朝日が微かにその姿を見せ、薄暗い街並みをじわじわと照らしだし、朝霞が音もなく消え始める。自己鍛錬の一環である長距離の走り込みから戻った伊吹がシャワーで汗を流していた頃、リビングでは阿笠博士が朝食準備を進めていた。
「うぃ、さっぱり」
「…………おはよう」
「……いやん」
体にまとわりつく湯を雑に払い前髪をかき上げながら伊吹が浴室から出てくると、眠たげな半眼をこすりながらパジャマ姿の灰原が歯を磨いていた。
チラリと横目に伊吹を確認した彼女は歯を磨く手をピタリと止め、彼の古傷だらけの筋骨隆々な裸体をその眠たそうな目で下から上へと見上げる。ふっと視線を自身の写る鏡へと戻し、何事もなかったかのように朝の挨拶を交わした。
「……風邪引くわよ」
自身の体を腕で隠しながらふざける伊吹の言葉は誰にもキャッチされず、彼女は口をゆすぎ、顔を洗ってさっさと出て行ってしまった。
「……もうちょっと、なんかさ」
一人残された彼の呟きだけが洗面所に残された。
なんてこと無い澄まし顔でダイニングテーブルに座る灰原だったが、思わぬ朝の刺激的な光景に手元のコーヒーを飲む前から目は完全に覚めていた。
二三口そのコーヒーの香気を楽しんだとき、リビングから聞こえる音に誘われるように、彼女の視線はテレビへと向けられる。
『都内を恐怖に陥れていた連続爆弾犯が先日逮捕され――』
「博士、あんまり付け過ぎちゃ駄目よ」
「あ、味気ないのぉ」
博士へと釘を刺し、手元の食パンにジャムを塗りながら何となく耳だけをニュースに傾けている灰原。
「いい匂い。俺もパン食べたいな」
髪を乾かし制服を着込み、朝の身支度を整えた伊吹がリビングへと顔を出す。その顔をチラリと覗いた灰原だったが、なにも言わずに彼の食パンをトースターへとセットしスイッチをいれる。
さっきのことが気になってか、彼女の視線はチラチラと落ち着き無く動きどこを見ればいいのか分からないように宙をさまよう。その視線を隠すように瞳を閉じる彼女。まぶたの裏には焼き付いた彼の肢体が思い浮かび、それを振り払うように彼女は思わず頭を小さく振った。
『あの名探偵、眠りの小五郎こと、毛利小五郎さんの活躍により――』
『これまでのハイライト! 今大ヒット中のドラマ――』
伊吹が自身のコーヒーをカップに注いでいると、博士がいそいそとリモコン片手にテレビのチャンネルを変更する。
「あっ、ちょっと博士、ニュース見てたんだけど」
「す、すまん哀くん、ちょうど今からプレイバック放送する時間なんじゃ、先週見逃してしまっての」
「ああ、このドラマ今流行ってるらしいね。クラスの女子が騒いでたよ。弁当がどうのこうのって」
テレビから聞こえてきたのはドラマの内容を紹介する女性タレントの声と、主題歌と思われるBGM。灰原が伊吹の言葉に釣られるようにテレビを見ると、彼女も名前くらいは聞いたことのあるドラマが紹介されていた。
『今、女性たちの間ではドラマの影響で愛妻弁当ブームが巻き起こっていますね』
『仲睦まじくて、素敵な流行ですね――』
「ふーん……」と興味なさそうに、灰原は小さなため息を零してコーヒーカップを傾ける。
「こぼすわよ」
「おっとと」
「……まったく」
テレビを見ながらパンを囓る子供のような伊吹の姿に、先程の古傷だらけの屈強な体を重ね合わせ、そのギャップに思わず気づかれないよう小さく笑ってしまう彼女だった。
*****
「そういえば捕まりましたね-、例の爆弾犯」
「小五郎のおっちゃんが捕まえたんだよなっ!」
