哀歌   作:ニコフ

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13話 ピッチを駆けるキューピット 前編

 

 

『昨夜未明、新たにオープンされる予定の東都シティホテル付近で多数のイタズラ書きが発見されました。イタズラ書きはスプレーのようなもので書かれており、内容は「赤旗」や「天誅」「革命」など。また同じ頃、現場付近ではモデルガンのようなものを所持した複数の不審な人影の目撃情報もあり、警察はイタズラ書きとの関与も視野に入れて調査中とのことです。東都シティホテル側は「誠に遺憾。清掃補修はすぐにでも取りかかり、予定通りのオープンを目指す」とコメントしています。……次のニュースです。明日、都内で予定されていた――――』

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『おーっとッ! これは惜しいッ! 開始早々の比護の渾身のボレーシュートは僅かに上! ゴールポストに嫌われてしまったーッ!』

 

 会場向こう側の観客席から湧き上がった歓声は、風船の空気が抜けるかのようにしぼんでいき、落胆の溜め息が共鳴した。

 

『つい先程、試合開始のホイッスルで始まりましたこの試合――……』

 

 都内某所のサッカースタジアム。今日そこでは東京スピリッツ対ビッグ大阪のエキシビジョンマッチが開催されていた。しかしエキシビジョンとはいえ東京スピリッツからは赤木英雄、ビッグ大阪からは比護隆佑、サッカーファンの間では「ダブルH」と慕われる各チームを代表するビッグネームが出場しており、客席は隙間もないほどの観客で埋め尽くされていた。

 

「……あぁ……」

「露骨に残念そうな顔するなよな、一応ここは東京スピリッツ側の応援席だぞ」

 

 比護の渾身のシュートが外れると、東京スピリッツ側の観客席にいた灰原からも思わず落胆の声が漏れた。隣のコナンが周囲の視線を気にしながら灰原にボソリと釘を刺す。

 

「あら、別にどこで誰を応援しようと勝手でしょ」

「いやでもその帽子はどうなの」

 

 比護のシュートが外れたのが気に入らないのか、不服そうに腕を組む灰原がコナンに不満の半眼を浴びせる。

 周囲に東京スピリッツのユニフォームを着込んだファンが集まる中で灰原は堂々とビッグ大阪の赤い帽子を被っており、半ば呆れたように口を挟む伊吹に、彼女はその不機嫌な表情のまま振り返る。

 

「向こう側の席に座れるなら向こうに行ってたわ」

「哀ちゃんは比護さんの応援に来てるんだもんね」

 

 伊吹と灰原、コナンたちの前の席には少年探偵団と阿笠博士の姿もあった。ぷいと拗ねたようにそっぽを向く灰原に「元気出して!」と歩美が励ましていた。

 

「それにしても博士は凄いですね! まさか福引きでこの高倍率のエキシビジョンマッチのチケットを当ててしまうなんて!」

「今度はうまい飯を当ててくれよな!」

「む、無茶言うでないわい」

 

 どうやらこの試合には博士の強運で連れて来てもらったらしい。

 阿笠宅で最初にチケットの話をしたときにはいつもの保護者のようなスタンスのコナンと灰原であったが、試合の内容がこの対戦カードだと知るやいなや二人とも子供のように目を輝かせていたのは記憶に新しい。もっとも灰原が乗り気になったのは比護選手が出場するという話を聞いてからだったが。

 

「しっかし比護も今のシュート外すなよな!」

「元太くんはどっちの応援をしているんですか?」

「東京スピリッツには勝ってほしいけど、ビッグ大阪の比護選手にもがんばってほしいよね!」

 

 子供達が勝敗の行方について熱く語り合う中、灰原が伊吹の服の裾を摘まんで引っ張った。

 

「あなたもちゃんと応援しなさい」

「ビッグ大阪の?」

「比護さんのよ」

「……やだよ」

 

 比護のシュートが外れた上にビッグ大阪がここ数試合負け越しているのがよほど不服なのか、灰原は鋭い視線のまま伊吹に応援することを強要する。対する伊吹はどこかつまらなさそうにボソリと呟くと、唇を噤んでしまった。

 伊吹は試合にも選手にもサッカーにも興味無さそうに、その屈強な両腕を上げてうーんと伸びをしながら、ピッチではなく吹き抜けになっているスタジアムの天井を見上げて空を漂う雲を眺めていた。

 

『ビッグ大阪っ、華麗なパス回しからボールは再び比護の元へ送られたッ!』

「頑張ってっ……!」

『おぉっとッ、しかしここは東京スピリッツも通さないッ! 比護へのマークは厚いッ』

「ふわぁぁあ……んん」

「欠伸してる場合じゃないでしょっ、応援っ」

 

 その後もビッグ大阪の比護が活躍する度に灰原は瞳を輝かせ「頑張って」と手に汗を握り、彼がシュートを外したりボールを取られる度にその不満をぶつけるように、半ば八つ当たりのように伊吹の裾を引き「応援!」と彼に声援の強要をする。

 対する伊吹も灰原の強要をことごとくはぐらかし続けた。なんてこと無くいつものように飄々とした態度ではあったが、どうにも(かたく)なに比護を応援することを拒んでいるようにも見えた。何本目かの比護のシュートが東京スピリッツのキーパーによって弾かれると、つい「まあそんなもんだって」とほのかに声を明るく呟いてしまった。

 そして彼が全く応援する様子もなく、それどころかそんな事を呟くものだから灰原のこめかみにも薄らと怒りのマークが募ってしまう。

 最終的にビッグ大阪が負けてしまったことも相まって、ついに彼女の怒りは静かに堪忍袋から溢れ出した。

 

「ちょっと、さっきからなんなの。ちゃんと比護さんの応援しなさいよ」

「いや、別に俺サッカーには興味ないからなぁ」

「興味なくても応援する!」

「気乗りしないなぁ。それもなんでチームじゃなくて、ファンでもない選手個人の応援なんか……」

「私がファンだからよ」

「……じゃあ、哀が応援してたらいいじゃん」

 

