哀歌   作:ニコフ

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11話 きつねのお宿とアイの言葉 前編

『僕は君を、愛しているんだ!』

『私も……、私も愛してる!』

 

 阿笠宅のソファで寛ぎながら、昼食後のコーヒーを片手にドラマの再放送を鑑賞する伊吹。隣にはあくびをしながらファッション誌をめくる灰原の姿が。

 テレビから熱烈な愛の言葉が聞こえてくると、彼女はどこか鬱陶しそうにチラリとその半眼を画面へと向ける。

 

「安っぽい台詞ね」

「そう?」

 

 伊吹が高い天井を眺めながら何かを思い出すように「うーん」と唸った。

 

「こう⋯⋯、せき止められずに心から溢れ出した想いって、意外とシンプルなものなんじゃないの?」

「このドラマがそこまで深く考えられてるとは思えないけど」

 

 興味もなさげに手元の雑誌へと視線を戻す灰原が吐き捨てる。

 

「言葉は言霊。己の魂を削って言の葉に紡ぐものよ。使えば使うほど軽くなるし、()()()()なんて言葉はむやみやたらと言うものじゃないわ」

「哀くんは手厳しいのぉ」

 

 自身の分のコーヒーを片手に博士も椅子へと腰掛けるやいなや、灰原の辛辣な意見に思わず苦笑いが漏れる。

 

()()()()、ねぇ」

「……っ、は、博士、あんまりお砂糖入れ過ぎちゃだめよ」

 

 頬杖をついて独り言のようにポツリと零した伊吹の呟きを聞いて、なにやらハッとした灰原が慌てて話を逸らす。思わず「う、うむ」ときょとんとする博士を余所に、灰原は小さく咳払いをして雑誌へとパラパラとめくった。読んでいるのかいないのか、ページをめくる速度はいつもより早かった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 そんな話をしたのが先週の休日。

 

「よー、諸君。待ってたよ、入りたまえ入りたまえ」

「「おじゃましまーす!」」

 

 暖かく眩しい陽気が差し込む土曜日の午後、いつものように少年探偵団が阿笠宅を訪ねてきた。晴天の青空にも負けないほどに元気で明るい子供たちの声が阿笠邸の玄関口から聞こえてくる。

 子供たちを出迎えた伊吹はTシャツにスポーツジャージという極めてラフな格好をしている。リビングの方から漂ってくるコーヒーの香りからして、随分とくつろいでいたようだ。

 

「哀と博士がちょうど買い出しに行ってるところだよ。もうしばらくしたら帰ってくるかな」

「わーい! カレー楽しみ!」

「おかわり用にいっぱい買ってきてもらわねえとな!」

「元太くんはもう少し遠慮というものをですね」

 

 家主の博士と灰原は買い物へと出かけているらしく、伊吹は留守番をして子供たちを待っていた。博士の家では今夜、子供たちを集めておなじみのカレーパーティーが開催されるらしい。

 

「はい、ジュース」

「ありがとう、伊吹お兄さん」

 

 子供たちをリビングへと通し適当なソファへ座らせる。この家には飲み手のいない、子供たちのためだけに買い置かれているオレンジジュースをグラスに注ぎ彼らの前へと差し出す。

 伊吹も自身の飲みかけのコーヒーカップを手に向かいの椅子へと腰掛けると、嬉しそうに喉を鳴らす子供たちを微笑ましく見つめていた。

 

「あれ? コナンのヤツ、いねーじゃんかよ」

 

 一気にジュースを飲み干した元太が辺りをキョロキョロと見回して、そう言えばと声を上げる。

 

「コナンなら、小五郎さんの仕事について行くとかなんとか。夜のカレーパーティーまでにはこっちに来るってさ」

「なーんだ。コナンくんと哀ちゃんにも聞いてほしかったのになー」

 

 伊吹が思い出すようにそう告げると、歩美が少しつまらなさそうに唇を尖らせ足をぷらぷらと振っている。元太も光彦も何も聞いていなかったのか、不思議そうに彼女を見つめる。

 

「どうしたの?」

「うん、実は昨日の夜ね……」

 

 コーヒーを一口すすった伊吹が尋ねると、深刻な表情を浮かべて歩美が口を開いた。先程までの元気な明るい声とは対照的にその表情は暗く、何かを思い出すように足下に視線を泳がせる。

 

「歩美がお母さんと一緒にお外で晩ご飯を食べた帰りにね……」

 

 歩みが恐る恐る語り出したのは昨夜経験したという怪談話。幽霊の正体見たり枯れ尾花と言わんばかりに、その恐怖体験の真相をすぐに察した伊吹が種を明かそうとしたが、真剣に話す歩美とそれを聞いて顔を青くする元太と光彦の純粋な反応に、なにも言うまいと微笑ましく見つめるのだった。

 

「じゃあ次は伊吹お兄さんの番だよ!」

「うーん、そうだなぁ」

 

 いつの間にか灰原たちが買い出しから戻るまでの暇を怪談話で潰すことになった。光彦と元太も拙いながらそれぞれに怪談を披露した。最後は伊吹の番になったようで、子供たちのどこか期待しているような視線が集まる。