「コナンくんも一緒にいたの?」
「え? ま、まあな」
「ほんとはあなたが捕まえたんだものね」
日差しは暑いくらいに眩しく、それでも風はひやりとする心地よい朝の通学路。少年探偵団の話題は今朝捕まったと報道されていた爆弾犯についてだった。
彼らに付き添うように後ろから歩く伊吹が大きなあくびを噛み殺したとき、見覚えのある男性が彼らの前を歩いていることに気がついた。
「あれ、高木刑事?」
伊吹の言葉に子供たちも前を見やると、足取り軽く今にもスキップし出しそうな上機嫌な高木刑事が満面の笑みを浮かべていた。仕事用と思われるビジネスバッグとは別に、小さな冷蔵バッグのような小包を大事そうに抱えており、時折頬ずりするかのようにそれを顔に近づける。誰の目に見ても不審な光景だった。
「高木刑事なにしてるんだろ」
「怪しいですねえ」
「すっげー不審者だな」
「高木刑事、なにしてるの?」
訝しがる子供たちを尻目に声をかけるコナン。ビクリと肩を振るわせた高木刑事がゆっくりと振り返る。
「や、やあ君たち。な、何でも無いよ!」
さっ、と慌てて後ろ手に小さな包みを隠す高木刑事を、目を細めて怪しげにじーっと見つめる子供たち。
「なにを後ろに隠したんですか?」
「あやしいー」
「なんかうめーもんか?」
「い、いやあ、何も隠してなんか、あっ、あーっ!」
子供たちの追求から逃れるために手を振りながら額に汗する高木刑事。片手で持つには荷物が多すぎたのか、その手から小包がこぼれ落ちた。
アスファルトに叩きつけられたそれを慌ててしゃがみ込んで必死の形相で拾う高木刑事。ジッパーを開けると中から可愛らしい薄いピンクと白地の巾着が出てくる。それを更に開くと中から小ぶりな二段弁当が姿を見せた。
具材がこぼれている様子はなく、弁当が無事だと確認した高木刑事が心底ホッとしたようにため息を零す。そんな彼を逃げられないように囲み、じーっと音が聞こえそうなほど細めた瞳で見下す子供たち。
「あ、いや、これはその……」
「言い逃れはできねえぜ、兄さんよ」
しゃがみ込んで高木刑事の肩を叩き、ため息と共に頭を振る伊吹。観念した犯人のように高木刑事はがっくりと肩を落とし、真相を語り始めた。
「「佐藤刑事の手作りお弁当ーッ!?」」
「あ、ああ、まあね」
高木刑事の思わぬ自供に子供たちもつい大きな声を上げて驚いてしまう。ざわめく子供たちに照れたように頭をかく高木刑事。
「佐藤刑事のお弁当いいなー!」
「うんまそーだなー! 一口味見してーなー」
「だ、ダメダメ! これは絶ッ対に渡せないよ!」
キラキラと輝く目で見つめてくる子供たちから遠ざけるように弁当を持ち上げて必死に死守する高木刑事。
「これは今流行の、愛妻弁当ですね」
「愛妻弁当ー!」
顎に手を当てた光彦が目を閉じにやりと笑い、得意げに告げた。歩美が「愛妻弁当」という言葉に両手を頬に当て、一層目を輝かせて高木刑事を見つめる。少女には憧れのようだ。
「い、いやあ、愛妻って結婚してるわけじゃないけど、あはは」
光彦の言葉にまんざらでもなく頬を染め照れ笑いながら後頭部をかく高木刑事。締まりの無い顔に伸びきった鼻の下は喜びを隠しきれない様子。
高木刑事が子供たちに肘でつつかれていると、灰原が携帯を確認して一言呟いた。
「どうでもいいけど、お仕事なら早く行った方がいいんじゃない。私たち小学生と違って、遅刻するのはよくないでしょ」
「ああっ、もうこんな時間! じゃあ君たちも車に気をつけてね!」