 彼の大きな掌にも余るLサイズの紙コップの蓋に突き刺さったストローを吸いながら、不服そうな彼の視線はピッチへと向けられる。

 そんな彼にじーっと訝しげな視線を送る灰原だったが、そっぽを向く彼の横顔をしばらく見つめていると、いつもと異なるぎこちない表情の機微を感じ取った。

 なにかを察したかのように微かに目を見開く灰原。疑うように眉をひそめていた彼女の表情が、拍子抜けたかのようにきょとんと呆気にとられる。

 

「……あなた、もしかして……」

「……なに?」

「……いえ、なんでもないわ。あなたこそ、なにか言いたそうだけど?」

「いや、別に、なにもないけど……?」

「…………あ、そ」

 

 どこか不満げながらもそれを言おうとしない伊吹の態度に灰原も些か呆れるように小さく息を吐く。

 しかしどこか嬉しそうに薄らと笑みを浮かべながら頬杖を突いて彼を見つめる。彼女をチラリと横目で見ていた伊吹がその視線と目が合ってバツが悪そうに目を逸らした。

 言いたいことがあるなら言いなさいと、灰原の瞳は訴えていたが、伊吹は気づかないふりをしたままストローに口を付けるのだった。

 そんな彼らの静かな攻防戦は博士の家に帰ってくるまで続けられていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あ、そういやお前らに言っとくことがあるんだった」

 

 サッカーの試合が終わると一同は阿笠宅へと戻り、先程見た試合の感想を肴に帰りに買ってきたケーキで午後のティータイムを楽しんでいた。

 子供達がチョコかショートかチーズか、いくつかのケーキを取り合う中でコナンが思い出したと言うように声を上げた。

 

「園子姉ちゃんが今度新しくできる東都シティホテルのオープンパーティに招待されてるらしいんだけど、よかったら俺達少年探偵団も来ないかってさ。おっちゃんも招待されてるらしいから、園子姉ちゃんとおっちゃんのツテで俺達くらいは簡単に呼べるって」

「マジかよ! パーティーってことは、うまいもん出るのか!?」

「そりゃ東都シティホテルと言えばあの東堂財閥主催のパーティーですよ! 美味しいものもいっぱいありますよ!」

「あゆみ、なに着ていこっかなー!」

 

 コナンの誘いに子供達は二つ返事。すっかり参加する気になっており、ケーキのクリームを頬につけながらフォーク片手にそれぞれがパーティーの期待に胸を膨らます。

 

「私はパス」

 

 盛り上がる子供達とは相反するような冷静な声色で、灰原はいつものように静かに断りを入れた。特に興味もないのか、先程から開いていたファッション雑誌から視線を上げる様子もない。

 隣に座る伊吹も紅茶を片手にぼーっとテレビを眺めているばかり。

 

「毛利くんが呼ばれておるなら、他にも有名人が来たりするのかの?」

「ああ、色々来るみてーだぜ、スポーツ選手が多いみたいだけどな。一応他にも役者や歌手、あと政治家や資産家なんかも来るみたいだな、東堂財閥との関係で」

「ほお、東堂財閥と言えばスポーツ財閥と言われとるくらいじゃからのぉ」

 

 博士の質問にコナンが腕を組み顎に手を当てながらパーティーの内容を思い出す。

 

「スポーツ財閥、ってなんですか?」

「東堂グループはスポーツ関連に力を入れとるんじゃよ。アスリートの育成や各スポーツ界のスポンサー。確か、今日のサッカーのエキシビジョンマッチも東堂グループの主催みたいなもんじゃしのぉ」

 

 光彦の質問に、コーヒー片手に(くだん)の東堂財閥についての情報を思い出しながら説明する博士。

 しかしつい先程までサッカーの試合を見ていたのも相まって、子供達が特に興味を引かれたのは財閥のことよりもパーティにやってくるというスポーツ選手についてのようだ。

 

「それで、パーティにはどんな選手が来られるんですか?」

「ああ、ちょっと待てよ。確か園子姉ちゃんが蘭姉ちゃんに送ったメールに添付されてた案内を俺の携帯に転送しといたはず……」

 

 コナンが携帯を取りだして何度か指先を動かす。目的のデータを見つけると「なになに」とその内容に改めて目を通す。

 

「やっぱり各スポーツ界から有名選手が呼ばれてるみたいだな。ホテルのお披露目パーティと東堂グループが関わってるアスリート達の慰安会も兼ねてるってよ。サッカー選手なんかも来るみたいだけど……、っておいおい、マジかよ。比護選手が呼ばれてるみたいだぜ」

「……っ!」

「……」

 

 コナンの一言に先程まで無関心だった灰原が思わずバッと顔を上げる。その視線はすっかり手元の雑誌ではなくコナンの携帯へと釘付けで、パーティーの更なる詳しい情報を求めているようだ。

 そしてその隣では、そんな彼女の露骨な反応を横目に見ながらティーカップに口をつける伊吹。口から漏れた吐息は果たして紅茶を冷ますためのものか、彼女の態度に対する溜め息だろうか。

 

「比護選手が来るの!? すごーい!」

「オレ、比護のサインほしーぜ!」

「まあ一応顔は知ってる仲だし、頼めばしてくれるんじゃないか、握手とかサインくらいならな」

 

 思わぬビッグネームにテンションの上がる子供達。それを宥めるように、どこか得意げに答えるコナンの言葉を聞くやいなや、灰原は思わずファッション雑誌をバサリと取りこぼしてしまう。

 しばし驚愕したようにコナンを見つめていた灰原だったが、しだいにその瞳は明るく輝きだし、パッと花が咲いたように顔がほころんでいく。

 

「比護さんの握手会!? 行く! 絶対行くわ!」

「いや、握手会じゃねーけど。てかオメー、パスするんじゃなかったのか?」

「比護さんが来るなら話は別よ。パーティそのものには興味ないわ」

「あ、そ」

 

 コナンのぼやくような言及に、先程までの明るい笑顔とは打って変わっていつものドライな半眼を向けてパーティには興味ないと言い切る。彼女のそのわかりやすい反応にコナンも思わず呆れたように苦笑が零れる。

 

