哀歌   作:ニコフ

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 今回、試験的に主人公の表向きの設定を17歳高校生から19歳大学生へと変更しております。(元々それほど年齢描写が重要となる作品ではありませんが……)
 今後の話の展開やキャラクターの動かしやすさを考慮しての変更です。
 変更が不評のようでしたら元の設定へと戻させていただきます。問題なさそうであれば、これまでの話につきましても順次加筆修正をさせて頂きます。



12話 米花町より愛を込めて 前編

「うぅ……、くっ……、ん」

 

 外気や空調機によるものではない、長い時間そこに(とど)まり続けたことで自然と冷えていったヒンヤリとする空気の冷たさ。鼻をくすぐる埃っぽさと、不快なカビの匂い。

 締め切られた窓には埃にまみれた厚手のカーテンが引かれ、照明の灯っていない部屋は薄ぼんやりとしていて、外の様子はおろか現在の時刻でさえも分からない。

 

「えっと……、どうしてボク、こんなところに……」

 

 そこで目を覚ましたのは、くせっ毛の乱れたショートヘアに、チラリと口元から覗かせる八重歯、スポーティでスレンダーな体つきが特徴的な女子高生探偵こと世良真純である。

 ジーンズにTシャツと簡素な上着。少し出かけてくるとでも言い出しそうなラフな姿の彼女の四肢には、その格好に似つかわしくない荒縄が皮膚に食い込む程にキツく結ばれ、痛々しく手足を赤く染める。

 

「うっ……痛っ」

 

 とにかく状況を探るためもぞもぞと体を起こす彼女だったが、後ろ手に縛られた腕ではうまく体を支えられず、這うように室内を移動する。

 壁際まで辿り着いた彼女が寄りかかるように体を支えて立ち上がろうとするも、どうにもその脚に上手く力が入らないようで、ずるりと滑るように尻餅をつく。

 手脚に残る痙攣にも似た微かな痺れ。乱れる呼吸を整えると酸素の送り込まれた脳は鮮明に冴えていき、自身がなぜこんな状況に置かれてしまったのか、その記憶が少しずつ呼び起こされてきた。

 

「確か……、買い出しに出たんだったよな……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「じゃあちょっと夕飯に何か買ってくるよ。ボク的には“死ぬほど美味いラーメン小倉”の気分なんだけど、ママはなにがいい?」

「別に何でも構わん。相応の栄養とカロリーを摂取できるものならな」

 

 都内の某ホテル。その一室に世良真純と一見中学生にも見える少女の姿があった。

 真純と同じく少し癖っ毛に乱れたプラチナブロンドのショートヘア、パチパチと瞬く上下の瞼には長いまつげが揺れ、キリリとつり上がった目尻は少女のあどけなさとはかけ離れたクールでドライな大人の女性のそれを思わせる。

 真純が少女に対して“ママ”と呼んだのは聞き間違いではなく、実際に彼女は真純の母親、メアリー世良その人である。コナンや灰原同様に例の毒薬、APTX4869を飲まされ幼児化してしまい今の姿となり、娘の真純と共にホテルを転々としながら組織の目を逃れる生活を送っている。もっとも彼女は虎視眈々と組織に対する反撃のチャンスを窺っているようだが。

 青みがかった寝間着姿のメアリーが小さく咳き込みながら真純に今日の夕飯のリクエストを出すと、真純は困ったように「はいはい」と笑いながら上着を一枚羽織ってホテルを後にした。

 

「日が暮れるとまだちょっと寒いなー」

 

 真純がホテルのロビーを抜けると外はすっかり夕暮れ時で、夕闇のビル間を滑ってくる風は昼間と違って冷気を帯びていた。

 

「……ん? なんだ、あれ」

 

 思わず襟元を締め直して両の腕を(さす)りながら目的の中華料理屋を目指していると、彼女の目になにやら、彼女の探偵としての好奇心をくすぐる光景が飛び込んできた。

 それは商店街の通りから一本入った薄暗い路地に佇む少し古びた雑居ビル。しばらく前からテナントの募集がかかったままになっていたのを覚えているが、どこかの企業が入ったのか、何やら作業服を着た男達がせっせと荷物を運び出していた。

 作業員二人がかりで運ぶ大きな包みや、いくつもの段ボール箱。ドライアイスの煙だろうか、微かに白い(もや)が漏れ出ているクーラーボックスのようなものも見て取れる。

 しかし彼女の興味を引いたのはその作業員達ではない。彼らが引っ切りなしに出入りするその雑居ビルの入り口に立つ二人の男。

 片や白地に黒の縞模様、ゼブラ柄のスーツに身を包み黒髪をオールバックに固めタバコを吸う身の丈190近い大男。もう一人は灰色のスーツの下に黒いカッターシャツを着込み、色の抜けた髪がまるで獅子の(たてがみ)のようにざんばらに逆立っている。不自然に動かないその左の目は義眼なのか、唇を縦断するように入った古傷と相まって見る者を威圧する。二人の男のその異様な雰囲気はどう見ても堅気のそれではなかった。

 作業員達もその男達を気にしないように作業を続けてはいるが、ゼブラスーツの男がタバコを吐き捨て黒光りする革靴で踏み潰す動作一つだけで一瞬動きが止まる。何事もなかったかのように作業を再開するも、その男達に気を遣い怯えているのは明らかだった。

 

「どう見ても、普通の業者じゃないよな」

 

 路地に身を隠しながら雑居ビルの様子を見ていた真純が自身の携帯を取りだし、作業員の服に記載された企業名と思しき名前を検索する。しかしこの近辺はもちろんのこと、もっと広い範囲で検索をかけてみても該当する企業はヒットしなかった。