 

「じゃあ前に哀と京都へ行った時の話でも……」

「えー、ずるーい!あゆみも行きたい!」

「自分たちだけうまいもん食ってきたんじゃねえのか」

「ぼ、僕も灰原さんと京都に……」

「わかったわかった、今度みんなで行こう。話の腰を折るんじゃない」

 

 何杯目かになるコーヒーのカップをテーブルに置いて、伊吹が記憶を探るように阿笠邸の高い天井を眺めながら呟くと間髪入れずに子供たちが反応する。

 それをなだめながら伊吹が一度、咳払いをする。そして静かに重たく口を開き、足下のカーペットをぼんやりと見つめて一つ一つの出来事を思い出すように、ぽつりぽつりと語り出した。

 

「あれは、少し前の連休の日だった……。博士が発明の発表会だかで留守にするもんだから久しぶりに二人で出かけようって話になったんだ……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あなたとこうして二人で遠出するのは久しぶりね。いつもは博士や子供たちがいるもの」

「そういえばそうだっけ? 昔は海外にも行ったけどなぁ」

「あれは仕事でしょ」

 

 歴史と情緒を感じる風情ある街並みを眺めながら古道を散策し、古都・京都の趣ある雰囲気を楽しむ二人。旅行用の大きな荷物はロッカーにでも預けたのだろうか、身軽な様子で観光パンフレットをまじまじと見つめる灰原と、どこで買ったのかアイス最中(もなか)をパクつく伊吹。もう片手にはまた別の和菓子を携えている。

 

「あんまり甘いものばっかり食べちゃだめよ、糖尿病になっても知らないわよ」

「旅行なんだから旅先で美味しい物食べないと、今日くらいは特別だろ?」

「博士みたいにお腹、出るわよ……」

「まあまあ、ほれ」

 

 小さくなった最中をひょいと口に放り込むともう一つの包みを広げ、ジト目で釘を刺してくる灰原の口元に爪楊枝に刺した抹茶風味のわらび餅を差し出す。彼の手元と顔をいつもの半眼で何度か見つめた後、少しの間を置いてそれを受け入れる灰原。「悪くないわね」とそっぽを向いて観光マップに視線を戻す彼女だったが、その一言に込められた真意を伊吹は知っている。その澄ました顔の裏で、目には見えない尻尾がご機嫌に揺れているような気がした。

 

「それでどこに行くの?」

「そうね、まずは……」

 

 それからしばらくはガイドブックに記載された観光地を巡っていた二人だったが、灰原が人混みに疲れたようで観光地からは少し離れた竹林の木陰で休憩を挟むことにした。

 竹の葉が風に揺れる度にきらきらと煌めく木漏れ日が心地よく肌を温め、吹き抜ける緑の香りの風が鼻腔をくすぐれば、頭の中が洗い流されていくかのようにすっきりと冴えていくのを感じる。

 観光スポットから離れたそこは辺りに人影もなく、小さな石垣に腰掛ける灰原が瞳を閉じて深呼吸を繰り返す。耳に届くのは乾いた葉擦れの音のみで、その心地よい静謐に浸っていく。

 

「……こんなの、いつ振りかしら」

 

 頬杖をついて白い雲が堂々と漂っている白群(びゃくぐん)の空を見上げて呟く灰原。直に夕暮れに染まるであろう西の空には、既に僅かばかりの橙が差しつつあった。

 日頃の面倒なことや悩み事、頭の片隅に常に残る恐怖心と焦燥感が風に乗って霧散していくのを感じる。しばらくぼんやりとしていた彼女の視界に、遠くから戻ってくる伊吹の姿が見えた。

 

「ほい、お茶でよかった?」

「ええ、……ありがとう」

 

 疲れた彼女を休ませ少し遠くまで飲み物を買いに行っていたらしい。大きな通りから離れたここは周りに自動販売機も何も見当たらず、それなりの距離をなにも言わず買いに行ってくれた彼に、灰原も思わず口元が綻ぶ。

 

「稲荷大社はちょっと人が多かったな、時期的なのもあるのかね」

「ええ。でもあの鳥居の数は圧巻だったわね」

 

 二人が先程まで巡っていた観光地の話に花を咲かせていると、ペットボトルのお茶を煽るように飲む伊吹がなにかに気がついたようで、灰原の頭上の向こう側を指さす。

 

「ここも神社なんだ」

 

 灰原の腰掛ける石垣の横には緑色に苔むした古い石階段が森の奥に飲み込まれるように高く続いていた。その上の方に見える表面が剥がれ、くすんだ朱色の古めかしい木製の鳥居がかろうじてここが神社であることを示していた。

 周りを背の高い竹林に囲まれた山道は太陽が少し雲の向こうに隠れるだけで暗い影に覆われ、木々の間で冷やされた空気が汗ばんだ背筋を撫でるように吹き抜け、思わず身震いしてしまう。

 

「行ってみる?」

「……」

 

 伊吹の問いかけに少し訝しげな顔をした灰原だったが、もう階段に一歩足をかける彼に、「仕方ない」と言わんばかりに小さな溜め息を零して付いていくのだった。

 

