「灰原さん、どうしたんでしょうね」
「なんかすっげー不機嫌だよな」
「うーん、怒っているっていうより……なんだか悲しそう」
「まあ、一昨日の様子からして萩原のことだわな」
翌日の帝丹小学校の教室ではそんな会話が交わされていた。今日一日の灰原の様子を見ていた少年探偵団がひそひそと密談しているようだ。
本人はいたって普段通りにしていたつもりだが、子供たちには感じるものがあったらしい。放課後になっても様子の変わらない灰原に、コナンが「しゃーねえな」と呆れたように声をかける。
「今日は萩原の尾行はいいのかよ?」
その一言は静かに、しかし確実に彼女の地雷を踏み抜いてしまったようだ。思わず鋭い視線をコナンに浴びせながら彼女が不愉快そうに口を開く。
「別にいいわ、彼にもイロイロあるんでしょ」
冷静な声色で答える彼女だったが、ランドセルに教科書を詰め込んでいた手つきは若干荒々しくなっていく。
地雷を踏んだことに気づいたコナンが困ったように頭をかく。そして子供たちに聞かれないよう灰原へ顔を寄せてひそひそと話す。
「なんでもいいけどよ、あんまり態度に出すなよな、あいつらも困ってんぞ」
「そんなつもりは……。……そうね、ごめんなさい」
言い返そうとする灰原の視界にこちらを心配そうに見つめている子供たちの姿が映る。自分に呆れたように小さなため息を吐いた彼女が、申し訳なさそうに子供たちへと話しかける。
「ごめんね、みんな。大丈夫だから心配しないで」
「哀ちゃん、なにか嫌なことでもあったの?」
「大丈夫よ、ありがとう吉田さん」
眉尻を下げて心配そうにこちらを覗き込む歩美に、灰原は静かに答えた。彼女の無垢な瞳から反らされたその視線は窓の外の青く高い空を捉える。まるで遠くの誰かを見つめるかのように。
「なんだかわかんねーけど、今日は灰原もいるから、もう一度あの秘密基地に行こーぜ! 昨日はコナンも灰原もいなかったからな!」
「いいですね!」
「哀ちゃんも行こっ!」
「え、ええ」
元太の一言から、今日の探偵団一同の活動が決まったようだ。子供たちに背中を押されるように教室を後にする灰原。先ほどチラリと見えた携帯電話のメッセージの着信には、なんとなく気づかないフリをしてしまった。
*****
「なんだかやけに騒がしいですね」
「パトカー沢山だねー」
秘密基地へと向かう一同の横をサイレンを鳴らしたパトカーが何台か通り過ぎていく。見覚えのある刑事の顔がちらほらと見えたらしく、子供たちは去って行くパトカーを見送る。
「昨日、例の居直り強盗がまた強盗したらしいぜ。しかも今度は家主を殺害して強盗殺人だ」
「今日の午前中にもあったみたいね、もうネットニュースになってるわ」
コナンが騒動の原因に心当たりがあるようだ。居候先の毛利のおっちゃんにでも聞いたのだろう。それを聞いていた灰原が操作していた携帯の画面を一同に見せる。
画面をまじまじと見つめる一同に少し離れた路地の隙間から顔を覗かせた元太が声をかけた。
「おーい! こっちだぞ!」
元太の案内の元たどり着いたのは柵と塀に囲われた古い雑居ビルだった。ビルの入り口にはシャッターが降りていたものの、締め切られておらず僅かな隙間があった。子供なら楽に入れそうなその隙間を元太が得意げに指さす。
「昨日オレたちが見つけたんだぜ。 昨日中に入ってみたら誰もいねーし、少年探偵団の秘密基地にしよーぜ!」
「おめーらなあ、ここは来週には取り壊されるみてーだぞ」
「ええー、じゃあ今週いっぱいの秘密基地ですねー」
「こんなところ、危ないわよ」
コナンの忠告も灰原の注意もどこ吹く風で、子供たちはす既にビルの中へと侵入していた。コナンが仕方ないと、ため息と共に後を追いかける。その後に続く灰原はビルに入る前にチラリと携帯を確認するも、そのままランドセルの中へと片付けてしまう。メッセージの着信を告げるアイコンは、1から2へと増えていた。
