哀歌   作:ニコフ

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11話 きつねのお宿とアイの言葉 後編

「で、哀ちゃんは学校に好きな子とかおらんの?」

「……別に。いないわ、そんな子。先に行ってるわね」

「あ、うん。一人で大丈夫? 哀ちゃん」

「ええ、平気よ」

 

 そう言い残すと浴衣に着替えた灰原は一人、入浴セットを両手に持って女子部屋を後にした。

 

「やっぱ大人びてんなぁ、あの子」

 

 準備に少々手間取っていた和葉がぽつりと呟いた。

 一足先に温泉へと向かっていた灰原だったが、その道中宿の出入り口を横切ったとき、思わぬものを見かけてしまう。

 

「狐?」

 

 それは先日伊吹が見たと話していた狐と似た白銀の毛並みを持つ小さな狐であった。大きさから察するにまだ子供のようだ。宿の入り口に座り込み、じっと外を眺めている。

 直に雨の降り出しそうな空模様を見て雨宿りにでも来たのだろうかと、灰原はその愛らしい姿に思わず顔に笑みを湛えながら近づいた。

 

「どうしたのー、狐さん。雨宿り? それとも迷子かな?」

 

 ついいつもより高く甘い声色で話しかけてしまう。その声に反応した子狐が振り返ると、どこか喜ぶように尻尾を振って「きゃん」と鳴いた。

 

「綺麗ね、彼の言っていた狐と同種かしら、ってこら」

 

 傍らにしゃがみ込む灰原の浴衣の裾に噛みつく狐。しかしそれは危害を加えようと攻撃してきたり、防衛のための行動というには異質で、その裾を引っ張ってどこかに連れて行こうとしているようだった。

 

「え、なに、どうしたの」

 

 自分の力では引っ張れないと判断したのか、子狐は咥えていた裾を離すとおもむろに宿の外へと飛び出し、少し進んだ先で灰原へと振り返った。

 

「着いて来いって言ってるの?」

 

 不思議そうに尋ねる彼女に子狐は再び「きゃん」と鳴いた。

 灰原は何となく子狐が自身を呼んでいるような気がして、後をついて宿を出る。強い横風が彼女の細く柔らかな髪をなびかせる。それを鬱陶しそうに片手で押さえ、今にも降り出しそうな空模様を不安げに見上げてから子狐の後を追った。

 

「子狐さん、どこまで行くの? あんまり遠くへは行けないんだけれど」

 

 子狐は灰原が近づくと少し離れ振り返り、また近づけば少し離れ再び振り返る。灰原が諦めて歩を止めるとせがむように「きゃん」と鳴いた。

 自身が動物を好きだというのもあるが、その子狐の様子がなんだか気になって、灰原はしばらく着いていくことにした。

 

「きゃん」

「今度はどうしたの――ッ」

 

 宿から少しばかり離れた山道。まだ振り返れば宿の灯りが見える程度の距離で、子狐は再び鳴いた。灰原が少し困ったように問いかけるのと、その視線の先でぐったりと倒れ込む生き物の影を見つけたのは同時だった。

 

「ちょっと、これって、いったい……」

 

 慌てて駆け寄る灰原がその影を近くで見てみると、それは子狐と同じ白銀の毛並みをした大人の狐であった。ただその美しい毛並みは痛々しいほどの赤い液体に塗れていた。

 子狐はこの子を助けてほしくて自分を連れてきたのかと直感した灰原は、自身のお風呂セットの中からタオルを取り出してその倒れた狐へとかぶせる。

 タオル越しにその容態を診察しようとした灰原だったが、すぐにその異変に気がついた。

 

「これって……血糊? これ、剥製じゃない。誰がこんな――――ッ」

 

 悪趣味な。そう言いかけた灰原の声が止まる。曇天に陰る薄暗い山道で最初は気づかなかったが、その視界の隅にあるものに気づいてしまった。山道の脇に立つ大きな木の陰に隠れるようにしながら、こちらの様子を窺う人影を。

 まさに息を飲むように呼吸は詰まり、驚愕に体が硬直してしまう。

 ――誰? 何をしているの? この偽物の死骸はこいつが? 深い森の中、人がいる? ――

 ぐるぐると頭の中を様々な疑問が駆け巡り、言い知れぬ恐怖が心臓を締め上げる。

 だがそれも束の間。動き出した人影を見た灰原が、咄嗟に子狐を抱え上げ弾けるように駆けだしたのだ。

 すぐに行動に移せたのは日頃の彼がよく自分に言って聞かせていた言葉、「やばいと思ったらまず逃げろ」それを覚えていたからだろうか。動き出したシルエットは確かに、猟銃らしきものを持っていたのだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 ――ドーー……ンッ……――

 

 宿にまで響くその重低音は、何度も聞いたことのあるものだった。

 

「なんや今の、銃声とちゃうんかっ!?」

 

 部屋の布団に小五郎を放り投げて、浴衣に着替え温泉へ行く準備をしていた男性一同の耳にもその音は確かに聞こえた。

 服部の言葉を合図としたように、コナンと服部、そして伊吹が部屋から飛び出した。宿の玄関口まで到着すると、少し遅れて蘭と和葉、美子も慌てたように駆けつけてきた。

 

「ちょ、ちょっとなんなん、今の音?」

「なにかが爆発したみたいだったけど」

「多分、銃声や」

「乾いた破裂音と間延びした銃声……、ライフル弾。猟銃か? 遠くはないな」

 

 冷静な伊吹の言葉にお互いに手を取り合い怯える蘭と和葉。美子が口元を手で隠すように、どこか怯えた様子で「まさか……」と呟いた。

 

「なにか心当たりがあるの?」

「い、いえ、あの……、ご夕食の際にお話しした、狐が狩られたいう話。この辺りにも例の毛並みの狐はおります。まさかそれを狙ってのものなんやないかと……」

「にしてもここらは狩猟区域とちゃうやろ」

「ってことは、密猟」

「そんで、……綾小路警部が言うてた事件の遺体いうんは」

「猟銃による射殺……」

 

 美子の話を聞いた服部とコナンが目を合わせて答え合わせをする。それはつまり密猟犯であり殺人犯でもある人間がすぐ近くにいるかもしれないという事だった。

 ますます怯えた様子の蘭と和葉に、美子が落ち着いた声色で宥めるように口を開いた。

 

「大丈夫です、怯えんでも、()()宿()()()()ですから」

「とにかく、宿中の窓と鍵、あるなら雨戸なんかも閉め切っとくんや」

「猟銃を持った犯人がここに強盗まがいに乗り込んでくるかもしれないからね」

 

 服部とコナンの言葉に従業員達は宿中に散っていった。するとそれまで黙っていた伊吹が、ゆっくりと蘭と和葉へと振り向いた。

 顔筋一つ動かさないその表情には、思わずぞくりと背筋を凍らせるような迫力があった。

 

「哀は、どうした?」

 