「結構広いな」

「年季は入っているけれど、きちんと掃除はされてるのね」

「ああ、奥に人がいるみたいだし」

 

 急な階段を登り切った二人。入り口の細く長い階段からは想像していなかったが、そこは思いのほか広く、古くも立派な(やしろ)があった。その広場に置かれた石にはかすれながらも辛うじて稲荷と書かれていることだけは読み取れた。

 伊吹が指さす奥にはここの神主と思しき初老の男性が竹箒で参道を掃いていた。男性は伊吹達に気がつくと顔をほころばせ小さく会釈をするので、伊吹達もつられて頭を下げる。 興味深そうに辺りをキョロキョロと見回していた灰原が社の隣の社務所の前に並べられているなにかに気がついた。

 

「あれなに?」

「お守りって書いてるけど」

 

 伊吹の上着の裾を引っ張り問いかける灰原が指を差す。これもまたしばらく放置されていたであろう日に焼け色の変わったのぼりには「御守り」の文字が反転してはためいていた。

 なんとなく興味を引かれて様子を見に行くと、広げられた木製の台の上には御守りらしき物は見当たらない。売り切れかと辺りを見ていた伊吹に後ろから神主が声をかける。

 

「今はそこにあるだけですわい、御守りの数が少ないんじゃよ」

「え、御守りって……」

 

 声をかけられ振り返った伊吹だったが、神主の言葉に再び視線を台の方へと向ける。そこには所謂(いわゆる)、普段目にするような御守りは見当たらず、あるのは無造作に転がっているどんぐりだけだった。

 

「どんぐり、よね」

「どんぐり、だな」

 

 思わず独り言のように零してしまう灰原に、伊吹も小さく頷いた。

 

「昔はその御守りも、神様から直々に頂けたんじゃがのぉ。今では儂が裏にある、神社の敷地の森に拾いに行く有様ですわい」

「え、今拾ってくるって言ったよね」

 

 伊吹の声も聞こえていないのか、ふぉっふぉっふぉ、といかにもな笑い声を上げながら再びほうき片手に掃除へと戻っていく神主。

 

「大きくて立派で綺麗などんぐりを選んでるみたいだけど、これって詐欺?」

「神社の敷地に生えているどんぐりを神主が拾って売って、それを買って僅かばかりでも気持ちが晴れる人がいるんなら別にいいんじゃない」

 

 御守りのどんぐりを一粒摘まみ上げた伊吹がそれをまじまじと眺めながら問いかけると、灰原は少し呆れたように嘆息混じりにそう吐き捨て、既に興味をなくしたように腕を組んでまぶたを閉じる。

 

「どんぐりって、狸の神様かな」

「お稲荷様、狐ね」

「狐ってどんぐり好きなの?」

「さあ」

 

 そんなとりとめのない会話でもなんだか楽しくて、休憩がてらの覗き見のつもりがつい長居をしてしまったらしい。深い森の奥では背の高い木々が陽光を遮ってしまうため随分と日の入りが早く感じる。気がつくと太陽は既に頭上から姿を消し、辺りは薄ぼんやりと夕闇の影に染まりつつあった。

 

「……ん?」

 

 敷地内のベンチに腰掛け土と木々の緑の香りに深呼吸し、時折吹き抜けるそよ風に前髪を遊ばせる灰原。

 伊吹の方はと言うと、まるで子供のように辺りの散策をしている。すると境内の裏手に奥の森へ入っていく小道を発見した。神主が言ってた森か? と、ちょっとした好奇心で奥を覗いてみる。

 休んでいる灰原に一言声をかけてからその奥へ足を踏み入れた彼だったが、枯れ枝を踏みならしながらしばらく進んだところで、辺りが急に影に飲み込まれたかのように暗くなった。

 思わず脚を止め辺りを見渡す。ひんやりとするそよ風が背中を撫でていき、ぞくりとするような、どこか異質な空気が辺りを包んだような気がした。ただ先程よりも一層高い木が生い茂っており、その葉が日の光をほぼ完全に遮ったからだと伊吹の思考は巡るも、どこか周囲に纏わり付くような違和感は拭えなかった。

 彼の逡巡する思考を遮ったのは、なにかの震えるようなか細い鳴き声が聞こえてきたからだ。

 獣道のような細い小道から逸れた森の奥に、この薄ぼんやりとした木々の中であってもほんの微かに差し込む茜色の陽光に煌めく、銀とも純白ともとれる美しい毛皮の狐を見つけた。しかしその後ろ左足の白銀は痛々しい赤に染まり、狩猟用の罠が骨身に食い込むように狐の脚を捕らえていた。

 

「おいおい、大丈夫か? 外してやるから待ってろ」

「……」

 

 伊吹が思わず駆け寄ると、狐は怯えた様子も逃げる様子も見せない。それはまるで伊吹には危害を加える気がないことを察しているかのようだった。

 伊吹がその罠に手をかけると、金属のひしゃげる音と共に()()()()金属片は粉々に分解され使い物にならなくなった。

 脚を解放された狐の傷は思いのほか深くはないようだ。しかしその小さな体には傷が痛むのか、震える脚でなんとか立とうとするもその場に倒れ伏してしまう。

 

