哀歌   作:ニコフ

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8話 いつか、エンゲージ 後編

「くそっ、電池が切れた!」

「ええー!」

「まじかよコナンっ」

「しかしこの辺りのどこかにいるはずじゃ」

 

 目的の赤い点滅が停止した近くまで駆けつけたコナンたち一同だったが、いくつか乱立する廃ビルのどれに灰原たちが捕まっているのかを見つけ出す前に、犯人追跡メガネの電池が切れてしまった。

 コナンたちはビートルから降りると、ビルとビルの路地裏をのぞき込み、顔に降り注ぐ雨粒に顔をしかめながら各ビルの窓を見上げる。

 

「とにかく探すんだ! この辺りのビルのどれかに2人は捕まっているはずだ! 鍵のかかったビルまでは探してる時間がねえ! 入り口が開いているビルを見つけるんだ!」

「は、はいっ!」

「おうッ!」

 

 コナンの大声の指示も降りしきる雨音にかき消されてハッキリとは聞こえない程だ。幸い犯人たちの耳にも届いていないだろう。

 一同は手分けをして辺りの廃ビルの入り口を調べる。何枚目かの扉に手をかけたとき、コナンは一同に集合をかけた。

 

「あったぞっ!」

 

 大きなガラス製の扉は所々割れており、ひびも入っている。ビル内へと音が反響しないよう静かに戸を開け、様子を窺いながら中へと侵入する一同。

 顔を伝う雨水の水滴を鬱陶しそうに拭いながら、コナンは辺りに人のいる痕跡を調べる。後ろをついて歩く阿笠博士と元太、光彦も辺りをキョロキョロと見渡す。

 しかしそれらしい痕跡は何も見つからないまま上の階、上の階と上っていく。古いビルで1フロアごとの天井こそ低いものの、建物自体は10階程にまで届く。しかし各階層をくまなく調べても、灰原も歩美も犯人も見当たらないままついに屋上まで到達してしまうコナンたち。

 

「ぜんぜんいねえじゃねえかよ! コナン!」

「犯人の痕跡もありませんでしたね」

 

 コナンは小さな舌打ちと共に屋上を見渡す。念のために全員で屋上周りの調査を行っていたとき、ふっと見ると向かいのビルで何かが動いたような気がして、コナンは屋上のフェンスまで駆け寄った。

 

「いたぞっ! 2人だ!」

 

 その一言に全員がフェンスへとへばり付くように向かいのビルを覗き込む。同じく10階ほどある向かいのビル。屋上から見下ろした7階フロアの廊下を灰原が歩美の手を引き駆け抜ける姿が一同の目に飛び込んできた。

 

「まずいぞ! 犯人に追われている!」

「灰原さんっ!」

「あゆみぃッ!」

「2人とも! 逃げるんじゃ!」

 

 必死に呼びかける声も雨にかき消され、裏路地一本を挟んだ向こうのビルまでは届かない。犯人の凶手が容赦なく2人へと迫る。

 

 

 

*****

 

 

 

 灰原は歩美を連れて犯人たちのいた監禁部屋から抜け出した。手には小さな切り傷から赤い血が滲んでおり、引かれる歩美の手にも痛々しく血がつく。

 

「あ、哀ちゃんっ、血がっ、だい、じょうぶっ?」

「ええっ、平気よっ」

 

 逃げ出すのに何も小細工もしてこなかったのだ、犯人たちに気づかれるのも時間の問題だった。そのため灰原は歩美の手を引いてビルの出口まで一目散に走る。

 10階はあるビルの7階まで降りたところだろうか、古いビルは所々シャッターが降りていたり、防火用の扉が閉まっていたりと、一筋縄ではいかない。息も絶え絶えになった2人が休息も兼ねて一室へと逃げ込む。

 

「吉田さん、大丈夫っ……?」

「はあ、はあ、う、うんっ……、だいじょうぶ」

 