 この騒動の中でもなかなか顔を出さない彼女に、伊吹の胸中がざわつきはじめる。

 ああ今日は色々あって疲れただろうし、部屋で寝ている、そんな答えが返ってくるのを淡く期待しながら。

 

「哀ちゃんなら一足先に温泉の方に向かっ――」

 

 蘭がそう言い切るよりも前に、振り返った伊吹が温泉へと駆け出す。その後を追いかける男性陣。

 温泉まで駆けつけると、伊吹は迷うことなく女湯の脱衣所へと飛び込んだ。脱衣かごを横目に確認しながら浴室への扉を開け放つ。湿り気を帯びた暑い蒸気の熱風が流れ込んでくる中、浴室内まで駆け込み辺りを見回す伊吹であったが、そこに彼女の姿はなかった。

 

「いないッ!」

「どうだった、って、おい!」

「どこ行くねん!」

 

 服部とコナンが女湯に駆けつけてくる頃には既に伊吹は中の確認を終え、女湯ののれんから飛び出してきた。

 コナンが声をかけるよりも早く端的に答えた伊吹が、慌てたように来た道を逆走する。駆け出す彼の後を服部とコナンも追いかける。

 伊吹は宿の玄関口に辿り着くと外へと飛び出した。月の光も影ってしまった暗闇の中で、頭を低くし地面の草木や土をよく観察する。

 

「外に出たな」

「ど、どうしてわかるの?」

「哀ちゃんの靴ならそこにあんで?」

 

 玄関口で待機していた蘭と和葉が伊吹の行動を見て思わず尋ねると、伊吹は眉間に皺を寄せ、どこか焦るように早口に説明した。

 

「下駄だ。宿に来た際、簡易の外履きとして下駄を貰っただろ。地面に真新しい下駄の足跡、それも子供用のものがある」

 

 それだけ言い残すと、伊吹はその足跡を追って外へと消えていく。

 コナンと服部が肩で息をしながら戻ってくると、蘭と和葉の話を聞いて、彼女らに宿から出ないよう釘を刺した後で美子から提灯を受け取り伊吹の後を追った。

 しばらく道沿いに進んだ先で、佇む男の影を見つけた。その筋骨隆々な浴衣姿はまごう事なき伊吹の背中だった。

 

「お、おい萩原、ど、どないしたんや」

「見つけたのか萩原」

 

 背後から駆けつけた服部とコナンからは伊吹の表情は見えない。しかしその佇む彼の背中からは、いつもの飄々とした雰囲気は感じ取れなかった。仁王像のように立ち尽くすその小山のシルエットからは、言い知れぬ怒気のようなものが溢れ出ていた。

 

「お、おい、それ、血痕かっ?」

 

 伊吹の足下に転がっているのは散乱した灰原の入浴セット。そしてその近くに微かに残る赤い液体の染み。

 どくりと強く脈打つのが聞こえて、こめかみが膨れ上がるような熱く強い血の流れを感じる。怒りと不安が胸中を駆け巡り、まるで脳が煮沸されているような感じがした。

 そんな彼を見て、その染みの傍らにしゃがみ込んだコナンが宥めるように声をかける。

 

「落ち着けよ萩原。これは血糊だ、血痕じゃない。誰が何のためにこんなことをしたのかは分からないが」

 

 コナンの言葉にハッと我に返った伊吹が、その染みを確認しホッと胸を撫で下ろした。

 

「ったく、普段のお前(おめー)なら、んなもん一目見ただけで分かるだろ」

「ああ……悪い。この、シャンプーとか見つけて、つい……。気が動転してしまった……」

「あのちっこい姉ちゃんが絡むと冷静さ欠いてまう、難儀な性格やで。ま、気持ちは分からんでもないけどな」

 

 服部とコナンの言葉に面目ないと頭に手を当てる。頭の中をぐるぐると巡っていた最悪の光景をかき消し、登った血を下ろすかのように首を振る伊吹。

  目を閉じて深呼吸を繰り返す。再び開かれた彼の眼光はまるで日本刀の如く、鋭く鋭利に、そして鈍く輝くように研ぎ澄まされる。

 

「見てみい、これ弾痕とちゃうか? まだ新しいで」

「こっちも見ろよ。葉っぱが裂けてるぜ。弾道的にもその弾痕と一致する」

 

 服部が少し離れた木の幹に微かに焦げ付いた丸い穴を見つけ、こんこんと叩く。コナンもその手前で不自然に裂けた植物の葉を見かけ摘まみ上げた。

 灰原の入浴セットを回収し、その散乱していた地点から二人の位置を確認する伊吹。右手を銃のように構えながら彼らの見つけた痕跡を視認する。

 

「ご丁寧に薬莢は回収されているが、弾痕からみて7mm口径の弾丸、やはり狩猟用のライフル銃。直立姿勢から発砲したと考えて、弾道から察するに身長は180cm代。身長と靴跡から考えて大柄な男、それも複数人。その男が……ちょうど、()()()()()()()()()()()軌道だな……」

 

 そう自身で説明しながらも、徐々にその白眼に赤い線を走らせる伊吹。

 己を支配しそうになる怒りを抑え込み、彼が再び地面に接地するほどに頭を下げ、這うように調べる。彼の煮えたぎる(はらわた)を冷やすように、とんっ、と大粒の滴がその浴衣の隙間へと滑り込んだ。

 

「降ってきよった」

 

 服部が掌をかざして空を見上げながら呟く。その滴はみるみるうちに数を増やし、辺りは葉を打つ激しい雨音に包まれていく。

 すると伊吹は慌てて再び地面へと這いつくばった。乱雑に残され、暗闇の中ではまともに視認することも難しい犯人達の足跡(そくせき)をなんとか捕らえようとその身が汚れることなどお構いなしに食らいつく。

 強い横風に煽られ雨はますます強く彼らを打ち付ける。服部の持っていた提灯の灯火が激しく横に揺れたあと、ふっと音もなく消え去り辺りは暗闇に包まれた。

 

「捕らえた」

 

 姿こそ見えなかったが、そう呟いたのが誰だったのかは容易に想像がついた。

 コナンが自身の携帯のライトを点灯させると、そこには山道の脇から深い森の奥を忌々しそうに睨む伊吹の姿が目に飛び込んだ。

 彼は回収し小脇に抱えていた灰原の入浴セットをコナンへと手渡す。

 

「これを持って宿に。連れ帰ったら冷えてるだろうから、風呂に入れてやらないと」

 

 そう言うと伊吹は己の浴衣の帯をキツく締め直した。

 

「おいおい、まさかこの雨の中バカ正直に森突っ切って追いかける言うんと」

 

 半ば呆れたような声色で問いかける服部が言うよりも早く、伊吹は森の中へと飛び込んでいった。

 

「このまま追うッ! この雨じゃすぐに痕跡はかき消されるッ、追いつけるのは今しかないッ!」

 