そう言い残すと高木刑事は子供たちと別れ、青色に点滅する歩行者用信号を駆け足で渡っていった。彼の気持ちがそうさせるのか、足取りの軽いその姿はどこかいつもよりも爽やかに見えた。
「そういえばあゆみのお母さんも、今朝お父さんにお弁当渡してたよ」
「なんでも今流行のドラマの影響で愛妻弁当がブームになっているとかなんとか」
「いいなぁ、オレもアイサイ弁当くいてーぜ……」
「元太くんは弁当なら何でもいいんじゃないですか」
朝っぱらから景気のいい音を響かせる元太の腹。すると今度は一団の後ろからよく知った声がかけられた。
「よっ、ちびっ子たち。朝から元気だねー」
「おはよう、みんな」
振り向くとそこには鞄を肩にかけ快活そうに声をかける園子と、両手に鞄を持ち腰を曲げ子供たちに目線を近づけ優しく微笑む蘭の姿が。
「あ、蘭お姉さん!」
「おはようございます」
子供たちの挨拶もそこそこに、さっそく話題に先程の高木刑事で盛り上がり始める。
「ええ! 佐藤刑事が高木刑事に、愛妻弁当!?」
「マジッ!?」
「うん! すっごく美味しそうだったよ!」
刑事2人の恋の行方に興味津々の乙女2人の食いつきはすごかった。しゃがみ込む彼女らと歩美ちゃんのガールズトークは盛り上がる。女性陣の中で1人灰原は特に興味もなさそうに携帯を触っている。
「愛妻弁当かぁ……」
「ああ、もし新一がいれば、私の愛情いっぱい特製お弁当を作ってあげるのに……って顔してるわよ蘭ったら」
「し、してないわよっ! そんな顔!」
何かを、いや誰かを思い浮かべるようにぽつりと吐息混じりに呟く蘭。そのどこか寂しげな瞳を浮かべる蘭を横目に見ながら、からかうように肘で突っつく園子。
「園子だって京極さんのために、お弁当の一つでも作れるくらいはしてた方がいいんじゃないのー?」
仕返しと言わんばかりに園子の肩を肩で押しながら意地悪な目を向ける蘭。それに返ってきたのは園子の深い溜め息だった。
「私も料理の一つくらい覚えてお弁当も作れるようになりたいけどさ、京極さんったらまた武者修行の旅って行って出かけちゃったからなぁ」
頭に手を当て心底困ったようなその姿に蘭も思わず苦笑いを浮かべるしかなかった。
「美味しいお弁当を作るには、まずは料理を覚えないとね」と茶化し合う彼女たちの言葉に、それまで話を聞いていた伊吹が独り言のように呟いた。
「まあでも、愛妻弁当は男としては嬉しいよ」
腕を組み何かを思い浮かべるように、青空を漂う白い雲を眩しそうに眺める。
「不思議と、晩ご飯の残りでも、冷凍食品でも、簡単なものでも、嬉しいものだと思うよ」
何かをぼんやりと想像するように、どこか遠くを見ていた伊吹だったが、ふっとその目の焦点が戻ってくる。そして「多分ね」と肩をすくめて笑う彼の様子を、携帯を片手に灰原は横目で静かに見つめていた。
彼女が誰にも気づかれないように1人見ていたのは、白やピンクが可愛らしく表示されたいかにも女の子らしいネットのサイト。
「知った風にー」と園子にからかわれる伊吹の姿を灰原は1人静観していた。
「どした? 灰原」
「別に。ほら、あなた達、そろそろ行かないと遅刻するわよ」
「あッ! やっべ!」
「急がなきゃ!」
「もうこんな時間ですか!?」
灰原の言葉に慌ただしくなる一同。帝丹小学校に向けて駆け出す子供たち。別れを告げた伊吹たちも帝丹高校の方向へと消えていく。
灰原がポケットにしまった携帯の画面に写っていた内容に気がついた者は誰もいなかった。