 走ったことと緊張とで、心臓の鼓動がバクバクと和太鼓のように激しく脈打つ。

 薄暗い部屋の中、誇りのかぶったオフィスデスクの陰でぼんやりと明かりがつく。灰原が捕まっていた部屋から持ち出した自身の携帯電話の画面を確認する。電話をかけようとする灰原だったが、携帯を操作する手をピタリと止め、眉をひそめた。

 犯人がすでに自分たちを探し始めている可能性が高いと考え、声を出すのは危険だと判断する。困ったように少し視線を泳がせる彼女だったが、何かを確認するように改めて携帯を操作する。

 

「哀ちゃん、それなあに?」

「これは……切り札、ってところね」

 

 彼女が歩美を安心させるよう少し得意げに微笑み、でもどこか申し訳なさそうに眉尻を下げて画面を見せる。歩美がそれを覗き込もうとしたとき、近くで荒々しい足音が迫ってくるのが聞こえてきた。二人分の足音、犯人たちのようだ。

 咄嗟に画面を消し歩美を引き寄せ闇に紛れる灰原。歩美が一瞬見えた携帯の画面には地図のような物が写っていた気がしたが、それがなんなのかはわからなかった。

 

「近いわね……」

「だ、大丈夫かな……」

「しっ、静かに……」

 

 しばらく息を殺していると、ドタバタと走り回る足音が徐々に遠のいていった。

 それを確認した灰原が部屋の戸を開け廊下の様子をチラリと覗き込む。そこには自分たちを人質としていた男二人の姿が見えた。何やら男たちは言い合いをしながら廊下の奥、突き当たりにある階段から階下へと降りていったようだ。

 

「行くわよ」

「う、うん……」

 

 おそらく犯人はそのまま自分たちを探しながらビルの1階まで向かうはず。そう考えた灰原は犯人たちと付かず離れずの距離を保ち、1階までは犯人たちに背後をとられないように進もうと考えた。

 歩美の手を引きながら廊下を静かに、それでいて犯人たちの居場所を見失わないように素早く進んでいく灰原。

 2人が廊下の突き当たりへともう少しで到達するかという、ちょうどその時だった、廊下の突き当たりの角から雨に濡れたずぶ濡れの姿でアタッシュケースを手に持ちコートにハット姿という見覚えのない男が姿を現したのは。

 

「ッ!!」

「っ!?」

 

 驚きを隠せないのは男の方も同様だった。灰原は相手を見るやいなや咄嗟に頭を回転させる。見覚えのない男、このビルにいる理由、何らかの荷物、先ほどまで雨に降られていたであろう濡れた姿。恐らくこの男が犯人たちの離していた「宝石の買い手」なのだろうと。

 

「吉田さんっ! 走ってっ!」

「話に聞いてた人質かッ! 動くなッ!」

「きゃぁっ!」

 

 状況がわからず未だ驚きで止まってしまっている歩美の手を掴み踵を返す灰原。来た廊下を反対方向へと駆け出す。7階まで降りてきてこのビルの階層構造は大体把握できており、この廊下の両突き当たりには階段があるはずだった。

 何が何だかわからないまま手の引かれるまま走るしかない歩美。彼女の後ろで大きく乾いた炸裂音がしたと思ったら、足下に捨て置かれていた金属製のキーボックスがはじけ飛ぶ。男が発砲してきたことは振り向かずとも理解できた。

 

「ちッ、ガキが俺に手間をかけさせるな……ッ」

 

 銃を持った男が二人の後ろから迫る。灰原は歩美を連れて走りながらも通り過ぎる各部屋の扉をチラリと確認していた。鍵の開いた部屋があれば中に逃げ込むことも考えたが、どの扉も鍵がかかっているようだ。

 

「ッ!?」

 

 廊下の奥にある階段から階下へと逃げようとした2人だったが、そこには防犯用のシャッターが下ろされており、錆び付いたそれは子供の力ではビクともしなさそうだった。

 廊下の奥からは拳銃を構えた男が、こちらが逃げられないことを察したようにニヤニヤと笑いながら迫ってくる。目の前の階段は抜けられない。近くの部屋のドアは鍵がかかり逃げ込めない。飛び降りるには高すぎる。

 

「あ、哀ちゃん……」

「……っ」

 