「……じゃあ俺はパス」

「なに言ってるの。あなたも来るのよ」

「いいよ。パーティも有名人も興味ないし」

「来なさい」

「……」

 

 フォークで切り取ったモンブランを三口で食べきりティーカップの冷めたアッサムをぐいっと呷るように飲み干した伊吹が、口をへの字に曲げて退屈そうにパーティ参加の断りを入れた。

 隣の灰原がすかさず伊吹へと振り返ると、片眉をしかめた何かを疑うようなジト目が彼を貫いた。

 バツが悪そうにそっぽを向いたまま沈黙する伊吹に対して、彼の心の内を見透かすような灰原の涼やかな灰色の瞳が向けられる。その目はパーティの参加を断る彼への不満の色もさることながら、どこか楽しげにも見えた。

 

「なに、なにか言いたそうね」

「いや、別に……ないけど」

「…………あ、そ」

 

 彼女の視線から逃れるように頬杖をついてテレビへと向き直る伊吹。

 

「……素直じゃないわね……」

 

 そんな彼の後ろ髪を灰原は不服そうに唇を結んで見つめ、小さな溜め息のように呟くのだった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「これ、どうかしら?」

 

 とある休日の午後。コナンから聞いたパーティの日程が少し先であったため、灰原はパーティに着ていく服を新調しようと伊吹と博士を引き連れて米花デパートへと赴いていた。

 何点かのパーティ用ドレスを試着しては、試着室の外で待つ伊吹と博士に意見を求める彼女。いつになくウキウキとしてご機嫌な様子。

 

「あー、いいんじゃない」

 

 対する伊吹はどこか投げやりで、ポケットに手を入れたままドレスを見ているのかいないのか退屈そうに視線を彷徨わせる。隣の博士も伊吹の態度に困った様子で、「まあまあ」と思わず宥めるように声をかけてしまう。

 

「うーん、でも……」

 

 自身の試着するドレスを姿見で確認し、くるりと身を翻して足下から背中までキョロキョロと見回す灰原。なにか気に入らなかったのか眉尻を垂らして少し困ったように考え込むと、不服の声を漏らしながら再び試着室へと消えていく。

 しばらく中から衣擦れの音がしたかと思うと、別のドレスに身を包んだ彼女が再び試着室から顔を出した。

 

「やっぱりこっちの方がいいかしら?」

「あー、いいんじゃない」

 

 意見を求める彼女に対してこちらも再び投げやりな感想を述べる伊吹。最後に思わず付けそうになった「どうでも」という言葉を飲み込んだだけまだマシだろうか。

 そんな彼の態度に灰原は不満げに眉を吊り上げいつもの冷たい眼差しで彼を射貫く。

 

「ちょっと、ちゃんと選んでよね。大事な比護さんとのパーティなんだから」

 

 ジト目のまま腰に手を当て伊吹の顔を覗き込むように見上げる灰原。伊吹はそっぽを向いて頭を掻きながら「はいはい」とやる気も無さそうに答える。

 見かねた博士が場の空気を和ませるように、別のドレスを手に取って灰原へと提案する。

 

「哀くん、これなんか哀くん好みで落ち着きがあって、大人びていていいんじゃないかの?」

「うーん……」

 

 博士が見繕った、子供用ながらも黒を基調としたシックなデザインのドレスを手に取り吟味する灰原。

 

「でも比護さんは赤が好きって前に雑誌のインタビューに答えていたのよね。それにビッグ大阪のカラーも赤だし……」

 

 以前に読んだ比護選手のインタビュー雑誌の記事を思い出しながら、赤いドレスに手をかける灰原。しかし赤のドレスは個人的には好みではないのか、顔をしかめてあまり乗り気ではない様子。眉をしかめながら両手に掴んだ赤と黒のドレスを交互に見比べる。

 

「……はぁ」

 

 二人のやりとりを眺めていた伊吹が小さく嘆息すると、何の気なしに周りのドレスを見やる。正直に言えば特に真剣に見繕う気もなかった彼だったが、つい一着のドレスが目にとまってしまった。

 白を基調とした女の子らしく華やかで可憐なシルエット。それでいて落ち着いた清楚さと、所々に施された純白のレースが儚さを醸し出す優美なドレスだった。

 思わず手に取った伊吹はなにも言わずそのドレスをじっと見つめる。

 

「ちょっと、あなたも考えてよね」

 

 背後からかけられる灰原の声にも気がつかず、そのドレスに魅入ってしまう伊吹。何を想像しているのか、ドレスを見つめながら物思いに(ふけ)ってしまっている。

 

「ちょっと!」

「……っ、あ、ああ、えっと……、じゃああっちの赤のドレスなんていいんじゃないの。派手すぎるなら向こうにワインレッドとか、赤色でももう少し落ち着いたのもあるし」

 

 すぐ真後ろから声をかけられハッとした伊吹が咄嗟に手に取っていた白のドレスを手放して振り返る。腕を組んで不満げにこちらを見上げ睨んでくる彼女に対し、誤魔化すように頬を掻きながらそばにあった適当な赤色のドレスを指差した。

 そんな彼の顔を、何かを言いたげに小首を傾げてじーっと見つめる灰原。

 

「……ど、どした?」

「別に……」

 

 小さな嘆息を残して踵を返す灰原が別の赤いドレスを手に取って見繕う。

 自分の態度がよくないことは理解しているけど、どうにも胸中に巣くうもやもやした感情を上手く処理できず、伊吹は自分自身に呆れるように深くため息を零した。

 

「ちょっとトイレ行ってくる」

 

 そう言い残して売り場を離れた伊吹が、施設内トイレ付近の簡易休憩スペースで一息吐く。自動販売機で購入した紙コップ入りのカフェオレを、その冷たさと糖分で頭をリセットするように飲み干す。

 ベンチに腰掛け両腕を背もたれに伸ばし、どうにも楽しくないと、空になった紙コップを前歯で噛んでぷらぷらと揺らす。何度目かの溜め息を吐いたときズボンのポケットが短く震えた。

 

『哀:いつまで休んでんのよ ヽ(`Д´)ノ』

 