*****
その夜。阿笠邸のリビングのテレビには例のドラマが映し出されていた。この家では博士だけがハマっているようで、夕飯の後からコーヒーを片手にソファに座り込み、いそいそと視聴する準備を進めていた。
伊吹も付き合うようにアイスティ片手に、ソファの空きへと腰掛ける。ドラマに対する興味は薄そうで、ソファの肘掛けに片手を立て頭を支える。
彼の持つグラスからカランと氷の崩れる涼しげな音が聞こえたとき、リビングの扉が開いた。熱気を含んだ微かな蒸気と、シャンプーやボディソープの心地よい香りが室内に漂ってくる。濡れた髪の毛を優しくタオルで包み込むように拭きながら灰原が浴室から出てきた。
「お風呂空いたわよ」
テレビに齧り付く2人の前に回り込み、その視界を遮るように告げる灰原。呆れたようなジト目を向けてくる彼女は、子供に言い聞かせる母親のようにも見える。
「博士?」
「う、うむ。伊吹くん、先に入ってよいぞ、今ちょうどいいところなんじゃよ」
「そ、そう。じゃあ」
灰原の視線にも耐え、動こうとしない博士に伊吹も苦笑いを浮かべてソファを立つ。何も言わずすっと手を出す灰原に自身のアイスティを渡して浴室へと消えていく。伊吹が座っていたソファに腰掛け足を組み、アイスティ片手に博士と一緒にドラマを視聴する灰原。
「な、なんで二人はすれ違うんじゃ……」
「……」
冷めたような目で興味もなさそうに見ていた灰原。ドラマの中では主人公だろうか、喧嘩した男女がすれ違いお互いの気持ちに不安を抱くも、女性が毎朝作っていた愛妻弁当を喧嘩した翌日も変わらず作っていてくれたことで、お互いに素直になることができ、円満に戻るといったありふれた話だった。1話完結で毎話異なるシチュエーションの話がそれぞれ「愛妻弁当」をキーとして展開される形式らしい。
「手作り弁当ねぇ……」
グラスを傾けアイスティを口に含み、火照った体を冷やす灰原。思いのほかガムシロップが強かったようで、構内に広がる甘みに思わず眉間にしわが寄る。チラリとリビングの扉に目を向け、浴室で鼻歌交じりにシャワーを浴びる伊吹の方へと目を向ける。
一口飲んだだけでグラスをテーブルに置き「後で注意しないと」と彼の糖分過多に目を光らせる灰原が、ふっとテレビに目を向けるとドラマの中ではヒロインと思しき女優が一生懸命にお弁当を作っていた。
それを見て何となく朝の出来事を思い出す。佐藤刑事に歩美の母親、蘭と園子の会話。そういえば小学校に着いたら担任の小林先生も白鳥刑事に作ってあげたって惚気てたっけ。
「……お弁当作ってもらうのがそんなに嬉しいものなの?」
組んだ足に肘を立て、手で頬を支えながら興味もなさそうに尋ねる灰原。しかしその声色と態度は、何かを確認しようとしているようにも思えた。
「そりゃあそうじゃ。お弁当は自分が食べるためではなく、相手に食べてもらうためだけに作るもんじゃからのぉ。貰った側からしたら深い愛情を感じるじゃろうし、喜ぶもんじゃよ」
博士は人差し指をピンと立て「特に愛妻弁当はの」と、なぜか得意げに答える。
自分がお弁当を作って貰う想像でもしてか、嬉しそうな笑顔を浮かべる博士。それを横目にジトッと見つめる灰原。その視線に気づくと博士はゴホンと一つ咳払いをしてから、目を細めて目尻を下げ、にんまりとしたイヤラシい笑みを浮かべ、からかうように小さく呟いた。
「……もちろん、伊吹くんもの」
「……」
特に肯定することも否定することもなく、灰原はその半眼の視線をテレビへと戻した。普段以上に無愛想になるその横顔の頬に微かに差された朱色はお風呂上がりの火照った体のせいか、それともまた別の理由か。