 鬱蒼と茂る森は瞬く間に伊吹の姿をかき消し、コナンがライトで照らしてもその姿はどこにもなかった。ただ彼の声だけが森の奥から徐々に小さくなりながら聞こえてきていた。

 

「こんな状況下でこの森の中を追跡できるのはアイツだけだ。俺達は一度宿に戻って」

「せやな。警察に連絡すんのと、万が一犯人が宿に来た場合の対策や」

 

 直接の追跡は伊吹に任せる。この状況下で自分たちも行くのはかえって足手まといになる。コナンと服部の意見は一致したようで、宿へと引き返すことに。

 

「それに、これも宿に置いといてやらねえとな」

 

 伊吹に渡された灰原の入浴セット見て、コナンは呆れたように呟いた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……寒い」

 

 大粒の豪雨は少女の体温を容赦なく奪っていく。

 あの血糊にまみれた剥製を見つけ、銃を持った男の影を見た瞬間、灰原は子狐を抱えて駆けだしていた。

 来た道を戻ろうと山道を駆け下りようとしたが、その視界に入ったのは道の外れから現れたもう一人の男の姿だった。灰原は咄嗟に軌道を変えて山道の横から森の中へと滑り込んだ。その瞬間、自身の後方から大きな炸裂音が鳴り響き森の木々にこだました。それが銃声だと容易に想像のついた彼女は、一度も振り返ることなく、ただひたすらに森の中を駆け抜けた。

 後ろから男達の言い争うような声が聞こえたが、その揉めている間に自分のことを見失ったようだ。

 しばらくして降り出した雨はすぐに辺りを湿った濃紺に染め上げる。厚い曇天の雲が溶けてきたような雨は墨汁のように黒い気がして、辺りはますます闇に包まれたように思えた。

 男達の声も足音も雨音にかき消され、相手との距離が分からない。しかしそれは相手も同じだと、灰原はこの雨に乗じて苔むした大きな岩陰に身を潜めた。

 雨水を完全には防ぎきれないが、幾分マシではあった。

 

「暖かいわね、あなた」

 

 両腕で抱きしめる子狐はほんのりと暖かく、子狐もまた灰原の胸の中で心地よさそうに目を閉じる。

 

「いたっ……、⋯⋯はぁ……」

 

 雨に濡れ体に張り付く浴衣は不快で、慣れない下駄で森の中を走ったものだからその鼻緒が食い込み、足の指の間がすりむいていた。

 携帯電話は部屋に置いてきた。あったとしてもここは圏外だし、この暗闇では僅かな光でも男達にこちらの居場所を知らせてしまう。

 真っ暗闇の中、うるさいくらいの雨音だけが聞こえてきて、灰原は溜め息を零す。

 

「あなただけでも逃がしてあげたいけど、さっきの剥製を見る限り狙いはあなたみたいだし……。なによりこの雨の中放ってはおけないわ……」

 

 膝を立て三角座りで、脚とお腹の間に狐を抱きしめる。膝に置いた自身の腕枕に額をあてがい、子狐を見下ろしながら彼女は呟いた。

 

「きっと大丈夫よ、彼がいるから。……けれど、ちょっと、心細いわね……」

 

 大きな雨粒が彼女の肩を震わせる。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あのガキどっち行った!?」

「あんなガキ放っておけよ、なんでそこまで拘るんだ?」

 

 森の中を突き進む三人の男。ブーツにジャケット、バッグにライフル銃。しっかりと装備に身を包んだその姿は、しかし合法的に狩猟をしようというものではなかった。

 

「あのガキは狐を見た。ここの狐のことが知られたら俺達の商売が成り立たねえ、あの狐の毛皮がいくらすると思ってんだ」

 

 先頭を歩く男が肩に装備するライトの明かりを調節しながら苛立たしげにまくし立てる。

 

「金塊が四足歩行で歩いてるようなもんだ、そこらの毛皮とは訳が違う。だから俺だってお前ら二人しか連れて来てねえんだ」

「だからってガキを殺したら処理が面倒だぜ」

「しかしあの子供、なんでこんな()()()()()森の中に一人で……?」

 

 後ろの二人の問いかけに先頭の男は舌打ちをしたあと面倒くさそうに口を開いた。

 

「さあな。大方、親とキャンプか蛍でも見に来たか」

「でも風呂入る感じだったけど……」

「知るかッ! 秘湯でもあるんじゃねえのかッ! ガタガタ抜かすな、今更人間撃つのも初めてじゃねえだろがッ」

 

 男達は足音を隠そうともせず堂々と歩く。雨に濡れぬようジャケットのフードを被り、銃身に水や泥が入らないよう注意しながら辺りを散策する。

 

「しかしこの雨だぜ、狐狩りどころじゃねえだろ」

「ああ。狐狩りは次の機会だ。コイツらはそこらの狐より頭が良くてな、銃声を聞いたらもう姿を現さねえ」

 

 後ろの男が足下のぬかるみに残された下駄の跡を確認しながら尋ねると、先頭の男は脚に装備した鉈を引き抜き辺りの邪魔な枝葉を払いのけながら答えた。

 

「だが頭がいい分、囮が効く。怪我をした仲間を見かけると別の狐を連れてきて助けようとすんだよ。そこを毛皮を傷つけねえよう銃は使わずとっ捕まえる訳だ」

「だが今回は、まさか子供を連れてきた……」

「ああ。まさか人間を連れてくるとはな、くそッ」

 

 先頭の男が足下に転がる石を八つ当たりするように蹴り飛ばした。

 

「まあいい。ここらの狐は知られてねえ、また狩りは次だ。だが、だからこそあのガキにあの狐のことを言いふらされちゃ困るんだよな」

 

 先程まで苛立たしげに語気を荒げていた男が、ふっと静かに呟いた。それは小さな声だったが、この激しい雨音の中で確かに後ろの男達の耳にも届いた。

 

「だからここからは、人狩り(マンハント)だ。ガキを殺す」

 

 後ろの男達が自身のライフル銃の薬室を確認した。

 ――ガチンッ、というその金属音は、激しい雨音に紛れながらも、不気味なほど森の中を反響した――

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 未だ弱まる気配のない雨から逃れるように、もぞもぞと灰原は大きな岩陰のくぼみに身を寄せる。

 鼻緒に痛めた足指を休ませるため下駄を脱ぎ、その上に足をちょんと乗せる。岩から滴り落ちる雨水に足先が濡れて冷えないよう、その指先をきゅっと丸めた。

 おでこを膝に当てたままうずくまる彼女はここまで走り続けたことで肉体的にも、猟銃を持った男に追われることで精神的にも追い込まれ、体力を激しく消耗していた。

 

「……」

 

 次第にまぶたが重たくなってきて、思わずウトウトと船を漕いでしまう。眠るのはまずいと頭では分かっていても、岩へともたれかかりその体重を預けてしまう。

 

「あぁ、ごめんね、大丈夫よ……。……でも少し、まずいかも……。すごく眠たいわ……」

 