*****
「ほい、元太みっけ。これで後は歩美ちゃんだけだな」
一同は拾ってきた空き缶を使い、ビルの中で缶蹴りをしているようだ。今度の鬼はコナンのようで、既に元太、光彦、灰原は見つかっている模様。灰原の「大人げない」という一言は無視して、残りの歩美の捜索へと乗り出すコナン。
ビルの入り口に放置されているランドセルのそばで、見つかった灰原たちは休憩している。ふっと窓から外を覗いた光彦が少し慌てたように声を上げた。
「もうずいぶんと暗くなっちゃってきましたね」
「そうだな、そろそろ帰るか」
電気のついていないビル内は外よりも薄暗くなりはじめ、建物の隙間から差し込んでくる西日だけが頼りになっている。
腕時計を確認したコナンが探偵団バッジを取り出し歩美へと集合を呼びかけようとしたとき、先に向こうから歩美の小声が聞こえてきた。
「コ、コナンくん……? なんかこのビル、変な音がするよ?」
「歩美ちゃん、今どこにいる?」
「ご、5階だけど……部屋の中から物音が……」
「わかった、すぐに行くから待ってろ!」
歩美の報告に険しい表情で告げるコナン。その様子を見ていた子供たちが不安げに声をかける。
「ど、どういうことでしょう、このビルには誰もいないんじゃ?」
「お、おう。昨日オレが見たときは誰もいなかったぜ?」
「わからない。昨日のお前らが帰った後に誰かが入り込んだか……」
「とにかく、吉田さんの元へ」
灰原の言葉に一同は急いで階段を駆け上がっていった。
*****
薄暗いビルの通路に1人立ち尽くす歩美。例の部屋からは未だ物音が聞こえてくる。怖くなった歩美が音を立てないようにそっと後ずさり距離を取る。しかし、廊下の壁伝いに動いていた歩美は足下に放置されていた消化器に気がつかず、そのまま蹴り倒してしまった。
カーンッという甲高い金属音が静かな廊下に反響する。それと同時に、部屋から聞こえていた物音がピタリと止まった。
誰かがいる、誰かいるからこそ廊下の物音に反応して動きを止めたんだ。幼い少女にもそれくらいのことは理解でき、歩美の表情には恐怖の色が浮かぶ。
ギギギと蝶番が悲鳴を上げる。鈍い音と共にゆっくりと開かれた扉から何かがぬっと出てきた。最初に見えたのは、錆び付いているかのように赤茶色の何かが付着した刃物。そして、それを握りしめた長髪に無精髭を生やした男。
夕闇の影に浮かび上がる病的に青白い顔色。見開かれた両の目は血走っており、その双眸が歩美を捉える。
「キャーーーッ!!」
「ッ!!」
「歩美ちゃんッ!!」
堰を切ったかのような歩美の悲鳴に、男が慌てて飛び出したのと、コナンたちがたどり着いたのは同時だった。
新たな子供たちの声に男は驚き、首をぐりんと捻り、コナンたちを視界に捉える。目の前で尻餅をつく怯えきった少女は後回しだとでも言うように、男は踵を返しその刃物を逆手に持ちコナンたちへと駆け出す。
コナンが手に持っていた空き缶を投げ出し、キック力増強シューズに指をかける。バチバチと音を鳴らしながら振り抜かれたコナンの蹴りは空き缶を的確に捉え、それは男の顔面へと真っ直ぐに飛んでいく。
「っ……!」
「なッ!?」
だが、たまたま、男の足がもつれた。悪運の強い男が意図せず体勢を崩したことでその空き缶は男の顔面を外れ、廊下の壁と天井を跳ねまわり虚しい音を立てて夕闇へと飲み込まれていった。
床に手をついていた男が再び立ち上がりコナンたちの眼前へと差し迫る。幸い4人もいる子供たちに男の刃先は迷い、その振り下ろされた凶刃は空を切った。
「うわああっ!!」
「元太ッ! 光彦ッ!」