誤魔化すようにテーブルに置いたグラスを手に取り、少し氷の溶けて水の層が浮くアイスティを口に含むと、忘れていたのかその甘みが口に広がる。
「甘いもの好きだったかしら……」
隣の博士にも聞こえないようにそう呟くとソファから立ち上がり、ダイニングテーブルの隅に置きっぱなしにしていた自身の携帯を手に取る。チラリと後ろを振り返り、ドラマに夢中の博士に見られていないことを確認してから画面を覗き込む灰原。そこには今朝、自分が何となく見てしまったあの可愛らしいネットのページが。
「あぁー、さっぱり」
「っ!!」
画面に夢中で伊吹が浴室から出てくるのにも気がつかず、突然開けられたリビングの扉にビクリと肩を震わせる灰原。
慌ててケータイの画面を消す灰原。なぜか焦っている彼女の姿に、伊吹はバスタオルで髪を拭きながら、きょとんと尋ねる。
「どしたの?」
「べ、別に。何でもないわ」
「風邪ひくわよ」そう言い残すと、彼女はすれ違いざまにアイスティのグラスを伊吹へと押しつけ、携帯を片手にパタパタとスリッパを鳴らして自室へと去って行った。その携帯に写された内容を早く確認したいかのように、駆け足気味に。
「あんまり糖分を摂り過ぎないようにしなさいよ!」
地下の自室の扉を閉める間際に、思い出したかのように上階の伊吹へと声をかける。「うぇーい」という気の抜けた返事を確認する前に部屋へと入っていく。
伊吹はそんな彼女の姿を不思議そうに見つめながら、喉を鳴らしてアイスティを呷るのだった。
*****
濃紺が西の空へと追いやられ、瑠璃色を経て東の空が徐々に鮮やかな青に染まり始める頃。街はまだ静かな眠りの霧に包まれ、朝霧に白む路地を新聞を配達するバイクが1台走り抜けていく。
カーテンの閉め切られた早朝の阿笠邸はまだ薄暗く、そんな中にキッチンランプのみがぼんやりと灯っている。
独特な構造をした阿笠邸では、キッチンはそのままダイニングやリビング、就寝用のベッドと一体となった構造をしている。すぐ近くでは博士が大きないびきを立てながら熟睡しており、起こさないようにキッチンの明かりも気を遣われているようで、手元を照らす程度の最小限にされていた。
「えっと……確かここに……」
そんな中で1つの小さな影が揺れていた。薄ぼんやりと灯された明かりにも、その痛みのない赤毛混じりにブラウンヘアは鮮やかに揺れる。
そこには灰原が眠たげな目をこすり、あくびを噛み殺してキッチンの収納棚で何かを探していた。数回のあくびを堪え彼女の瞳の端には涙が薄らと浮かぶ。しばらく棚の中を漁っていた彼女が奥から引っ張り出したのは黒色の四角い容器。それは男性用の弁当箱のようだった。
しばらく前に何かのついでに買っていたが、子供たちとピクニックにでも行った時に使って以来しまい込まれていたそれを丁寧に洗う灰原。
眠気に耐えかねた彼女が、ふぁ、と大きく口を開いてあくびをこぼす。すると途端に眠気が襲ってくる。頭がうつらうつらと船を漕ぎそうになるも、それを追い払うように頭を振り払い濃いめに淹れたコーヒーを一口飲み睡魔を追い払う。彼女の半眼はいつも以上に眠たそうだ。
「ふーん……」
レシピか何かを確認しているのか、キッチンに置いた自身の携帯と睨めっこをしながら準備を進める彼女。卵の焼ける心地よい音と香ばしい匂いが辺りを包み込むと、それに気がついたのか博士がベッドからのそりと起きてきた。