 彼女の懐で丸まっていた子狐が彼女の手をペロリとなめて「くーん……」と心配そうにその顔を見上げる。

 安心させるようにその頭をそっと撫でるも、彼女は「まいったわね……」と力なく微笑む。

 体温の低下と体力の消耗で次第にぼーっとしてくる頭は、この状況の打開策を考えるほどには働いてくれない。脳内に浮かんでは消えていくのはまるで走馬灯か白昼夢のような映像ばかり。

 ――大事なその人が明日も変わらずそこにいてくれるのは、ほんまに奇跡みたいで、素敵なことなんよ……――

 ――言いたいこと、伝えたいことは伝えとかなあきまへん……――

 ――……いつそれが、最後の言葉になるやもわかりまへんから……――

 ふと、宿であの女将が言っていた言葉が脳裏に蘇ってくる。

 そういえば今日……、最後に彼と交わした会話はなんだったかしら……。

 うつろうつろと微睡(まどろ)む意識に思い出される宿での会話。

  ――最低ね……――

 ああ、そんなこと、言っちゃったけ……。

 ――まるで蛍ね……隠そうにも隠しきれない想いがあるのに、なくこともできなくて。それでもただ気づいてほしくて身を焦がす……――

 自らが口にした独白を思い出す。

 思えばいつもそう、バカとか最低とか……。……私が一番言いたいのは……ほんとうに伝えたかったのは……。

 

「くーん……」

 

 寄り添う子狐が灰原の胸元にぐりぐりと頭をこすりつける。

 

「心配ないわ、きっと彼は助けに来てくれる……」

 

 けれど、少しだけ不安。彼が来てくれるかどうかじゃない、銃を持った男に追われているからじゃない。

 あの一言が、あなたに伝える最後の言葉なんかになったらと思うと……。

 ぎゅっと子狐を抱きしめて俯く灰原。その肩が少しだけ震えているようにも見えた。それは冷え切った体のせいなのか、また別の理由か……。

 

 がさり。

 

「っ……!」

 

 確かに近くの茂みが揺れる音がした。先程から聞こえる風にたなびく葉擦れの音ではなく、もっと近いところから、確かに何かが意図的に揺り動かしたようだった。

 溶けかけていた意識が一気に凝固するようにバッと顔を上げる灰原。誰かがいる、すぐそこに。

 

「……ッ……」

 

 ドクンドクンと、先程まで弱っていた気がする心臓が強く脈打つ。全身に力が入っていき、体が即座に対応できるよう無意識に緊張が走る。

 暗闇でなにも見えないが、湿った草木を踏みならす不快な音が近づいてくる。子狐を再び抱き寄せて下駄の鼻緒に足を通す。音が鳴らないようゆっくりと脚に力を込め立ち上がろうとするも、疲労の溜まったその体はいやに重たく感じて、うまく動けない。

 岩陰の横、すぐそこまで何かが来た。ほんの僅かに、心の隙間に湧くのは彼が来てくれたのではという希望。動けない体を身じろぎさせて身を縮こませる。

 足音が、止まった。そこにいる。

 ライトの光の筋がすっと辺りを照らしたあと、灰原の座り込む岩のくぼみを照らした。

 

「こんばんは、お嬢ちゃん。やっと見つけたぞクソが」

 

 眩い光に目が眩み、その顔までは見えなかったが、酒かタバコか、聞き慣れない男のかすれたその声を聞いた瞬間に灰原は己の体に鞭打った。

 

「あっ、きゃっ……、ぐぅ……っ」

 

 弾かれたように駆け出したものの、すぐに泥と落ち葉でぬかるんだ森の斜面に脚を取られて転倒してしまう灰原。小学一年生のその体には、このろくに手入れのされていない深い山の中を駆け抜けるほどの体力は残されていなかった。

 

「お、狐もいるじゃねえか」

 

 倒れ込む灰原に三人組の男達が近づいてくる。先頭の男がニヤリと笑うも、その笑みには隠そうともしない苛立ちの色が浮かぶ。

 

「痛っ……、に、逃げて」

 

 転倒した際に足を痛めたらしく、立ち上がれない灰原は泥にまみれながら地面に座り込む。その腕の中から子狐を離し、追い払うように手で押しのけた。

 

「おい動くなよクソガキ」

 

 男が迷うことなくその銃口を灰原へと向ける。こちらにライトを向けてくる男の顔は相変わらず見えないが、その声色からこれが脅しではないと容易に想像がついた。そもそもこの男達は既に一発、こちらを殺す気で撃ってきているのだ。

 

「今日は散々な一日だぜ。狐は狩り損ねるし、ガキにここの秘密が見られちまった。俺はもう帰ってビール飲んで寝てえ。狩りはまた次だ……」

 

 鬱陶しそうに被ってたフードを脱ぎ捨てて顔を俯かせながらがりがりとその頭を掻きむしる。再び引き金に指をかけて灰原へと向き直った男の声色は、恐ろしいほど冷たかった。

 

「でもお前は殺す。今後のためにもな。俺がそう決めたんだ」

「⋯⋯ッ」

 

 男の無遠慮な殺意にあてられて思わず息が上がる灰原。座り込んだままなんとか距離を取ろうと腰を引きずるようにずりずり後ずさる。

 雨で顔に張り付いた髪が鬱陶しい。滴が目に入って染みる。見えないが手指の先は無数に傷ついてるのがわかる。体に張り付く浴衣は身を拘束するかのように重く不愉快だった。

 歩くよりも遙かに遅いその動きは、むしろ哀れみさえも覚えてしまうほど。

 

「こ、殺すならよ、その前に、俺このガキ……」

「死体とヤッてろボケ」

 

 後ろにいた男が暗闇の中から絡みつくような陰湿な声を上げる。隣の男が苛立たしげに答えた。ライトの筋が三本あることから想像はついていたが、男達は三人組のようだ。暗闇の中で灰原が得られる情報はその程度のものしかなかった。

 

「……っ」

 

 体を引きずるために指先が怪我することも構わず、小石や土や雑草を握りしめるように地面を掴む灰原。そんな彼女の震える指先が何かに触れた。それは小石ほどの大きさのものだったが、確かに人工的な作りのように思えて、灰原もついそれを手に取ってしまった。

 

 ――――リー……ンッ……――――

 

 激しく葉を打ちつける雨音の中で、それは異様なほどに響き渡った。

 彼女が手に取ったのは、伊吹から貰ったあの鈴だった。先程転倒した際に懐に入れていたのが転がり落ちていたらしい。美しい青と白の組紐を摘まみ上げると、再びその鈴が甲高い音を響かせた。

 

「え、なにっ、勝手に鳴ってる……っ?」

 

 確かに灰原は鈴を吊す紐を摘まんでいるだけで揺らしてはいない。吹き抜ける強風も手元の鈴を揺らすほどではない。確かにそれは揺れることもなく独りでに音を発していた。

 そもそもこれは貰ったときに一度鳴ってからはうんともすんとも鳴らなくなっていたのに……。

 訝しがるようにその鈴を見つめる灰原。その間も鈴は止むこと無く音を鳴り響かせる。まるで何かを呼ぶかのように。

 