「待て待て待て」

 

 伊吹が慌てたように狐をそっと抱き寄せ、その傷口を調べる。いくら綺麗でも野生の狐と言うこともあり、噛みつかれたりしないように細心の注意を払っていた伊吹だったが、そんな心配などどこ吹く風で狐は大人しく治療を受ける。まるで手当てしてくれていることを理解しているかのようだ。

 伊吹が飲みかけだったペットボトルの水で傷口を洗い流し、近くの野草から少しでも効果のある薬草を見繕いそれを傷口に処方する。骨の様子から骨折はしていないようだが、念のため添え木をして自身のハンカチで縛り上げる。

 

「よく見ると美人さんな狐だなぁ。毛は、アルビノか?」

 

 通常の野生動物ならば怪我をしていても罠を外した瞬間になんとしてでも逃げようとするだろうに、大人しくお利口に治療を受けていた狐の頭を「偉い偉い」と撫でる伊吹。狐もその大きく暖かい掌が気持ちよいのか抵抗する様子はない。

 狐と向かい合うようにあぐらをかく伊吹に対し、狐もまた澄まし顔で伊吹の前に座り込んでいる。

 

「ちょっと、――、どこまで行ってるの、――?」

 

 改めて一際目を引く狐のその美しい毛並みを眺めていると、後ろの方から少し不機嫌そうな灰原の呼ぶ声が聞こえてきた。

 

「おっと、悪いね連れが待ってるんだ。もう罠にかかるなよ?」

 

 そう言ってもう一度狐の頭をなで回した伊吹が手を振って別れを告げる。分かっているのかいないのか、狐はそこに座り込んだまま伊吹の背中が遠のいていくのを見送っていた。

 彼がいなくなると狐は自身の手当てされた脚を眺め、尻尾を小さく振っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「そういえば夕方の神社、あの奥に狐がいてさ」

「狐?」

 

 二人が宿に着いたのは日も沈みきってからの事だった。ホテルではなく純和風の旅館を選んだのはせっかくの京都だからだろうか。決して安そうには見えないその館内は老舗ながらも綺麗にリニューアルされていた。

 「未成年だけでも宿泊できるのね」と灰原がいつものジト目で伊吹を横目に見上げ少し意地悪そうに小声で呟く。受付で従業員と話をしていた伊吹がどこかバツが悪そうに「まあ、やりようはある」と苦笑いを浮かべる。

 彼がどんな手を使ったのか、あるいはその容姿から未成年と思われなかったのか、それを聞くことはせず、灰原は肩をすくめてやれやれと笑みを零すのみだった。

 客間で荷を下ろした灰原が持ってきた旅行鞄の中を漁って必要な物を取り出す。彼女が家から持ってきたお気に入りのシャンプーとトリートメントを取り出すと、座椅子に座り込んでだらけていた伊吹が、リモコン片手にテレビをザッピングしながら夕暮れのことを思い出す。

 

「アルビノかな。綺麗な白銀色の毛並みの狐だよ」

「アルビノなら毛並みは白のはずよ」

「白というより、銀混じりに輝くような……。あの神社の神様かも」

「アルビノは昔から神の遣いとされてたりするわ」

 

 灰原は対して興味もなさそうに荷物を整理しながら適当に答える。

 

「毛皮とか高く売れるんだろな」

「……」

 

 伊吹の呟きに振り替えった灰原が呆れたように少し不機嫌そうな視線を向ける。それに気がついた伊吹が慌てて両手を振った。

 

「違う違う。そうじゃなくて、その狐が狩猟用の罠にかかってたんだよ」

「大丈夫だったの?」

「まあ応急処置はしたし、傷もたいしたことなかったから大丈夫だと思うけど」

「そう。ならいいけど」

「でもあんな所で狩りなんてな……」

 

 そんな話をしながらニュースをぼんやり眺めていた伊吹がふっと灰原へと視線を向けると、彼女はクローゼットから当旅館の浴衣を取り出してサイズを吟味してる。

 

「温泉、行きましょ」

 

 Sサイズの女性用浴衣を体の前にあてがいながら、上機嫌に小さく微笑む彼女がそう提案した。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「Sサイズでもかなり大きかったな。やっぱり子供用でないと」

「…………」

「なにふてくされてんのさ。女の子用の浴衣可愛かったじゃん、ピンクの花柄でさ」

「……屈辱だわ」

 

 翌日には宿を後にした伊吹と灰原。二人分の荷物を担ぐ伊吹が、不機嫌そうに腕を組みながら隣を歩く灰原へと笑いかける。その()()()()は彼女が望んでいるものとは毛色が違ったようで、どこか拗ねたようにそっぽを向いて伊吹とは反対の方へと視線を向ける。

 

「よしよし、お菓子食べるか?」

「……子供扱いしないでくれる?」

 

 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながらからかうように、先程購入したみたらし団子を差し出す伊吹。そんな彼にジト目の半眼をチラリと向けた彼女の眉がピクリと動き、頬もむくれているように見える。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「いつになったら怖い話になるんだよっ!」