上手く男の横をすり抜けるように動いたコナンと灰原に対し、元太と光彦は男に背を向け来た廊下を戻ろうとする。男は咄嗟に逃げ出そうとする二人を追いかける。
こんな時に修理に出しており、ボール射出ベルトが無いことに舌打ちをしたコナンが、2人の救出のために男を追いかける。
「灰原は歩美を連れて逃げろッ! 外に出てなんとか警察に通報してくれッ!」
コナンはそれだけを言い残すと男の後を追い廊下突き当たりの角を曲がり、灰原と歩美の視界から消えていった。
走り回る音が階下へと消えていくなか、灰原は歩美に寄り添い彼女を立たせる。
「ほんと、犯罪者って廃墟とか廃ビルとか、陰気な場所が好きよね」
苛立たしげにそう吐き捨てた灰原が歩美を庇うように、前方の安全確認をしながら廊下を進む。
「ちょっと……!」
「そ、そんなあ……」
時折聞こえてくる物音に注意を払いながら、遠回りをしつつ1階の入り口へと辿り着いた灰原たちだったが、その顔に驚愕と焦りの色が浮かぶ。あの男が先回りし、シャッターを完全に下ろしたあげく無理矢理に鍵を閉めたらしく、とてもじゃないが出られそうになかった。
更に辺りにはランドセルの中身が散乱しており、携帯電話が見当たらない。それも男が持って行ったようだ。
苦虫を噛みつぶしたように忌々しげな表情を浮かべる灰原。辺りを見回しながら別の脱出手段を考えるも、ビル内の窓は高い位置にあったり、鉄線入りの嵌め殺し窓であったりと、簡単には抜け出せそうにない。
腰に手を当て小さくため息を吐く灰原。何か役に立つものはないかと散乱した自分の荷物を物色し始めたとき、見えない廊下の角から足音が響いてきた。
「あ、哀ちゃ……」
「しッ、静かに……」
その足音に歩美も気がついたようで、不安げな声色で困惑したように灰原へと声をかけようとする。人差し指を立ててそれを制する灰原が、歩美の手を引いて壁際へ背を向けて隠れる。
そっと頭を少し覗かせて奥を確認する灰原。そこには何かを探すように辺りをキョロキョロと見回しながら徘徊する男の姿があった。幸いこちらには気がついていないようだ。
「こっちよ……」
男に悟られないよう細心の注意を払い、歩美の手を引いて男とは反対の方へと逃げる灰原。男が1階まで降りていたことを考慮し、音を立てないように上の階へと避難する。
「吉田さん、大丈夫……?」
「う、うん……」
最上階の一つ下、5階まで逃げてきた灰原が、肩で息をする歩美の背中をさする。極度の緊張と、音を立てないように行われる有酸素運動は、少女の体力を削るには十分だった。
どこかの室内に避難することも考えたが、最悪の場合逃げ道がなく追い詰められる可能性があったため、灰原は廊下の奥の曲がり角で一息吐くことにした。ここならばいざという時、上にも下にも同階の奥まったところにも逃げられそうだ。
「元太くんと光彦くん……大丈夫かなあ」
「向こうは江戸川くんがついてるから、きっと大丈夫よ」
刃物を持った狂人に真っ先に追いかけられた2人のことを思い、心配そうに呟く歩美。それを慰めるように肩を抱いて優しく微笑む灰原。「それよりも」と先程と同様に廊下の角から頭を少し覗かせて鋭い瞳で奥の様子を確認する。人の気配がしないことを確認してから再び歩美へと向き直る。
「とにかく、なんとか助けを呼ばないとまずいわ」
「じゃ、じゃあ伊吹お兄さんを呼べばいいんじゃ……」
「そうね……。でも携帯がないし、GPSは普段オフにしてるし……彼は探偵団バッジを持っていないのよね……」
「GPS?」
「いえ、なんでもないわ」
困ったように手で口元を隠しながら独り言のように呟く灰原。淡々と伊吹に救難信号を飛ばせない理由を述べていく。それは冷静に現状を分析しての言葉だったが、「それに……」と続ける彼女の瞳には昨日と同じような、寂しさが滲み出す。