「哀くん、こんな朝早くからどうしたんじゃ……?」
「は、博士。ごめんなさい、起こしたかしら」
「いや、それは構わんのじゃが……」
少し焦ったように自身の携帯を隠すも、キッチン周りの状況を全て隠し通せはしない。灰原がお弁当を作っていたのは誰の目に見ても明らかで、博士もその後継にしばしの沈黙の後、気がついたようだ。
「これは、えっと」
「伊吹くんには、なにも言わんよ」
「別に彼は関係……」
なにかを誤魔化すように口ごもる灰原に対して博士は全てを察するように頷くだけだった。
邪魔しては悪いと言うように、博士は水を1杯飲んでトイレから戻ると、布団を頭から被ってもう一眠りすることにしたようだ。
灰原も息を大きく吸って溜め息を吐いてから、コーヒーをもう一口味わってその香気で自身を落ち着かせる。
再び博士のいびきが聞こえてきたのを確認すると、彼女はポケットにしまった携帯を取りだしお弁当作りを続ける。彼女が時折確認するその画面には、普段彼女が見ることのないような可愛らしいサイトが表示されていた。熱心に確認するそれを、彼女は参考にしながらお弁当作りに励むのだった。
*****
「なんか今日の朝ご飯は豪勢というか、手が込んでるね」
伊吹がリビングに顔を出すと、そこには珍しく既に身支度を整え学校に行く準備を整えたあくび娘の姿が。博士と彼女が座るダイニングのテーブルの上には、普段のトーストではなく炊きたての白米が3人分盛られており、味噌汁に玉子焼き、ウインナーとサラダ、野菜ジュースがグラスに注がれている。
一般的な普通の朝食かもしれないが、ジャムを塗ったトーストと牛乳くらいで済ませる普段の食卓と比べると確かに手が込まれていた。
「哀くんが用意してくれたんじゃよ」
「ほえー、珍しい」
「別に。たまたま早く起きたから、用意しただけよ」
何かを言いたそうな笑顔を浮かべる博士に、いつもの澄まし顔で目を閉じたまま野菜ジュースを飲む灰原。
どこか楽しむような博士のその笑顔に灰原はキッと鋭い半眼を向ける。その刺すような眼に思わず額に汗し苦笑いで誤魔化す博士。そんな2人を尻目に朝食に手を付ける伊吹の顔が、驚いたように明るくなる。
「あ、すっごい美味い」
「……そう、よかったわ」
「味噌汁もインスタントじゃないの?」
「ええ、違うわよ」
「哀くんが朝からうんと愛情を込め」
「博士」
伊吹の素直な感想に思わず心が暖かくなり、無意識に笑みを浮かべてしまう灰原。
博士の言葉には「余計なことは言うな」と視線に込めて横目に制する灰原。博士も彼女をからかいたい訳ではなく、娘か孫の成長を見ているようで素直に心底嬉しいのだ。それで余計な口を出してしまい釘を刺される。その姿は本当の親子のようだった。
博士がポロリと零した言葉を聞こえたか、聞こえなかったフリをしたのか、伊吹は嬉しそうに微笑んでもう一口味噌汁をすする。
「美味しいよ。ありがとう、哀」
「……どういたしまして」
「うむ、ありがとうの、哀くん」
「博士はウインナー無しね」
笑い声の絶えない一家団欒の朝食で会話に花が咲き、気がつけば家を出る時間が迫る。伊吹が慌てて残った野菜ジュースを飲み干し、「やばいやばい」と上着と鞄を手に玄関へと急ぐ。
「ちょっと、待って」
「ん?」
そんな彼を灰原が呼び止める。その声色はいつものような鈴の音のように涼しく落ち着いたものだったが、彼女といつも一緒にいる者がよく聞かないと分からないくらい微かに、緊張の色が滲んでいた。
それを感じ取ったのか、靴を履き玄関の取っ手に手をかけた伊吹が、わざわざ体ごと彼女へと向き直る。