 灰原からの帰還催促のメッセージを確認すると伊吹は膝に手をついて重たそうに立ち上がり、紙コップをゴミ箱へと投げ捨てると再び短い溜め息を残してその場を後にした。

 

「………………」

「……これにするわ」

 

 伊吹が二人のところへと戻ってくると、試着室のヴェールの向こうでドレスに身を包み、姿見の前でくるりと回って自身の全身を確認する灰原の姿があった。

 ただ彼の予想外だったのは、彼女の身を包むドレスが先程自分が見ていたあの純白のドレスであったことだ。

 思わず口を開けてきょとんとしてしまい、呆けたままこちらを見つめてくる伊吹に対し、灰原は少し照れくさそうに彼を睨みながらそう告げた。

 

「……あ……、赤に、しなくて、いいの?」

「自分の気に入ったものが一番いいのよ」

 

 呆けたままの彼が絞り出すようにそう尋ねると、彼女は腕を組んだまま瞳を伏せてぶっきらぼうに答えた。

 

「……」

「……なに?」

「……似合ってる。すごく綺麗だよ」

 

 黙り込む彼にチラリと目を向けると、真っ直ぐにこちらを見つめたままそんなことを恥ずかしげも無く言うものだから、思わずその視線から逃れるようにそっぽを向いてしまう。

 

「じゃあ、着替えるから」

 

 そう言い残して試着室の奥へと隠れると、さっさとカーテンを閉めてしまう灰原。

 思わず赤く火照り綻びそうになったこの顔を、彼に見られてはいないだろうか。

 灰原は熱の集まる両の頬に手を添えて、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出す。何度かそれを繰り返して、自身の心臓を落ち着かせて、全身を巡る熱い血を冷ますのだった。

 

「それじゃ、夕飯の材料でも買って帰りましょ」

 

 私服に着替えて試着室から出てきた彼女の顔はいつもの澄まし顔へと戻っており、至って冷静沈着にそう告げた。

 しかし帰りのビートルの中では、ドレスが梱包された袋を大切そうに抱きしめて沖野ヨーコの歌をハミングする彼女の姿が見られた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 地を這うヒンヤリとした冷気が足下に留まっている薄暗い室内。窓一つ無いその部屋は今が朝か夜かも分からないが、どこかの地下室のようだ。そこに複数の人間の影がうごめいていた。

 独特の(オイル)の匂いが漂い、それぞれの影が自身の獲物となる金属片の手入れに余念が無かった。

 

「実行の時だ」

 

 一人の男が金属片を組み合わせる。その手に組み立てた拳銃を握りしめ噛みしめるようにゆっくりとスライドを引くと、ガチャリと鈍い金属音が冷たい室内に反響した。

 

「我々は()()、この国に確変の時をもたらすのだ」

 

 重々しく口を開く男の言葉に、周りの影たちも黙して耳を傾ける。

 

「これは革命の狼煙。まずは私腹を肥やすこの国の腐った有力者から血祭りだ。そしてこの国の平和ボケした国民を目覚めさせるため、影響力のある有名どころを皆殺しだ」

 

 彼の言葉に応えるように他の者たちもガシャリと、自身の銃を手に取りスライドを引いた。闘う準備は出来ている、そう呼応するように。

 薄暗い中でぼんやりと見える男の口元が悪魔的に釣り上がった。

 

「捕虜は要らん、ホテルの連中を根絶やしにしろ」

「「了解(ラジャ)」」

 

 身の毛もよだつような男の血なまぐさい指示に、周りの者達も眉一つ動かさず応えた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「でっけーなー……、ぅおッととッ」

「だ、大丈夫ですか!? 元太くん!」

 

 パーティ当日。西日が傾き夕景に空が淡く照らされる頃、招待された一同は東都シティホテル前に集まっていた。

 摩天楼と呼べる程のその巨大なホテルは黄昏色の空と先端が溶け込んでいるのではと思うほど天高く、東の空から顔を覗かせはじめた星空をも掻き消すほど煌々とした光りを湛えている。

 足下から上を見上げる元太があまりの高さに見上げすぎて、思わず後ろに転げそうになるほどだ。

 

「しっかし、皆気合い入ってるねー」

 

 伊吹がそう零したのも無理はない。超一流ホテルの超一流パーティだ、それに恥じぬよう子供達を含めて皆が皆ドレスにスーツにとそれぞれ一張羅に身を包み、髪型やらお化粧やらしっかりと身なりを整えていた。

 かくいう伊吹の髪も撫でつけられオールバックのようにきっちりとセットされ、相応のお値段がするスーツを身につけていた。

 

「哀はよく似合ってるよ、そのドレス。すごく綺麗だ」

「そう、ありがと」

「おめーらは、どこぞのお嬢様とSPって感じだな」

 

 例の白いドレスを身に纏った灰原と、その傍らに立つ筋肉でパツパツに張ったスーツ姿の伊吹を見て思わず半笑いでそう呟くコナン。

 「スーツのサイズいくつだよ」と呆れたように呟くコナンの横で、伊吹がしゃがみ込み灰原へと手を差し伸べる。

 

「ではお嬢様、お手を」

「あら、気が利くわね」

「あー、哀ちゃんいいなー、歩美もSPさんしてほしいー」

「灰原さんのSPはボクが……あ、いや、と言うよりそれじゃ執事ですよ!」

「羊? 伊吹の兄ちゃん羊になんのか?」

「違いますよ、元太くん。羊じゃなくて執事、Butler(バトラー)ですよ」

「確かに、あなたはBattler(戦闘機)って感じよね」

「誰が戦闘機だ。バトラー違――ッ!?」

 

 子供達と取り留めもない会話をしていると、伊吹が突如立ち上がり眉間に皺を寄せて辺りを警戒するように見回した。

 

「なに、急に恐い顔して」

「あ、いや……。……なんでもない」

 

 彼が微かに感じ取ったのは、和やかなこのパーティの場に相応しく無い鋭い視線と殺伐とした気配。そして煌びやかな周囲の人間の香水の香りに紛れて漂ってきたのは、嗅ぎ慣れたガンオイルの匂い。