 同じ名前の会社は出てきても、字面が異なっていたり、業種や場所を考えても偶然に同名なだけで無関係なものばかり。

 

 ――と、いうことは存在しない業者。そんな連中がどう見ても筋者(すじもん)な人たちと(つる)んでなにを――

 

 真純が携帯から視線を戻すと、そこにはゼブラ柄の男がタバコを吸っているだけでざんばら髪の男の姿が見当たらなかった。

 

「嬢ちゃん? なに、してんの? こんなとこで」

「っ!?」

 

 まずい、そう思ったのも束の間、背後から機械のように感情の起伏を感じさせない男の声がかけられる。

 振り返るとそこにはあの色の抜けたざんばら髪の男が突っ立っている。男の右の瞳は獲物を逃さぬ獅子の眼光のようにこちらを捕らえるものの、その不自然な左の目は真っ直ぐ前を見つめたまま動かない。

 こちらを脅しつけるようにドスの効いた低い声色ではない。偶然通りで見かけた知人に声をかけるような、そんな自然な声で問いかけてきた。

 

「――ッ、……いや、少し道に迷っちゃって……」

 

 しかし真純はこの手の声色を知っている。探偵として血なまぐさい殺人現場に遭遇した際にごく希に見かける類いのヤツだ。一般人と倫理観の異なるタイプの人間、言語が通じているはずなのに言葉の通じない相手。

 ざんばら髪の男は路地の通路を塞ぐように真純の前に立つ。後ろには例の業者ともう一人のやばそうなゼブラ柄の男。

 この状況で一人はまずい。ここは力ずくにでも目の前の男を伸して一時撤退すべきだ。思わずその拳を握りしめ、いつでも蹴り込めるよう脚に力の入る真純。

 

「……」

「…………っ」

 

 獣の眼光のように意思を読み取れない男の瞳が真純を捕らえて離さない。その視線にたまらず一歩踏み込もうとしたその時、男はあっけらかんと口を開いた。

 

「そう。ここ抜けたら、大通り、出るから。行きな」

「っ、……、あ……、ああ、……ありがと」

 

 思わず肩すかしを食らったようにきょとんとしてしまう真純。

 彼女に道を譲るように壁際へ身を寄せるざんばら髪の男に尚も注意を払いながら、真純が男の横を通り抜けようとしたとき、後ろの雑居ビルの方から何かを転倒させる激しい音が聞こえてきて思わず振り返ってしまった。

 彼女の視線の先には躓いてしまったのか、例のクーラーボックスらしき箱や積み上げていた段ボール箱を倒してしまった作業員の姿が。そしてその箱から白い煙幕と共にドライアイスがゴロゴロと転がり落ちてきて、最後に何かが詰まったいくつかの真空パックのような物が散乱した。

 パックの中身は無色の液体で満たされており、何らかの薬品のようだった。蓋の開いた段ボール箱から見えたのは植物を乾燥させたような枯れ葉。そして袋詰めされ密閉された白い粉末状の()()()

 存在しない業者、どう見ても堅気ではない男達、使われていないはずの通りから外れた雑居ビル。パズルのピースが真純の脳内でハマっていく。

 

「――あ、見えちゃっ、た?」

「お前ら――ぐッ……ぁ……ッ!」

 

 それがろくでもない薬で、コイツらがどうしようもない人間だと理解したとき、真純は背面の男へ渾身の一撃を見舞おうと瞬時に踏み込んだ。しかし、彼女の一撃よりも速く激しい衝撃と痛みが体を貫いた。

 

「見なかったら、帰れたのに。あの、転けたヤツが、悪いよな」

「ぁ……ぐ、ぅ……」

 

 頭のピースを組み合わせて状況を把握するのに一瞬遅れをとった真純に対して、一切の迷いも躊躇もなく、懐から取り出したスタンガンを彼女の柔肌へと押し付けその強烈な電流を浴びせたざんばら髪の男。

 

 ――ああ、ちょっと、まずい、かも……――

 

 霞むように揺れる視界と遠のいていく意識。夕闇を背にこちらを見下ろしてくる男の顔は暗くてよく見えなかったが、それは別に笑っているわけでも怒っているわけでもなくて、ただ静かに佇むその異様な姿が背筋を凍らせた。

 影に飲まれる狭い路地を吹き抜ける風は一層に冷たくて、遠くの消えかけた赤い空ではカラスが哀れむような声で鳴いていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「……そうだ。恐らくスタンガンでやられたな、それも改造されたとびっきり強烈なやつ」

 

 部屋の壁際に腰を下ろして自身の置かれたこの状況に至るまでを思い出す真純。

 察するにここはあの雑居ビルの一室だろうか。四肢を結ぶ縄と、未だ影響の残るスタンガンの痺れに辟易しながら体を動かし、外に通じる唯一の扉へと辿り着く。耳を寄せて外部から音を頼りに情報を得ようとするも、聞こえてくるのは足音とも会話とも分からないような雑音ばかりで、思わず溜め息をついてしまう。

 

「ああ、ちくしょう。……()()()の言う通りになっちゃったかなぁ」

 

 壁に預けていた背をずるずると滑らし、脱力するように床に転がる。薄暗い部屋に視線は当てもなく泳ぎ、その思考はぼんやりと数日前の記憶を遡っていく。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「やあ、みんな! 今帰りかい?」

「あ、こんにちは、世良の姉ちゃん」

「やあ、コナン君! それと、哀ちゃんも!」

「……」

 

