「ようこそ、月灯庵へ。当旅館は芳醇な山菜に新鮮な川魚、森の豊かな食材で彩られた美味しいご飯。暖かい源泉を贅沢に貸し切った大自然の露天風呂、上質なふかふかの布団、都会の喧騒とは無縁の静謐に川のせせらぎ、竹林の緑の香りに包まれて、心ゆくまでお寛ぎいただけます』
一同が厳かな門をくぐり舗装された石畳を歩いて行くと、宿の入り口に人影が見えた。足下から見上げる宿は外から眺めるよりも一際大きく感じた。
入り口に立っていた人影は着物を着た女性の姿だった。落ち着いた濃紺の地に鮮やかな花が美しい上品な着物を身に纏い、一同を迎え入れるかのように丁寧にお辞儀をする。
肩口で切りそろえられた艶やかな黒髪は吊り下げられた提灯の明かりを反射しほのかに橙に染まる。大きくも細く切れ長の瞳は小さな輝きを湛え、目が合えば吸い込まれそうなほど妖艶で絡みつくような深い墨黒をしている。
口角はそっとつり上がり、常に笑顔を絶やさない口元は楚々なれどどこか怪しく、肌は東の空から薄らと顔を覗かせはじめた月明かりにも透けそうなほど白く滑らか。
控えめなその胸元は着物をより映えさせ、それに対して大きく突き出された臀部は男心をくすぐるように扇情的で艶かしい。
年の頃は二十の後半か三十の前半か、潔癖な清純さの中に得も言われぬ色香が醸し出されている。
『…………』
和の美を人の形に押し込めたようなその艶のある美しさに、男性陣も開いた口が塞がらないようで、微かに頬を朱に染め思わず見とれてしまう。
「ゴホンッ……!」
「……ハッ!」
灰原の咳払いはまるで男性陣を取り巻く空気を吹き払うかのよう。伊吹を筆頭に我に返った男性陣がハッとして女性陣へと振り返る。伊吹に至っては声に出してしまったようだ。
「…………」
女性陣の突き刺すようなジトッとした視線が男達を貫く。
「あ、いや、客じゃないんだ。道に迷ってしまいまして、ちょっと教えていただけませんか」
蘭からの視線に耐えかねた小五郎が父親の威厳を取り戻すべく真面目に話を切り出す。女将と思しき女性と小五郎が何度か会話を重ねると女将は困ったように頬に手を添え眉尻を垂らした。
「あら、困りましたなぁ。ここいらには他に宿なんかあらへんし、今から戻るにも大きな通りに出る頃にはもうとっくに夜も更けてしまいますえ」
小五郎と女将の会話を余所に、服部は隣のコナンと伊吹にポツリと声を漏らす。
「にしてもえらいべっぴんやなぁ」
「あぁ……」
「確かに……」
言い知れぬ女将の色香に当てられたように半ば無意識に同意の声を上げてしまう伊吹とコナン。彼らの小さな呟きも聞き漏らさなかった和葉と灰原の視線が研ぎ澄まされる。
「なんか怪しない? この旅館」
「ええ、すごく怪しいわ」
目尻を吊り上げ不満を隠そうともせず、和葉が訝しげな表情で蘭と灰原に同意を求めると、間髪入れずに肯定する灰原。彼女らのあからさまな態度に蘭も思わず苦笑いを浮かべる。
「ほなお前、野宿でもするか?」
「ええ、そんなん嫌や」
「それともこの人数で車中泊?」
「……最悪ね……」
「文句あんのかい」とでも言いたげな視線で和葉に問いかける服部と、わざとらしく「困ったなぁ」と顎に手を添えながら提案する伊吹。額に手を突き溜め息を零す灰原の言葉がむなしく虚空へと吸い込まれていった。
「えっと、女将さん、この辺に宿はないって言いましたよね?」
「ええ、ここらにはこの月灯庵しかありまへんで」
小五郎がなにかピンときたように指を鳴らし女将へ尋ねると、どこか照れくさそうに確認を取る。
「あのー、もしかして、芦名さんの紹介してもらった宿ってここでしょうか?」
「芦名?」
「今回の依頼人の名前や」
聞き慣れない名前の登場にぼそりと確認をとる伊吹。
「……あ……ええ、はい。そうです、アシナ様からお話は聞いとります。えっと、確かお名前は……」
「毛利です! 天下の名探偵、毛利小五郎と申します! いやー、よかった! 実はこの宿を探して道に迷ってしまいまして」
頭に手を添え「たはは」と安心したように高笑う小五郎。「それはよかった」と、口元を手で隠し上品にくすくすと微笑む女将の細い切れ長の瞳が、薄らと妖しい光を孕んだような気がした。
「毛利、小五郎様ですね。えっと……、はい、確かに毛利様
「……」
「どうぞ中の方へ、足下お気をつけて」
よかったよかったと脳天気に笑う小五郎を連れて宿の中へと案内していく女将。その後ろ姿を鋭い視線で見送る伊吹とコナンと服部。
「聞いたか? 今の」
「ああ」
「確かに、七名様って言ったね」
「なんや、それがどないしたん?」
男性陣の会話を聞いていた和葉が後ろから疑問の声を上げる。どこか呆れたような表情で頭だけ振り返る服部。
「アホ、俺達はおっちゃんらと俺らの五人で事件を解決して、その宿っていうのを紹介してもろてんで」
「なのに、あの女将さんは確かに今七名様で話を聞いてるって言ったね」
「ボクたちが伊吹兄ちゃんと灰原と合流したのは事件解決の後な訳だから、そこから依頼主に連絡もしていなかったのにどうして女将さんはボクたちが七人だって知ってたのかな」
服部の言葉に伊吹とコナンが続く。話を聞き不安げに顔色を変えていく和葉と蘭。腕を組んだ灰原が目を閉じていつものようにそっと続けた。
「つまり、この宿は例の招待された宿なんかじゃなくて、怪しさ満点の別の建物って訳ね」
「ええっ、ど、どうするん平次?」
「どっちにしろ俺らに宿が無いんは事実や。泊めてもらうしかないやろ」
平然と答えると服部は荷物を担いで宿の中へと向かう。蘭と和葉が不安そうにお互いを見つめ、言外に「どうする?」と確認をとっているようだ。
「それに、なんかあってもまあ大丈夫やろ。こっちにはごっつい用心棒もおるんやから。なあ?」