「先程から灰原さんとの旅行記ばかりで羨ま、じゃなくて、全然関係ない話じゃないですか!」

「いいなー、歩美も京都行きたーい」

「こらこら、話の腰を折るんじゃない。どんな話にも前振りはあるもんだ。細かく聞いた方が想像できるだろ?」

 

 しっとりと丁寧に語る伊吹の話に痺れを切らした子供達が抗議の声を上げる。しょうがないなと冷蔵庫からおかわりのジュースを持ってきた伊吹がそれを空のグラスへと注ぐ。

 子供たちをお菓子とジュースで大人しくさせると、伊吹は再び口を開いた。雰囲気作りのために遮光カーテンの引かれた室内は日の光が遮られ、青空の広がる朝とは思えないほど暗く影に沈み込む。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あれ、萩原君に哀ちゃん、なんでこんなところに?」

 

 次はどこに行こうかとしゃがみ込んだ伊吹が広げる観光案内を覗き込む灰原。そんな二人の後ろから聞き慣れた声がかけられた。

 そこにはよく見慣れた女子高生におじさんと小学生男子、コナンご一行の姿があった。いつもと違うとすれば、そこに珍しい二人組が。

 

「なんや、萩原やんけ。こんなところでなにしとんのや」

「あ、哀ちゃんやん、久しぶりやねー」

 

 西の高校生探偵こと服部平次とその幼馴染みである遠山和葉である。彼らの姿を見るやいなや、灰原は困ったように少しの溜め息を零した。

 

「こっちは観光だけど、みんなこそ勢揃いでどうしたの?」

「俺達はちょっと事件の調査でな」

「さっき解決したとこや。ほんでこれから依頼主が解決のお礼に紹介してくれた旅館でええ飯食って、温泉でも入ってゆっくり疲れでも癒やそか言うてたところや」

 

 伊吹が不思議そうに尋ねると小五郎と服部が答える。よほどいい依頼料が貰えたのか、それとも上等な旅館へと招待されているのか、自慢げに襟元を正す小五郎。すると蘭がそうだと手を叩き「よかったら二人も来ない?」と提案する。和葉もその誘いに「ええな!」と同調し、気分の良くなっている小五郎も気が大きくなっているのか、二人の参加をがははと笑って快諾する。

 

「どうする? 特に予定も決めてないし、今日帰る予定だったけど」

「……」

 

 いつものように腕を組んだまま肩をすくめる灰原。その仕草が「どっちでも」という意味だと知っている伊吹は、「じゃあせっかくなら」とその高級旅館とやらへ同行することにした。

 

「おめー、よかったのか……?」

「別に。彼の言うとおり今日帰る予定だったし、もう少し無料(タダ)でこの京の都を楽しめるなら構わないわ」

 

 こっそりと灰原へ声をかけるコナン。小旅行をもう少し続けられることに対しては素直に喜んでいるようだったが、そこはかとなくご機嫌が斜めに見えるのは、伊吹と二人だけだった空間に割って入ってこられたからだろうか。

 ――彼も少しくらいは自分と同じ気持ちにはなっていないのか――と、いつにも増してジト目で伊吹を見つめる灰原。気にした様子もなく、いつものように愛想良く蘭や和葉と会話する伊吹の姿に溜め息が零れた。

 

「その旅館、浴衣はあるの?」

「そりゃ旅館だから、あるんじゃねーか」

「そう……」

 

 なにを聞いているんだときょとんとするコナンを尻目に、灰原は何やらリベンジに燃えているかのようだった。

 

「でもその旅館に行く前に買い物に行きたいわ」

「買い物ってなに買うの?」

 

 そうだと思い出したように希望を出す灰原。伊吹の疑問にどこか呆れたような視線を送る。

 

「着替えよ。今日帰る予定だったから替えが無いのよ。荷物少なくしたかったから予備もないし」

「別にちょっとくらい同じの着たって」

「嫌よ」

 

 伊吹の発案にぴしゃりと断りを入れる灰原。「下着なんざちょっと換えなくたって」と続ける伊吹の太ももを軽くつねったとき、唐突に後方から男の怒号が聞こえてきた。

 

「どけーッ! 邪魔じゃーッ!!」

 

 ざわつく観光客たちが徐々に慌ただしく動きだし左右に分かれるように道を作ると、その向こうから鞄を小脇に抱えた男が駆けてきた。その右手に握られた文化包丁に周りの人々も避けることしかできない。引ったくりや泥棒など、怪しい言葉が後方の人混みから聞こえてくる辺り、この男が盗みを働いて逃走中なのは火を見るより明らかだった。

 男は真っ直ぐに伊吹達一同の方へと走ってくる。その男の、自棄(やけ)になったように刃物を振り回す姿を見て伊吹が少し呆れたように息を吐く。

 

「どけッ、どけってッ……!」

 

 仕方ないと拳を握りしめる伊吹だったが、刃物を突き出しても微動だにしないその姿に臆した男が思わず脚を止める。その場で足踏みする男は自身を取り囲む観光客達の視線に晒され思わず頭に血が上っていく。血走った目で辺りをキョロキョロと見回した犯人はとっさに人質を取ろうと近くにいた女性の腕を掴み引き寄せた。