 灰原は歩美をその背に隠すように庇いながら男と対峙する。後ろの歩美は目に涙を浮かべ灰原の服の裾をギュッと握りしめる。灰原は苦々しい顔に鋭い目で男を睨み警戒するも、その顔には焦りと不安を隠せない。背中に冷や汗が伝うのを感じた。

 

「ああ、見つけたぞ。何だ、もういいのか。せっかく当たらねえように撃ってたのによ」

 

 荷物を足下へ置き懐から取り出した携帯電話でどこかと連絡を取り合う男。自分たちのことをさっきの犯人たちと話していることは明白だった。そして次に向けられる銃口は間違いなく自分たちへと向けられ、その銃弾が威嚇では済まないことも、明白だった。

 

「じゃあ、消しておく」

 

 そう告げた男が通話を終えると、その銃口を改めて灰原たちへと向けた。

 怯える歩美を改めて自分の背へと隠す灰原。現状の打破、相手と犯人の特徴、今日1日の出来事、探偵団のこと、今朝見た夢、無意識に様々な方向へ巡る思考の渦が濁流のように灰原の脳内へと押し寄せる。

 淡い紫色をしたアメジストの指輪が彼女の思考をよぎったとき、ふっと彼女の視界に隣のビルが写った。そこにはこちらを見つめながら何かを叫ぶコナンや博士たちの姿があった。

 男が引き金にかけた指に力を込めたとき、そのビルから迫る黒い影が見えた。

 

 

 

*****

 

 

 

「これ、なにを刻印したの?」

「別に、読めないならいいって」

 

 ダイニングテーブルの向かいに座る彼に、目を細めていたずらに微笑む彼女。首にかけられた指輪を眺めながら彼へと尋ねる。

 手元のリングには何やら英語の筆記体が小さな文字で刻まれており、細めのリングに刻まれたそれを彼女はまじまじと見つめながら解読しようとしていた。

 

「P? Prot……?」

「いいってば。メッセージとかじゃなくて、俺の勝手な言葉っていうか」

「プレゼントでしょ、私には知る権利があるわ」

 

 彼は焦ったように彼女の手元のリングへと手を伸ばす。照れくさそうに笑いながら指輪を彼女の視界から遮ろうとする。そんな彼をひらりと躱すように椅子から立ち上がり澄まし顔で自身の権利を主張する彼女。

 

「……」

「……あっ……」

 

 彼が椅子から立ち上がろうとした時には、彼女はその刻印をじっと見つめていた。黙ってそれを見た後、少し愛おしそうにその指輪をそっと指先で撫で、小さく薄く、しかし満足そうに微笑んだ。

 

「誓い、だったかしら?」

「……まあ、そんなところ」

 

 からかうように明るく話す彼女に、彼は窓の外を眺めながら呟いた。そしてどちらからともなく目を合わせ、優しく馬鹿馬鹿しく2人は笑い合った。

 

 

 

*****

 

 

 

「灰原ッ! 逃げろッ!!」

「あゆみぃッ!!」

「灰原さんッ!」

「いっ、いかんッ! 二人とも逃げるんじゃッ!」

 

 隣のビルで行われる凶行にただただ声を上げるしかない一同。しかしフェンスを揺らし大声を上げるも向こうに声は届かない。激しい雨に揺れる向こうで、男が銃口を少女たちへと突きつける。

 

「はいばッ……らッ?」

「うぉッ!?」

「なんですかッ!?」

 

 コナンが今一度向かいのビルへ叫ぼうとしたその時だった。彼ら一同が掴む高さ2.5mはあるフェンスがガシャンという大きな音を立てて激しく揺れた。

 自分たちの横を巨大な獣が駆け抜けたような気がして、音につられて上を見やるとそこには1人の男がフェンスの上に足をかけていた。

 

『!!?』

 

 一瞬の出来事だった。その黒い影が萩原伊吹だと気がつく前に、彼は全速力で駆けてきた勢いそのままにフェンスへと飛び乗り、その剛脚にありったけの力を込め、踏ん張ったフェンスがひしゃげるほどの勢いで飛び出したのだ。