 それは少年探偵団が帝丹小学校のウサギの飼育当番の仕事を終わらせて下校しているときだった。

 いつもより少し遅いその下校時間は帝丹高校の下校時間と被ったようで、子供達の後ろから快活そうな明るい元気な声がかけられた。

 一同が振り返ると学校帰りの蘭と園子、そして探偵団に声をかけた真純の姿が。少し困ったように苦笑いしながらもとりあえず返事を返すコナンに対して、露骨に迷惑そうな視線を浴びせる灰原。組まれた腕は無意識に出た拒絶のシグナルだろうか。

 

「みんな一緒に帰ってたんだね。なんでも世良ちゃん、哀ちゃんに用事があるんだって」

「ショタコンの上にロリコン……」

 

 蘭が真純を手で差しながらそう言うと、隣の園子はニシシといたずらに笑いながら小さく呟いた。

 

「ちょっと哀ちゃんと話がしたくてさ! 今から家にお邪魔してもいいかい?」

 

 腰を曲げてぐっと灰原に顔を寄せて屈託のない笑みを浮かべる真純がそう問いかける。

 そして、まるでイタズラしているところを親に見られてはいないかと確認する子供のように、キョロキョロと辺りを警戒しながら見回す。口元に手を当て「ほら、いつもあの彼に邪魔されちゃうからさ」と少し困ったように片目をつむり囁く。

 

「だめよ」

 

 彼がいないから困るのよ。その一言を飲み込んで、代わりに小さな嘆息を零した灰原が真純の快活な視線から逃れるように目をつぶったままきっぱりと断りを入れる。

 

「えー、いいじゃないか、ちょっとくらい」

「今度の休みに博士とみんなで米花デパートに出かけるの」

「今から博士の家に集まって」

「みんなで打ち合わせするの!」

 

 灰原の言葉に光彦と歩美が嬉しそうに続ける。

 子供達の話を聞くと自身の顎を撫でながら少し考え込んだ真純だったが、なにかを閃いたようにピンと指を立ててにんまりとその吊り上げた口角から八重歯を覗かせる。

 

「じゃあそのお出かけ、ボクもついて行っていいかい?」

「…………」

 

 真純の提案に「どうする?」とアイコンタクトで確認し合う子供達。彼女のそのめげない姿勢に半ば呆れ顔のコナンと、眉間に微かな皺を寄せ不満を隠す気もない灰原。

 

「で、でも博士が福引きで当てた食事券を使ってみんなで行く予定だから、世良の姉ちゃんの分までは無いんじゃないかなぁ」

「じゃあボクの分は自腹で払うから大丈夫だよ!」

 

 コナンが横目に灰原の様子を窺いながらやんわりとそう断ると、間髪入れずに真純も答えた。

 膝に手をついて腰を落とし、子供達に視線を合わせていつもの明るい笑顔で食い下がる真純。

 

「な、いいだろ?」

「うちの連れになにか用かい、お嬢さん」

 

 いつもの調子でどこか飄々とした口調ではあったが、その声色にほんの微かな警戒心と不信感を混ぜ合わせた男の声が真純の背中にかけられる。振り返る彼女の視線の先には屈強な肉体と痛々しい古傷に相反して、人当たりのよさそうな愛想のよい笑みを浮かべた伊吹の姿があった。

 しかしその瞳の奥は長く深い付き合いの者にしか分からない程度だが、確かに鋭く研ぎ澄まされている。そんな彼を視界に捕らえた灰原はどこかホッとしたように眉間の皺を綻ばせて小さく息を吐いた。

 真純の大きな釣り目の瞳が微かに細められ、目尻をピクリと引きつらせて口の端をへの字に曲げる。声には出さなくとも「げっ、またあんたか」とその視線は口以上にものを語っていた。

 その表情から察するに、これまでに何度も灰原へのアプローチを邪魔され続けてきたのだろう。

 

「少し聞こえていたけど、同伴はやめといた方がいい。子供達のお守りをするだけだから、君についてくるメリットはないよ」

 

 伊吹からジャブのような牽制が放たれる。ほんの僅かに、その場に流れる空気が張り詰めたような気がして、伊吹の声の温度がなんとなく低い気がするとにその場に居合わせた灰原以外の一同も察し始める。

 

「それでもボクは行きたいなぁ。ぜひ哀ちゃんともっと話がしたいし」

 

 通学鞄を持ったまま両手を頭の後ろに組んで挑発するような視線を彼へと浴びせながら食い下がる真純。そんな彼女を見つめる伊吹の眉尻がピクリとヒクついた。

 

「……言い方が悪かった。その子にあまりちょっかいを出すのはやめてくれないか」

 

 灰原を指さしハッキリと言う伊吹からはすっかりいつもの飄々とした雰囲気は無くなっており、その圧に思わず真純もたじろいでしまう。

 

「……っ、……わ、わかったよ、ついて行くっていう件は、諦めるよ」

 

 思わず視線を逸らしてバツが悪そうに頬をかく真純。普段飄々としてるくせに時折、途端に見せるその言い知れぬ威圧感や、こちらの心根まで見透かすような刃物のように鋭く冷たい眼光、そしてどうにも底が掴めないような彼の雰囲気が彼女は苦手なようだ。

 そんな二人の空気もどこ吹く風で口元を手で隠しながら再びニシシと笑う園子が目元もイヤラシく「ロリコンvsショタコン」と心底楽しそうに呟いた。

 伊吹が「うん、お守りは大変だから」といつもの柔和な笑みを浮かべながら真純の横を通り過ぎて子供達と言葉を交わす。先程一瞬顔を覗かせた抜き身の刀身のような雰囲気はすっかり消えてしまっていた。