「え、俺?」
からかうようにニヤリと笑い伊吹へと視線を向ける服部。すると和葉が眉間に皺を寄せ不安を押し殺すように怖い顔を浮かべながら伊吹へと詰め寄りその両手を取る。
「ほんまやっ、伊吹君がおるやん! これなら百人力や、なんかあったら頼んだで!」
「え、ああ、うん。大丈夫だと思うけど。あの女将さんからは敵意というより、むしろ……」
和葉に手を取られたまま真剣な眼差しで女将の消えていった宿の入り口を見やる伊吹。すると先に行っていた服部がずかずかと戻ってきて伊吹の肩を組むと強引に和葉から引き離した。
伊吹の後ろに控えていた灰原もそっと二人の間に割って入る。
「お前、ちょーっと図体デカいからってあんまり調子に乗るなよ」
「なんなんだよ、お前が振ってきたんだろ」
「ほんと、あんまり調子に乗らないことね」
「だから、なんなんだよ」
二人のどこか鋭い視線に辟易しながらも、伊吹は先程感じた女将の雰囲気について一人考察していた。
*****
『ようこそ、月灯庵へおこしやす』
石畳をとんとんと渡り赤い提灯の横を過ぎ、古くさくもどこか厳かな老舗宿の中へと入ると、複数人の従業員が彼らを招き入れた。
女性従業員はみな先程の若女将に引けを取らない麗しい容姿に涼しげな切れ長の瞳。男性従業員も皆一様に人目を引く端整な容姿をしている。
宿の内装は外観と相違なく、創業何百年という時の流れを感じさせるような作りながらも汚れやガタは見て取れない。
「お部屋の方にご案内させて頂きます、こちらへ」
すかさず従業員が荷物を持ち、女将の先導で客室へと案内されていく。
柔和な笑みを浮かべる従業員達。落ち着いた雰囲気ながらも絢爛な内装はどこか怪しく、通路に灯る蝋燭はまるで生き物のように辺りにゆらゆらとうごめく影を投影する。
「柳の間」「楓の間」と書かれた戸の前で女将がその白くしなやかな指先をそろえて部屋を指した。
「大所帯ですので二部屋ご用意させていただきます。内装は変わりまへん、部屋割りの方はどうぞご自由に」
「まあ適当に男女で別けといたらええんちゃうか」
「こんなとこで女の子だけにするんか!」
「こんなとこって……」
服部の提案に思わず声を上げる和葉。伊吹の一言に思わず「あっ」と手で口を覆う。女将さんは聞こえていないのか気にしていないのか、その笑みを崩さずに小首を傾げた。
そんな彼女の姿に和葉の警戒心もいささか緩和されたのか、それ以上の異議申し立てはなく、柳の間に男性陣が、楓の間に女性陣が宿泊することとなった。
「それでは皆様、長いこと道に迷われてお疲れみたいですし、さっそく当宿自慢の温泉でゆっくり休んできて下さい」
「そうだな、せっかくだし飯の前にひとっ風呂浴びるか!」
女将の提案に小五郎もご機嫌な様子。
「哀ちゃん一緒に入ろなー」
「コナン君ちゃんと体洗うのよ」
「う、うん」
「なんや工どっ、コナン君、自分で背中洗えんのかいな」
「うっせーな、洗えるっつうの」
「哀のシャンプーとトリートメントってこれ?」
「それはボディソープって書いてあるでしょ」
「買ってきた着替えは?」
「ちょっと、人の下着を漁らないで、自分で出すわよ」
皆長旅に疲れていたようで、ここにきての温泉にテンションも上がっているようだ。
「皆様によう似合う浴衣も用意しとります、よければ是非」
「っ!」
浴衣、その言葉に思わず反応する彼女の明るいブラウンの髪がピクリと揺れた。
*****
「にしても、あの女将もさることながら従業員一同美人揃いだったなぁ。これで風呂上がりにビールを飲んで、美味い飯が出るなら最高の宿だぜ」
脱衣所を抜けると少し鼻を突く水場独特の匂いの漂う簡素な屋内温泉。そこで体を流せば扉一枚隔てた向こうに大きな露天風呂が広がっていた。
空はほとんど夜色に染まり、西に広がる竹林の隙間から微かな力ない橙の色が見える程度。東の空には既にいくつかの星々が見えて、日が沈みきれば満点の星空が見えることは想像に難くなかった。
頬を撫でていく風は、湯に濡れた体を程よく冷やし、露天風呂の湯加減を絶妙な物へと変えていく。
湯船を取り囲む岩肌に背中を預ける小五郎が頭にタオルを乗せながら呻る。服部やコナン、伊吹たちも湯船に浸かるとお湯の中に疲労が溶け出していくような気がして思わず「うぃー……」と声が漏れた。
「にしても自分、相変わらずえげつない体しとんのぉ」
「お前も相変わらずえげつない黒さだな」
「じゃかあしい、色黒なんはじっちゃん譲りなんじゃ」
服部と伊吹の掛け合いの声もどこか力なく、心地よい湯加減に脱力してしまっているようだ。
組み細工のような繊細さでありながらも、見るからに頑強そうな太く立派な竹の壁が男女の露天風呂を隔てる。男湯の雑談は女湯にまで聞こえていたようだ。
「あ、平次らも露天の方におるんや」
「お父さんたちと萩原君もいるみたいね」
「……」
打って変わって女湯の方では皆大人しく湯船の温もりに身を預けていた。「向こうに声かけたろか」と、和葉が悪戯な笑みを浮かべ大きく息を吸ったとき、壁の向こうから聞こえた会話に思わず声が詰まってしまった。
「ところでお前らもあの女将に随分と見とれてたじゃねえか、ガキのくせに色気づきやがってよ。ああいうのが好みか」
「あほか、もう酔っ払ってんのか、おっちゃん」
小五郎がからかうように悪態を吐く。「好みか」その一言は平次に尋ねられたようで、和葉は思わず口を噤みそっと息を殺して仕切りの壁へと忍びより耳を寄せる。
「そういう――は、――工藤――も」
「新一……?」
男湯の方から聞き覚えのある名前が聞こえてきて、蘭も湯船を上がると思わず和葉と並んで聞き耳を立ててしまう。
「か、和葉ちゃん……」