「ああっ? なんだそりゃ、何してやがるガキ」

「新手の防犯ブザーか……?」

「こんな山奥じゃ、誰にも聞こえないよ」

 

 男達も灰原の手元を照らしながら訝しがるようにその鈴を睨む。

 

 ――リーン……ッ……、リーン……ッ……――

 

 鈴の音は徐々にその音の感覚を狭めながら、大きく鳴り響いていく。辺りは草木を打つ雨音と遠くから聞こえる川の濁流の騒音が酷かったが、それでもその鈴の音はやけにハッキリと聞こえた。

 

「うっせえな、さっさとぶち殺してその鈴も壊――ッ」

 

 忌々しそうに舌打ちする男が再び銃口を灰原の頭部へと向け、狙いをつける。その人差し指が引き金に触れた瞬間、男の背筋に氷柱が突き刺さった。いや、そう思えるほど、体の芯、臓物の奥から凍てつかせるような悪寒がその身を駆け抜けた。

 

「……なんだ? ……なにかくる」

 

 その感覚は他の男達も感じ取ったようで、振り返り辺りをキョロキョロと見回す。三本の光の筋が縦横無尽に辺りを探る。

 

 ――リーン……ッ……、リーン……ッ……――

 

 灰原もまた、その鳴り響く鈴を手に、見えない暗中に視線を彷徨わせる。

 

「……これって……」

 

 灰原が何かに気がついたようにポツリと漏らした。

 その違和感に男達も気がついたようだ。

 

「おい、この音……?」

「あ、足音、か?」

 

 まるで地響きが近づいてくるような重く激しい足音が止めどなくこちらへと向かってきている。何かがこちらに走って来ているのだ。

 隠す気も隠れる気もない堂々たる力強いその音は、先程までの男達と同じ「狩るのはこちら側だ」と言わんばかりのものだった。

 

「なんだよっ? 何か来るぞ!?」

「重い足音、く、熊かなんかかッ?」

「知るか、クソがッ、なんなんだよ今日はよぉッ」

 

 男が灰原に向けていた銃口を森の奥へと向ける。

 雨音にかき乱され、草木に反響し、鈴の音もうるさくてハッキリとした方向は分からないが、男達は三者三様に森の奥へと銃口を構えた。

 その重く激しい音はだんだんと近づいてくる、それに恐怖する男達のライトがせわしなく辺りを探る。

 ――もうすぐそこまで来ているッ――

 男達の脳裏に戦慄が走った。

 ドンッと激しい足音が一度聞こえたと思うと、辺りは一瞬静寂に包まれた。立ち止まったのではない、()()が踏み込んで、跳んだのだ。

 

「ううあああぁぁぁぁッッッ!!!」

 

 そう理解すると同時に男の一人がたまらず引き金を引き絞り発砲。どこを狙えばいいのかも分からないままの腰撃ち。

 ズドンッという激しい発砲音と同時に、眩いマズルフラッシュの閃光が暗闇を一瞬照らし出す。

 ――あれ、今、目の前――懐になにか、いたような――

 

「ぐぼぉうぇッ……!!」

 

 一瞬の光に浮かび上がったのは、撃った男の懐に潜り込む男の巨影。途端に鳴り響くのは肉を穿ち骨を軋ませる鈍い音と男のうめくような断末魔。巨影の拳が男の腹部を撃ち貫いた。

 

「な、なんっ、だよォォォォッ……!」

 

 訳も分からないままに、男が仲間の悲鳴とも呼べない声の方へと銃口を向ける。仲間に当たるかも、けれどそんなこと気にかけている暇も無い。男は構わず、その銃口から火を噴かせた。

 再び辺りを照らす一瞬のフラッシュ。上半身をむき出しにした怪物がこちらに迫るのが見えた気がした。

 

「ごがぁッ……!!」

 

 思わず耳を塞ぎたくなるような痛々しい骨を打ちつける重い音。巨石のような頑強な一撃が、発砲した男の左頬を撃ち抜きその頬骨を砕いた。

 

 ――リーン……ッ……、リーン……ッ……、リーーンッッ……――

 

 一際大きな鈴の音が辺りに響き渡ると、先程まで強烈に降り注いでいた雨音が嘘のように遠のいていく。

 降りしきる雨は止み、枝葉に溜まった雨水がパタパタと落ちる。鈴の音も止まってしまった。

 その空間を不気味な静寂が包み込む。どこかから聞こえてきた生唾を飲み込んだ音は、残された男のものだろうか。

 吹き抜ける風が裂くように暗雲を払いのけていく。厚い雲間から顔を覗かせる月が眩いばかりの青白い月光で辺りを照らし出した。

 

「……っ……!」

「……な、んだよ、お前、は……」

 

 その姿に、瞳を希望の光で輝かせるのは泥にまみれて地に伏せた少女。

 その姿に、目を見開き恐怖に顔を歪ませるのは猟銃を構えた男。

 上半身の脱げた浴衣は帯で止まり、腰布のように垂れ下がる。雨に濡れ月明かりにぬらぬらと光るその古傷にまみれた筋骨隆々の肉体。大きな両掌はそれぞれ男達の頭部を鷲掴み、ぐったりと意識の無い男達の体を引きずる。

 その姿は、まさに仁王か悪鬼羅刹の如し。

 

「なんッ、なんッ、だよッ! お前はよおォッ!!」

 

 自身を鼓舞させるかのように雄叫ぶ男が決死の覚悟でその銃口を向けた。しかし、男が猟銃の照準器で伊吹を捕らえる頃には、彼は離れた位置でその脚を振り上げていた。まるで蹴りをかますような体勢であったが、脚が届くような距離ではない。

 この距離なら引き金を引くこちらの方が早――ッ

 男が撃とうとしたその刹那、一瞬の風切り音が聞こえたかと思うと、なにか固いものが恐ろしい速度でその鼻っ面に飛来した。

 

「ぶッ……」

 

 ガコンッ、とどこか景気のよい鈍い音を立てて男の頭が天を仰ぐ。男の視界に映ったのは宙を舞う一足の下駄。

 あの蹴りでこの下駄をすっ飛ばしやがったのか。鼻の曲がった男がどくどくと血泡を吹き出しながらも、転倒しそうになるその体を踏ん張って堪える。

 

()ねぇやァッ……!!

