哀歌   作:ニコフ

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8話 いつか、エンゲージ 前編

「プレゼントがあるんだ」

 

 大きな手のひらにちょんと乗った小さく上品な箱。それが笑っちゃいそうなほどに不釣合いで、思わず吹き出しそうになる。ぎこちなく慣れない手つきで彼はその箱をそっと開いた。

 

「なに、それ?」

「帰りにたまたま見かけて、__に似合うと思って」

 

 月明かりのような優しい白銀色に輝く指輪に、小さくも上品にきらめく薄紫のアメジストがあしらわれている。凝ったデザインが施されているわけでもないが、そのシンプルな形状は元々化粧っ気の少ない彼女によく似合いそうだった。

 彼は無骨な指でそのリングを摘むと、彼女を見つめる。彼女も分かっていたように、少し意地の悪い笑みと共にその両手の指をそっと彼に差し出した。彼は困ったように頭をポリポリとかき、少し迷った後で彼女のその柔く美しい右手を静かに引き寄せた。

 「意気地なし」と小さく呟く彼女に、彼はどこか照れ臭そうにそっぽを向く。

 その綺麗な右の薬指にはめられた指輪は面白いほど彼女によく似合い、ごく自然に、ずっと前から付けていたかのように彼女に馴染んでいた。

 

「柄じゃないけど、たまにはいいかなって」

「……そうね、たまには、というより初めてね。こんなのくれたの」

 

 彼が恥ずかしそうに部屋の隅を見ながら呟く。彼女は左手で頬杖をつき、右手の甲をかざしながら少し物珍しそうに自身の指にすんなり収まっている指輪を眺める。指の隙間から見える彼の照れ笑いが、無性に愛おしく見えた。

 

「あんまりアクセサリーとか好きじゃなさそうだから」

「薬品とか付いちゃうかも」

「あ、そっか、やっぱりダメだったかな」

 

 自身がそれほど興味がないというのもあるが、仕事柄あまり手にアクセサリーの類をつけない彼女。よく考えてみればネイルひとつとってもシンプルで女性のたしなみ程度のものしかしていない。それさえも彼と時間を共有するようになってから少し興味を持ち付け始めたほどだ。

 しまったと頭に手をやる彼を見ながら彼女は小さく微笑んだ。

 

「……いえ、ありがとう。大切にするわ」

「……う、うん」

 

 愛おしそうにその指輪を優しく撫でて自身の口元へとあてがい、抱きしめるように手で包み込む。陽光に照らされ、白く淡く輝くその姿と仕草に思わず目を奪われて、生返事しかできなかった。

 「そうだ」と彼女が何かを思い立ったように化粧台へと向かう。引き出しの中を少し探した彼女が「あった」と呟き何かを持ってくる。

 

「こうしたら、どうかしら?」

「うん、すごく似合ってる」

 

 彼女は彼と共に過ごすようになってから購入したネックレスのチェーン部分を持ってきた。そのネックレス自体はそのうち付けなくなってしまい仕舞いこんでいたが、そのチェーン部分に指輪を通し首にかけてみせた。

 

「それなら薬品がつくこともなさそうだ」

「ええ、指にはまた、別の機会に、……別の指につけて」

「あ、いや、それは、その」

「ばかね、冗談よ」

 

 窓の開いた部屋には暖かい春風が草木の香りを連れて吹き込んでくる。白いレースのカーテンがヴェールのように揺れ2人の影を映し出す。

 

「あら、内側になにか文字を刻印しているの?」

「ああ、それは俺なりの気持ちというか、誓いというか……」

「なにそれ」

 

 優しい日差しの中で彼らの談笑は尽きることはなく、暖かいその空間と時間はまるで現実から切り離されたように2人を包んでいた。

 どこか遠くで機械音がする。その音がだんだんと近づいてくるに連れて、懐かしくて愛しい目の前の光景が少しずつ遠のいていった。

 

 

 

*****

 

 

 

 ピピピピピッ、ピピピピピッ。

 遮光カーテンの隙間からは曇天の鈍い明かりが微かに差し込む。頭の上でけたたましく鳴り響く目覚ましの針は午前7時少し前を指していた。

 

「ん……、んん……」

 

 ベッドの上にはミノムシのように丸まった布団が転がっており、室内を反響する不快な音から逃れるようにもぞもぞと動いた。しばらくしても止まらないその音に観念したように、布団からすっと白く柔らかい絹のような肌をした細腕が伸びてきた。

 少し雑に、その手が目覚ましの頭を叩く。

 

「……、夢……」

 