「蘭ちゃん、ちょっと静かに、大事なとこなんやから」
真剣な眼差しで口元に人差し指を立ててしーっとジェスチャーする和葉に、蘭も思わず真剣な眼差しでこくりと頷いた。
「……」
バスタオル一枚を身に纏い男湯へ聞き耳を立てる二人の姿を冷ややかな半眼で横目に見つめる灰原。あほらし、その一言を口には出さなかったものの、彼女の口から漏れるため息には呆れの色が滲んでいた。
「お前はどないやねん、萩原」
「っ!」
ハッキリと聞こえたその名前に思わず反応する灰原。ピクリと跳ねる体にぱしゃりとお湯が弾む。
内心あの二人に呆れていた手前、自身もその壁に耳を寄せるのはどうにも憚られる。しかし壁向こうの会話が気になって仕方が無いようで、ちらちらと男湯の方へと無意識に視線が流れてしまう灰原。
「……」
すーっと、音もなく湯船を移動すると、蘭と和葉の元までは行かずとも湯船の中で最も男湯に近い位置に陣取り、瞳を閉じて耳に全神経を集中する。
「俺は――ない、好み――い、だよ」
断片的にしか聞き取れないその会話がもどかしく、――今の自分が酷く滑稽な姿だと分かっていながらも――思わず立ち上がって壁へと耳を寄せてしまった。
「あ、哀ちゃん?」
「しっ、大事なところなの」
*****
「そういうお前はどないやねん、萩原。なんやあの女将のことよう見とったみたいやけど」
「あれはそういうんじゃない」
服部が百も承知の上でからかってくるのに対し、伊吹は面倒くさそうに答えた。
伊吹が頭に乗せていたタオルで顔を拭い、湯船の外で一絞りしてからスパンと肩にかけた。傷だらけの屈強な両腕を伸ばすように岩肌へと広げ、星の輝きだした空を見上げながら
「俺の好みはもっと理知的でクールな雰囲気の中に時折顔を覗かせる可憐さとあどけなさを併せ持ってて、良識があって良妻にして賢母。素直になれないところが玉に瑕だけどそれがまた愛おしく思えるくらい隠しきれない愛情に溢れているような子で、冷ややかな目元に時折混じる恋慕の熱い視線とか、落ち着き払って何でもそつなくこなせるのに爬虫類とか虫とかが苦手な女の子らしさとかがあったり。気丈に振る舞っても心の奥では寂しがり屋で、そんな弱みを自分にだけは見せてくれたり。人前ではツンケンしてて大人ぶってても実はすごいヤキモチ焼きで独占欲が強くて、構ってあげるとそっぽむくのに放っとくと構って欲しそうにする猫みたいな子が好みかなぁ。なにより、何をおいても守ってあげたくなるような子、かな」
聞いてる側が嫌になるほど淀みなくすらすらと出てくる言葉に、聞いた服部も頭を抱える。
「つまり俺の好みはあ――」
「わかったわかった、よーわかった。聞いた俺がアホやった」
*****
「萩原君、やけにディテールが細かかったけど」
「あれはもう好みやのおて、誰か個人のことを言うてんのとちゃう。誰のことやろ」
「…………」
「哀ちゃん大丈夫? 顔が赤いよ、のぼせちゃった?」
「え、ええ、少し……のぼせたみたい。先に上がっておくわ」
そう言い残すと屋内のシャワーで汗を流しに戻る灰原。そんな彼女の後ろ姿を見送りながら和葉がポツリと零した。
「お湯から上がっとったのに、なんでのぼせたんやろ」
*****
「うぃー、いいお湯じゃった。あれ、哀もう上がってたの?」
「ええ。……ちょっとのぼせちゃって」
バスタオルを首元にかけた浴衣姿の伊吹が男湯から出ると、男女風呂の入り口に備え付けられた椅子に灰原が腰掛け携帯をいじって時間を潰していた。
伊吹の声に顔を上げ彼の姿を見て一瞬言葉が詰まったのは先程の会話が脳裏を過ったためか、それともお風呂上がりの水に濡れた彼のはだけた浴衣姿を見たからだろうか。
「ちょっと、しゃがんで」
「ん、ああ、こう? ぐうぇ」
薄い青みがかった浴衣に濃紺の帯を締める伊吹は随分と温泉で暖まったようで、熱気を追い出すようにその胸元をゆるめ胸筋に薄ら浮かぶ汗をタオルで拭う。
そんな彼を目の前に座らせた灰原が無言でその襟元を締めた。
「あ、ありがとう。けど暑いんだけど」
「我慢しなさい。……虫除けよ、変なのが近づかないようにね」
伊吹の浴衣を整えた灰原が「よし」と満足そうに胸元を叩く。
「哀も浴衣にしたんだ」
「ええ、せっかくだったし」
伊吹がしゃがんだままの視線で灰原の浴衣姿を見やると、灰原は身に纏う若紫色の浴衣や桔梗色の帯を変なところはないかと腕を伸ばし足下から袖まで確認する。
どうかしらと言わんばかりに彼の前で回って見せる灰原。
「すごく、似合ってる。ほんとに綺麗だよ」
「……ふふっ」
なんの混じり気もないその言葉が彼の飾らない本心であることは、それを聞いた者が一番よく分かっているようで、少し勝ち誇ったように小さく笑うと彼女はくるりとそっぽを向いてしまった。
その火照った顔をのぼせたからと言い訳するには、少し時間が経ちすぎていたようだ。
「なんだおめー、随分とご機嫌だな。なにかあったのか?」
「ひ・み・つ」
皆が集合したところでコナンが上機嫌の灰原へと尋ねると、彼女は浴衣の両袖を口元へと当てがい、なにかをこっそり独り占めするかのように笑みを零した。
*****
「おほー! これは凄い!」
「美味しそー!」
「むっちゃ豪華やん!」
温泉を満喫した一同が一息吐いて休んでいると、女将に大広間へと案内された。
「宴」という木札の掲げられた戸が開くとなんともいい香りが辺りに漂い、山の幸をふんだんに使った素朴ながらも食欲を大いにそそるご馳走がずらりと並んでいた。
*****
特に絶品だったのが肉じゃが。ほくほくのジャガイモに素材の甘さを引き立てたにんじん、シャキシャキとした食感に爽やかな青い香りの残るサヤエンドウ。タマネギは溶け出さない絶妙な塩梅で煮込まれトロトロの甘みが口いっぱいに広がる。ぷりっぷりの糸こんにゃくの一本一本の隙間にもつゆが絡みつくようで、かじるとじゅわっと甘みのあるお