 

 吹き出す鼻血に詰まった鼻声のまま、男が再び銃口を向ける。しかし男が正面に向き直る頃には、もうその眼前には仁王の姿が。

 最早そこは銃の距離ではない、しかし一度引き絞った指先は止まらず、その銃口からは激しい爆音と共に鉛玉が発射された。

 銃口は既に伊吹の頭の横。耳元で発砲された銃身を肩で弾くように跳ね上げる伊吹。銃を弾かれがら空きとなった男の右脇腹に渾身の左拳を叩き込む。

 

「げぼォッ……!」

 

 確かな手応えは容赦なく男のあばらを数本砕き、男にとってこれまで感じたことのない、その男史上最大震度で揺れ動く五臓六腑。

 

「ぐッ、ぞッあああアアアアァァァッッ!!」

 

 苦悶の表情を浮かべる男が、額に血管を浮かべて己の全身に力を込める。死に物狂いの力で銃を手放し、その脚に装備していた鉈を引き抜いた。

 しかしその最後の足掻きに過ぎない隙だらけの大振りを躱すのは伊吹にとって造作も無かった。男の渾身の力で振り下ろされた鉈は盛大に空振り、木の幹へと刃を立てる。

 木を叩く衝撃で、葉に溜まっていた滴がぼたぼたと舞い落ちる。その大粒の雨にも似た滴が落ちきる前に、どこかゆっくりにも見える動きで伊吹は右拳を構える。

 その剛脚の力強い踏み込みは大地をも揺るがしたような気がした。低く下ろした腰、踏み込む膝、捻る腰の回転、そして膂力。

 

「ォオオラァァッ!!」

 

 全身の筋力を躍動させ、振り抜かれた伊吹の拳が男の(はらわた)を穿つ。

 足腰を軸に捻りを加え半回転する伊吹。くの字に折れる男の体がまるで伊吹の鉄拳に張り付いたかのように、勢いそのまま男をその木の幹へと叩きつけるように殴りつけた。

 ドシンッというあの銃声にも劣らぬ重く激しい快音。その衝撃と振動に痺れるように身を震わせた樹木からは、土砂降りの豪雨の如き雨の滴が降り注いだ。

 

「――――ッッ……!!」

 

 叫び声すら上げることもできず、その男の意識は完全に刈り取られ暗中に溶けていった。

 ぐったりする男の体から力が抜け、完全に意識が途絶えたことを確認してから伊吹はその拳を引き抜いた。

 男は糸が切れたように膝から崩れ落ち、泥の中へ顔から倒れ込む。足下で伏せる男を興味も無さそうに捨て置き、振り返って灰原の元へと駆け寄る。

 

「哀、大丈夫かっ!?」

 

 灰原の顔に張り付く前髪をかき分け、雨で冷え切りすっかり冷たくなったその頬を撫でる。怪我はないかと彼女の体を頭の先からつま先まで確認する。なんとなく、灰原は彼のその視線から逃れるように身じろぎして体に張り付くように乱れていた浴衣を直した。

 灰原の傷ついた手足を見て、まるで自身の体が痛むかのように悲痛に表情を歪ませる伊吹。

 

「……大丈夫よ。少し足をくじいちゃったみたいだけど……」

 

 そう言って自身の足首をそっと撫でる灰原。

 伊吹が灰原の手に重ねるようにその足を撫で、寒さのせいかその小刻みに震える肩をそっと抱き寄せた。

 

「あったかい……」

 

 先程まで暴れていたせいか、彼の体は熱いくらいで、雨に混じってその体は汗にもまみれていた。彼の胸から聞こえる心音は激しくて、それがすごく心地よくて、思わず耳を押しつけてしまう。

 自分を探すために必死になってこの山を走り回っていた姿が容易に想像できて、なんだか無性に嬉しくて、愛おしくてたまらなかった。

 

 ――言いたいこと、伝えたいことは伝えとかなあきまへん……――

 

「……」

「……ッ」

 

 彼の胸の中でもぞもぞと動いた灰原が、そっとその体を押しのけて顔を上げる。

 雨で濡れた明るいブラウンの髪が子供の面影をかき消すほどに妖艶で、そのほのかに色づいた頬が少女の面影を残し、じっと彼の瞳を見つめて離さない潤んだ瞳は月明かりを吸い込んでゆらゆらと儚げに揺れる。

 そんな彼女の姿に伊吹も思わず息を飲み、先程までとは違った理由でどくりと心臓が跳ねた。

 

「……あ……、え、と……」

 

 しばらく伊吹を見つめる灰原。すっかり静まりかえった森に聞こえるのはどこかで滴り落ちる微かな水音のみ。

 何かを言おうと何度か口をぱくぱくと開いては、躊躇うように恥ずかしげに視線を逸らしてしまう灰原。

 すると彼女の足下に、あの子狐が駆け寄ってきた。「きゃん」と鳴いて嬉しそうに尻尾を振る子狐が、座り込む彼女のお尻をぐいぐいと押すように頭をこすりつける。

 まるで応援してくれるかのように背中を押すその姿を見て、灰原は思わず笑みが零れた。意を決したように、再び彼女が伊吹の目を見つめる。

 どこか甘い、雨で湿った夜の香りを乗せた風が、ふわりと二人の間を吹き抜けた。

 

「私は……、私は……っ、あなたに、言っておかなきゃいけないことがある……っ」

「……」

「ほんとは、もっと前に、もっと早く、言っておくべきだったけど……っ」

 

 彼女の言葉に沈黙で応える伊吹。

 祈りを捧げるかのように胸元であの鈴をぎゅっと両手に握りしめ、絞り出すように、独白するように、叫ぶように、己の魂を削るかのように、彼女はその想いを言葉に紡いだ。

 

「私はっ……、私はっ、あなたを……っ、あなたをっ、……――――――ッ……!!」

「…………ッ……」

 

 驚いたように目を見開く伊吹。耳元まで朱色に染める灰原。どこか不安げに、期待するように、懇願するように、彼の瞳を見つめて逸らさない。

 沈黙が二人の間を包み込む。

 すると彼がゆっくりとその顔を灰原へと近づける。「あっ、え……っ」と声を漏らした灰原が、口を閉じてそっと顎を上げてきゅっとその目をつむった。

 すると伊吹は自身の耳に手を添えて大きな声でこう言った。

 

「えっ!? なんて言ったっ!? 耳元でバンバン撃たれたもんでッ、キーンってして全っ然聞こえないんだ!」

「………………」

 

 雨に濡れた頬が風に吹かれて火照った熱を急速に冷やしていく。いつもの冷気を孕んだドライな半眼のジト目が伊吹を刺し貫いた。足下の子狐も溜め息を吐くように「くーん」と鳴いて尻尾を垂らした。

 

「あっ、あーっ、あーっ。ああ、ようやく聞こえてきたかな」

 

 そう言いながら耳を叩いたり指を抜き差しする伊吹。自身の決意の籠もった言葉が無情にもこの深い森の中に飲み込まれて溶けていったような気がして、灰原は一気に力が抜けてしまった。

 

「……はぁー……」

「大丈夫か? どこか痛むのか?」

 

 盛大な溜め息と共に地面に手をついて項垂れてしまう。なんか男達に追われていた先程よりも疲れたような気がした。

 もういいわ、と灰原が気を取り直すように自身の髪をかき上げる。

 

「それにしても、よくここがわかったわね」

 