「彼は……来てくれるかしら……」
静寂に包まれる廃ビルの中でも聞きそびれそうなほどに小さく、力なく、その呟きは彼女の口からこぼれ落ちた。
『お、俺にも、いろいろあるんだよ』
先日の彼の言葉が彼女の脳内を反響する。その時思わず彼から視線を反らしてしまい、あのとき彼がどんな顔をしていたのかは覚えていない。しかしその拒絶ともとれる一言は確かに彼女の中にしこりとして残り続けていた。
額に手をあてがい自傷気味に呆れたように小さく失笑する灰原。「柄にもなく傷ついているのかしら……」と胸の中で呟き、感情の整理がつかないようだ。
「大丈夫だよっ」
「……えっ?」
誰に言ったでもない言葉だったが、歩美には確かに聞こえていた。
今朝から元気のなかった灰原の様子。力なく笑う彼女の不安そうな仕草。いつもよりも弱々しく、風に吹かれ今にも折れてしまいそうな花のように儚げな表情。
幼い少女には、彼女に何があったのか推し量ることはできなかったが、それでもただ一つ、自信を持って言えることがあるようだ。
「大丈夫だよ、哀ちゃん! 伊吹お兄さんは助けに来てくれるよ!」
屈託無く笑う少女には微塵も疑念を持っている様子はなく、心の底から断言しているようだ。
「だって、哀ちゃんが困っている時はいつでもどこでも、伊吹お兄さんが来てくれるもん! 絶対!」
「……そうね」
自分と彼のことなのに、なぜか自分よりも自信満々に答える少女の姿を見て、思わず笑みが零れてしまう灰原。今日初めて、いつもの優しい灰原の笑顔が見られたことに、歩美も「えへへ」と嬉しそうに照れくさそうに笑った。
カランカランッ。
「ッ!」
すぐ後ろの方で空き缶の転がる音がした。自分たちの声を聞きつけた男が来たのだと咄嗟に判断した灰原が、ビクッと驚いたまま体を硬直させてしまい動けない歩美の腕を引っ張り、音と反対の廊下の奥へと駆けだした。
彼女の判断は素早く、子供と大人の足では追いつかれることも理解していた。だからこそ、音を認識したとき、それがなんなのかを確認するよりも早く駆けだしたのだ。少しでも素早く動き男と距離を保つために。
しかし彼女が歩美の腕を引き廊下の半ばまでさしかかった頃、その奥の角の死角から思いもかけない音が聞こえてきたのだ。
「哀ちゃんっ、これって!」
「……ッ!」
慌てて足を止める少女2人。聞き覚えのあるそれは携帯電話の着信音のようで、少しずつこちらに迫ってくる。
間違いない、それは灰原の携帯にかかってきた、
「吉田さんッ! こっちッ!」
影からヌッと姿を現したのは刃物を片手に、血走った眼球で子供たちを探しビル内を徘徊するあの男だった。男のポケットの中が暗闇にぼんやりと光り、布越しのくぐもった着信音を辺りに響かせる。
先程の空き缶の音は自分たちを物陰から飛び出させるために男が用意した罠。そう理解するよりも早く、灰原は踵を返し、歩美の腕を引きながら来た廊下を戻る。
少女たちを見つけた男も逃がすまいと激しい足音を立てて2人を追いかける。
先程から繰り返される激しい運動に、幼い少女の体力は限界に近かった。このままでは追いつかれてしまう。しかし先程から鳴り止まない着信音は確かに、彼女たちに希望をもたらした。
廊下の突き当たりに明かりの点っていない緑色の標識を見つける灰原。暗闇に紛れて先程までは気がつかなかったが、どうやらビルの側面に備え付けられた非常階段へと出られる非常口のようだった。
もう限界だとすがりつくようにその扉へと辿り着いた2人。歩美はもう動けないと、両膝に手をついて激しく呼吸を繰り返す。灰原も肩で息をしながら非常口に手をかけた。
「非常口が非常時に開かなくてどうするのよッ!」