 しかしそれもほんの一瞬の事で、その気配も匂いも大勢の来賓客の中に掻き消されてしまった。しばらく辺りを警戒していた伊吹だったが、それ以上目立った異変も見当たらず、灰原に手を引かれるように連れだって一同は展望エレベーターから会場となる上層階へと向かった。

 会場内は既に多くの招待客で溢れており、華やかな会場は絢爛に彩られ、並べられた立食形式の軽食とウェイターが運ぶシャンパンに飛びつきそうになる小五郎を蘭が押さえつける始末。

 

「すげー、どこを見ても有名人ばっかだぜ」

「なんせ東堂財閥の主催じゃからのぉ。それを言うと小五郎君も有名人として招待されとる訳じゃし」

 

 キョロキョロと辺りを見回しながらコナンが感心半分、呆れ半分といった様子で言葉を漏らす。コナンと会話を交わしながらごくごく自然に食事に手をつける博士だったが、灰原が見逃すことはなくその手をぴしゃりと弾いた。ハイカロリーな肉料理は今日もお預けのようだ。

 

「お、アスリートの一団だぜ!」

「っ!」

 

 コナンがそう言って指差す先には多くのアスリート達が集まっており、サッカー選手も相当数招待されているようだった。コナンの言葉に思わず反応した灰原が慌ててその一団を確認するも、お目当ての選手はいなかったのか、すぐにいつもの冷めた半眼で興味もなさそうにそっぽを向いた。

 そして彼女のわかりやすいその反応を見て伊吹はつまらなさそうに溜め息を零すのだった。

 

「あ、毛利さんっ! いらしてたんですね!」

「んぁ? おぉぉ! ヨォーコちゃぁん! ヨーコちゃんも招待されてたんすなぁ!」

「ええ、他にも女優さんや歌手の方なんかも来てますよ」

 

 蘭に首根っこを掴まれシャンパンを思う存分楽しめない不服そうな小五郎に、軽いソプラノボイスの声がかけられた。

 沖野ヨーコ、小五郎と灰原がファンである女性タレントである。アイドル出身の彼女も今では歌手に女優業にと多忙な日々を送っているものの、何度か名探偵毛利小五郎のお世話になっており小五郎との親交も深い。そこからコナンや探偵団とも親しい間柄になったようだ。

 子供達と親しげに挨拶を交わすヨーコの背中に声がかけられる。

 

「あら、ヨーコちゃん。こちらがあの眠りの小五郎さん? 生で見るのは初めてね」

 

 彼女に声をかけたのはテレビでもよく見かける有名な女優だった。ヨーコと親しい仲のようで、彼女を介して小五郞とも挨拶を交わす。歳は20代の後半だろうか、しかしその歳不相応に妙に落ち着いた仕草と艶のある色っぽい雰囲気に、思わず小五郞も鼻の下がだらしなく伸びてしまっている。

 しばらくは楽しげに話に花を咲かせていた彼女たちだったが、トイレから戻ってきた伊吹を見つけるやいなや彼女の目の色が変わった。

 

「こ、小五郞さん、お連れのお子さんたちと親しげに話されている、あの彼もお知り合いですか?」

「え? ああ、まあ、うちの連れですが」

「あの体……アスリートの方かしら? あまり見覚えはないのだけれど……」

「いや、あいつはただの子供達の保護者と言いますか」

 

 小五郞の肩越しに見えた、楽しそうに探偵団の面倒を見る伊吹を指差してそう質問する彼女。小五郞の言葉を聞くとしばらく呆けたように伊吹の方を見つめてから、ゴホンと気を取り直すように咳払いをして「少し、失礼しますね」と残して伊吹の元へと去って行く。

 

「ど、どうかしたんすかね?」

「え、ええっと、その……、彼女、筋肉フェチなんです」

「ッ……!?」

 

 内緒話をするように人差し指を立てて囁くヨーコの困ったような笑みに、小五郞も「そ、そっすか……」と苦笑いで返すしかなかった。

 その会話が偶然耳に入り眉をひそめて慌てて振り返ったのは、たまたま飲み物を取りに来ていた灰原だった。

 

「ソフトドリンクを二つ」

「畏まりました。はい、どうぞッ――ぉととっ!」

 

 飲み物を差し出すウェイターから二つのグラスをふんだくるように回収すると、白いドレスを翻して慌てて一同の元へと早足に戻る。

 灰原の視線の先には、どこか得意気に腕を曲げて盛り上がる上腕二頭筋やワイシャツ越しの胸筋を強調し、例の女優に触られて少し照れくさそうに笑う伊吹の気の抜けた笑顔が。

 遠慮するように指先でつつくように触っていた彼女が少し息を荒げて両手を突き出そうとしたところで、鋭い眼光を携えた灰原が二人の間に素早く割って入ってきた。不機嫌を隠そうともしない凍てつくような視線を向けながら伊吹に片方のグラスを突き出した。

 

「はいっ……! これ、あなたの分」

「ぅおッ、お、ああ、ありがと……」

 

 伊吹にグラスを手渡すと、振り返って例の女優へとその冷たいままの視線を浴びせる。まるで全身の体毛と尾を逆立てて威嚇する猫のようで、手を伸ばせば引っかかれそうなその雰囲気に、彼女も思わず「そ、それでは、私はこれで」と一言残してそそくさとその場を後にした。

 彼女が去って行くのを確認してから、灰原は不機嫌に「ふん……っ」と短く鼻から息を吐き、再びその視線を伊吹へと浴びせる。目尻と眉の釣り上がったその灰色の瞳はすこぶるご機嫌斜めな様子。

 

「有名人相手に鼻の下伸ばしてデレデレしちゃって、バカみたい」

「べ、別に鼻の下伸ばしてなんか」

「どうだか」

 

 慌てて弁明を図る彼を横目に見つめ、グラスに口をつける。

 伊吹が不満げな彼女相手に奮闘していると、先程のアスリートの一団から一人こちらへと向かってくる影が見えた。

 

「ご無沙汰してます、毛利さん。その節はお世話になりました」

「ん? おぉ、あんたは確か……」

「おーっ! すっげー! 本物の比護だぜ!」

「ボク、サイン欲しいですぅ!」

「……――ッ」

 