 跳んだ。いや、まるで飛んだかのように宙を舞う伊吹は身をかがめ全身を丸め、まるで砲弾のように向かいのビルへと突き進む。そのまま向かいのビルの7階、灰原たちのいる階層の廊下の窓を突き破り着弾する。

 

「きゃあっ!」

「ッ!?」

 

 灰原たちに銃を突きつける男の目の前に飛び込んだ伊吹。窓ガラスは飛び散り、転がるように着地する彼の体を切りつける。その衝撃に歩美は思わず目を閉じてしゃがみ込む。

 灰原も驚いていたが、その目はどこかきょとんと拍子抜けしたように見開かれ、体の緊張は自然とほぐれていた。

 

「んだッ!? お前はッ……!」

 

 飛び散るガラス片がゆっくりに見え、雪結晶のように降りしきるその中で彼は静かに立ち上がる。その眼は刃のように鋭く鈍く研ぎ澄まさせれいる。

 突然目の前に現れた男に犯人は驚愕を隠せない。慌てて銃口を向けようとした瞬間、その手首はあらぬ方向へと曲がり、銃は伊吹の手の中にあった。

 何が起きたかわからないまま、眼前に迫る鉄拳を躱すすべを持たない犯人は塵芥のように宙を舞い、勢いそのまま床を滑るように廊下の奥へと転がっていった。

 

「……大丈夫か? 哀」

「…………、え、ええ」

 

 くるりと振り返った彼がゆっくりとこちらへ向かってくる。眼前でこちらを心配そうに見つめてくる彼。思わず返事に詰まったのは、昔もこんな風に助けられた気がして一瞬思考が思い出の中を泳いでいたのと、大切な物をなくしてしまって合わせる顔がないから。

 

「怪我してる。もっと早く来られたら……、ほんとにごめん。歩美ちゃんは、怪我してない?」

「大丈夫よ、これくらい……ありがとう」

「あ、あゆみも大丈夫っ! 伊吹お兄さんありがとうっ!」

「無事ならよかった。……哀?」

 

 伊吹が2人の様子を確認する。彼が心配そうに灰原の頬を撫で、その手につけられた薄い切り傷にハンカチを縛り付ける。伊吹に顔を覗き込まれて思わず顔を背けてしまう灰原に、心配そうに声をかける伊吹。灰原が何かを告げようと顔を上げたとき、廊下の奥から誰かが走ってくる足音が響いてきた。

 

「残党があと……二人ってとこか。ここで待ってて、すぐに片付けてくるから」

 

 そう言うと伊吹は灰原と歩美の頭をひとしきり撫で、安心させるように微笑むと、散らばったガラスを踏みしめ力強い足取りで廊下の奥へと消えていく。

 傷だらけの体、こちらに向けられるその大きな背中、弛緩する自身の緊張、この上ない安心感、心に湧いてくる暖かい感情。そんなことを感じながら、灰原は今朝の夢と、宝石店での店員の言葉が重なって思い起こされた。

 

『――アメジストの石には、――『誠実』と『真実の愛』の石言葉が。それとね、アメジストは悪いものからあなたを守ってくれる、『愛の守護石』でもあるのよ』

 

 どこか階下から聞こえてくる銃声とガラスの割れる激しい音。釣られるようにふらふらと灰原が廊下を歩く。後ろから心配そうにかけられる歩美の声も聞こえないように、足下に飛び散る窓ガラスの破片を拾い上げる。そこには真新しい真っ赤な鮮血が付着しており、それは伊吹が飛び込んできた時に彼の皮膚を切り裂いてついたものだった。

 それを両手で包み込むように掴み、祈るように自身の額へとあてがい、ギュッとつむる

 彼が指輪に刻んだ刻印、あれは確か……。確か……。

 

 胸が刺されたように痛いのは、きっとそれを無くしたからだ。彼の誓いを無碍にしてしまったような気がするからだ。この流された彼の血に報いることができないからだ。

 彼女の流せない涙を代弁するかのように雨は未だ強く降りしきる。

 

 

 

*****

 

 

 