 目を覚ました部屋の主、灰原はベッドに座り込み、両手で目覚まし時計を持ったまま、ぼーっと部屋の天井を見上げて頭の覚醒を待つ。黒いノースリーブシャツとクリーム色のショートパンツ姿では少し冷えるようで、座ったまま掛け布団だけを背中に被っている。

 ポツリと零れた一言は頭の中を反響し、先程まで見ていた懐かしくも心地よい夢の内容を思い出す。胸の中が満たされて暖かくなるような、心地よい目覚めに思わず目覚まし時計を抱きしめて瞳を閉じ、口元には笑みが零れてしまう。

 

「指輪……」

 

 昔を思い起こし、幸せなこそばゆい想い出に耽っていた灰原だったが、何かを思い出したようにベッドから立ち上がる。暖をとっていた布団をほっぽり出し、そのまま足元のスリッパも履かずに自身のデスクへと向かう。

 そこに置かれた小さな木箱を持ち上げる。一見オルゴールのようにも見えるそれは、上品ながらも繊細な装飾が施されており、さながら彼女にとっての宝箱のようだった。そっと開けた箱の中から取り出したのは先程夢に見た、月のように綺麗な銀に淡い紫のアメジストが装飾されたリングだ。

 チェーンに繋がれたそれを持ち上げて思い馳せるように見つめる。

 

「久しぶりに、たまには……ね」

 

 両手でそっと握り締めたそれを灰原は慣れた手つきで自身の首へとかける。

 それは自身が小さくなってから、彼、伊吹と再会するまではお守りのように毎日身につけていたものだった。組織を逃げ出した彼女が唯一持ち出すことができ、唯一手放したくないものだった。

 組織を抜け出し1人となった自身の冷たく寂しい虚空の心が、それを付けていれば少し紛らわすことができた気がしたからだ。

 彼と再会してからは気のせいではなく確かに心が満たされていったから、自然と付けなくなり、自室に大切に保管していたのだ。もっとも、それを身につけているところを見られようものなら彼になんと言ってからかわれるか分からないから、というのもあるが。

 

「哀、起きてる? 朝だよ?」

「っ! え、ええ、大丈夫よ。すぐに行くわ」

「はいよー」

 

 突如としてノックされたドアの向こうから聞こえてくる伊吹の声。ドキッとした灰原はあたふたと慌てながら首にかけたネックレスを服の中へと隠す。彼がドアを明ける前に返事を返し、何とか見られずに済んだようだ。

 

「危険かしら……」

 

 パジャマ越しに胸元のリングに手をあてがい、ドアの方を様子を窺うように見る。廊下を遠のいていく彼の足音を確認すると、襟元を広げパジャマの中のリングもう一度見る。

 少し悩んだ彼女だったが、パジャマを着替えたあとも、その服の中にはリングが輝いていた。

 曇りの空は暗く、リビングではカーテンを締め切られ、朝から蛍光灯が室内を照らしていた。まだ雨は降っていないようだが、どんよりとした暗雲は今にも溶け出し落ちてきそうだ。

 

「おはよう、哀」

「ええ、おはよう」

『先日、都内宝石店に強盗が押し入り数千万円相当の貴金属類を――』

 

 テレビの向こうでは快活そうな女性アナウンサーが深刻な顔でニュースを読み上げる。何の気なしにそれを眺めながら伊吹が淹れてくれた朝の紅茶を楽しむ灰原。その香りと味に思わず笑顔がほころんだ。普段はご機嫌斜めのあくび娘が今日は朝からご機嫌なご様子。

 

「どうしたの?」

「別に。どうして?」

「なんだか機嫌が良さそうだから。何かいい夢でも見た?」

「……そうね、それなりにね」

 

 伊吹の問いかけに微かな沈黙の後、まぶたを閉じて小さく笑う彼女。含みのあるその言い方に伊吹と阿笠博士は目を合わせ肩をすくめる。いつも通りのつもりの彼女だったが、その口元に浮かぶ笑みが消えることはなく、小さな桜色の唇からは微かに沖野ヨーコのハミングが聞こえてきた。

 彼女もなんだか、空は曇っているのに今日は暖かい気がして、心も軽かった。

 

 

 

*****

 

 

 

 少年探偵団が揃って帰路へとつくまだ夕刻よりも早い時間。朝から続く空の厚い雲は切れ間を見せることもなく、今にも雨が降りだしそうな曇天は陽光を遮り湿気を含んだ甘い香りを辺りに漂わせ、既に街を暗い影で覆い灰色に染め上げる。

 沈むように暗い天気を気にする様子もなく、子供たちの元気な声と、5つのランドセルが道を行く。

 

「哀ちゃん、今日はなんだかご機嫌さんだねっ」

「え、そうかしら」

「なにかいいことあったの?」

「別に、なんでもないわ」

「えー、ほんとに?」

 