無情にもその扉が開放されることはなかった。内側から古いつまみタイプの鍵をガチャガチャと動かすも壊れているようで、鍵はかかったまま動こうとしない。
見上げる非常口にハマった磨りガラスから微かな西日が差し込む。力なく扉を叩いても、彼女の力ではどうすることもできなかった。
「哀ちゃんっ!」
「ッ!!」
歩美の悲鳴にも近い呼びかけに振り返る灰原。そこには眼前に迫る男の姿が。すでにその腕は振り上げられ、後はその切っ先が迫るのみ。
歩美はその場にしゃがみ込みギュッと目をつむり両腕で頭を抱え込む。血走った男のいかれた眼球に睨まれた灰原の体を生理的な恐怖が貫く、まるで蛇に睨まれた蛙のように体が硬直してしまう。
男が振りかぶった凶刃を振り下ろすその瞬間、鳴り響いていた着信音が止まった気がした。
「伏せろッ!!」
扉越しに聞こえてきた声。窓と非常口、そして廊下全体を震わせるようなその大きな一声に反応できたのは、灰原ただ1人だった。男にも歩美にも声は聞こえていたが、それがなんなのか脳の処理が追いつかない。灰原のみが聞き慣れたその声に、聞き続けてきたその声に、理解するよりも早く体が反応したのだ。
灰原がしゃがみ込む歩美を押し倒すようにその場に伏せ、咄嗟に上着を頭から被る。
大声にビクリと体が固まってしまった男。時間にしてほんのわずかな間だったが、彼が彼女を救うには十分過ぎた。
非常口の窓ガラスが激しい音を立ててはじけ飛ぶ。丸太のような屈強な腕が非常口の磨りガラスを突き破る。そのあまりに速い剛拳に、宙に舞うガラス片が拳へと突き刺さる。しかしその大砲のような一撃は、そんなこと意にも介さず、激しい風切り音と共に男の顔面へと叩き込まれた。
「ぅぶぅぇッ……!!」
その強烈な一撃は的確に男の顔面を正面から捉え殴り飛ばす。鼻がひしゃげ歯の砕かれた男は声にならないうめき声を上げ、血潮を吹き出しながら吹き飛ぶ。廊下を転がった男は力なく倒れ伏し、意識が刈り取られたのか白目を剥いたまま動くことはなかった。
カランッ、と男の持っていた刃物が硬いタイルの床に転がる音が反響し、静寂が辺りを包んだ。
「ふぇっ、な、なに!? どうしたの!?」
「ふぅ……」
被っていた上着にこぼれ落ちてきたガラス片に気をつけながら、むくりと体を起こす灰原。歩美は現状を未だ理解できていないらしく、あわあわと周りを見渡す。
金属が引きちぎられるような歪な音が聞こえると、非常口が開いた。
「だ、大丈夫か!?」
「ええ……。おかげさまでね」
「伊吹お兄さん!」
2人の前にしゃがみ込み心底心配そうな伊吹。歩美は伊吹の姿を確認するとパッと笑顔を浮かべその胸に飛び込んでくる。灰原は小さくため息を零していつもの澄まし顔で服についたほこりを払う。
大丈夫そうな2人に伊吹も安心したように小さく微笑み、頭をわしわしと撫で回す。助けられたことに素直に感謝を述べたいけれど、昨日のこともあってか素直になれない灰原。今できるのは、その手を払わないでいることだけだった。
*****
「もうお前ら、廃ビルで遊ぶのはやめておけ」
あの後、男を拘束してから警察へと通報した一同。例のごとく廃ビルに侵入したことや、犯人を伸したことを説教された後、詳しい聴取は後日と言うことで帰された。
先日のように伊吹の引率の元、帰路につく。さすがにぐったりする子供たちに伊吹も思わず忠告してしまう。
「伊吹お兄さんすごかったんだよ!」
「やっぱり伊吹の兄ちゃんはつえーなー!」
今日の事件のことでわいわいと盛り上がる子供たち。どうやらコナンたちも犯人とかくれんぼをしていたところ、無事伊吹に保護されたようだ。
「それで、あの男の人はなんだったんですか?」