「ちょちょ、ちょっと待って下さい。なんだかやけにディテールが細かくないですか?」
「なんかすんげーうまそうな肉じゃがだな!」
「歩美も食べてみたーい!」
「まあまあ落ち着け。それくらい絶品だったんだよ」
饒舌に語り聞かせる伊吹がグラスの麦茶を一口飲み口元を湿らせると、再び滑りの良くなった口を開く。
*****
「そういえば女将さんはええっと」
「あ、申し遅れました。うち、当宿の女将、
お猪口を片手に小五郎が窺うように声をかけると、女将、美子は慌てた様子で名乗り畳に手を着いて頭を下げた。
彼女が正座のまま綺麗な姿勢で頭を垂れると、その足下の着物が少しはだけた。
「その足、どうかされたんですか?」
先程まで気がつかなかったが、微かに見えた彼女の足首には包帯が巻かれているようだった。ちらりと視界の隅にそれを捉えた伊吹が何の気なしに尋ねると、美子は慌てて隠すかのように自身の着物を正した。
「い、いえ、大した怪我やありまへん、お気になさらず」
誤魔化すように小五郎へとお酌をする。深く聞くこともできず、一同はまた別の話題に花を咲かせた。
「ああ、それなら俺もみんなと合流する前に綺麗な白銀の毛並みをした狐を見かけたよ」
露天風呂で見た星空の話からここら一体の自然の豊かさへと話は流れ、伊吹も古びた神社で見かけた綺麗な狐のことを思い出したらしい。
「はー、そりゃ珍しいな、なんの種類や」
「さあ、見たこともない感じだったけど。狩猟用の罠にかかっててね、一応助けはしたけどさ。そりゃもう綺麗だったよ、今まであんな綺麗なのを見たことないくらい」
伊吹と服部の会話を聞いていた美子が、がしゃりと小五郎の徳利を倒してしまう。
「あ、ああっ、申し訳ありまへん、ぬ、濡れてまへんか?」
「いえいえ、大丈夫ですよ。もう飲んでしまった後なので」
慌てて徳利を起こす美子が小五郎の浴衣を確認すると、一言謝り部屋の外にいた従業員に追加の一本を持ってくるように指示を出す。
「そ、それはここいらの神さんです。昔はもっとおったんですが」
ごほんと咳払いをして仕切り直すようにそう語り出す美子。
「ぎょうさん狩られてしまったみたいです」
そう呟くと、美子は遠い記憶を辿るように憂いを帯びた瞳で、窓の外に浮かぶ月を見上げる。ほのかに揺れる瞳には涙に潤んでいるのか、ろうそくの火の揺らめきなのか分からなかった。
「み、美子さんは昔からこの辺りに?」
どこか沈痛な空気を変えようと小五郎が美子に話を振る。
「そうです、うちは産まれも育ちも、ここ……、この辺りが地元です」
「はー、にしてもこの立派な宿を美子さんが取り仕切ってるんですか? まだお若いのに」
美人とお酒を前に思わず鼻の下を伸ばしてしまう小五郎だったが、彼女の言葉に思わず口を噤んでしまった。
「家族はみんな、失ってしもて」
『……』
一同の責めるようなどこか冷ややかな視線が小五郎へと集まった。
美子は窓から夜空を眺めたままでその表情は見えなかったが、ぽつりぽつりと、思い出を一つ一つ拾い上げるように丁寧に、言葉を紡いだ。
「いってらっしゃい、気をつけて、早く帰ってきてね。それが最後の言葉でした。まさかそれが最後の会話になるやなんて、誰が想像できますか」
着物姿の彼女は凜と背筋を伸ばし、清く美しい様を表すように正座のまま、月を見つめたまま。その姿を前にすると「相手はどなた」などと尋ねることも憚られた。
「言いたいこと、伝えたいことは伝えとかなあきまへん。いつそれが、最後の言葉になるやもわかりまへんから……。大事なその人が明日も変わらずそこにいてくれるのは、ほんまに奇跡みたいで、素敵なことなんよ」
静かに振り返った彼女は青い月光を背に、淡いろうそくの灯火に照らされ、目を擦れば消えてしまいそうな程に儚くも、確かに力強くそこに存在していた。
「お持ちしました」
戸の外から聞こえた小五郎の冷酒を持ってきた従業員の声が皆をハッとさせる。美子がそれを受け取り小五郎へとお酌する。
「いややわ、こんな暗い話してもうて。久しぶりのお客さんやから浮かれてしもたんやろか」
頬に手を当て困ったように笑う彼女に、一同も深く聞くことはなかった。
「せや、さっきの露天風呂から見えた小川。あの上流の方はこの時期蛍が見えますよ。よければ行ってみて下さい」
「蛍やって! 蘭ちゃん見に行こ!」
「うん! 哀ちゃんも!」
「そうね」
清流のせせらぎに漂う蛍の光を想像して女性陣が盛り上がり、さっそく出かける準備をしようと部屋へと戻って行く。
彼女らだけで行かせる訳にもいかず、服部とコナンも重い腰を上げて外出する準備をするために部屋へと戻る。
「俺は行かねえぞお」
「わーっとるわい。そんなべろべろの酔っ払いに着いてこられても面倒見切れんで」
「んだとこの色黒探偵坊主ぅ!」
「まあまあ毛利はん、もう一本どないです?」
「おっ、いいっすなあ!」
したたかに酔いの回ってきた小五郎が、顔を赤くしながらおぼつかない呂律で服部へと食ってかかるも、美子のお誘いにすっかり上機嫌となり、がーっはっはっはと高笑いをする。
美子が手を叩くと数名の女性従業員が日本酒を持ってきては小五郎へとお酌をする。美人に囲まれて鼻の下を伸ばす小五郎に呆れたような視線を投げつけて服部とコナンは広間を後にした。
「萩原様、ちょっと、よろしいですか?」
「えっ、ああ、はい。どうしました?」
コナン達の後を追うように伊吹も部屋を出ようとしたとき、その浴衣の袖をそっと引かれた。美子はチラリと後ろを確認すると、すっかり出来上がった様子の小五郎を他の者に任せ、そこから離れるように伊吹の袖を引いて広間を出る。