 彼の姿を追うように振り返った真純の視線の先には、伊吹に頭を撫でられて少し鬱陶しそう彼を見ながらも、それを容認する灰原の姿が。

 先程までの連れない大人の女のような、クールでドライな雰囲気はすっかりなりを潜めている。いや、声色やその澄まし顔こそは変わっていないが、しゃがみ込んで彼女と視線を合わせ会話する伊吹を見つめるその瞳はどこか輝いてすら見え、頬も薄らと紅潮しているかのよう。

 

「私も行くの。あまりお守りお守りって言わないでくれる」

「なんでさ」

「……いい気がしないからよ」

 

 真純が顎に手を当て、楽しげに言葉を交わす伊吹と灰原を鋭い視線で観察しながら蘭と園子に対してポツリと質問する。 

 

「……哀ちゃんって、あの萩原って人とどういう関係なんだっけ?」

「哀ちゃん? えっと、哀ちゃんは確か阿笠博士の親戚の子供で……」

「萩原君も博士の親戚とか言ってなかった? 前に居候してる身とか言ってた気がするけど」

「じゃあ親戚同士?」

 

 蘭と園子が思い出すようにお互いの記憶の引き出しを開ける。彼女らの情報に耳を傾けながら再度伊吹達を見つめる真純。その口元が事件を推理する際の、解決の糸口を見つけたときのようにニヤリと楽しげにつり上がった。

 

「親戚同士……ね。ボクにはとてもそんな風には見えないけどな」

 

 彼女を守るような彼の行動、そして彼が現れてからの彼女の仕草や表情……、まるで二人の関係は――

 

「え、どうして?」

「あ、いや、……ほら、二人とも似てないからね、全然」

「まあ遠い血の繋がりだろうからね」

 

 蘭の問いかけに思わずあたふたと答える。特に興味の無さそうな園子の一言に「だよねー」と同意しつつも、その眼光が伊吹と灰原から逸らされることはなかった。

 子供達と今度の休みの話で盛り上がっていた伊吹が、自身の背中に向けられるその視線に気付いてか、音も無く立ち上がり振り返る。

 その瞳には先程までの威圧感こそ無いものの、未だ灰原を諦めきれないのか、それともこちらの関係を探っているのか、真純のその()()()()()()に困ったような苦笑いを浮かべる。

 

「君は、まるで猫のようだね」

 

 伊吹からの思わぬ言葉に真純も顎に当てていた手を離し、考え込む思考も途切れてしまった。

 

「ね、猫? 初めて言われたけど」

「日本人離れしたその綺麗な瞳、時折顔を覗かせる愛らしい八重歯。柔軟でスポーティな体つきにすらりとしなやかに伸びた手脚、高い運動能力。明朗快活、表情豊かで見るものを和ませる。……そして興味のある事に飛び込んでいく旺盛な好奇心」

 

 淡々と真純を褒める伊吹に、ついじろりと半眼を向けてしまう灰原。真純も正面から褒められて思わず満更でも無さそうに「いやー」と頬をかく。

 

「だが、気をつけた方がいい」

 

 伊吹の声色がまたほんの少し、冷気を帯びた。

 

「猫は好奇心で死ぬ」

 

 彼の一言に思わず真純もその眼光を鋭く尖らせ、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。

 すると伊吹は右手の人差し指を立て、空を指差しながらいつもの飄々とした雰囲気で続けた。

 

「そして猫の天敵は鳥だ。……それも猛禽類。警告だよ、()()()には気をつけた方がいい」

「……どういう意味だ、それ」

 

 意味深な彼の言葉の真意を読み取ることはできなかったが、どこか釘を刺すようにこちらを見てくる伊吹の視線が不愉快で、思わずむっとして聞き返す真純。

 しかし彼がその問いかけに答えることはなかった。そして彼のその鋭い視線も、真純というよりかはまるで()()()()()()()()()()()()を牽制しているかのようにも思われた。

 「別に、大した意味はないよ」そう柔和な笑みを残して、子供達を連れて帰っていく屈強な男の背中を見送る。真純の脳内に、大きく力強い白頭鷲の羽が舞ったような気がした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「それで、解毒薬の首尾はどうだ」

 

 真純がホテルに帰るなり、ソファに腰掛けコーヒー片手にテレビを見ていたメアリーが声をかけた。脚を組んでマグカップを揺らす仕草はどうにもその幼い姿には似合わない。

 

「ダメだったよ。また例の彼に邪魔されちゃってさ」

 

 部屋の壁際に鞄を放った真純がジャケットをハンガーに掛け一息つきながら胸元のネクタイを緩める。参ったと言うように頭をかきながらメアリーの向かいのソファへと腰を下ろした。

 

「彼がいないタイミングを狙ったんだけどね」

「一体何者だ、その男」

「さあ。その哀ちゃんって子が住んでる阿笠博士って発明家のところに居候してる身だって聞いたけど」

 

 腕を組み思案するように視線を斜め上に向けながら真純は続ける。

 

「なんて言うか、ただ者じゃないオーラっていうのかな、出てるんだよね。どう言えばいいのかな、ちょっとママにも似てる雰囲気っていうか」

 

 「あとガタイが凄い」冗談めかしてそう笑いながら報告する真純に、メアリーも手元のマグカップに注がれたダークブラウンを揺らしながら「ふむ……」と考え込む。

 

 ――特に問題がなければ捨て置くつもりだったが、こうも邪魔をされればなにか手を打たねばなるまいか――

 

「その男の情報が欲しい。他になにか言っていなかったか?」

「え、彼の? うーん、そうだなあ……」

 