 湿気に乱れる髪を少しうっとうしげに手ぐしで整えていた灰原に、歩美が嬉しそうに声をかける。今日の灰原の機嫌は子供たちから見てもバレバレなほどよかったらしい。もっとも、歩美にそのことを聞かれるも、いたって普段通りのつもりの本人はなんてことないように応える。

 

「オイ、アレ見ろよッ」

「なんだよ?」

 

 少女2人の話を遮るように前を歩いていた元太が振り返ってみんなに声をかけた。コナンが答えながら元太の指差す方向に視線を送る。釣られるように光彦や少女2人もその方向へと目を向けた。

 

「高木刑事?」

 

 そこにはよく知った顔の男性、高木刑事が非番なのか私服姿でそわそわしながらお店の前に立っていた。ショーケースの商品を見つめたと思うと何かを考え、頭をかきながらまた見つめる。悩むように顎に手を当て目を閉じ、片目でちらっと覗くも、やはり値札は変わらないようだ。

 

「高木刑事なにやら挙動がおかしいですね」

「なにか悩んでるの?」

「ゼッテーアヤしい」

 

 ポストの陰に隠れるようにしながら高木刑事の挙動を観察する少年探偵団たち。しばらく様子を見ていると、何か意を決したような顔つきで高木刑事は店の中へと入っていった。

 

「んん?宝石店に入りましたよ」

「オイ、まさか宝石ぬすむ気じゃ……」

「ばかね、男が宝石店に入るときは大概、プレゼントを買うためよ」

 

 訝しげに宝石店を見つめる子供たちに、灰原が小さくため息をつきながら呆れたように呟いた。

 

「贈る相手は母、姉、妹、妻。色々あるけど、顔を赤くしてそわそわしながら入ったとなると、その相手は……、ま、恋人ってとこだろうぜ」

「恋人って」

「ことは……」

「つまり……」

 

 コナンが高木刑事の不審な行動に対する推理を披露すると、灰原は小さく微笑み、子供たちは目を輝かせる。探偵団の頭の中には高木刑事の恋人である女性刑事、佐藤刑事の姿がありありと思い浮かんだ。

 

「ようしっ、だったら今日の少年探偵団の活動は決まりだなっ」

「ですねっ」

「高木刑事のお手伝いだねっ」

「お、おい、お前ら」

 

 おーっ、と手を掲げて店へと向かう子供たち。置いていかれたコナンの声は全く聞こえていないようだ。隣にいた灰原も「ま、いいんじゃない」といつもより乗り気な様子で子供たちの後を追う。

 「実際ちょっと見てあげないと、あの人、センスなさそうだし」という辛辣な言葉にコナンも思わず苦笑いを浮かべながら宝石店へと向かった。

 

 

 

*****

 

 

 

「はぁ……、8万かぁ。高いよなぁ、やっぱり……。前に買った指輪のローンも残ってるし……」

 

 宝石を前に深くため息をつきながら呟く高木刑事。げんなりした表情で思わず財布を見つめてしまう。懐に余裕のなさそうな彼だったが、先日恋人である佐藤刑事と仲の良い警視庁交通部交通執行課の婦警、宮本由美から「間違いないって、美和子にはこれがおすすめ! 絶対気にいるからー」とこの宝石店の情報を聞かされていたのだ。

 どうもいいように使われている気がするなと思う高木刑事だったが、あそこまで自信満々にプッシュされれば頑張って買ってあげようかという気にもなってしまう。

 

「あの、よろしければ直接お手にとってご覧になられますか?」

「あ、い、いえ」

「お子様への贈り物ですか?」

「お、お子様……?」

 

 店員の女性が柔和な笑みをたたえて尋ねる。まだ買うと決心がつかない高木刑事は慌てていたところに思わぬ質問が飛んできた。店員さんの視線に釣られるように横を見てみると、そこには少年探偵団たちの姿が有り、子供たちがショーケースの向こうを指差しながら騒いでいた。

 

「コレコレ、ダイヤがいっぱい付いてんのがいいんじゃねぇか?」

「でも、佐藤刑事にはゴージャス過ぎませんか?」

 

 困ったように「君たちいつの間に……」と呟く高木刑事を他所に探偵団たちは宝石選びに盛り上がる。

 

「そういえば佐藤刑事、4月生まれって言ってたよ」

「4月の誕生石はダイヤ」

「じゃあやっぱコレじゃんか!」

 

 思い出したと、ぽんと手を叩く歩美にコナンが続ける。元太のオススメはダイヤがふんだんに散りばめられたネックレスのようだ。

 高木刑事が腰を降ろし、目線を下げて子供達に困ったように笑いかける。

 