 残りの犯人をあっという間に無力化した伊吹。犯人一味を縛り上げ、コナンたち一行と救出した灰原と歩美が合流し、伊吹が助けに来た経緯を話し出す頃にはパトカーがサイレンを鳴らして到着した。

 博士のビートルの中で濡れた体を温め休む一同に伊吹が声をかける。

 

「じゃあ俺はあの犯人たちを渡してそのまま事情聴取みたいだから、みんなは先に帰って休んでな」

「俺たちの聴取は?」

「疲れてるだろうから明日以降にしてもらうよう言っといた」

 

 警察の聴取に向かう伊吹にコナンが尋ねるも、伊吹の答えと隣で盛大にくしゃみをする元太の様子を見て納得する。

 じゃあね、と残して伊吹がパトカーへと乗り込むのを確認すると灰原は1人ビートルから下車する。

 

「じゃあわしらも帰ろうかの、って、哀くん? どうしたんじゃ? 濡れてしまうぞ」

「灰原?」

 

 彼女の行動に阿笠博士とコナンを始め男性陣は皆頭に「?」を浮かべる。その様子を見ていた歩美だけが心配そうに灰原を見つめる。

 

「ごめんなさい、私ちょっと忘れ物しちゃったから⋯⋯、少し待っててくれるかしら」

「忘れ物? ランドセルなら萩原が回収してきてんぞ?」

「それじゃないわ。……ごめんなさい、すぐ戻るから」

「って、お、おい! そっちはビルじゃねえぞ!」

 

 訝しげなコナンにそう言い残すと彼女は雨の中を駆けだしていく。捕まっていたビルの中へとは向かわず、もっとも警察が入れてくれないだろうが、ビルの側面から河原へと下っていく灰原。

 

「あ、哀くん! 川は増水しておって危険じゃぞ!」

「ったく、なに考えてんだあいつ」

「トイレかー?」

「いやですよ、元太くんじゃないんですから」

「…………」

 

 一同が灰原の行動に首を傾げながらビートルで待機する。すると彼女を心配そうに見つめていた歩美が、じっと俯いたまま黙り込む。

 

「歩美ちゃん? どうかした?」

「……。っ! あゆみも忘れものっ!」

 

 その様子に気づいたコナンが声をかけるとバッと顔を上げ、車を飛び降りた歩美が灰原の後を追っていく。

 

「あゆみぃーッ! なんだよ忘れもんってーッ!」

「哀ちゃんの大切なものーっ!」

 

 走り去る彼女に窓から顔を出した元太が大声をあげる。それに負けないような声で返事を返す歩美もまた、河原の方へと向かい一同の視界から消えていった。

 

 

 

*****

 

 

 

 河川敷は今も降り続ける雨に水嵩を増し、茶色い濁流は勢いを増して下流へと流れていく。この中に落ちていたらもう回収することは不可能だと灰原は冷静に考えながらも、河川敷に落ちている可能性にかけ、手も靴も服まで泥にまみれ雨に打たれながら大切なものを探し続ける。

 暖かくなってきた時期だが、それでも雨はまだ冷たく、その滴は容赦なく少女の体温を奪っていく。両手をすり合わせて吐息で指先を温め辺りを見回していたとき、土手の上から明るい声がかけられた。

 

「哀ちゃん! あゆみも手伝う!」

 

 歩美は転びそうになりながらも土手を駆け下り、灰原の両手に受け止められる。

 

「吉田さん、大丈夫よ。雨も降ってるし、車に戻ってていいわよ」

「ううん、あゆみも手伝う。あゆみも哀ちゃんのためにがんばるって言ったでしょ!」

「吉田さん……」

「オレたちも手伝うぜ!」

「はい、僕たちは少年探偵団の仲間ですからね!」

 

 更に土手の上から声がかけられる。そこには他の探偵団メンバーに阿笠博士まで、彼女の捜し物を手伝いに来てくれたようだ。

 

「みんな……」

「ま、そういうことだから、なにを探してんのか説明してくれよ、まずは」

 