 

「道開けろやッ! この女の首かっ切んぞッ!!」

「いや、それはやめといた方が……」

 

 男が女性の首元に刃物を突きつける。それを見たコナンが思わず人質ではなく犯人の方を心配するように声をかけてしまう。

 

「ふぅー……、はあッ!」

「え? ぐへぇッ……!」

 

 犯人が引き寄せたのは蘭の腕だったようで、彼女の肘鉄砲を腹部にもろに受けてしまう。一瞬呼吸が止まってしまうような痛烈な一撃によろめきながら後退する犯人だったが、性懲りも無く今度はチラリと横目に捕らえた別の女性を引き寄せる。

 

「くっそッ、なんなんだよッ……!」

「いや、そっちもやめといた方がええんちゃうか……」

「えぇいッ!」

「あん?……んァッ!」

 

 今度は服部の哀れみを含んだ声がかけられるも、犯人がそれを理解するよりも早く視界の上下が反転する。引っ掴んだのは和葉の腕で、自身が力を込めたかと思うと不意の脱力感と浮遊感が犯人を包んでいた。

 鞄などとうに投げ捨てられ、刃物片手に倒れ込んだ犯人が呻き声と共に起き上がる。ぐらつく脳と視界を鎮めるように何度か叩くと、目の前に一人の少女を見つけた。

 

「くそッ、くっそッ!! あーッ、どけッ! 道開けろっつてんだよッ!」

 

 最早盗みなどどうでもいい、この訳の分からない状況から無事逃げ出したいと切に願いながら犯人はその少女を担ぎ上げ包丁をかざす。

 

「「あ、いや、それ最悪……」」

 

 男の最悪手に三度、コナンと服部の呆れたような哀れむような声が重なった。犯人が担ぎ上げた少女、もとい灰原もその顔に怯えた様子は一切無く、それどころか憐憫の表情で犯人の顔を見上げていた。

 

「おい」

 

 耳にした者の腹の底を内臓から震わせるような、静かに煮えたぎるマグマを思わせる憤怒の込められた声。

 

「一度だけの警告だ。……その手を離せ」

 

 犯人の後ろにいた伊吹の眼光が鋭く鈍い光をたたえ、ぽんとその大きな左手を犯人の右肩に置く。

 肩に手を置かれただけなのに、まるで銃口でも突きつけられたかのように犯人は体が硬直してしまう。壊れたブリキ人形のようにギギギと首を軋ませながら後ろの青年を見るや、脳の奥に微かに残る野生の本能が抵抗することを拒否しているかのように、震える手足から力が抜けていく。無意識のうちにその手に握られた刃物と少女を解放した。

 

「はい…………、すみません……」

 

 漏らしそうになる下半身を締め上げて、そう絞り出すのが精一杯だった。

 

「はいはい、一体どないしたんです、この騒ぎは」

 

 一連の騒動にざわつく野次馬の向こうから聞き覚えのある甘ったるい男性の声が聞こえてきた。引き締まった細身の体躯に野次馬から頭一つ飛び出す身長、撫でつけられたオールバックの髪型に整えられた小ぶりな眉毛。京都府警捜査第一課の切れ者、綾小路文麿警部だ。

 

「あれ? 毛利はん?」

 

 以前京都で起きた事件に際し小五郎とは面識のあった綾小路警部は、珍しいものを見るように一同へと声をかけた。

 

「誰?」

「綾小路、だったかしら。京都府警一課の警部さんよ」

 

 腰を落とし、こっそりと灰原に耳打ちで尋ねる伊吹。彼女はこそばゆそうに耳を払った。

 

「ああ、綾小路警部、偶然ですね。丁度よかった、今引ったくりを捕まえたところで――――」

 

 小五郎が事情を説明すると綾小路警部は部下に指示を出し、手際よく犯人の連行と周囲の野次馬の解消を取り仕切る。

 駆けつけたパトカーに犯人が乗せられ連れて行かれると、取り囲んでいた人々も次第に散っていった。

 

「ところで、綾小路警部はこんなところで何してるの?」

 

 騒ぎが一段落したところでコナンが背の高い綾小路警部を見上げながら尋ねた。そういえばと小五郎達も視線で問いかける。

 

「ええ、まあ、仕事です。ちょっと事件の調査をしとりまして」

「いったいどんな事件で?」

「それは言えまへんよ、毛利はん」

 

 綾小路は困ったように苦笑いを浮かべて小五郎の問いかけを流そうとするも、事件と推理が三度の飯より好きな二人組は逃がそうとしない。

 

「ここであったのもなんかの縁やで、警部はん。せっかくなんやから天下の名探偵毛利小五郎の意見でも聞いてったらどうや?」

「そうそう、おじさんが聞いたらすぐに解決できちゃうかも」

 

 小五郎の名を餌に事件の概要を聞き出そうとするコナンと服部。「そ、そうだな」と満更でもない小五郎は意気揚々とネクタイを締め直す。

 そんな彼らの視線に耐えかねた綾小路警部はどこか諦めたように溜め息を一つ吐くと、ジャケットの内ポケットから取り出した手帳をめくっていく。お目当てのページで手を止めると渋々と言った具合に事件のあらましを説明し始めた。

