じらいはなく、頬を赤くすることもない。いつもの澄ました顔で、落ち着いた声色で、ただ淡々と事実を語るように言葉を紡いだ。

 彼女の穏やかな青い海のように綺麗で、陽の光を反射してきらめく瞳に見つめられ、その吸い込まれるような目に伊吹は一瞬言葉を失った。

 

「……あ、ああ。そう。じゃあ、さっさと行こうか、一緒に」

「……そうね」

 

 いつもより素直な灰原の態度と言葉に、どこかぎこちない様子を見せるも、いつもと同じような反応を返す伊吹。そんな彼に灰原は怒るでもなく呆れるでもなく、しかしどこか悲しそうに目を伏せるだけだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……ここ最近、私になにか思うところはない?」

「え、なに急に」

 

 伊吹と灰原はキャンプ場へと向かう途中、前回と同じコンビニの前で休憩をとっていた。灰原は隣でカフェオレを飲む伊吹を、いつものジト目で見つめながら業を煮やしたかのように問いかける。

 伊吹はよくわからない質問に間の抜けたような顔で彼女を見つめ返してしまう。

 

「いや、別に……」

「……」

「いつも通り……可愛いなぁ、としか」

「……はあ」

 

 灰原が意図していたものではなかったが、当然のことのように出てきた伊吹の言葉に思わず頬を薄らと桃色に染めてしまう。その反応を伊吹に悟られないように、顔を伏せて大きなため息を吐く。

 頭に「?」を浮かべながら見つめてくる伊吹に、軽く顔を傾けたまま恥じらい気味の半眼を向ける灰原。彼女のよくわからない態度に、キョトンとしながら無邪気に笑いかけるしかない伊吹。灰原は伊吹から視線を外し、つまらなさそうな顔で前をぼんやりと見つめる。駐車場に設置されているポールにもたれるように腰掛け、組んだ脚の先をぷらぷらと揺らす。

 

「全然ダメね……ラブリーみくじ……」

「ん? なに?」

「別に、何でもないわ。いつまでも休憩してないで早く行きましょ、ますます遅くなるわ」

「誰のせいで遅くなったと……」

「なに?」

「いえ、なにも」

 

 恥じらいつつも恋慕に揺れる瞳ではなく、いつもの冷めたジト目を向けてくる灰原。彼女にヘルメットを差し出しながら、伊吹は嬉しそうな微笑みを向ける。

 

「素直な哀も良かったけど、やっぱりいつもの哀もいいなぁ」

「なっ……に、あなた、わかって……っ!?」

「さあ、なんのことか」

「……――ッ!」

 

 彼の言葉にこの一週間ほどの自分の言葉や態度が一気にフラッシュバックされ、その恥ずかしさから耳まで一瞬にして赤くなる灰原。

 自分が素直になってみても態度の変わらない伊吹に感覚が麻痺し、最近は照れもなく本音を零していた。しかしその全てが彼に楽しまれていたと思うと、頭を抱えてうずくまって身悶えしそうになる。

 恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にする灰原は、それを隠すようにヘルメットを被り、つま先で伊吹の向こう脛を蹴り飛ばす。ビクともせず笑う伊吹の足を執拗に踏んづけていた。

 傍から見れば恋人同士のじゃれ合いには見えない、意地悪なお兄ちゃんが妹をからかっているような、主人が飼い猫をおもちゃで弄んでいるような光景が、朝の田舎町のコンビニ前で繰り広げられていた。

 犬の散歩をしながら過ぎ行く老夫婦が優しく2人を見つめている。太陽を反射する、傷だらけのハーレーが、やれやれと肩をすくめるようにハンドルを傾かせて佇んでいた。

 

「なにも本気で蹴らなくても」

「……」

 

 伊吹と灰原の2人がバイクを走らせ、狭い山道を駆け抜けていく。伊吹がメット内のマイクで話しかけるも、灰原は黙り込むばかりだった。まだほんのりと染まっていた顔は吹き抜ける風に冷やされていくも、その鋭く凍えるような瞳はより一層冷たさを増すばかりだった。

 傷だらけのハーレーダビッドソンが例の崖の道へと差し掛かる。事故でひしゃげたガードレールは一時的に補強されていた。

 2人が落ちていった崖の下の森には、泥と黒ずんだ血で汚れた1枚の紙が枯葉や枯れ枝に混じってポツンと落ちていた。ボロボロのそれはおみくじのようで、爽やかに木々の隙間を抜けていく風に揺らめくそこには、厳かな文字が綴られていた。

 

『飄々としてどこか掴みどころのない彼の心を射抜くには素直になること。

本心を隠して冷静に装っても、あなたが彼にべったりなのは筒抜け!

たまには開き直って、素直に思う存分に甘えれば、そのギャップに彼もイチコロのはず!

もし彼の態度が変わらなくても落ち込まなくて大丈夫。彼はもうこの上なく、あなたのことが大好きなのでは?』

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ヤイバーまだあるぞ!」

「ここの神社はいつまでお祭りをしているのでしょうか」

「なんでも今月の土日はずっと祭りしてるみたいだぞ」

「そういえばそんなことパンフレットに書いてあったかのぉ」

「あゆみ、もう一度チャレンジしたい!」

「オレもオレも!」

「僕もです!」

 

 一同は夜、再び祭りへと繰り出していた。そこには前回子供たちがことごとく敗れ去った射的場も存在していた。子供たちはリベンジに胸を高鳴らせ、祭囃子に合わせて軽くなる足取りで屋台へと向かっていく。が、コルク銃の景気のいい音と共に子供組のリベンジは5分で終了した。

 

「あなたがやってあげれば?」

 

 隣でりんご飴を齧る伊吹に、挑発的な視線を向ける灰原。

 

「そうだぜ! 伊吹の兄ちゃんやってくれよ!」

「お願いします伊吹さん!」

「お願い伊吹お兄さん!」

 

 屋台の前で必死に格闘する子供たちの頑張りを微笑ましく見ていた伊吹だったが、灰原の言葉と子供たちのお願いに、「よーし」とわざとらしく腕まくりをする。

 5回の銃声と共に、5つの景品が落下した。驚愕の顔を浮かべる店主を背に、子供たちにフィギュアをプレゼントする伊吹。ついでに落としたコーヒーの豆を博士に、小さな猫のキーホルダーを灰原へと渡す。

 

「ほれ、ついでにとった景品、あげる」

「おー、これは良さそうなコーヒーじゃのう」

「ま、貰っておいてあげるわ」

「俺にはねえのかよ」

「わりぃ」

 

 はしゃぎ回る子供たちを背に、手元にちょこんと置かれた猫を見つめる灰原。どこか満足そうに小さく笑って、それを大事そうにポケットに仕舞う。

 

「あ、そうだ哀ちゃん、もう一度ラブリーみくじ引く?」

「うーん、そうね……やめておくわ」

「えー、どうして?」

「……神様の言うことも、あんまり当てにならないものよ」

 

 目を閉じて呆れたように皮肉っぽく笑い、本人に気づかれないよう優しく伊吹を見つめる。おみくじなど関係なく、今彼が隣にいるだけで彼女は満足そうだった。

 そんな彼女をまた、まるで神様の悪戯な笑顔の口元を思い出させるような、薄い雲にかすれる三日月が見下ろしていた。

 

 


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