「あのね、僕はまだ佐藤さんに送るなんて一言も……」

「あら、違うの?」

「その通りです……」

 

 この期に及んで濁そうとする高木刑事に、腕を組んだ灰原がジトっとした半眼で鋭く尋ねる。これには思わず目が点になりながら素直に認めるしかない。

 子供たちも素直に高木刑事と佐藤刑事の事を思い、嬉しそうに笑顔が浮かぶ。

 

「すみません、じゃあこのネックレスを見せていただけますか?」

「はい、こちらですね、どうぞ」

 

 高木刑事が指差したネックレスを取り出す。高級そうな小さな箱にはいくつかのダイヤが散りばめられ、豪華ながらも品のある美しいものだった。

 

「うわー、けっこーすげぇじゃん!」

「デザインもイケてます」

「わー、いいなぁ、佐藤刑事」

「そ、そうかな」

 

 子供たちに素直に褒められて気をよくする高木刑事。灰原も「ま、なかなか悪くないわね」と一言評すると、なんの気なしに他の装飾品へと目をやる。

 わいわいと盛り上がる一団を背に店内を見て回る灰原だったが、ふっとその視線が止まった。見つめるショーケースの中には濃淡様々な紫色をたたえるアメジストが飾られていた。思わず胸元の手を当て服の下にあるリングに触れてしまう。

 

「お、お嬢さん、お目が高いわね」

 

 後ろからかけられた声に振り返ると、そこには灰原よりも明るめの茶色に髪を染めた若い女性店員が人あたりの良さそうな笑顔で灰原とアメジストを見ていた。

 

「私もアメジスト好きよ、石では一番。綺麗でしょ?」

 

 敷居の高そうな店にしてはサバサバとフレンドリーに話しかけてくる店員に少し面食らってしまったが、彼女の言葉で視線は再びアメジストの方へと向けられる。

 

「ええ……。でもこうして見ると、透明度の高いものは淡くて、少し、儚げな気がするわね……」

 

 何かを思い返すように寂しげな瞳で石を見つめる灰原。「そこが綺麗なんだけどね」と笑いながら灰原の隣へとしゃがみ込み、どこか悲しそうな顔をする灰原の横顔をうかがう。

 その表情に少し驚いた店員だったが、そのまま優しく微笑むと、灰原へそっと呟いた。

 

「アメジストの素敵なところはね、宝石言葉と、石そのものの意味にあるのよ」

「意味……?」

 

 店員の言葉に惹かれるように振り向く灰原。そんな彼女に店員はパチリとウィンクを1つ残して教える。

 

「アメジストの石にはね____」

「……!」

 

 彼女の話を聞いていたとき、店内に乾いた音が1発鳴り響いた。

 

「キャーー!」

「喚くんじゃねえっ! この中に宝石を詰めろ、ありったけだ!」

 

 そこには顔の見えないフルフェイスのメットにコートを着込み、手袋をつけた男がその手に持った拳銃を店員に突きつけていた。いくつかの鞄を店員に投げつけ貴金属を中に詰めるように要求する。

 先ほどの音は男が脅しで撃った1発のようだ。天井に空いた風穴を見るにそれは本物のようで、灰原はコナンの元へそっと近づき小声で問いかける。

 

「麻酔銃は……?」

「ダメだ、フルフェイスのメットに厚手のコートと手袋、麻酔針が通らねえし、本物の拳銃を握ってやがる。下手に刺激はできない」

 

 忌々しげに状況を整理するコナン。すると探偵団を庇うように高木刑事が前へと踏み出し強盗犯へ声を上げる。

 

「警察です! 今ちょうど巡回中で仲間の刑事が側に大勢います! 諦めて、銃を捨てたほうが身のためですよ!」

 

 警察手帳を相手に突きつけながら説得を試みる高木刑事。しかし強盗犯は見透かすようにスモークのかかったメットの下でニヤリと笑った。

 

「んな気合の抜けたラフな格好でガキ連れて巡回か? オラッ、さっさとしろ!」

 

 悔しげに犯人を睨む高木刑事。だが確かに今の自分はとても巡回中の刑事には見えないし、相手が実銃を持っている以上迂闊に手出しはできない。

 

「おい、ちょっと待て、その鞄はそこに置け」

 

 店員たちが3つの鞄にそれぞれ店内の貴金属を詰め込み、犯人へと渡そうとする。しかし犯人は鞄を1つ受け取ると、銃口をクイッと動かし残りの2つの鞄をカウンター前の床へ置くように指示をする。

 