 室内の照明を吸い込んでマグカップの水面に反射する自身を見つめて何かを思案するようなメアリー。しばらくカップを眺めていた彼女がそれをテーブルへと置くと、ソファに背中を預けて両腕を組む。彼女の本格的になにかを考える時のその仕草に、真純も自身の知りうる伊吹の情報を引っ張り出してくる。

 

「確か、東都外国語大学、だったかな。に通う大学生で、その哀ちゃんの一応親戚とか言ってたけど……、怪しいものだけどね」

 

 真純が部屋の天井を見上げながらポツポツと思い出す。「あまりボクも知らないんだよね、彼のこと」と両肩をすくめて困ったように笑うと、メアリーも呆れたように小さく溜め息を漏らした。

 テーブルに置かれたコーヒーサイフォンから自身の分のコーヒーをマグカップに注ぎながら、「ああ、そういえば」と真純が思い出したように口を開いた。

 

「なんかボクのことをまるで猫みたいだって言ってディスってきたよ。あと、()()()には気をつけろとかなんとか」

「……っ」

 

 真純のなんて事無さそうなその報告に、マグカップを揺らすメアリーの手がピタリと止まる。

 その鋭い眼光が真純を貫く。

 

「白頭鷲、だと?」

「うん、確かそんなこと言ってたと思うけど……」

 

 ――白頭鷲、米国、驚異的な毒薬、その解毒薬の情報を握っていそうな少女、それを守るような男、ただ者ではない雰囲気……、まさか……――

 

「ママ、どうかしたの?」

 

 テーブルへ伸ばしていた手を無意識に口元にあてがい腕を組んだまま黙り込むメアリー。そんな彼女の様子に真純も困惑したように、どこか心配そうに声をかける。

 

「……いや、なんでもない。薬は引き続き必要だ。だが……、その男には気をつけるんだ」

「う、うん……、わかった」

 

 真純にそう釘を刺すと、メアリーは静かにカップをすする。真純に釘を刺すその一言には有無を言わせぬ迫力があった。

 無糖のコーヒーの芳醇な香りが口内に広がり微かな苦みを残して鼻から抜けていく。その深い味わいを楽しむこともなく、微かに薄らと開かれた彼女の瞳は見たこともないその男の影を捕らえ、その正体について思考を巡らせるのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 真純と一悶着があったその夜、灰原と伊吹は黒猫のイラストがプリントされたお揃いのエプロンを身に着けて二人でキッチンに立ち夕飯の準備を進めていた。

 

「どう?」

「うーん、ちょっと薄い?」

「思ったより野菜の水分が出ちゃったかしら」

 

 部屋に漂う食欲をそそるいい香りはどうやらビーフシチューのようで、博士もリビングのソファに座りながらも鼻をヒクヒクとヒクつかせ、思わずキッチンの方へと顔を引き寄せられてしまっているようだ。

 お玉を片手に鍋をかき回す灰原がいくらか中身をすくって小皿へと注ぐ。パン切り包丁で人数分のパンを切り分けていた伊吹が、彼女が差し出してきた小皿に口をつけ、もごもごとその味を吟味しながら小首を傾げた。

 

「そもそも野菜の量が多すぎるんじゃない」

「あなたが具沢山のシチューをいっぱい食べたい気分って言うから」

「だからって冷蔵庫のダメになりそうな野菜を全部入れなくても」

「そもそも、買い物に行くとあなたがカゴに何でもぽいぽい入れるからでしょー」

「……尻に敷かれておるのぉ」

 

 したり顔で問題を指摘する伊吹にいつもの半眼を浴びせつつお玉を向けて対抗する灰原。痛いとこを突かれたように伊吹は視線を泳がし、口をへの字に曲げながら引き続きパンをカットする。

 リビングからキッチンの様子を窺っていた博士が伊吹の将来を思い、微笑ましいながらもその表情には苦笑いが浮かんでいる。

 

「あ、タマネギをスライスして入れるんじゃなかった? シャキシャキ食感残すために最後に入れるとかなんとか」

「これ以上水分出るような野菜入れていいわけ?」

「じゃあルーも追加しちゃおう」

「あ、コラ、あなたまた勝手に」

 

 伊吹が鍋の中にルーを放り込むと、灰原は呆れたように溜め息を吐いて冷蔵庫から使いかけでラップに包まれていた半玉のタマネギを取り出しスライスする。

 

「痛っ……」

 

 呑気な笑顔で鍋をかき混ぜるの彼と、ちょっと味の濃そうなシチューの様子がつい気になってよそ見をしていたものだから、タマネギをスライスしていた灰原は誤って自身の指を切ってしまったらしい。

 

「よそ見するから。大丈夫か? 哀」

「ええ、大丈夫よ、少し切っちゃっただけだから……って、ちょっとっ……!」

 

 ぷっくらと赤い玉のように、灰原の左手人差し指の先が出血する。幸い傷口はさほど深くはない様子。

 彼女が傷口を洗い流そうとキッチンシンクの蛇口に手を伸ばそうとすると、それよりも早く伊吹が彼女の手を取った。

 きょとんとする灰原を尻目に伊吹は彼女の小さな手を引き寄せると、迷いなく血の滲んだ彼女の白くしなやかな指先を口に含ませ傷口に舌を這わせた。

 

舐めてりゃ治るよ(はめふぇひゃはおふお)

 