伊吹の袖を掴んだままずんずんと廊下を進む美子。何度か角を曲がっていくと、徐々に廊下のろうそくの数も減っていき、辺りは少しずつ闇に飲み込まれていった。
――なんかやけに広いような――、先程から歩けども歩けども終わりの見えない廊下に伊吹もいささか不穏な空気を感じた。
「ど、どうかしましたか? 俺も蛍見に行きたいんですが」
伊吹の問いかけも聞こえていないように美子は振り返らない。しかしその手は彼の袖を離そうとしない。伊吹の膂力を持ってすれば容易に引き剥がせる程度の華奢な力だったっが、なんだかそれは申し訳ないような気がした。
ぽつぽつとした灯火だけがぼんやりと辺りを照らし出す廊下。歩く度に鳴る床板の軋む音がだけが聞こえる。
すると美子が一つの部屋の前で歩みを止めた。困惑する彼の手を引いたままその部屋へと入り、戸を閉める。
決して広くないその部屋にはお香のような甘い香りが漂い、部屋を照らすろうそくはそれまでに見たものと比べて微かに紅い色味を帯びている。
部屋に余計なものはなく、開かれた窓辺に置かれた花瓶に生けられた牡丹の花と、隅に申し訳程度に置かれた文机、そして部屋の真ん中に敷かれた二組の布団だけが存在していた。
「あの、これは……、なんと言いますか」
伊吹が薄らとなにかを察したかのように言葉を濁す。
――……虫除けよ、変なのが近づかないようにね――
温泉から上がったときの灰原の言葉が脳裏を過った。
困惑する伊吹へ体重を預けるように寄りかかり、壁へと押しやる美子。伊吹の鳩尾ほどまでしかない身長は、顔を俯かせてしまえばその表情をうかがい知ることはできない。
大した体重でも力でも無いはずなのに、伊吹はどうにも足下がふらつくような感覚がして、よろけるように押しやられ壁へと背を預け美子の体を支える。
「いや、その、こういうことは」
「萩原様……」
伊吹が『この状況、相手にそんな気は無くて、自身が恥ずかしい勘違いをしているだけでは』という可能性も捨てきれず探るように声をかけようとすると、それを遮るように美子が顔を上げ伊吹を見つめた。
艶やかな黒髪は朱色の灯火を吸い込むようにより黒く映え、白い肌に差す火照りは決してろうそくの灯りのせいだけではない。じっと逸らすことなく見つめてくる切れ長の瞳を潤ませ、ほのかに淡く紅の引かれた薄桃色の口元がきゅっと結ばれる。意を決したかのようなその甘く蠱惑的な表情。彼女が瞬きする度に揺れる長いまつげが伊吹の男心を扇情的にくすぐる。
両の手をそっと伊吹の厚い胸元へと這わせ、その浴衣をはだけさせる。自身に寄せられるほんのりと柔い胸元も、視界に入る大きな臀部も、白く滑らかなうなじも、妙に色っぽく伊吹の目を染め上げていく。
自身の体をそっと貼り付けるように伊吹に重ね合わせ、胸元に寄せた耳は彼の鼓動を聞く。
「どきどき、しとります」
「いや、これは、そういうのじゃ」
風鈴を思わせる彼女の涼しげな声が鼓膜を揺らす度に、まるで脳まで揺らされてかのような錯覚に陥って、視界が揺れる気がした。
静かな室内は静寂に包まれ、窓の外から聞こえる夜鳥の鳴き声が遠くからこだまする。少し上がった美子の息づかいが艶めかしく、耳から滑り込み頭の中を反響する。そっと帯をほどき、決して安くはないであろう着物を構わずその場に脱ぎ捨てる。露わになる白く薄い肌襦袢は、触れる美子の体温と柔らかさを余すことなく伝えてくる。
白くしなやかなその脚が襦袢の裾よけからするりと伸びて伊吹の脚を絡める。
「うちに、身を委ねてください」
「……っ」
なにかがおかしい。伊吹はなぜか脱力してしまっているその両腕をなんとか動かし、美子の両肩を掴んで自身から引き剥がそうとする。
「いややわ、……そないないけずせんといて」
しかし力が抜けていく。自慢の腕力がいつもの猛威を振るわない。自身でも分かるほどの激しい鼓動、揺れる視界と染まっていく脳内。
「……これはお礼。ずっとここにおって下さい。きっと夢見心地でおられます」
鼓膜を心地よく揺する美子の甘言に伊吹の瞳から光が失われていく。抵抗するように美子の両肩に置かれていた伊吹の手がするりと垂れ落ちた。
ふわりと室内に風が吹いたかと思うと、紅いろうそくの火が揺らめき二人の影をいくらか明滅させたあと音もなく辺りを闇に溶かした。
山を降り清流を駆け抜けてきた清らかな一陣の風が一瞬、室内に漂う甘いお香の香りをかき回した。気のせいか、ほんの僅かに、柑橘系の爽やかな香りがその風に乗って運ばれてきたように思えた。
「……ッ!」
「あ、ちょっと、きゃっ……!」
その瞬間、確かに伊吹の瞳に光が灯る。
泥のように眠るところを無理矢理起こされたような倦怠感が襲ってきて、四肢がやけに重たく感じた。それでも振り絞った活力でその右の豪腕を振り上げる。
獣のような眼光に高く持ち上げられた拳。殴られる、直感的にそう感じた美子は思わず目を強くつむり身を縮こませる。
「ぐうぇッ」
「……へ?」
しかし美子に届いたのは伊吹の巌のような拳ではなく、彼のうなるような悶絶の声だった。
伊吹は振り上げた拳で自身の顔面を殴打したのだ。鈍い衝撃が頭蓋を揺らして骨身に染みる。口の端が切れピリリと痛み、口内に広がる渋い鉄の味を飲み込んだ。
その一撃は霞のように薄らと伊吹の脳内を包んでいた薄桃色のもやを振り払った。「俺に何をした?」その一言を飲み込んで伊吹は目の前で縮こまったままきょとんとしている美子を見る。腕を振り上げる伊吹の形相がよほど怖かったのか、瞳の端には薄らと涙が浮かんでいた。
「ふぅ……、あー、痛い。⋯⋯美子さん……お礼って、なんのことですか?」
半分は己の一撃のせいだが、伊吹はぐわんぐわんと回る脳みそで逡巡し、とりあえず事の真意を問うことにした。