「おい、そこのお嬢ちゃん2人、その鞄をこっちに持って来い」

「なッ!? よせッ、子供たちは関係ないだろう!」

「保険は多いに越したこたねえだろう、刑事さんよ」

 

 犯人が指したのは灰原と歩美の2人。高木刑事の言葉をあざ笑うかのように、少女達に貴金属の詰まった鞄を自分のもとへ持ってこさせる。

 恐怖で怯える歩美を庇うように灰原が2つの鞄を持って犯人へと近づく。彼女の肩を掴み隠れるように後ろにつく歩美。

 

「いい子だ、そのまま鞄を持って外の車まで運べ。こっちのお嬢ちゃんは、こう使うとするか」

「きゃッ!」

 

 フルフェイスに隠れた顎を動かし、鞄を持つ灰原に外の車までの運搬を命じる。すると何も持っていない歩美からランドセルを下ろさせ、その体を持ち上げる。高木刑事や店員へと向けられていた銃口を、少女の額へとあてがう。歩美を人質にこの場を逃げ出す気のようだ。

 

「付いてくんじゃねえぞ、サツの姿を見たらガキどちらか1人は殺す。嬢ちゃん、車に乗りな」

 

 銃口を歩美のこめかみに突きつけ、店の目の前に止めていた黒いワンボックスカーに灰原を乗るよう促す。

 灰原は犯人の腕の中で涙を浮かべる歩美の様子を確認し、彼女に危害が加わらないよう犯人に抵抗することもなく、そのまま車へと乗り込む。

 フルフェイス越しに犯人を一瞥する灰原。忌々しげにその冷たい視線を犯人へと向けた後、車に乗り込む直前にチラリとコナンへ視線を配った。彼女の意図をコナンも読み取ったように小さく頷いた。

 宝石店の前にはすでに銃声と騒ぎを聞きつけた野次馬が集まりつつあった。それを意に介する様子もなく犯人は歩美と灰原と共に後部座席へと乗り込む。元々エンジンがかけられたまま止まっていた車は、フルフェイスの男が乗り込むと間髪入れずに発進した。

 

「た、大変だ、と、とにかく僕は警部に連絡をするから君たちは大人しく……って君たちっ!?」

 

 慌ててポケットから携帯を取り出した高木刑事がコナンたちへと振り返ると、そこにはすでに臨戦態勢の彼らがいた。

 

「大人しくなんかしてられっかよ! あゆみたちが連れてかれたんだぞ!」

「そうですよ! 僕たちも犯人を追いかけましょう!」

「だ、駄目だよ! 相手は拳銃を持っているんだ、君たちまで危険な目に遭う!」

 

 元太と光彦をいさめる高木刑事。彼らのやりとりをよそにコナンは1人顎に手を当て考え込む。そして静かに顔を上げると深刻そうな表情を浮かべ呟く。

 

「フルフェイスの男が後部座席に乗り込んですぐに車が発進したから犯人は少なくとも2人以上。そして俺たちはたまたまこの現場に居合わせたんだ、灰原と歩美ちゃんを人質に取ったのは予定外のはず。あれだけ大胆な犯行を犯す奴らだ、人質なんて取らずに身軽に動きたいはず。それでも人質を取ったのは刑事がたまたま居合わせてしまったから、ここからより安全に逃げるため」

 

 つまり、と続けるコナンに一同の視線と、嫌な予感が集まる。

 

「逃げた後、人質はもう用済みになる……ッ!」

「「!?」」

「とにかく! 犯人の車のナンバーは覚えているし、早く検問を! 歩美ちゃんたちが危険だってことも警部さんに!」

「あ、ああ、もちろん!」

 

 高木刑事が上司の目暮警部へと連絡を取り、深刻な表情で電話の向こうとやりとりをする。犯行状況や現在の状態、相手が実銃を所持していること、そして少女が2人が人質とされていることなどを事細かに報告している。

 少しして電話を切った高木刑事が、店内で未だに混乱している店員や他の居合わせた客に落ち着くように声をかけ、状況の説明をする。

 

「千葉たちがたまたま別の事件の捜査で近くにいるみたいだ。僕は合流するから少し店を離れるけど、すぐに戻ってくるから、君たちも大人しくしているんだよ! いいね!」

 

 宝石店を出て行きざまに少年探偵団へと声をかける高木刑事。子供たちの返事を聞くこともなくそのまま急いで店を後にする。

 

「今のうちだ、いくぞ」

「オ、オイ、どうすんだよッ!」

「と、とりあえず警察の検問で犯人が捕まるでしょうか!?」

「バーロ、白昼堂々宝石店を襲うような連中だ、なにか逃走経路を用意してるはず。そう簡単に捕まるかよ。車だってもう乗り捨てられてるかもしれねえ」

 