 思わぬ彼の行動に、指を咥えられたまま一瞬のフリーズ。再起動した彼女の脳内は急速に熱を帯びていき、放熱のためか頬や耳が勝手に火照っていって思わず取り乱してしまう。

 傷口に染みるピリッとした痛みと、彼の舌の言い知れぬ感覚が指先から伝わってきてなんとも言えぬもどかしい感情が彼女の体を貫いていく。思考の波が頭の中をぐるぐると駆け回った。

 

「あっ、んっ……、ちょっ、と、そのっ……」

 

 ――確かに傷口を舐める行為は洗浄作用があるかもしれないけどそもそも洗浄するなら蛇口で洗えばいいわけで、ムチンなんかの粘膜コート機能は傷口の乾燥を防ぐ保護作用が少なからずあるだろうし、リゾチームなんかの抗菌作用とか細菌の凝縮作用とか炎症を抑える作用とか色々理屈というか理由は考えられるのだけれど、野外ならまだしも家に居るのだから傷口洗って消毒しておけばそれが一番なはずで――

 

「……いっ、いつまで咥えてんのよ……っ」

「うん、血も止まったし傷は浅そうだな。絆創膏取ってくるよ」

「あ、え、ええ……、お、お願い……」

 

 ただの応急処置になにを焦っているのか、と自身に言い聞かせるように静かに深呼吸を繰り返す灰原。

 しかし、ついリビングの救急箱を漁る彼をチラリと覗き見てしまう。そして何を思っているのか、先程まで彼の唇が触れていた自身の指先をじーっと見つめる灰原。

 赤い糸のように薄らと入った線からはもう血が溢れてくることはなく、その傷口にそれ以上唇を触れさせるべき真っ当な理由を彼女は見つけることが出来なかった。

 

「……………………」

「哀?」

「ッ! な、なにっ……?」

「いや、絆創膏。手、出して」

「あ……、え、ええ……」

 

 伊吹が右手の指先に絆創膏をピンと挟みながら戻ってくると、灰原の傷ついた手を取りその傷口を蛇口の流水で軽く流してしまう。灰原の口からは少し落胆したような吐息が漏れた。

 伊吹がそっと灰原の指先に絆創膏を巻くと、彼女は火照りの収まったいつもの澄まし顔でその指先をしげしげと眺めるのだった。

 ……わしはここにいてよいのかの。家主であるはずの博士がどうにもいたたまれない気分になっていると、阿笠邸にインターホンの呼び出し音が鳴り響いた。

 ソファから立ち上がろうとする博士に手を向け「いいよ、俺が出る」と伊吹が制した。

 

「……今日はなんの差し入れで?」

「申し訳ありません、本日は何も用意しておらず」

 

 伊吹が玄関の戸を開けてみると、そこには隣の工藤邸に居候する沖矢昴の姿が。なんだか嫌な予感がするなと、伊吹は思わずしかめっ面を浮かべてしまう。彼の皮肉めいた質問に昴も申し訳なさそうに眉尻を垂らして手を振った。

 

「……」

 

 リビングの影からそっと不満顔を半分覗かせて玄関の様子を窺う灰原。昴を警戒しているのか、せっかくの楽しい時間を邪魔されたことが不満なのか、そのドライな半眼はじーっと音がしそうな程に二人を見つめて放さない。

 昴もその視線に気がついているようで、「弱りましたね」と頬をかきながら伊吹へと訪問してきた理由を切り出す。

 

「今日は少々、あなたに折り入ってお願いしたいことがありまして」

「……、なんでしょう?」

「ここではちょっと。よければ工藤邸へお招きしたいのですが」

 

 僅かに表情を曇らせ申し訳なさそうにお願いをする昴に対し、腕を組んで玄関の壁にもたれ掛かりながら面倒くさそうに対応する伊吹。昴に工藤邸へと招待されると、チラリと振り返り灰原の様子を窺う。

 彼女はリビングから半分顔を覗かせたまま威嚇する猫のように不満げな表情でこちらを見てくる。彼らの会話は彼女にも聞こえていたようで、彼女の顔には「さっさと断って」そうありありと書かれているかのようだった。

 

「あー、せっかくですが……、ちょうどこれから夕食でして」

「そうみたいですね。お時間は取らせませんので」

 

 昴の態度や語気から彼に引く気はないと察した伊吹は、再び灰原へと振り返り困ったように苦い顔をして肩をすくめる。何となく断れない予感はしていたのか、灰原も大きなため息を漏らしてしまう。

 どことなく肩を落とした様子の灰原がエプロンを外し投げ捨てるようにキッチンカウンターへと引っかけると、足取り重くスリッパを鳴らしリビングのソファにどかっと腰掛けた。

 

「誰だったんじゃ?」

「お邪魔虫」

 

 博士が聞くと、灰原はソファに脚を組んで座り頬杖をついてむすっとしながらぶっきらぼうにボソリと吐き捨てた。

 その意味が分からず博士が頭に「?」を浮かべていると、伊吹がエプロンを脱ぎながらリビングへと戻ってきた。

 

「あー、なんか有無を言わさない感じみたい。ちょっとお隣行ってくるよ」

「いってらっしゃい」

 

 伊吹が申し訳なさそうに両手を合わせ灰原の顔色を窺うように申し出る。つまらなさそうにテレビを見ながら答える灰原。

 

「シチュー、もうできちゃうし、先食べてて」

「待ってるわ」

「え?」

 

 頬杖を突いたままチラリと横目に伊吹へと視線を送り、彼の言葉を遮る。

 

「待っててあげるから。さっさと用を済ませて戻ってきなさい」

「あ、はい、了解です」

 