 それはビッグ大阪所属のサッカー選手、比護隆佑(ひごりゅうすけ)その人だった。先程のアスリート集団の中にその姿は見当たらなかったが、今し方遅れて到着したようだ。急いで駆けつけたらしく額には僅かに汗が滲んでいた。

 以前、とある事件で沖野ヨーコと共に小五郞の世話になったこともあり、小五郞の姿を確認するやいなやわざわざ挨拶に来たらしい。

 大物アスリートの登場にテンションの上がる子供達とは反対に、彼を見つめたまま思わず息を飲んでしまうのは灰原。前述の沖野ヨーコと比護選手が小五郞の世話になった事件には灰原も居合わせていた。そのため今回が初対面ではないものの、憧れの比護選手を前にするとやはり体が固まってしまったようだ。

 そんな彼女の存在に気がついた比護選手が膝に手をついて身を屈め、灰原に視線を合わせながら気さくな笑みを浮かべて手を上げた。

 

「やあ、哀ちゃん。また会ったね」

「あっ、は、はい」

「俺達、結構縁があるのかもね」

 

 比護選手がそう言って灰原の頭を撫でると先程までの不機嫌はどこへやら、思わず彼女も瞳を輝かせてしまう。

 

「あ、すみません、俺ちょっと行かないと。失礼します、毛利さん。君も、またね」

 

 少し離れたところのサッカー選手の一団から呼ばれ、比護選手は小五郞と一同に申し訳なさそうに両手を合わせ一言残して足早に去って行った。

 

「比護さんが私のことを覚えていてくれたわっ」

 

 先程までの冷たい視線は嘘のようで、瞳を爛々と輝かせながらどこか自慢するようにコナンや子供達へと得意気な視線を投げかける上機嫌な灰原。

 

「有名人相手にデレデレしちゃってまあ……」

 

 そんな彼女を横目に伊吹が独り言のようにぼそりと漏らす。

 しかしその一言は彼女の耳に届いていたらしく、再び伊吹へとその鋭い視線をぶつける。

 

「いつ、私が、デレデレしたのよ」

「えぇ……、いや、今まさに……」

「別にデレデレなんてしてないわ。あなたと一緒にしないでくれる」

「俺だってしてないって。仮にさっきの俺がデレデレしてたって言うなら哀も似たようなものだったよ」

「あなたのは私と違って下心があるのよ。私は純粋に一ファンとして――」

「いや別に俺は下心なんて――」

「おいおいオメーら、もうやめとけって」

「そ、そうじゃぞ、こんなところで」

 

 静かにヒートアップしていきそうな二人を止めに入るコナンと博士。

 そんなコナンの制止を躱すように、灰原は鼻を鳴らしてそっぽを向き切れ長のジト目で伊吹を横目に見やる。

 

「なに、あなた。……なにか言いたいことがあるんじゃないの?」

「……いや、別に」

「……あ、そ」

 

 彼女の訝しがるような視線を避け、伊吹は少し葛藤するように眉をひそめて自身のうなじを撫でながら俯き気味に視線を泳がせる。

 そんな彼らのやりとりを尻目に、子供達は去って行った比護選手の背中を名残惜しそうに見送っていた。

 

「ああ、比護行っちまった。オレ握手してねえぞっ」

「ボクもサインもらい損ねましたぁ」

 

 子供達の嘆きを耳にして灰原もハッと振り返り、自身もサインを貰い忘れていたと悔しげにその小さな下唇を噛む。

 

『ええ、皆様、本日は大変ご多忙の中――』

「まあまあ、パーティーも始まるみたいだし、握手やサインをお願いするのはまた後かな。焦らなくてもタイミングはあるだろ――……ッ!?」

 

 会場の奥には大きなステージがあり、そこにマイク片手に立つスーツ姿の男性が来賓へと挨拶をはじめると、辺りは一時静まり気軽にサインや握手を頼みに行ける雰囲気ではなくなってしまった。

 がっくりと肩を落として残念がる子供達を慰める伊吹だったが、唐突に何かを察知したように後方へと振り返った。

 ホテルの入り口でも感じた、華やかなパーティに似つかわしくない殺気だった気配とガンオイル、そして再び嗅ぎ慣れた硝煙の匂いが伊吹の鼻腔をくすぐったのだ。

 

 ――二度目、気のせいじゃない……――

 

 伊吹の眼光が鋭く研ぎ澄まされ鈍く光り、彼の感知能力が蜘蛛の糸のように辺りへと張り巡らされる。

 そして伊吹がその視界に捕らえたのは一人の男性客。一見するとなんてことの無い普通のパーティの参加者にしか見えないが、伊吹は確かにホテル前で違和感を察知した際にもその男を見かけた覚えがあった。

 男が他の参列者の人混みに飲まれるように会場奥へと姿をくらます。その男の歩く後ろ姿を目にした伊吹の眉が、何かを確信したようにピクリと揺れた。

 伊吹が先程灰原が持ってきてくれたソフトドリンクを一気に煽ると、空になったグラスを彼女に手渡す。

 

「飲み物取ってくる」

「あ、ちょっとっ」

 

 それだけ言い残すと、灰原が「私も行くわ」と声をかける間もなく、伊吹は男の後を追うように参列者の間をするりと抜けていき、瞬きする間に灰原の視界から消えてしまった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「うっ、……っ」

「ああ、すみません、よそ見をしていたもので。大丈夫ですか?」

 

 例の男を視界に捕らえたまま伊吹はぐるりと大きく回り込み、男の正面からわざと体をぶつけると、その体躯と筋力で強引に男を転倒させた。

 申し訳ない等ととぼけながら男の手を取り、ひょい引き上げ軽々と立ち上がらせる。

 

「申し訳ないです、お召し物は汚れていませんか?」

 

 男のスーツをはたきながら大げさに心配そうな声を上げ、わざと目立つように騒ぎ立てると、男は周囲の注目が集まるのを避けるかのように「だ、大丈夫だっ」と言い残しそそくさと足早にその場を後にした。