 コナンの深刻な状況説明に顔を青くする元太と光彦。

 少し顎に手を当て辺りを見ながら考え込むコナンだったが、そこに捨て置かれた歩美のランドセルに視線が止まる。何かに気がついたようにコナンは素早く携帯を取り出すと画面を操作し、誰かに電話をかける。しかし、しばらくコール音が鳴るものの電話は繋がらず、電話の画面をチラリと見て小さく舌打ちし呼び出しを切る。すぐさま別の番号へと電話をかけると、今度はしゃがれた男性の声が聞こえてきた。

 

『おお、新一、どうしたんじゃ?』

「ああ博士っ、大至急米花駅前まで車を回してくれッ!」

『ああ、それは構わんが、一体何事じゃ?』

「説明は後だ、とにかく一刻を争う状況なんだ!」

『わ、わかった。すぐに向かうから待っておれ!』

 

 電話の向こうの阿笠博士は慌てるコナンの言葉に、状況はわからないものの車で駆けつけてくれるようだ。

 

「俺は博士と合流するからお前らは……」

「オレたちも行くぞっ! あゆみたちが連れてかれちまったんだ!」

「ええ、コナン君ばかりいい格好はさせられませんよ!」

「……しゃあねえな、行くぞっ」

 

 電話を切ったコナンが子供たちに釘を刺すよりも先に、元太と光彦がコナンを制する。ここで言い合っていても時間がもったいないし、何より今までの経験からコイツらは引かないなと知っているコナンは、小さくにやりと笑い、2人を連れて宝石店を後にした。

 

 

 

*****

 

 

 

「で、でもコナン君、どうして、博士を駅前にっ? 宝石店でも、よかったんじゃっ?」

「バーロっ、宝石店にはすぐにパトカーが駆けつけるしっ、高木刑事たちも戻ってくるっ、そうなったら博士も近づけないしっ、俺たちも離してくれねえよっ」

「ひーっ、ひーっ……っ!」

 

 探偵団が息を切らせながら駅前まで走る。日は照っていないものの、湿気を多く含んだ空気は肌にまとわりつくようで、不快な汗が流れてくる。特に歩美のランドセルも担いでいる元太は息も絶え絶えだ。

 しばらく走ると米花駅が見えてきた。平日の駅前には人がまばらにいる程度で、博士の目立つビートルを見つけるのは容易かった。

 そのまま休む間もなく車へと乗り込む少年探偵団。慌てる彼らからことの事情を聞いた博士が車を走らせながら焦るように隣のコナンへと尋ねる。

 

「し、しかし、しんっ……、コナン君、犯人たちがどこへ向かっているのかはわかっておるのかっ!?」

「ああ、歩美ちゃんと灰原の探偵団バッジの信号がまだ犯人追跡メガネで追える範囲内にいる」

 

 コナンが自身の眼鏡に手を当てると、その縁からアンテナが伸び信号を受信する。レンズには2つの赤い光が離れたところで点滅している。

 

「うむ。それで、このことを伊吹くんには?」

「そうだぜ、伊吹の兄ちゃんに、言った方が」

「で、ですね……」

「さっきから電話してるけど帝丹高校はまだ6限目の授業中だ」

 

 博士と後部座席で肩で息をする元太と光彦が伊吹への連絡の有無を尋ねるが、コナンは忌々しげに頭をかく。携帯電話片手に話すコナンは先ほどから何度も伊吹を呼び出しているようだが、彼の声は聞こえてこない。しかしコナンは落ち着いたように続ける。

 

「灰原はランドセルを持ったまま連れて行かれた、ってことは携帯を持っているはずだ。あいつらは携帯のGPSをオンにしてりゃお互いの居場所がわかるアプリを入れてるって、萩原から聞いたことがある」

 

 手元の携帯で地図を開き、眼鏡の発信器の信号と照らし合わせるコナン。犯人の目的地を絞り込むように推理しながら淡々と続ける。

 

「灰原が犯人の車に乗せられる時、口パクで「け・い・た・い」って言ってたからな。オンにしてるのか、こっそりオンにしたのかはわからねえけど、萩原が異変に気づけば携帯のGPSから追ってくるはずだ」

 

 その言葉に阿笠博士と子供たちの顔が明るくなる。

 

「もっとも、それまで犯人が人質に手を出さなければ、だがな」

 

 深刻な表情のコナンの眼鏡が、キラリと反射した。

 

 

 

*****

 

 

 

「そのガキどもはどうするんだ」

「あの宝石店に刑事がいたんだよ。逃げるのにちょうどよかったからな、人質だ。追えば殺すとも言っておいたぜ」

 