 反論を許さない灰原のオーラに気圧され、さっさと話を終わらせて帰ってこようと、伊吹はそそくさ着替えて阿笠邸を後にした。

 ちらりと時計を見やる灰原の大きな溜め息がリビングに残され、お腹を空かせた博士も「じゃあわしだけ先に⋯⋯」とは言い出せない雰囲気だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「こんばんは、君が萩原伊吹君だね。話は聞いているよ」

 

 伊吹が工藤邸のリビングに通されるとそこには既に家主であり、コナンもとい工藤新一の実父でもある世界的ミステリー作家、工藤優作が優雅に紅茶を楽しんでいた。

 その隣では優作の妻でありコナンの実母、元世界的名女優である工藤有希子が昴と伊吹の分だと思われる新しいティーカップに紅茶を注いでいた。

 彼らの姿を確認すると伊吹は昴を横目に、自身のスイッチが切り替わるのを感じた。

 

「……初めまして」

「そんな恐い顔をしないでほしいな。楽にしてくれたまえ」

 

 柔和な笑みを浮かべながら紳士的な所作で優作がソファを勧める。昴と有希子、そして優作の表情を窺いながら伊吹は警戒心を露わにソファへと腰掛ける。

 彼のその向かいのソファに昴が座ると、有希子が用意した紅茶で唇を湿らせた。

 

「わざわざ来てもらって感謝する。折り入ってお願いというのは」

「その前に」

 

 昴が自身の喉元に手を這わせると、沖矢昴の甘い声色は赤井秀一のそれに変わる。その鋭い目を僅かに見開き本題を切り出そうとしたとき、伊吹が右の手を彼に突き出し言葉を制した。

 

「その話に、Mr.工藤は関係していますか?」

「……直接は関与していない。これは俺の個人的な頼みだからな」

「では、失礼ながら、できれば工藤夫妻には席を外していただきたい」

「ふむ……。まあ、私は構わないけどね」

 

 伊吹の意図は分からないものの、赤井と優作は視線を合わせアイコンタクトを取ると、彼の要求を飲むことにした。

 

「ただ、理由を聞いてもいいかな」

 

 紳士的ながらもどこか挑戦的に微笑む優作に対し、伊吹は一瞬の間を置いてから口を開いた。

 

「……私の、立場は既にご存じですね?」

「ああ、諜報員らしいね、米国の」

「ええ……。私がCIA工作員となった時、最初に教わったことは……」

 

 伊吹がその香りを楽しむように瞳を閉じ、手元のティーカップを一口すする。その刃物のような鋭さを孕ませた眼光で優作を捕らえると、慎重に、しかしどこか挑発めいた色を含んで口を開いた。

 

「自分より頭のキレる相手とは長く話すな、です。正直、私はあなたと話すのが一番恐ろしい」

「それはそれは、……光栄だね」

 

 少し満足げにそう微笑むと、優作は「終わったら声をかけてくれ」と言い残し、有希子を連れてリビングを後にする。

 その場に残された赤井がでは早速と言わんばかりに、体を前のめりに膝についた手を組み、それを口元にあてがいながら話を切り出す。

 

「実は、俺は少しの間工藤夫妻と共に米花町(ここ)を離れる」

「そうですか。……組織(やつら)を潰すいい作戦でも思いつきましたか?」

「ああ、まあな。君になら教えてもいい。ただしこちらへの全面的な協力が条件ではあるが」

「……聞かないでおきます。余計なことに首を突っ込みたくはないので」

 

 伊吹がソファの背に体重を預け、工藤邸の豪華な天井を見上げながら「それで?」と話の本題を尋ねる。

 

「……メアリー世良、君も彼女のことは把握しているだろう?」

「ああ、あの()()()()()()()()()ですか。あなたの実母であり、SISの諜報員、でしたね」

「今彼女は俺の妹とホテル暮らしをしている」

「存じています。あなたが哀のことを知っている程度には、こちらもあなたの家族のことは」

「やめたまえ、人質や脅しの話じゃあない」

 

 再び伊吹がティーカップに口をつける。まるで談笑でもするかのように柔和で落ち着いた声色で会話をしているが、その瞳は変わらず鋭利で、言葉の端々に鋭い棘のようなものが見え隠れしていた。

 相対する赤井も困ったような笑みを浮かべるものの、彼の眼光も決して優しくはなかった。

 

「彼女たちに何かあったら助けてやってほしい。君ならできるだろう?」

「あなたが手助けすればいい、あなたならできるでしょう。私は無関係です。そもそもあの人とあの娘でしょう? どんな手助けが必要だと言うんですか」

「俺はまだ彼女たちの前に現れる事はできない。身を隠したままでは出来ることと出来ないことがある」

 

 赤井がテーブルにとんっと指を突き、その鷹のような視線で伊吹を捕らえる。

 

「それと、灰原(あの子)はまだ我々の監視及び保護対象下にいる」

「……それは脅しのつもりですか?」

 

 赤井の鷹の目と伊吹の抜き身の刀身のような鋭い視線が静かに絡み合う。言葉の応酬はまるで互いの喉元に刃を突き立て合うかのよう。

 

「まさか。君が日本(ここ)を離れた時はFBI(我々)があの子の身の安全を保証しよう。君も何かと掛け持ちしていて忙しい身だろう」

 

 眼光鋭くも唇の端を僅かに吊り上げ、伊吹の足下を見るようにしたたかに交渉する赤井。そんな彼に対し、聞こえないほどに小さくも思わず舌を鳴らしてしまう伊吹。

 

「条件は50:50(フィフティーフィフティー)だ。困った時はお互い様といこうじゃないか」

 