 

「リスだ」

「……リス、ね」

「ほら、リスだよあれ」

「わかってるわよ」

「いや、なんでみんなスルーなの? 刑事がリス連れて捜査中だよ? ねえ」

 

 手帳の中身を確認する綾小路警部の胸ポケットからひょっこりと顔を覗かせるシマリス。他のみんなはその存在を知っているのか驚く様子はなかったが、初見の伊吹は驚いたように灰原の頭をぺしぺしと叩きながら興奮気味に伝える。

 灰原も初めて見たのか少し驚いたようにしながらも、「変な刑事が多いわね」と言わんばかりに呆れたような視線を向ける。

 

「やめて」

 

 頭をはたく伊吹の手を鬱陶しそうに払って、事件の話にも興味なさそうに携帯を取り出す彼女に伊吹は一人、未だシマリスの驚きを隠せないでいた。

 

「そういうわけで、最近ここらで問題になっとる密猟犯を追っとる訳です」

「せやけどなんで密猟を一課の綾小路警部が捜査しとんのや?」

 

 事件のあらましを聞いた服部が何の気なしに尋ねると、綾小路警部は困ったように眉尻を下げ頬を掻く。そっと小五郎や服部へと口元を近づけ内緒だと言わんばかりに手を口元にあてがい囁くように口を開く。

 

「実は……猟銃で殺されたと思われる遺体があがっとります」

「なるほど、それで綾小路警部が……」

「はい。遺体の身元は――――」

 

 このまま事件の話を続ければ服部たちがしばらくここを離れそうもないのは火を見るよりも明らかだった。

 綾小路警部が「まあ、こんなところです」とひとしきり説明し終わり話を区切ったタイミングで、服部が「そんなら」と意見交換を始める前に和葉が間に割って入った。

 

「事件のことはよーわかったな! ほなあとは警部はんらに任せてウチらは早く宿行くで! ほらほら、はよせな日ぃ暮れてまうで!」

「ちょ、待たんかコラ、話はまだ終わっとらんで」

「でも実際、まだ警部さん達もなにも掴めていないみたいだし、情報も無いんだから名探偵たちの出番はまだちょっと先じゃない」

 

 早く行こうと背中をぐいぐいと押してくる和葉に不平の視線を送る服部だったが、聞いていないようで何となく話を聞いていた伊吹のポツリと零した言葉に、頭を掻きながら諦めたように嘆息する。どこか不満げなその視線は未だ事件の話を諦められないようだった。

 

 

 

*****

 

 

 

 

「しっかしおっちゃん、今時ナビも付いてないような車よう借りてきたもんやで!」

「ほんま、逆に凄いわ」

「うっせえ! 人ができるだけ安い金で見繕ってきた車だってのによ」

 

 鬱蒼と茂る森の奥深くに、一同を乗せたワゴン車の姿があった。小五郎が安金でレンタルしてきたその車は値段相応なようで、外装には補修されていない傷が目立ち、カーナビも付属していないらしい。座り心地の悪い硬い椅子はタイヤが小石に乗り上げる度に少女達の柔いお尻を容赦なく叩きつける。

 深い竹林の間を縫うように奥深くまで伸びる道路は舗装されておらず、車幅ギリギリの道幅はハンドル操作を誤れば深い谷に転がり落ちてしまいそうだ。

 

「しかもここ、携帯も圏外になっちゃうみたいだよ」

「ちょっと、どうするのよお父さん! 携帯があればナビなんか要らないって言ったのお父さんでしょ!」

「わわっ、バカっ、今慎重に運転してんだ!」

 

 助手席のコナンが携帯の画面を叩いた後に、半ば呆れながら報告する。蘭も焦るように後部座席から身を乗り出して運転する小五郎へと詰め寄る。

 

「……最悪ね」

「まあまあ、空気は綺麗だし、いいところだよ」

 

 最早引き返すことも容易ではない細道を一同が進んでいくと少し開けた場所へと出た。そこで一度車を止め休憩及び作戦会議を行うらしい。

 最後部座席に座っていた灰原と伊吹も気分転換に車外へと降り立ち伸びをしながら大きく深呼吸する。

 かなりの時間道に迷っていたようで、日は既に傾きはじめていた。それでも街ではまだ明るい時間だろうが、この背の高い竹林に囲われた森の中ではあっという間に日の光は届かなくなり、冷やされた空気がぞくりと背筋を撫でていく。辺りには不気味な影と静謐が広がり、僅かな笹の乾いた葉擦れの音のみが聞こえてくる。

 

「そうね、素敵な自然だわ。でもそれを楽しめるのは文明の利器が通用する間のみよ」

 

 伊吹の呑気な言葉に辛辣な言葉を返しながら灰原はしばらく携帯と睨めっこしていたが、やはり電波は届かないのか諦めたようにため息を吐いてそれをポケットへと押し込む。

 小五郎は車のドアへと寄りかかり懐から取り出したタバコを吸いながら一服する。服部とコナンはどうしたものかと辺りを散策しながら頭を抱え、蘭と和葉は森の雰囲気に尻込みしてしまい、お互いに手を取り合って車の中から出てこようとはしない。