 人気のない廃雑居ビルの一室。室内には錆び付いたロッカーや仕事机、割れた花瓶に古い電化製品などがほこりをかぶって散乱しており、元々倉庫の代わりに使われていたようだ。

 都心から離れ比較的郊外に位置する廃ビル。さらに通りから外れた室内には、どこかから水漏れした水滴の音が聞こえるほどの静謐が辺りを包む。

 逃走車を運転していた犯人が着けていたサングラスを外し、ほこりのかぶったまま放置されていたオフィスソファに腰掛けもう1人の男に問いかける。メットを外したフルフェイスの男がふぅと深く息を吸う。

 倉庫の壁際では目に涙を浮かべ今にも泣き出しそうな歩美と、冷静に犯人の様子をうかがっている灰原が、その辺に放置されていたガムテープで雑に手足を拘束されている。

 灰原の警戒するような鋭い視線が男の手に握られた拳銃を捉える。

 

「あ、哀ちゃん……」

「……っ」

 

 空に浮かぶ厚い雲はますますその色を濃くし、もうすぐ傾く西日を微塵にも通さない。この状況に希望の光が差し込まないかのように。

 

「……」

 

 視線を落とし、無意識に胸元に触れているリングの感触を意識する灰原。そしてそっと瞳を閉じる。まるで自身の願いがこの暗雲を貫いて、どこかにいる誰かに届くことを祈るように。

 

 

 

*****

 

 

 

 コナンの犯人追跡メガネに点滅する2つの赤い点が動きを止める。

 

「止まった!」

「どこじゃ!?」

「河川沿いだな、かなり郊外の方……。確かこの辺りは地震による地盤沈下が原因で避難指示が出されて今は無人の封鎖地帯のはず。その辺りの建物に居座ってんのか」

「確かにそこなら人目につかんじゃろうな」

「やっぱり車は検問で止められるからさっさと乗り捨てて、新しい車を用意してんのか」

 

 地図を片手に灰原たちの居場所を特定したコナンたちは急いで車を走らせる。犯人たちは極力同じ車での移動時間を削るため、比較的近くの避難指示地帯に潜伏しているのがせめてもの救いか、ほんの20分程度で到着できそうだ。

 

「ここで追いつかねえと、これ以上は犯人追跡メガネの電池が保たねえぜ、博士」

「いそげよっ! 博士!」

「犯人はもう目の前ですよっ!」

「わ、わかっとる!」

 

 探偵団に急かされる博士がアクセルを踏み込み、少女たちの元へと急ぐ。

 

 

 

*****

 

 

 

 曇天の空から溶け出した雨粒がどこかで葉を打ち、次第に大きくなるそれは窓を濡らし、廃ビル裏を流れる川に数多の波紋を広げる。比較的浅かった河川はみるみる増水し、砂利道の続く河川敷にまで届きそうなほどだ。

 辺りは雨雲の薄暗さと宵闇に飲み込まれ、すっかり闇の中に沈んでいる。廃墟には当然電気など通っているはずもなく、室内を照らすのは男たちが持ち込んだキャンプ用の電気式ランタンの明かりだけだ。

 

「……傘……」

「どうしたの、哀ちゃん?」

「え、あ……何でもないわ」

 

 倉庫の窓からとうとう降り出した空を見上げてぽつりと呟く。こんな状況にも関わらず、「今日彼は傘を持って行っただろうか」などと考えてしまう灰原。いや、こんな状況だからこそ彼のことを考えているのかもしれないと、自傷気味に呆れたように笑ってしまう。

 

「チッ、降ってきやがった。いつまでここにいるんだよ?」

 

 拳銃を握った男が忌々しそうに窓の外を眺めながら舌を打ち、もう1人の男へと苛立たしげに詰め寄る。

 

「落ち着け、この宝石を買い取ってくれるやつがいる。高飛び用の飛行機も押さえている。直に連絡が入るはずだ」

 

 その言葉に拳銃を持った男は再び舌を打ち、手持ち無沙汰に辺りをぐるりと見渡す。その視線が灰原と歩美を捉えると、訝しがるように2人へと近づく。歩美が小さな悲鳴をあげ、縛られた手足をもぞもぞと動かし男と距離をとろうとする。しかし男が興味を持ったのは灰原の方で、その首に光るネックレスのチェーンを目ざとく見つけたようだ。

 

「なんだ、ガキが大層なもんつけてんじゃねえか」

「あっ、ちょっとっ!」

 

 男が灰原の前へしゃがみ込み、その首元へ手をかけると、その銀色の細いネックレスチェーンを引き出し灰原が服の中へ隠していたリングを手に持つ。

 しゃがんでいるとはいえ男との身長差により首を少しと持ち上げられる灰原。不快そうにしながらも彼女は臆することなく男へと鋭く凍てつくような視線を向ける。そしてその声は底冷えするような静かで深く冷たい怒気を孕んでいた。