 去って行く男の後ろ姿を見送ると、伊吹もまた会場を後にしトイレの個室へと身を隠す。鍵をかけるとスーツのジャケットの下から取り出したのは黒光りする一丁の拳銃だった。

 

「何でこんなもの持ってるのかね、SPや警察には見えないし」

 

 それは先程男とぶつかった際に、華麗な手口でその脇の下から抜き取ったものだった。

 男の歩く後ろ姿を見た際、僅かに傾いた重心と不自然に空いた脇からその男が銃を所持していると確信した伊吹は男にわざとぶつかり騒ぎを起こし、注目を避けようと慌てる相手の隙を突いて銃を奪取したようだ。

 

 ――あの男を吐かせるか……?――

 

 伊吹が先程の男を捜しにパーティ会場へと戻る頃、その男も自身の銃が無くなっていることに気がつき、当然先程ぶつかった伊吹のことを疑い彼を探すために会場へと戻ってきていた。

 

「んー、これは美味い。あとで哀にも持って行ってあげよう」

 

 男が戻ってくると確信していた伊吹はあえて身を隠すことなく、会場の中で他の参列者と共にスタッフから受け取ったデザートのほろ苦いティラミスに舌鼓を打っていた。

 しばらくデザートを楽しんでいた伊吹だったが、ふっと音もなくその眼光を研ぎ澄ませた。手元の磨かれたスプーンの反射を利用して後方を見やると、先程の男が迫ってきているのが確認できたのだ。相当慌てているのか、少々荒っぽく他の来賓客を押しのけて伊吹へと一直線に向かってくる。

 食器とスプーンを近くのスタッフに素早く手渡すと、伊吹は振り返ることもなく再び男性用トイレへと消えていく。少し遅れて男が周囲を警戒しつつも男性用トイレへと踏み込むと、そこには誰の姿も見当たらず、並んだ個室の扉も全て半開きとなっていた。

 

「…………」

「おい」

「――ッ!?」

 

 男が警戒しながら一番手前の個室をゆっくりと覗き込んだとき、一番奥の個室から顔を覗かせた伊吹が男へ呼びかけた。

 驚愕に一瞬身を強ばらせる男に伊吹は銃を放り投げる。慌てながらも咄嗟にその銃を手に取った男は、迷わずその銃口を伊吹へと向けると撃鉄を起こし躊躇いもなく引き金を引いた。

 

「なにっ!?」

「撃ったな――……」

 

 銃口からマズルフラッシュが(またた)くことはなく、耳を(つんざ)くような大きな炸薬の破裂音も聞こえない。起きた撃鉄が銃本体に打ちつけられる鈍い金属音のみがトイレに反響した。

 銃を男に放り投げる前に弾丸は伊吹が全て抜き取っており、装填はされていなかったようだ。

 男が躊躇いなくこちらに発砲しようとしてきたことを確認すると、伊吹は駆け出し一気に距離を詰めその掌底を目にも止まらぬ速さで相手の顎へと叩き込んだ。声を発する間もなく、男の目はぐるりと白目を剥いてその場に膝から崩れ落ちた。

 糸の切れた人形のように一切の力が抜けた男の体を引きずり個室へと引き込むと、伊吹は男のスーツをまさぐり携帯を取り出し、男の指を押し当て指紋認証を解除する。そして指紋認証の設定をオフにしておくことも忘れない。

 

「……最近のテロリストはメッセージアプリでグループチャットするのか」

 

 しばらく携帯を調べていた伊吹が、男が仲間と思しき連中とグループでやりとりをしているメッセージアプリを発見した。

 隠語を用いて明確な発言を避けてはいるが、現在進行形で次々と流れてくるメッセージを読み解く限り、こいつらが今日、まさに今、このホテルで()()()()()()を企んでいる所謂(いわゆる)テロリストだということが判明した。

 過去のログを見返し男達の計画や目的等の情報を収集していく伊吹。また、男のこれまでの発言から文体を真似て会話内に潜り込み、更なる情報を引き出す。

 

「……」

 

 便座に座らされ意識無くぐったりと脱力する男をチラリと確認する。念のために便座横に取り付けられた手すりパイプ越しに後ろ手に手を組ませ、その指同士を男が所持していた結束バンドで縛り自由を奪う。口元には男の服を引きちぎり作成した簡易の猿ぐつわを噛ませる。

 個室の鍵はかけたまま、扉上部の隙間から脱出する伊吹。そして清掃用具の中から「清掃中」のスタンドを取りだし男子トイレ前に設置すると、何事もなかったかのようにしれっとその場を後にした。

 男から拝借した携帯には次々にメッセージが流れていく。グループの人数、装備、目的、計画、etc.

 男から奪取した端末と睨めっこし得られる全ての情報を入手することに余念の無かった伊吹だったが、ふと何かに気がついたかのように、その鋭い瞳を(しばたた)かせた。

 

「いや、待てよ……。つまり哀達の安全さえ確保して、そのままこいつらを放っておけばパーティはめちゃくちゃになって、哀の()()()()姿を見ずに済むんじゃ……。そしたら俺も…………――――」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「――とか、一瞬でも考えちゃう俺ってどうなのよ」

「な、んの、話……だ……ぅぐ……」

「こっちの話だ」

 

 ホテルの倉庫内にてまた男を一人無力化しつつ、自傷気味に苦笑いを浮かべる伊吹。小さな溜め息を吐きながら掴んでいた男の胸ぐらを離すと、男は小さな呻き声を上げてその場に倒れ込み意識を手放した。

 

「お前達がパーティを台無しにしてくれるってのも正直、ちょっと、惹かれるけど。……あいつが喜ぶなら、俺にとってはそれが一番なんだよ。それは俺の感情(きもち)よりも優先される」

 

 誰に言うでもなく、あるいは自身に言い聞かせるようにそう呟く。

 伊吹はその男からも携帯を拝借し、男の体を拘束してロッカーの中へと押し込んで隠す。

 

「一度、様子を見に戻るか……」

 