 みるみるうちに竹林は影に覆われ、太陽は山の向こうへと姿を消そうとしている。竹林の細い隙間から見えたのは、血のように鮮明な赤い色をたたえた太陽の残滓だった。

 

「……ん?」

 

 ()()に真っ先に気がついたのは伊吹のようで、目を細め眉間に皺を寄せて竹林の奥を睨み付ける。

 

「あれ、なんか灯りが見えない?」

 

 伊吹が訝しげにそんなことを呟いて竹林の奥を指さすと、釣られるように一同の視線もその奥へと集まる。

 先程までは気がつかなかったが、辺りが暗い影に沈めば沈むほどにその灯りはハッキリと存在を主張してくる。細い竹林の狭間からほのかに、しかし確かに、夕日とは異なる暖かな赤みを帯びた提灯のようなものが見える気がした。

 伊吹が一同へと振り返る。皆も顔を見合わせた後、宛てもない現状では行ってみるしかないと思ったようで誰からともなく重たい足取りでその灯りの方へと竹林を進んでいった。

 

「……宿?」

 

 鬱蒼と茂る竹林をかき分けながら先頭を歩いていた伊吹の視界に飛び込んできたのは、辺りの深い山々や森からは想像もつかないほど綺麗に開けた場所。明らかに人の手によって作られたその空間のど真ん中には思わず見上げてしまうほどに大きな和風建築の建物が存在した。

 伊吹が思わず口にしたのは、その建物の門にこれまた年季の入った木製の板に厳かな文字で『月灯庵』と書かれた看板が見えたからだ。

 

「こんなところに、宿?」

「旅館やろか……?」

 

 後ろの方に控えていた蘭と和葉は辺りを警戒し未だ怯えた様子。コナンと服部が周囲を見回し人がいないか確認する。

 

「おいおい、もしかしてここか? 依頼人が紹介してくれた旅館ってのは」

「まあ、提灯が灯っているし、一応営業中なのかな?」

 

 黄昏時の空を背に佇むその宿は、門前に吊された提灯こそ灯っているものの建物自体に光はなく人の気配もしない。暗闇の中にぼーっと突っ立ているかのように佇む宿は異様な存在感を放ち、得も言われぬ不気味さを醸し出していた。

 小五郎はげんなりとした表情でがっくりと肩を落としうなだれてしまう。

 伊吹が中の様子を窺おうと門へと近づく。灰原も何度か当たりを見回しながら伊吹の後へと付いていく。

 伊吹が建物の敷地内には足を踏み込まないように、お辞儀をするように頭だけ門をくぐらせ中を覗こうとしたその時だった。急に辺り一帯が明るい光に包まれる。

 

「ッ!!」

「きゃっ……」

 

 その周囲の異変に反応した伊吹が咄嗟に、自身の足下にいた灰原を小脇に抱えて飛び退く。門からある程度の距離を取ってから彼女をそっと下ろし、片膝で立つ自身の背に灰原を隠す。

 その光の正体は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、宿の門から周囲へと広がるように順番に、辺り一帯の提灯や灯籠に火が灯ったからだ。

 ぽんぽんと未だ周囲に広がり灯っていく。それは暗闇に沈む廃墟のような宿を暖かい橙色に染めあげ、周囲の竹林にも所々に石灯籠が灯っていきぼんやりと森の中を照らしていく。不気味だった一帯の雰囲気は一瞬でかき消され、どこか儚げな幻想的な空気へと染め上げていく。

 計ったかのようなそのタイミングはまるで彼らの到着を待っていたかのようだ。

 

「な、なんなん? 急に明るなったで?」

「と言うか、こ、こんなに提灯とか灯籠なんてあったっけ?」

 

 和葉と蘭がお互いの両手を合わせて握り合う。周囲の明るさに幾分か恐怖心は和らいだようだ。小五郎がチラリと腕時計を確認する。

 

「時間を指定して自動で点灯されるようにしてたんだろうよ、ちょうど今六時だ」

「灯籠は暗くて見えてへんかっただけとちゃうか」

「なんだよ営業時間外だったのか」

「いや、飯屋ちゃうんやで。旅館が夜六時からしかやってないなんて聞いたことないっちゅうねん」

 

 小五郎と服部がそんなことを話ながらコナンを連れて特に気にした様子もなく宿に入ろうと門をくぐっていく。この得体の知れない宿に入ることより、この場に取り残される方が怖かったのか、蘭と和葉も慌てて彼らの後を追いかけた。

 

「どうしたの?」

「え? ああ、いや。……なんでもない」

 

 なぜかその鋭い眼光を宿の方ではなく竹林の方へと向けていた伊吹に、灰原も警戒した様子で、少し心配そうに声をかける。

 彼女の声にハッとした伊吹が安心させるように微笑んで頭を撫でる。納得してなさそうな灰原の手を取って二人もまた宿の中へと消えていった。

 

 

 


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