 腕を組んだ灰原がいつもの調子で伊吹に尋ねると、彼も先程の話を蒸し返せる雰囲気ではなくなってしまい、いつもの飄々とした様子で頭を掻いた。

 

「哀の居場所ならどこだってわかるよ」

「……」

 

 彼女を安堵させる優しいテノールのような声でそんなことを言う伊吹。しかし今宵の彼女の目はいつも以上に冷たかった。

 

「……と言いたいところだけど、正直この豪雨で参ってた。たどり着けたのはその鈴の音のおかげだ」

「ああ、これ。そういえばまた音が止まって……」

 

 伊吹が困ったように笑いながら握り締められた灰原の手を指さす。彼女がその手を開くと驚いたように固まる。伊吹も灰原の手の鈴を覗き込んだ。

 

「それって……、()()()()?」

「そんなはずは、だって、ずっと握りしめてたはずなのに……」

 

 灰原の手の中で例の鈴はいつの間にか大粒のどんぐりと入れ替わっていた。それを摘まみ上げてしげしげと眺める灰原。その表情は驚きを隠せない。

 二人がきょとんと目を合わせる。なんだか怒濤の展開で理解が追いつけないけれども、考えるのも馬鹿らしくなってきて、二人は思わず笑ってしまった。

 

「ま、いいわ。これも御守りね」

 

 そう言ってそのどんぐりを懐へと入れる灰原。ふと気がつくと、足下にいたはずの子狐はいつの間にか姿を消していた。森の奥から「きゃん」と聞こえたような気がして、灰原は小さく「ばいばい」と呟いた。

 

「さってと、宿に戻るか。コイツらもふん縛っておかないと」

 

 伊吹が膝に手をあて重い腰を上げる。転がったまま未だ意識の戻らない男達を鬱陶しげに指さす。

 

「冷えたから温泉にも入らないとな」

「ええ、そうね。ちょっと疲れたわ……痛っ」

 

 伊吹に手を引かれるように立ち上がる灰原だったが、挫いた足が思いのほか痛むようで、思わず彼に寄りかかってしまう。

 

「痛むのか?」

「ええ、少しね、平気よ」

 

 そう強がる彼女の前にしゃがみ込んだ伊吹が背中を向けて「ほら」と言いながら手をちょいちょいと動かす。

 

「いいわよ、別に」

「よくないわよ」

 

 いつものように優しく笑う彼の横顔に、灰原もまたいつものように小さく嘆息するものの、それ以上は文句も言わずにその背中に身を預けるのだった。

 

「あったかい……」

「まあ運動しまくったし」

 

 彼の背中は先程胸に抱かれたときのように暖かくて、おぶられると思わず眠りに落ちてしまいそうなほど心地よかった。

 まどろんでいく意識の中で、灰原が独り言のように小さく零した。

 

「さっきの言葉だけど……」

「うん」

「……言うのは、また今度にするわ」

「……うん」

 

 心地よい揺れと安堵する温もりと、彼の匂いに包まれて、朧気な意識は夢の中へと溶けていった。

 伊吹は一人、灰原を大切におぶりながら、男達三人を乱雑に引きずって帰路へとつくのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「知ってる天井だ……」

 

 伊吹が目を覚ますと、そこには低い天井が。というより車の屋根が。

 

「おいおい……、おいおいおいおい……! なにがどうなってるッ!? 温泉は!? ご馳走は!? 肉じゃがは!?」

「うっさいはボケ、なに騒いどんのや」

「んん……、いつの間に寝て……ふあぁぁ」

 

 伊吹の叫び声に目が覚める一同。気がつくとそこは小五郎のレンタカーの中で皆眠りこけていたらしい。

 

「あ、あれ、いつのまに車に乗ったんだ、俺」

「ら、蘭ちゃん、うちらや、宿で寝たやんな?」

「う、うん……、しかも浴衣だったはず……」

 

 全員の格好はそれぞれの私服へと変わっていた。

 

「平次! ま、まさか、あんたがうち着替えさせたんか!?」

「あ、アホ抜かせ! だ、誰がそないな貧相な体」

 

 和葉の拳が服部の頭部を打ち抜いた。

 

「…………」

 

 灰原の寝起きのぼーっとする頭にこの騒ぎは辛いのか、耳を塞いでいたが、耐えきれずに車外へと出てうんっと伸びをする。

 伊吹も車を降りると、外は東の空からちょうど朝日が顔を覗かせる頃合いで、思わず眩しそうに手をかざす。

 

「あの後、どうなったんだっけ……?」

「……」

 

 伊吹の言葉に、あの灰原を救出したあとの事を思い出す二人。

 伊吹が灰原と密猟犯三人を連れて宿へと戻ると、皆が迎えてくれた。蘭と和葉は涙ながらに灰原へ駆け寄り、コナンと服部は半ば呆れたように伊吹を褒めていた。

 そういえば美子さんがやけに怖い顔で男達を睨んでいた気もしたが、伊吹にぶちのめされたその姿を見て、とても上機嫌になっていた。尻尾があればぶんぶんと振り回したことだろう。

 しばらくして酔いから覚めた小五郎は蘭に厳しく叱責され、平謝りだった。

 一同が冷えた体を温め疲れを癒やそうと温泉に浸かって、美子が用意したご馳走と美味い肉じゃがをたらふく食べてから各部屋で泥のように眠りについたはず。そこまでは伊吹も灰原も覚えていた。

 しかしそこで目が覚めるとこの現状だったようで、辺りをぐるりと見回しても宿らしきものは見当たらなかった。

 

「どないなっとんねん」

「さあな」

 

 服部とコナンも訳が分からんと頭を掻きながら車を降りてくる。

 伊吹が周囲を散策し、車の位置から昨日宿があったと推測される場所を探っても、宿どころか石灯籠や提灯の一つも見つからなかった。

 

「集団催眠にでもかかってたってのか……?」

 

 小五郎の言葉を聞いて伊吹が灰原を見やると、彼女はそのポケットからあの大粒のどんぐりを取り出した。その指先にも確かに小さな傷が残っていて、その足首にもまだ捻挫の症状が見て取れた。

 伊吹も自分の拳を確認し、そこに残る真新しい傷は確かに昨日ついたもので間違いなかった。

 

「いや、確かに昨日までのことは現実だ」

「せやったら例の密猟犯も縛ったままのはずや」

「明るい今のうちに電波の届く場所に移動して、綾小路警部に連絡してみようよ」

 

 伊吹とコナン、服部の提案で一同はいったんレンタカーでその場を後にした。昨日はあれほど迷ったはずなのに、今度はやけにあっさりと舗装された道路まで出てこられた。

 おっかしいなあ、と呟く小五郎の横で、服部が綾小路警部へと連絡をつける。電波が繋がった事で昨夜の自分たちのいた位置をおおよそ絞り込んだコナンが、その場所を調べるように伝える。

 

「……」

「見て蘭ちゃん、哀ちゃん寝とる。かーわいい」

「ほんと。なんだかお姫様みたいだね」

「じゃああっちはお姫様守っとる騎士? 随分ごつい騎士様やなぁ」

 