「ああ、高木刑事から聞いたけど、前に言ってた居直り強盗だってさ。また強盗をして今度は家主を殺害したらしくて、あの廃ビルに逃げ込んでたらしい。薬もやってたとかなんとか」
「こわーい……」
「だからもうああいう所には勝手に入ったりしないようにな」
伊吹がことの次第を説明し、怯える子供たち。伊吹が指を立てて子供たちに注意すると、さすがに今日の体験は子供たちも参ったようで、素直に「「はーい」」と答えるのみだった。
*****
子供たちを送り届けた頃には日は完全に沈み、空には青白い月と微かに見える星々が輝いていた。
事件が解決してからというもの、一団の最後尾を歩き、なにも喋ろうとはしなかった灰原。伊吹と2人きりになってからも口を開こうとはしなかったものの、先日とは違い彼の隣を歩いていた。
伊吹も困ったようにチラチラと彼女の俯く横顔を眺める。彼が何か当たり障りのない話題を探していたとき、いつもの鈴の音のような涼しい声が聞こえた。
「今日はありがとう。……助かったわ」
「え、いや、いいよ。哀に何かあったら、困るから」
思わぬ一言に、返事に困ってしまった伊吹。自身の心中を素直に言葉にする。それを聞いた彼女の足が思わずその場で止まってしまう。釣られるように伊吹も2、3歩歩いてから彼女へと振り返る。
俯いたままの灰原が申し訳なさそうに口を開いた。
「携帯のメッセージ……返事返さなくて、ごめんなさい」
「いいよ。あんな状況だったし」
気にしてないよと笑う伊吹。そんな彼の態度にチクリと彼女の胸が痛んだ。無視していたのは事件に巻き込まれたからではなく、ただ自分が子供みたいに拗ねていたからだと、灰原は口に出せなかった。ただそんな暗い気持ちが顔に出ていたのか、沈痛な表情を浮かべる灰原の態度に困ったように頭をポリポリとかく伊吹。
そんな彼が「仕方ない」と、何かを観念したように鞄をごそごそと探り始める。少し鞄を漁った後、伊吹が何か白く小さな小包を灰原に突き出した。
「……なに、これ」
彼の思わぬ行動にキョトンと、その小包と伊吹の顔を交互に見てしまう灰原。伊吹が彼女の手を取り、その小包をそっと乗せる。
「まあ普段の感謝の気持ちというか。……いつもありがとうって、やつかな」
少し照れくさそうな笑顔を浮かべて彼は言った。なにがなんだか分からない様子の彼女に、「開けてみて」と催促する伊吹。その言葉に操られるように包み紙をそっと開く灰原。
「これ……ピーナッツバター……?」
「と、ブルーベリージャム」
すっかり冷めてしまっていたが、その包み紙からは甘い香りがふわっと広がり、灰原の鼻腔をくすぐる。甘いブルーベリージャムとピーナッツバターの、彼女にとってはどこか懐かしさも感じる香りだった。
「ほんとは帰ってから渡そうと思ってたんだけどさ」
「これを、私に……?」
「うん。哀にはいつも感謝してる。だから、俺からの贈り物」
こちらを真っ直ぐに見つめてそう告げてくる伊吹。未だに状況が完全に飲み込めていない灰原に、説明するように続ける。
「こないだ調理実習で女子がお菓子作っててさ、その時の手作りブルーベリージャムが美味しくて。哀にも食べさせてあげたくなって」
そっと彼女の前にしゃがみ込み、その手の中の包み紙を覗き込む。焼き菓子を一つ取り出してその出来映えを確認するようにまじまじと見つめる。灰原の視線も釣られるようにそのお菓子へと向けられる。
「でも俺お菓子とか作ったことないし。たまたま調理実習に参加してたクラスの知り合いに料理部の子がいてさ、教えて貰ってたんだよ」
「……あぁ……そう」
少し申し訳なさそうに笑う彼の言葉に、最近の彼の行動に合点がいき、思わず脱力してしまう灰原。お菓子の入った紙袋を大事そうに抱え込みながらその場にしゃがみ込んでしまう。