「…………あ、えっと……」
伊吹の問いかけに呆然としていた美子だったが、しばらくすると、緊張の糸が切れたように吹き出してしまった。
「ふっ、ふふっ、あはははっ、まさかそんな……。ふふっ、ごめんなさい。まさかそんな風にして自制心を保つ
「え?」
「ああ、いえ、申し訳あらへん。お礼言うんは……、萩原様はわからんでもええことなんです。ただうちがお礼をしたくて、こういうやり方が一番、殿方は喜んで下さるもんやとばっかり」
思わずお腹を抱えて笑ってしまった美子が、瞳の端に浮かんでいた涙を指で拭った。
自身の両の手をそっと胸元で握りしめ、なにかを思い出すように瞳を閉じる。そして今度は困ったような笑みを浮かべて伊吹を見つめる。
「萩原様には適いまへんなぁ、まさかこないにあしらわれるやなんて。せやけど、お礼をしたいいうんはほんまやったんです」
「何のことかは分かりませんが、その……美子さんに恥をかかせるような真似をさせた事は謝ります」
乱れた肌襦袢を整えながらそっとその場に座り込む美子が、床に脱ぎ捨てられた着物を羽織る。
「ですが俺には“あなたに恥をかかせるわけには”とか、“据え膳食わぬは”などと自分の都合の良いように言い訳をして、流れに身を任せることは出来ないのです。変に聞こえるかもしれませんが、大人同士の体でなければできないことをする、それは俺にとって最大の裏切りとなりますから」
その場で正座をし美子を正面から見据える伊吹。ろうそくの消えた室内は蒼白い月明かりにのみ照らされる。
「あとでしこたま怒られてしまいます」と困ったように微笑む彼の姿はとても清廉で、正しくて、美子は彼の中に曲がることも朽ちることもない純粋なまでの愛情を感じた。しかしそれは、己には向いていないのだ。
「萩原様には、大事な人がおるんやね」
眩しそうに美子が目を細めて伊吹を見やる。なにかを察したように小さく微笑むと、その口を引き締め畳に両の手を着いて頭を下げた。
「申し訳ありまへん。こないな下賤なやり方での恩返ししか心得ておらず、大変失礼な真似を致しました」
「いえ、そんな。そもそもお礼をされるような事なんて俺はなにも……」
「いえ、萩原様は知らんでも、うちは萩原様にこの命救われました」
「い、命?」
今日初めて会った相手にそんなことを言われ、全く身に覚えのない伊吹が思わずきょとんとしてしまう。
「せやから、別の形で恩返しさせて下さい」
伊吹に有無を言わせぬまま美子はするすると畳の上を滑り、部屋の隅にあった文机の引き出しを漁る。何やら小さな玉手箱を取りだすと、その中からなにかをひょいと摘まみ上げ置いてけぼりの伊吹の元へと戻る。大切そうに両手で包んでいたそれを差し出した。
「笹団子?」
「違います」
乾燥した笹の葉に包まれた小石程度のなにか。確かにお団子が一つ包まれる程度のサイズだ。
「萩原様の大切な人にお渡しください。きっと役に立つはずです。今のうちに他にできる恩返しいうたらこれだけです」
笹の葉をしっかりと縛るように、乾燥した頑丈な植物のツタが巻かれていた。中身を見てみようと伊吹がそのツタに手をかけると、そっと美子が手を重ね、伊吹に言って聞かせるように優しく囁く。まるで母が子を慈しむように。
「今は開けたらあきまへん。このまま大切な人に渡すんよ。その人に開けてもろて。その人に何かあったとき、きっとその時、これは必要なもんになる。……御守りみたいなもんよ」
「は、はい……」
思わず素直に返事を返してしまう伊吹に、美子は満足そうに微笑んだ。
「まあせやけど、今のうちの力じゃ役に立つのはせいぜい一回くらいやもしれまへん」
「なにか?」
「あ、いえ。なんでもありまへん」
どこか呆れたように、美子が眉尻を垂らして自傷気味の笑顔を浮かべるも、その独り言は伊吹の耳には届かなかった。
「ほな、萩原様は皆様の後を追ってください。今の時期蛍が綺麗なんはほんまなんですよ。宿の入り口には部屋出て左に真っ直ぐです」
「え、あ、ちょっと」
「はいはい、行って下さい。うちはここの片付けがあります。それとも、やっぱり気が変わってうちの相手、してくれるんやろか?」
「いや、それは」
「冗談や」
美子に背中を押されて部屋の外へと追い出される伊吹。結局なんのお礼だったのかとか、あんなに入り組んだ通路を来たのに戻るのは左に真っ直ぐなのかとか、色々と聞きたいことはあったものの、これ以上ここにいても藪蛇だろうと素直に部屋を後にした。
「……まだ微妙に痺れと脱力感が……」
伊吹を追い出すとさっさと部屋の戸は閉められた。部屋の外は左右に伸びる奥が見えないほどの長い通路に繋がっていて、所々に点在する提灯の明かりだけでは心許ない程だった。
伊吹が訝しげに左の通路の奥へと歩を進めようとすると、がくりと右膝が脱力してしまう。
――毒を盛られた? 俺の体に?――
伊吹がにわかには信じられないと己の掌を見つめる。その微かに痺れる脚に再び力を入れ直した。
「……」
扉に背を預ける美子が耳を澄ますと、足音が遠のいていくのを感じる。鼻から抜けるように小さなため息を吐くと、窓から差し込む月光に照らされて小首を傾げる牡丹の華が目についた。
「ずっとここにいてくれたらええのに言うたんは、ちょびっと、ほんまなんよ」
包帯の巻かれた足首をそっと撫でながら彼女の漏らした小さな呟きは、誰の耳に届くこともなかった。
「……あれ?」
ふと伊吹は気がつくと宿の出入り口に立っていた。確かに部屋を出て左に真っ直ぐ進んだだけだ。振り返ってみると来たはずの廊下はぽつぽつと灯る提灯に照らされ、先程までの不気味な薄暗さはどこにもなかった。
さっきまでいた部屋はどこだっけ?