 ぽんと肩に手を置かれると、そこにはどこか呆れ顔のコナンが足下の石を蹴りながら辺りを見渡していた。「どうせ萩原関係だろ」とからかう彼に、珍しく灰原は嫌みも鋭い目も向けることなく、小さく「ありがとう」と呟いた。

 

 

 

*****

 

 

 

 空を覆う厚い雲のせいで辺りは徐々に闇の中へと飲み込まれていく。曇天の向こうの太陽はもう完全に沈みきってしまったようだ。

 未だ捜し物が見つからず辺りの草木を払い泥をすくう灰原。これだけ探しても見つからないため、一同の心中にはもう諦めの色が滲み始めていた。

 降り止むどころか一層強くなってくる雨に、コナンと博士がこれまでと切り上げを灰原に告げようとしたとき、その空気を察したように灰原が静かに、力なくその場に立ち尽くす。川の方を眺める彼女の表情はみんなから窺うことはできない。

 

「哀ちゃん……?」

 

 心配そうに、彼女の様子を窺うに歩美が声をかける。しばらくの沈黙の後、灰原は「ふぅ……」と小さくも長く深いため息を吐いた。彼女は振り返らずに続ける。

 

「……いいわ。これだけ探しても見つからないなら、仕方ないわね」

 

 なんてこと無いように、いつもの澄ました鈴の音のような声色で淡々と呟く灰原。

 

「雨も強くなってきちゃったし……。ごめんなさいね、付き合ってもらって。風邪引いちゃうわ、車に戻りましょう」

 

 振り返った彼女は俯いたまま、その表情を見せない。本人はいつも通り平静に振る舞っているつもりだが、灰原のこんな姿は探偵団も博士も見たことがなく、かける言葉を持ち合わせていなかった。

 誰にも見せないその表情は寂しげで、どこか悲痛に満ちていた。彼女の頬を伝った水滴は降り続ける雨の滴か、それとも彼女の溶け出した心の一滴なのかは彼女自身にもわからなかった。

 帰り道のビートルの中、暖房の効いた暖かい車内の後部座席で子供達は泥のように眠っている。助手席に座る彼女は頬杖をつき暗い窓の外をなにを言うでもなく、ただ眺めていた。窓に流れる雨水の線を目で追いながら、心の中がぽっかりと空いてしまったかのような感じがして、彼女の心は上の空だった。

 

 

 

*****

 

 

 

 探偵団とコナンをそれぞれ家まで送り届けたあと、博士と灰原も自宅へと戻ってきた。伊吹は未だ帰っていないようだ。

 冷えた体を温めるために浴室へと向かう灰原。頭から暖かいお湯を浴びながら頭の中は無くした指輪のことでいっぱいだった。

 彼が帰ってきたときにどんな顔をすればいいのか。彼は指輪を無くしたことを知らない、黙っていたらわからないだろうか。そもそもあの指輪のことを覚えているだろうか。頭の中を様々な思考の波が寄せては返す。

 

「伊吹くん、遅いのう」

 

 浴室を出てからパジャマに着替え、とっくに髪を乾かし、簡単な夕飯を済ませても伊吹はまだ戻っていなかった。

 暖かい紅茶の入ったマグカップを両手に、灰原が心配そうに雨の打つ窓の外を見やる。そわそわとする胸中を沈めるように紅茶を一口すすったとき、バイクのマフラーを震わせる低い重低音が雨音に混ざって外から響いてきた。すると玄関の戸が開けられ、気の抜けたいつもの声が聞こえてきた。

 

「うぃー……ただいまー」

 

 マグカップをリビングに残し、パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関まで出迎えると、そこには全身ずぶ濡れで靴は泥だらけ、ズボンや服の裾まで泥にまみれた伊吹の姿があった。

 

「ちょっと、ずぶ濡れじゃない。大丈夫っ?」

「土砂降りの中バイク回収してきたからね。傘持ってなかったし」

 

 絞れそうな程に濡れた上着を玄関先でバサバサと払い、濡れた前髪を鬱陶しそうにかき上げる。両手をぷらぷらと振りながら水を払う伊吹。濡れ鼠のその姿に灰原も思わず声を上げてしまう。