心配そうに様子をうかがってくる彼に、不機嫌なような不満をぶつけるような、しかしどこかホッとしたような、いつものジトッとした半眼を向ける灰原。
「じゃあ、この前一緒にいた子は?」
「その教えて貰ってた子」
「服の甘い匂いは?」
「多分、お菓子の……」
「……『俺にもいろいろある』っていうのは?」
「サプライズしたくて……うまい言い訳が思いつかず、つい」
灰原の確認を取るような詰問に、思わず尻すぼみになりながら答える伊吹。彼女が怒っている理由が何となくでも分かるからこそ、伊吹は素直に頭を下げるのみだった。
一度俯いて大きなため息を着いた灰原が、そっと立ち上がる。
「ほんとに、あなたって人は……」
「ご、ごめん……」
苦笑いを浮かべて謝罪する彼に、灰原の視線は弱々しくなる。不安は怒りと呆れに変わり、そして安堵へと変化していく。心底安心したようにもう一度大きなため息を吐く灰原。胸の中に押さえ込んでいた不安の泉が溢れるように、心情を吐露していく。
「あなたが思っている以上に、私は……不安になるの。ただの
こんなこと言うつもり無かったのに、と思っても言葉は堰を切ったように止めどなく溢れてくる。不安と寂しさに揺れる瞳が伊吹を捉え、彼は何も言わずに彼女の言葉に耳を傾ける。
「あなたにとってはただの年端もいかない
そう言うと、彼女は俯いて言葉を詰まらせた。そんな少女の体をそっと引き寄せて、壊れそうなほど小さなその体を、彼はやさしく抱きしめた。
「哀に嘘は吐きたくないから、上手く誤魔化せないんだ。……俺ってサプライズが下手だな……、ごめんな」
灰原の心を和ませるように「あちゃー」と笑いながら話す伊吹。その言葉に、彼の胸の中で小さく頭を振る灰原。
本当のことをもっと早く強引にでも聞き出していればよかったものを、それを怖がって、「もしも」を考えて不安になっていた自分が馬鹿らしくて。でも、その不安や恐怖は彼を信じていないような気がして、それが申し訳なくて。その気持ちが彼の謝罪を素直に受け取れない理由だった。
「ほんと、ばかね……」
彼の胸の中で呟いたそれは、誤魔化すのが下手なのに一生懸命にサプライズをしようとしていた彼に言ったのか、自分自身に言ったのか……。
もぞもぞと伊吹の胸板に押しつけられていた自身の顔を上げ、下から彼を見上げる。
「嘘は吐かないで。……でも、秘密もやめて」
それは彼女なりの精一杯の本音。
「だな、俺も哀に隠し事するのは得意じゃないみたい」
彼ももうこりごりだと、小さく笑った。
月明かりに照らされる2人の1つの影はしばらく離れることはなく、彼らを甘いピーナッツバターとブルーベリージャムの香りだけがそっと包み込んでいた。
*****
「……ちょっと待って。女子生徒が調理実習で作ったお菓子が美味しかったって……、あなた誰かの手作りのお菓子を食べた訳ね?」
「それは、その……」
口ごもる彼の顔を灰原のジト目がにらみつける。視線を泳がせながら申し訳なさそうに彼は白状する。
「そりゃ、くれるって言うから、無碍にはできないし……」
「……あなたのお菓子を食べた人は?」
「それは、いないけど」
「……お菓子作りを教えてくれたっていう子は?」
「感謝は伝えたけど、お菓子は哀のためだけに作ったんだ」
頬をポリポリとかきながら灰原の顔色をうかがい、気恥ずかしそうに告げる伊吹。その言葉に、そっぽを向きながら「……そ。じゃあ、いいわ」と興味もなさそうに澄ました態度で応える灰原。
そっぽを向いたのは、思わず口角が上がってしまそうになるこの表情を彼に見られないようにするためだ。先を歩いて帰るのは、彼が後ろにいてくれることを信じているからだ。
「甘い……」
袋から取り出したお菓子を一口かじった彼女が、唇の端にブルーベリージャムをつけたまま一言、そう呟いた。