「おっかしいな」
顎に手を添え頭を傾げる伊吹を、なにも言わず受付の従業員が微笑んで見送った。
*****
「それで、皆さんで蛍を見に行って」
「伊吹お兄さんは女将さんに呼び止められて」
「そっからどーなったんだよっ」
「あー待て待て、今話すところをまとめているんだ。君たちにはちょっと刺激の強いところもあるから」
伊吹が少年探偵団達に待ったと手を突き出し、天井を見上げながら話の内容を推敲しているようだ。
あ-、うん。となにか納得したように頷いた。
「えっと、女将さんに呼び止められて……、そう、御守りをもらったんだ」
彼らに聞かせられないような扇情的な内容はそっと伏せておくことにした。
*****
「彼はどうしたのよ」
「萩原か? さあ、なんか女将さんに呼び止められていたみたいだったけど」
灰原の怪しむような視線がコナンを捉える。
女性陣一行が宿を出てまもなくのこと、例の小川へと向かう道中で服部とコナンが合流した。山道を登るため、皆浴衣から私服に着替えたらしい。
コナンの一言に思わず眉間に皺を寄せる灰原。その眼光に気がついたコナンが慌てて手を振りながら苦笑いを浮かべる。
「大丈夫だって、心配すんな。あいつをどうこうしようなんざ
「……そうね」
彼女の返答はコナンの言葉を肯定するものであったが、そのなにかを訝しがるような鋭い眼光が戻ることはなかった。
一行が暗い山道を宿のそばに流れる川から上流の方へと遡るように登っていく。
空に輝く月明かりは微かに雲に陰りはじめてはいたが、宿を出るときに渡された弓張提灯のぼんやりとした暖かい光は夜道を歩くのにも十分だった。
「おーい……!」
彼らがもうじき蛍の集まるという上流へ到達するという頃、後ろの方から聞き覚えのある青年の声が届いた。
真っ先に反応した灰原を筆頭に皆が振り返ると、僅かに傾斜となっている山道を伊吹が駆け上がってきた。筋骨隆々の男の黒々としたシルエットが近づいてくるものだから思わず皆一瞬身構えてしまった。灰原以外は。
「ふぅー、ごめんごめん、お待たせ。って言うかまだみんなこんな近くにいたの? てっきりもう着いてるものかと」
「なに言うとんや。まだ宿出てから五分も経ってないで」
「え?」
僅かに乱れた息を一呼吸で整えた伊吹が意外そうに尋ねると、服部から思わぬ答えが返ってきた。
「早かったわね。で、何をしてたの? あの女将と」
キッと目尻のつり上がった瞳で伊吹へ詰め寄る灰原。当の伊吹はというと、頭を掻きながら困惑していた。
「あれ、五分? もっと経ってたと思ったんだけど……」
「で、なにをしてたの……って、あなた口を切ってるじゃない、どうしたのよ」
伊吹に白状しろと言わんばかりに携帯のライトで顔を照らす灰原。すると赤みがかった彼の口の端から出血していることに気がついた。
「ああ、これは……。男の
「……はあ?」
「みんな、蛍だよ!」
そんな問答をする中、なにかに気がついたように蘭が楽しげに声を上げた。
彼女の傍らにふわりと明るいなにかが飛来したのだ。それが蛍だと気がつくと、まるで気づかれるのを待っていたかのように辺りが突然に輝きだした。
「わー! すっごーい!」
「めっちゃ綺麗やん!」
彼らの傍らに流れる清流から蛍がふわふわと舞い上がる。ほんのりと明るいその儚げな点滅は、月明かりの元で辺りを幻想的に染め上げていく。
「……すごいわね」
「すっげー……綺麗」
先程までの詰問をかき消してしまうほどの光景に思わず灰原も見とれてしまう。
傍らに立つ伊吹もまたポツリと呟いた。彼の視線の先にあったのは果たして蛍か、それとも……。
*****
「まるで蛍ね……」
一同が各々にその幻想的な光のミュージアムを楽しむ中、他の皆から少し離れた小川のせせらぎの傍らにしゃがみ込んだ灰原が呟いた。
まるで独り言のようなか細い声量で、足下に流れる緩やかな清流の水をぱしゃぱしゃと揺らす。俯いた視界に入るブラウンの髪が邪魔で、指先で撫でるように耳へとかける。
そんな彼女を清流に反射する微かな月明かりと蛍の淡い灯火が照らし出し、その触れれば壊れそうなほど繊細で可憐な横顔を見て、隣に立つ伊吹は言葉が出てこなかった。
「隠そうにも隠しきれない想いがあるのに、なくこともできなくて。それでもただ気づいてほしくて身を焦がす……」
そう言って自身の腕に口元を
「ちょ、ちょっと、なにしてるのよ」
「いや、自分が不甲斐なくて……、なんか、ごめん」
足下に視線を落とす伊吹が、そうだと何かを思い出したようにポケットを探る。どこか憂いのある瞳で蛍を眺める灰原に、例の笹の葉の包みを差し出した。
「なに、これ?」
「いや、なんか美子さんがくれたんだけど」
彼の手からその包みを受け取った灰原が、笹を包む紐を摘まみ上げてぷらぷらと揺れるそれを不思議そうに眺める。
しかし伊吹の口から女将の名が出るやいなや眉をしかめ、笹の葉の包みを伊吹に突き返す灰原。