 

「今タオル……」

「ごめん博士、このままシャワー浴びるけど、とりあえずタオル持ってきてほしいかな」

「う、うむ、ちょっと待っておれ」

 

 灰原がタオルを取ってこようとすると、それを制するように伊吹が困ったような笑顔で阿笠博士にお願いする。灰原のどこかバツの悪そうな表情と伊吹の言葉に、何かを察するように博士はそそくさと玄関を後に洗面所へと消えていく。

 伊吹の顔色を窺うようにチラリと視線を送る灰原。いつもと変わらない彼と目が合うと思わずさっとそらしてしまう。自身の右手で強く左腕を抱きしめ、そわそわと心が落ち着かない。そんな彼女の姿を少し悪戯っぽく、しかし優しく見つめる伊吹がそっと彼女の前にしゃがみ込む。

 片膝をつき彼女と同じ目線で、小さく微笑み、呟くように口を開いた。

 

「プレゼントがあるんだ」

「えっ……」

 

 思わぬ伊吹の言葉に返事を返せない灰原。思いがけない一言だが、聞き覚えのある一言。

 伊吹が自身のポケットの中をごそごそと探り、取り出したのは月のように白く淡く輝く銀の指輪のネックレス。

 

「帰りにたまたま見かけて、哀に似合うと思って」

 

 濡れた彼の手は冷え切っており、氷のように冷たい。手先には小さな傷がついており、爪の隙間まで泥にまみれていた。説明などなくても、それが今日無くした大切なものだということは、すぐにわかった。

 そして彼が冷たい雨に打たれ、泥だらけになってそれを探してくれたことも。

 

「柄じゃないけど、たまにはいいかなって」

「……っ」

 

 胸の中にこみ上げてくる感情をどう表したらいいのかわからない彼女は、思わず顔を伏せてしまう。

 その揺れるブラウンの髪を撫でながら、伊吹はネックレスをそっと灰原の首へとかける。

「うん、似合ってる」

「……」

 

 さげられたネックレスの指輪を両手ですくい上げる。手の中できらめくそれには微かな傷と汚れがついていたものの、今朝見た時よりも、一層輝きを増しているかのように思えた。

 うつむきなにも言わず指輪を見つめる彼女の頭を少し荒っぽく撫でる伊吹。くしゃくしゃと揺れる頭に灰原は抵抗しない。

 

「伊吹くん、とりあえずタオルを持ってきたぞ」

「ありがと、博士」

 

 様子をうかがっていたのか、博士がタオルを持って玄関へと顔を出す。

 

「じゃあこのまま風呂入るよ」

 

 受け取ったタオルで体の水滴を拭った伊吹がそのまま浴室へと向かう。チラリと振り返り未だ玄関で立ちすくむ灰原の後ろ姿を見て、小さく微笑んだ。

 

「哀くん?」

「……。……大丈夫よ、博士。すぐ戻るから」

「う、うむ。体を冷やさんようにするんじゃぞ」

 

 心配そうに灰原に声をかける博士だったが、彼女のいつもと変わらない声色に押し返されるようにリビングへと戻る。

 浴室からはシャワーの音が聞こえる。リビングでは博士が伊吹の分の夕飯を温め直しているだろう。周りに人の気配がしなくなったとき、灰原は糸の切れた人形のように壁へともたれかかり、ずるずるとしゃがみ込んでしまう。

 両手で包み込むように指輪を強く握りしめ、額へ押しつける。ギュッと目をつむり静かに一人喜びを噛みしめる彼女。

 空気が抜けるように自然と口から吐息が漏れた。それが見つかったことと、見つけてくれたこと。覚えていてくれたことと、思い出させてくれたこと。それが嬉しくてたまらなかった。彼女の瞳に喜びの涙が浮かんでいたかどうかは、彼女のみが知っている。

 

「目赤いけど、大丈夫?」

「……寝不足なの」

「あら、そう」

 