 何かを考え込むように人差し指でとんとんと額を叩いていた伊吹だったが、少し視線を泳がせたあとチラリと時計を見やる。

 そして深い溜め息のあとで「面倒くさい」と言わんばかりに口を歪ませ表情を曇らせた。頭を掻く彼からは、先程までの威圧感や鋭い雰囲気はすっかりなりを潜めていた。

 

「……わかりました。Mrs.世良とその娘さんに何らかの脅威が差し迫った際には、彼女達に助力することお約束します」

 

 伊吹が思いのほかすんなりと話を受けてくれたのが以外だったのか、赤井も思わずきょとんとしてしまう。そんな彼に「ただし」と伊吹はその太い指先を向ける。

 

「私はただでさえ、あなたやあなたの家族のことを哀に黙っているだけでも居心地が悪いんです。ましてやあいつに嘘はつけない。あなたたちの事を哀が()()()()()()()()()努力はしますが、万が一にも詰問された際には私は隠すことはできません。それをご了承頂きたい」

「……いいだろう。そこは、()()()()()()()()()()()君の話術に期待するとしよう」

 

 赤井の差し出す右手を、少し嫌そうな顔をしながらも伊吹は握り返した。二人の交換条件はここに締結したようだ。

 

「しかし意外だったな。君は面倒事はゴメンだと、てっきり話を受け渋るかと思ったが」

「別に、あなたのためじゃない。……赤井家(あなた方)は、親も姉も失った哀にとって、唯一血の……。……自分の大切な者のために、手を貸すだけです」

 

 言葉を濁す伊吹がそれを追求されないように、「それに」と続ける。

 

「以前アメリカへ行っている間、哀を見ていていただいたのは事実なので」

「ふむ、そうか。何はともあれ、引き受けてくれて感謝する」

 

 伊吹が何度目かの溜め息と共にすっかり温くなったティーカップに手を伸ばすと、ポケットの中の携帯が震えた。取りだし見てみると、二件のメッセージの受信を知らせるアイコンが点灯している。どうやら博士と灰原からのようだ。

 

『哀:いつまで話し込んでんのよ ヽ(`Д´)ノ』

『博士:伊吹くんそっちはまだかかりそうかの? 哀くんの機嫌がそれはもう凄いことになっとるんじゃ』

 

 内容を確認した伊吹が額に手をあてがい、思わず「あー……」と声を漏らす。

 

「話は終わりですね? なんか、それはもう凄いことになってるらしいのでそろそろ帰ります」

 

 それだけ言い残すと伊吹は赤井を置いてそそくさと工藤邸を後にした。

 

「随分と、尻に敷かれているな」

 

 赤井のどこか愉快そうな呟きも伊吹の耳には届かなかった。

 急いで隣の阿笠邸へと戻ってくると、つまらなさそうに組んだ脚の先をぷらぷらと揺らしながらテレビをザッピングする灰原と、そんな彼女の顔色を窺うようにちらちら視線を泳がせる博士の姿が。

 

「あ、えっと、ただいま……」

 

 彼の帰宅を横目に確認して、灰原は溜め息と共にキッチンへと戻る。何を言うでもないが、シチューを温め直すようだ。

 

「なんか、ゴメンね。……怒ってる?」

「別にあなたに怒ってるんじゃないわ。よその家の夕飯時に突然押しかけてきて、住人を連行していく非常識な人に対して怒ってるの。……人の大事な時間を……」

 

 むすっとしたままシチューの入った鍋をかき混ぜる灰原の口から尻すぼみに何やら小言が漏れる。そんな彼女に伊吹はからかうように微笑んだ。

 

「ねー。せっかくの俺と哀の貴重な甘い時間だったのに」

「……そこまで言ってない」

 

 温め直されたシチューとすっかり固くなったパンを食卓に並べ、三人は予定より少し遅めの夕食にありつく。

 なんの話をしてきたのか聞くそぶりもなく、黙ってビーフシチューを口に運ぶ灰原に、バツの悪そうな顔をして思わず伊吹の方から尋ねてしまった。

 

「……聞かないの?」

「……聞かないわ。聞いてほしくなさそうだから」

「あ、いや、それは……」

 

 なにを、と問い返すこともなく淡々と答える灰原。聞かれないのは確かに助かるが、そのいつもよりドライな雰囲気に伊吹も思わず困ったように頬を掻いて視線を泳がせると、ごにょごにょと口ごもってしまう。

 

「ま、あの人は工藤君とも色々あるみたいだし。あなたのことだから、こっちに危険が及ぶような心配はしてないわ」

 

 いつもの澄まし顔でそう言うと、固くなったパンに少し手こずりながらもちぎり分ける灰原。一口大にしては少し大きすぎたそのパンにはむっとかぶりつく。

 なんて事もないように、当然のように言い放つその言葉には彼に対する深い信頼の色が見て取れた。

 彼女がパンに二口目をつけようとしたとき、何かを思い出したように「あ、でも」と言葉を漏らす。

 

「まぁ……、あなたのことは心配ね」

 

 その小さな口でパンにかじり付きながら、向かいの伊吹の表情を窺うように上目遣いに見上げる灰原。少し色素の薄いその瞳が微かに照明に灯りを反射させながらじーっと彼を見つめる。その視線は責めるでも疑うでもなかったが、伊吹の心根を揺すり、思わずドキリとさせるには十分すぎるほどに愛らしく可憐で美しかった。

 

「あんまり悪いことしちゃダメよ。あと、危ないことも」

「へーい……」

 

 子供に言い聞かせる母のようにそっと微笑んで、絆創膏の巻かれた指先をピンと伸ばし、伊吹の鼻先をちょんと突っついた。

 

 

 


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