「いらないわ」
「でも、俺の
「……」
伊吹のその言葉に再び眉がピクリと動く。言葉の真意を探るようにジトっとした半眼で伊吹と包みを何度か見比べたあと、小さなため息を吐いて「仕方ないわね」とその紐に手をかけた。
「あ」
「なに?」
「いや、今は開けるな、とか言われてたんだけど……。まあ大切な人に開けてもらって、って言ってたから大丈夫か」
「なにそれ。誰が開けても中身は一緒で――」
――――リン……ッ……――――――
灰原が伊吹の言葉を訝しがりながら笹の葉を包む紐を
人工の光など届かない深い竹林の中、灯っては消え入る蛍の光と、薄雲に隠れた朧気な蒼白い月光だけが静かに辺りを包み込む。一同から離れたそこには流れるせせらぎの小さな水音と、夜風に吹かれる木々の葉擦れの音だけが聞こえる。
その静寂の森の奥深くまで染み渡るように、凜とした涼しげな音が鳴る。
それはまるで霧と静寂に包まれた夜明けの湖面に投げ入れた小石が静かに波紋を広げていくように、木々の隙間を塗っていくかの如く細く冷たいその音は遠くへと響き渡った。
「……綺麗」
組紐を摘まみ上げ、まるで銀細工のように鈍く蛍火を反射する鈴をしげしげと見つめる灰原。
吐息と共にぽつりと素直な感想を零してしまう。ほのかに頬を明るくさせしばしキラキラとした目で鈴を眺めていた灰原が、ハッとしたようにいつもの澄まし顔で伊吹に振り返る。
「で、どうしてこれを私に? というより、あの女将さんはなんであなたに渡したの?」
「それは、えーっと……、よくわかんないけど、お礼とかなんとか。御守りみたいなもんだってさ、困ったときに助けになるからって」
鈴をじっと見つめながら「ふーん」と、女将の真意を怪しむように訝しげな返事をする灰原だったが、その綺麗なお守りは気に入ったようだ。
「あら?」
たった一度だけその音を響かせた鈴は、振っても叩いてもなぜか再び鳴ることはなかった。
「中で引っかかってる?」
月光を頼りに灰原の持つその鈴の隙間を覗き込もうと彼女の手元に顔を寄せた伊吹だったが、急に視界が暗くなるのを感じて空を見上げた。
「おいおいなんか本格的に曇ってきよったで、一雨くるんとちゃうか」
先程まで薄い雲に透過していた月だったが、西の空から流れてきた分厚い暗雲に包まれるように完全に身を隠してしまった。途端に辺りは暗い影に包まれ辺りの森を闇の中へと溶かしていく。
暗い森の中で一層に輝きを放つ蛍たちであったが、木々の枝葉がざわつきたなびく程の風が吹き始めると、しだいにその輝きは失せていった。
「山の天気は変わりやすいにも程があんで!」
「このままだと提灯の明かりも消えちゃうし、これ以上酷くなる前に引き返そう!」
飛びそうになる帽子を押さえながらぼやく服部に、コナンが提案した。
「ッ!?」
「どうしたの」
皆が帰り支度をする中、伊吹がおもむろに振り返り、辺りの森を見渡した。眉間に皺を寄せる伊吹に、灰原も辺りを警戒しながら尋ねた。
「人の気配がしたような……」
「こんなところに?」
「いや……気のせい、か」
一同は徐々に強くなってくる風に辟易しながらも、無事宿まで辿り着いた。帰り道に提灯の火が消えてしまい思わず和葉が服部に抱きついてしまったのはまた別の話。
「皆さんご無事でなによりです、急に風が出てきはりましたなぁ」
「ほんまやで、せっかく蛍綺麗やったのに」
宿の入り口には心配そうな美子が待っていた。一同の帰りに気がつくと、彼女は心底安心したように明るい笑顔を浮かべて出迎えてくれた。
「体も冷えましたやろ、休まれる前にもう一度温泉なんかいかがですか。いつでも入れるようにしとります」
「お、ええなあ。夜風に吹かれて露天風呂いうんも乙なもんやで」
服部達と言葉を交わす美子。そんな彼女の姿をつい目で追ってしまった伊吹だったが、美子はあえて彼の方を向かないようにしているようで、二人の目が合うことはなかった。
「ちょっと、なに見てるのよ」
「いや、別に」
すーっと、去って行く美子の背中に視線が釣られていくと、不機嫌そうないつもの半眼でこちらを睨む灰原の姿が視界に入る。
あっと思ったのも束の間、間髪入れずに彼女が問いかける。気まずそうに視線を泳がせた伊吹に、誰かがもたれ掛かるように勢いよく肩を組んできた。
「わかるぞ筋肉坊主ぅ、ひっく、あの尻がいいんだよなぁ、うぃっく」
「うわ小五郎さん、酒くっさい」
しこたま酒を呷りべろんべろんに酔っ払った小五郎が伊吹の肩を組んで去って行く美子のお尻を凝視する。「たまりませんなぁ」と悪酔いする小五郎に絡まれげんなりする彼を、灰原は鋭く冷たい氷のような視線で貫き。
「最低ね」
と、一言浴びせて客間へと戻っていった。
「俺はなにも言っていない……」
「どんまい」
「冤罪だ……」
励ましてくれるコナンと服部と共に小五郎を担いで、とぼとぼと男部屋へ帰っていった。