 お風呂上がりの伊吹に対して、彼女のいつもの澄ました態度が戻っていた。伊吹は満足そうに笑い、彼女は少し照れくさそうに彼を横目に見上げ、ため息を吐いた。

 彼女の首で揺れる指輪の内側には、小さな筆記体の文字が刻印されていた。

 

『Protects you no matter what』

(何があってもあなたを守ります)

 

 

 

*****

 

 

 

「あなたにプレゼントがあるの」

 

 あの一件からすぐの休日のことだった。リビングでコーヒーを片手にソファでぼーっとワイドショーを眺めながら休日を満喫していた伊吹に灰原が声をかけた。いつもの澄まし顔ながらどこか楽しそうで、上機嫌のご様子。

 あの日以来灰原は例の指輪を再び自身の宝箱にしまい込み、二度と無くさないようにと大切に保管していた。それを珍しく今日は首からさげていた。

 

「ん? プレゼント?」

 

 彼女が詰めろと言わんばかりに目の前で腕を組んで見てくるものだから、伊吹はそそくさと横になっていた体を起こし、ソファに一人分のスペースを作る。そこに腰掛ける彼女は無意識にも彼と足が触れあいそうなほど近くに座り足を組む。

 手に持つ小さな箱を伊吹の大きな手のひらへと乗せ、その上で小さなリボンをほどき、彼に見えるように箱を開ける。中には暗雲の隙間から顔をのぞかせる月のような黒色に鈍く輝く金属の輪っかがあり、その中央に添えられた石は淡い青色をしている。

 

「指輪? なんかすごく高そうだけど」

「別に。ただのお守り、みたいなものよ」

 

 手のひらに乗る箱をしげしげと見つめる彼に、いつもの澄まし顔で瞳を閉じてなんてことないように話す彼女。伊吹の手から取ったコーヒーを一口すすり、意地悪そうなジト目で彼に告げる。

 

「どの指につけるかは、あなたに任せるわ」

「え、ええ⋯⋯」

 

 困ったように指輪を摘まむ彼に「冗談よ」と笑いかけながらネックレスチェーンを渡す灰原。

 

「あなたよく暴力振るうし、指輪が曲がっちゃうわ。これで首からさげておきなさい」

「暴力って語弊があるような」

 

 納得いかないという表情で灰原から受け取ったチェーンに指輪を通し首へと下げる伊吹。「どうかな」と尋ねる彼を横目に確認して「いいんじゃない」と澄まし顔で答える灰原。しかしその口角はつり上がり、隠しきれない気持ちが溢れているようだ。

 

「ありがとう。……哀の次に大切にする」

「……大げさね」

「いやいや。……ん? これ何か刻印してる?」

 

 首にかけた指輪を嬉しそうに眺めていた伊吹が、ふっとそのリングの内側に刻まれた文字を見つける。

 その一言にピクリと反応する灰原だったが、一口コーヒーをすすり唇を湿らせると、なんてことないように口を開く。

 

「……ええ」

「でも読めないな……。これ何語?」

「ラテン語」

「ラテン語ッ!? ……よ、読めない」

「別に、読めなくてもいいわよ。どこの言語にでもある、普遍的なただの定型文みたいなものだから」

「そうなの?」

「…………ま、私なりの気持ち、かしらね」

 

 小さな声でそう言い残すと彼女はそそくさと席を立ち、パタパタとスリッパの足音を残して自室へと戻っていく。チラリと振り返り、指輪を片手に首を傾げる伊吹に、いたずらな、それでいて恋慕に揺れるような微笑みを残して。

 

「なんて書いてんだろ。……調べるのは野暮、かな?」

 

 携帯で検索をしようとした彼だったが、なんとなくやめておくことにした。それを知っても知らなくても、そのお守りは彼にとって何より大切なもので、その言葉は彼女が残した女の子らしい暗号のような気がしたからだ。

 答えはいつか彼女の口から直接聞こうと、指輪を見つめて楽しみだと小さく微笑んだ。

 

『Apud me sis. seculo seculorum』

(あなたが私のそばにいますように。ずっと、いつまでも)

 

 

 

*****

 

 

 

「で、これいくらしたの?」

「……ちょっと奮発したくらいよ」

 

 

 


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