玄関口で両手を後ろに彼を呼び止めた灰原の視線が左右に揺れる。無意識に背中に隠しているお弁当を両手でいじる彼女。チラリと視線を彼に向けると、目が合ってしまい、ますます渡しづらくなる。顔が少し熱くなる気がする。
「えっと……」と呟いてからなにも言わない灰原を心配するように伊吹がしゃがみ込んで、彼女と視線を合わせて「どうした?」と優しく尋ねた。
目の前で半ば無理矢理顔を合わせてくる伊吹に思わず一歩下がってしまう灰原だったが、自分だけが意識しているこの状況に少し腹が立ってきたようで、いつものジト目を彼に向ける。
「ちょっと渡す物があるの」
「これって……」
ずいっと、目の前に突き出されたのは紺色の小さな保冷バッグ。体を横向きに反らしながら、こちらに差し出された保冷バッグ。どこかいつもより鋭い気のする半眼の横目に少し赤みがかった彼女の頬。伊吹もそれがなんなのかはすぐに察しがついた。
伊吹が両手を差し出すと、その上にぽんと置かれる。それを少し見つめた後、思わず彼女とバッグを数回見比べてしまう。
横を向いた彼女は腕を組み、相変わらずのジト目で彼の様子をうかがう。
「なに?」
「いや、えっと……俺に?」
「あなた以外に誰がいるの」
「弁当を?」
「ええ」
「哀が?」
「そうよ。……いるの、いらないの?」
面倒くさそうに溜め息交じりに聞いてくる灰原に、伊吹は音が聞こえそうなほど勢いよく頭を縦に振る。
「いるいる、すっごいいる!」
そのバッグを両腕で大切そうに抱きしめる伊吹が、心底嬉しそうに瞳を細めて微笑む伊吹。おもちゃを買って貰った子供のように無邪気なその笑顔に灰原も思わず、嘆息混じりの小さな笑みがこぼれる。
「ほら、遅刻するわよ」
「あ、ああ、そうだった」
灰原がいつもの澄まし顔で忠告すると、伊吹は慌てたように立ち上がる。出て行く前に灰原の頭へと手を伸ばし、その光の粒が弾けるような鮮やかなブラウンの髪を古傷だらけの大きな手のひらで優しく撫でる。
ひとしきり撫でた彼がありがとうと一言残して駆けだしていった。それを見送った灰原が面倒くさそうに自身の乱れた髪を手櫛で整えて大きなあくびを1つ零す。しかし彼女の顔には、満更でもなさそうに微笑む。
窓辺に差し込む陽光は暖かく、今日も1日いい天気になりそうだと、灰原は群青の空を眺める。たまにはこういうのも悪くないかなと、1人満足するのだった。
*****
「ふぁ、……ぅん」
今日も1日小学生としての生活を終えた灰原が、探偵団と共に帰路につく。彼女が堪えきれないように口元に手を当てて、今日何度目かになるの大きなあくびをこぼした。まだ高い日の光が心地よくてますます眠気を誘ってくる。
「今日の哀ちゃんすっごく眠そうだね」
「まあ、ちょっとね」
「おめー、普段よりも目つきが鋭いぞ」
頭の後ろで両手を組むコナンの言葉にその鋭い目を向けると、先日と同じ知った声が子供たちにかけられた。
「よっ、ボーイズアンドガールズ」
「みんな今帰り?」
下校途中の園子と蘭が声をかけてくる。子供たちの元気な挨拶に手を上げて応える蘭だったが、その視界に灰原を捉えると、その顔にパッと笑顔を咲かせ両手を合わせてどこか嬉しそうに声をかける。
「あっ。哀ちゃん、今日萩原くんすっごく嬉しそうだったよ!」
「っ!」
思いがけないその一言に、先程まで1人後ろで目を閉じてあくびを噛み殺していた灰原の瞳が驚きに見開かれる。
「あー、すんごいウキウキしてたわね」