 

「……その汚い手を離しなさい。これはあなたみたいな人間が気安く触れていいような物じゃないわ」

「ああ? んだとっ、ガキが色気づきやがって」

 

 灰原の態度に腹を立てた男が彼女の首から引きちぎるように強引にネックレスを奪う。

 

「返しなさいっ!」

「っせえなッ!」

「あ、哀ちゃん……っ」

 

 倉庫内に乾いた音が響き渡る。指輪を奪われ思わず声を上げてしまう灰原の顔を、男が平手で叩き飛ばす。その勢いに思わず倒れ込む灰原は手足の拘束のせいで受け身もとれず、堅い床に額を打ち付けてしまう。

 彼女の安否を確認するように近づく歩美に「大丈夫よ」と小さく告げると、彼女の鋭い刃物のような視線は再び男へと向けられる。

 男は指輪を摘まむと、ランタンの明かりにかざしてしげしげと見つめる。しばらく眺めた男がつまらなさそうに口を開いた。

 

「刻印が入ってんな、石もアメジストか? たいした額じゃ売れねえな」

「満足したなら返してくれるかしら? それはあなた達が求めているような物じゃないわ」

「……確かにこの指輪は金にはならねえが……」

「ちょっと、なにする気!? やめなさいっ!」

「憂さ晴らしにゃなる」

「……ッ!!」

「哀ちゃん!」

 

 そう吐き捨てると男は灰原の制止も無視して指輪を投げ捨てる。チェーンのついた指輪が廃ビルの窓から綺麗な放物線を描いて飛んでいく。

 縛られた足をもつれさせ転倒しながらも窓辺へと駆け寄る灰原。開けられた窓枠へと身を乗り出して外を見る。吹き込む雨風に晒されながらもそれを気にする様子もなく必死に指輪の行方を追う。

 しかし目の前に広がるのは無情にも雨で増水した河川だった。茶色く濁ったその川か、草木が生い茂る泥と砂利にまみれた河川敷か、指輪の行方は全く検討もつかなかった。

 

「オラッ、大人しくしてろッ」

「キャッ」

 

 窓へと身を乗り出す灰原を男が引っつかみビル内へ引き込む。窓枠から落ちるように室内へ戻された彼女は再び堅い床へと叩きつけられた。手足を縛られた状態で額を床に当てたまま動かない彼女に、心配そうに近づく歩美。不安そうに顔の見えない灰原へと声をかける。

 

「哀ちゃん……大丈夫?」

「吉田さん……そのまま、聞いて」

 

 体は動かさず小声で答える灰原。男たちはオフィスソファに座り込みチラリとこちらを見たが、特に気にする様子もない。

 

「ここから逃げるわよ……」

「え、で、でも、どうやって……?」

「私に考えがあるわ……」

「でもでも、哀ちゃんケガしてるし……コナン君や伊吹お兄さんたちが助けに来てくれるの、待った方が……」

 

 灰原の提案に不安を隠せない歩美。しかし灰原もコナン同様、自分たちにいつまで人質としての価値があるかわからないと考えていた。このまま男たちの言う宝石の売買が終わるまで生かされている保証はない。それならばいっそ自分たちで逃走を考えるべきだと。

 

「……」

「哀ちゃん? どうしたの?」

「……ごめんなさい、吉田さん。これは私のわがまま……」

 

 そして何より、一刻も早く、指輪の行方を追いたいと切望しているのだ。逃げることを良しとする理由は数あれど、そのどれもが言い訳のような気がした。

 

「あれがないと……彼に合わせる顔がないわ……」

「……うん、わかった……! あゆみ、いっつも哀ちゃんに助けてもらってばかりだから……、あゆみも哀ちゃんのためにがんばるっ」

 

 いつになく不安げで困ったような、どこか呆れたような、それでいて親に怒られるのが心配でバツの悪い少女のような顔で呟く灰原を見て、歩美も力強く頷いた。

 2人は犯人に気づかれないようにゆっくりと室内を移動する。そして灰原は床に散らばっている割れた花瓶の破片を後ろ手に掴むと、手に小さな切り傷を作りながら自身を拘束するガムテープを切り裂いた。足の拘束も解くと今度は歩美のテープも切り、自身のランドセルから携帯を抜き取った。。

 灰原と歩美は視線を合わせ小さく頷くと、男たちの目を盗み、音を立てないように室内を後にする。

 外の雨は一層に強さを増していく。まるで大切な物を隠してしまうかのように。

 

 

 


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