 コナンと服部が躍起になって昨日の事を調べる中、最後部座席では伊吹が眠りこけ、彼に身を預けるようにもたれ掛かる灰原も夢の中だった。

 彼らにとって、お互いが無事なら、それでもう他の事はどうでもいいのかもしれない。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「結論から申し上げますと、宿なんかどこにもありまへんでした。確かに毛利はんらの言わはる一帯を探しましたら縄で縛られた密猟犯はおりました。せやけど、辺りのどこを探しても宿はおろか民家も山小屋も、なんもありまへんでした」

「んな馬鹿な! じゃあ俺達は昨日どこに泊まったってんだよ!」

 

 あらかたの捜査を終えた綾小路警部が、一同が帰る前に小五郎達の元へと調査結果の報告へと来ていた。

 その報告に食ってかかる小五郎に綾小路警部は「そない言われましても」と冷静に断りを入れつつ、報告を続ける。

 

「そもそも月灯庵? でしたやろか? そないな宿はこの辺りには一軒もありまへん。あの辺の森は管理こそろくにされてまへんけど、一応お稲荷さん祀っとる地元の神社が所有しとる土地です。そないな宿、勝手には建てられまへん」

 

 綾小路警部の言葉に蘭と和葉の顔からさっと血の気が引いていく。昨日泊まったのは、食べたのは、いったいどこでなんだったんだ、と。

 

「それはそうと、例の密猟犯になんかしはりましたか?」

「あ、いや、それは不可抗力で多少怪我を……」

 

 バツが悪そうに応える伊吹に警部は不思議そうに小首を傾げて続ける。

 

「怪我? あいつらは怪我なんてしとりまへんでしたけど。ただ全員が罪を認めた上でうわごとのように壁に向かって繰り返し言うとるんですわ」

 

 逆に驚く伊吹だったが、警部は少し脅かすように声を低くして続けた。

 

「森には手を出しません、狐には手を出しません……赦して下さい()()()()()()()()と」

 

 一同の顔から血の気が引いた。

 あの若女将の、目を細めにんまりと笑う麗しくも怪しい笑顔が思い出されて、どこかでコンッと狐が鳴いた気がした。

 

「まるで狐につままれた気分だ……」

「とんだ女狐ね……」

「そこ、うまいこと言わんでええねん」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「かくして、俺と哀の京都珍道中は幕を閉じた訳だ」

 

 過激な表現や青少年の育成に不相応な箇所を飛ばしつつ伊吹は子供達に語り終えた。

 

「そ、それで、その宿はなんだったの……?」

「さあ、なんだったのか……」

「そ、その女将のねーちゃんは、どうなったんだよ!?」

「……さあ、どうなったのか」

「なんだか、信憑性に欠ける話ですねぇ」

 

 歩美と元太が食いついてくる中、光彦だけが顎に手を当て疑うような目を向ける。

 

「どうしてその宿には他のお客さんがいなかったんですか?」

「いやー、そこまで考えてない……ごにょごにょ」

「今考えてないって言いましたね!」

 

 光彦が鬼の首を取ったと言わんばかりに伊吹を指さして立ち上がる。

 

「哀ちゃんが帰ってきたら聞いてみようよ」

「そうですね。灰原さんに聞けば……」

「おー、聞いてみろ聞いてみろ」

「んなことより、オレ腹減ってきちまった」

 

 時刻は既にお昼頃。元太の正確な腹時計がぐーっと鳴り響く。

 

「そろそろお昼だね。カレーパーティーは夜だろ、昼はなに食べたい?」

「えっと……、歩美なんだか肉じゃがが食べたい!」

「オレもオレも! なんかすっげー食いたい気分!」

「なんだかボクも肉じゃがの気分です」

「おう、そう言うと思って、昨日の残りがたんまりあるんだよ」

 

 伊吹が黒猫のイラストがプリントされたエプロンを身につけると、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「あー、やけに肉じゃがのディテールが細かいと思いました! まさかこのためのお話だったんじゃ!」

「え、どゆこと?」

「いいですか元太くん、ボクたちはすっかり伊吹お兄さんの術中に」

「術中って……」

 

 一同が盛り上がる中、阿笠宅にインターホンが鳴る。「哀ちゃんだ!」と歩美が玄関へと駆け寄り、両手いっぱいに買い物袋を掲げた灰原と博士を迎え入れる。

 

「随分楽しそうだけど、なんの話をしていたの?」

「あのね哀ちゃん、実はね」

「まあまあ、その話は皆で肉じゃがを食った後にでも」

「誤魔化しましたね! ますます怪しい……」

 

 伊吹が子供達の相手をしながらリビングの方へと追い立て、博士が「冷蔵庫に入れるのを手伝っとくれ」と声をかけながらその後を追った。

 玄関で靴を脱ぐ灰原を見つめる伊吹。

 

「……なに?」

 

 その視線に気がついた灰原が、思わずいつものジト目で問いただす。

 

「⋯⋯()()()()

「……は? なんの話?」

「いや、何でもない。この前の返事、ってところかな」

 

 伊吹が意味深に言った言葉の真意を読み取れない灰原は、呆れたように彼を見つめる。

 意味の分からないことだけ言い残して、背を向けてリビングへ戻ろうとする彼を呼び止めた。

 

「ちょっと、荷物持っていって」

 

 すると伊吹は手を耳に当てて、少し大きな声でとぼけるように言う。

 

「え、なんだって? 耳がキーンってしてよく聞こえないんだ」

「あなたさっきから、なに言っ……て……」

 

 思わず尻すぼみになる灰原。その頭の中を何かが駆け巡っていく。彼の言葉の意味と、先程の返事とやらが線になって繋がっていくのを感じて、彼女の首から頬、頬からおでこへと赤みがかっていく。

 

「あ、あ……っ、あなた、あのっ、あれ……っ、聞こえ……っ」

「さあ、なんのことか」

 

 君が意を決したように、あまりに健気な瞳で見てくるものだから、つい魅入ってしまって……。普段はわざわざそんなことしないんだけど、ついその唇を見つめて読み取ってしまった。

 けど、できることなら、その転がる鈴のように愛らしく透き通った綺麗な声で、もう一度確かに聞かせてほしくて。

 

「哀ちゃーん、伊吹お兄さんがね」

「この前京都に行ったっていうんだけどよ」

「その時の話を是非お聞かせ下さい!」

「……っ……、な、ないしょ……っ」

 

 リビングから顔を覗かせて聞いてくる探偵団たちに、思わず顔を背けて、朱に染まる頬を誤魔化すようにツンとそっぽを向いてしまう。

 子供のように無邪気に笑いながらほっぺをツンツンしてくる彼に無性に腹が立つけれど、ちゃんと想いが届いたような気がして、少し心がむず痒かった。

 

 灰原の部屋の宝箱の中で、どんぐりが一粒コロリと転がった。

 

 


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