「いや、ちょっとっ」
「蘭姉ちゃん、園子姉ちゃん、萩原兄ちゃんがどうかしたの?」
蘭たちにその話はやめろと言わんばかりに両手を伸ばして、焦ったように誤魔化そうとする灰原を制してコナンが尋ねる。子供たちはそんな彼女と蘭たちを交互に不思議そうに眺めている。
「あれ? 聞いてない? 今日哀ちゃんがお弁当を作ってくれたってもうすっごく喜んでいたんだよ、萩原くん。一日中ニコニコしてて」
「昼休みまだかな、まだかなって、ヤツはガキかっての」
思い出して話してるこっちが恥ずかしくなると言わんばかりに、蘭が照れくさそうに報告する。隣の園子も学校での彼の姿を思い出してか、呆れるような苦笑いを浮かべる。
「にしても、メガネのガキンチョと並んで生意気な子供かと思ってたけど、ちゃんと女の子らしいところあんじゃない」
腰を曲げて視線を下げ灰原の顔を覗き込む園子が、にやりとからかうようにイヤラシい笑顔を向ける。鬱陶しそうなジト目を園子に向けてから、目を閉じ腕を組んでそっぽを向く灰原。いつもの澄まし顔には微かに恥じらいが見える気がする。
「別に、たまたま気が向いただけよ。朝食を作ったついで」
「でも本当に嬉しそうだったよ」
「あのガタイの古傷だらけの男が一日中ニコニコしてると逆に怖かったわ」
指を立てて今日の伊吹の様子を念押しで伝える蘭と、またも今日の伊吹の姿を思い出して自身の肩を抱いて身震いしながらげんなりする園子。
その報告を聞く灰原はいつもと変わらず、最後に「そう」とだけ返事を返した。そっぽを向く彼女の明るい笑顔と、微かなハミングは誰にも見えなかった
「あ、そういえば蘭姉ちゃん、ボクおじさんのお迎えに行ってくるね」
「いいけど、あんまり邪魔しちゃ駄目よ」
「コナンッ! 今日の少年探偵団の活動はどうすんだよッ!」
コナンが何かを思い出したようにそう告げる。小五郎は例の爆弾犯の事情聴取に付き合って警視庁へと赴いているのだ。コナンもそれが気になっているようで、お迎えの名目で様子を覗きに行きたいのだろう。
「じゃあ私も、今日はお買い物に行かなきゃいけないから」
「ええ、灰原さんまで?」
コナンと同様灰原も用事があるらしく、不満の抗議を上げる子供たちに謝罪しながらも家へ帰ろうとする。
「哀ちゃん、どこまでお買い物行くの?」
「そうね。夕飯と明日の……。えっと、駅の方のセルフリッジまで行こうかしら」
何かを考えるように視線を上げながら話す灰原が、途中で口をつぐむ。話を変えるように目的地を告げた。そこは米花町にある多種多様な商業施設を内包する少し高級なデパートだった。
歩美が「あそこのケーキ屋さん美味しいよ」と笑顔でおすすめしていると、コナンが腕時計をチラリと覗いて駆け足気味に去って行く。
「じゃあなおめえら! 探偵団の活動はまた明日な!」
「あッ! コナン!」
「じゃあ私も暗くなるまでに帰りたいし、行くわね。また明日」
「灰原さあん」
さっさと行ってしまう2人を不満げに見送る元太と光彦。そんな子供たちを見かねてか、蘭が自宅でケーキでも食べようと誘ってくれた。途端に機嫌がよくなった子供たちは両手を突き上げて毛利探偵事務所へと駆けだしていく。
「そういえば、伊吹お兄さんは?」
「萩原くんなら確か今日は掃除当番だったかな」
歩美が何となく尋ねると、蘭と園子が目を合わせて確認する。ふっと振り返った歩美が道の向こうに小さくなっていく灰原の背中を見送る。なんだかよく分からないけど、ちょっと、嫌な予感が少女の胸中を吹き抜けた。