 倉庫を後にし手元の携帯と睨めっこしながら会場とみんなの様子を確認するため一度パーティ会場へと戻ろうとしたとき、聞き覚えのある女性の声が伊吹を呼び止めた。

 

「あらっ、君、毛利さんのお連れさんの……、こんなところでどうしたのかしら?」

「うっわ、ほんとすっごい体」

 

 それは先程会場で伊吹の体を堪能しようとしたところを灰原に邪魔された例の女優と、彼女に追従して歩く女性だった。手帳を片手にスーツ姿で彼女と話していた様子から察するに、恐らくは彼女のマネージャーといったところだろうか。

 

「あ、いや、ちょっと……。すみません、急いでますので」

 

 伊吹は咄嗟に携帯をポケットへと押し込み、適当に愛想よく柔和な笑みで断りをいれつつその場を後にしようとするも、彼女は伊吹にしつこく話しかけながら後をついてくる。彼女のマネージャーもその後ろを着いて歩くばかりで彼女を止める気はないようだ。

 伊吹が半ば辟易しながら、――ああ、こんなところを哀に見られたらまた何を言われるか――、などと頭を抱えながら会場へと戻ると、案の定真っ先に彼の姿を視界に捕らえた灰原がつかつかと強い歩調で歩み寄る。

 

「ちょっと、なにしてるの?」

 

 彼女の鋭い瞳は伊吹を捕らえてはいるものの、その棘のある言葉は彼以外の誰かに向けられているような気もした。

 腕を組み仁王立ちで睨みを効かせる灰原を前に、伊吹の後をしつこく着いてきていた彼女も再び退散していった。

 

「飲み物は?」

「え? ……あっ」

「はぁ……。飲み物取りに行ったんじゃなかったの?」

「いや、ちょっと……トイレに」

 

 去って行く外敵を見送りその背中にふんっと勝ち誇ったように一息嘆息すると、灰原は眉間に皺を寄せて隣の伊吹を見上げる。彼女の詰問から逃れるように視線を泳がせながらなんとか絞り出した伊吹。ある意味嘘はついていない。

 

「あ、そうだ、ティラミス食べた? 美味しかったよ、あれおすすめ」

「……トイレに行ってたんじゃないの?」

「あ……。いや、……戻ってくるときに食べてさ」

 

 彼の誤魔化すような乾いた笑顔から体を背けて腕を組み訝しがるように目を細めて横目に見つめる灰原だったが、それ以上追求することもなく、小さな溜め息を零して「あ、そ」と呟くのみだった。

 会場では主催者の挨拶も済んだようで、しばしのご歓談タイムとなっていた。

 サインを貰うには打ってつけのタイミングではあったが、比護選手の周りには関係者等既に多くの人が集まっており、なかなか頼みに行けそうな雰囲気ではなかった。

 それでも伊吹を引き連れてサインを貰いに行こうと、灰原が比護選手の様子を窺いながら横に立つ伊吹のズボンを掴もうと手を伸ばす。しかしその指先が彼のズボンを掴むことはなく、虚しく空を切ってしまう。

 灰原が振り向くとそこに伊吹の姿はなかった。辺りを見回した彼女に視線の先にはコナンと博士に一言何かを告げて去って行く伊吹の背中が見えた。

 

「あっ……」

 

 思わず去って行く彼の背中に手を伸ばすもその零れた声が彼に届くことはなく、行き交う幾人かの参列者が彼女の視界を覆ってしまう。慌ててその間を割って抜けるも、既にそこには彼の姿は影も形もなかった。

 彼女の物憂げに揺れる瞳が絢爛な赤い絨毯へと落とされた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ホテルを夜陰(やいん)に包み込む。その混乱に乗じて次のプランだ」

 

 ホテル警備室内には制服に身を包んだ屈強な警備員達が拘束されていた。抵抗したのだろうか、中には頭部を殴打され出血しながら気を失っている者もいる。

 室内の隅に集められた彼らに銃口を向け監視する者が一人。そしてホテル内の監視カメラ映像を見ながら、小さく呟く男。その傍らに数人待機している様を見るに、どうやらこの男が彼らのリーダーのようだ。もっとも、全員が顔を隠しているためその素顔は分からないが。

 『電気室』とプレートの貼られたモニターには彼らと同じく覆面をした二人組の人影が映し出され、何やら工作に余念が無い。モニターに映る一人が監視カメラに向けて親指を突き上げサムズアップを向けると、モニターを確認していたリーダーの男が携帯越しに指示を飛ばす。

 

『よし、切れ』

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なにっ? 停電?」

 

 パーティ会場、いやホテル全ての照明が音もなく唐突に消え、辺りは暗闇に飲み込まれた。突然の停電に先程まで賑わっていたパーティ会場はざわめき、皆が不安げに暗中に視線を彷徨わせる。

 

「みんなっ、動いちゃダメよ!」

「んあ? 真っ暗で食べるとなんかうまくねーぞ」

「ちょっと元太くん、こんな時まで食べてるんですか?」

「両手に持ってんだからしゃーねーだろ」

 

 突然の停電に蘭が慌てて子供たちの安全確保のため動かないよう声をかける。もっとも子供達はあまり怖がっている様子もなさそうだが。

 

「おいおめーら大人しくしてろ」

「あ、哀くん? 大丈夫かの?」

「ええ、博士。……大丈夫よ」

「しっかし、なんで停電なんか」

 

 コナンが子供達にぼやくように注意を促し、自身の携帯のライトを灯そうとポケットから取り出したとき、会場はまるで何事もなかったかのように再び絢爛な眩い光りに包まれた。

 停電していたのは時間にしてほんの数分足らず。電気が復旧したことに安堵した来賓客達からは各々「なんだったのかしら」と安堵の笑みが零れた。

 しばらく慌ただしく動き回っていたスタッフの一人ががステージに立つ司会者に何やら耳打ちすると、ゴホンッと一つ咳払いをしてマイク越しにアナウンスが流れる。

 

「えー、皆様お騒がせして申し訳ございません。少々電気系統にトラブルがあったようですが、問題なく復旧しましたのでご安心下さい。

 

えー、それでは気を取り直しまして、次ぎに当ホテルのデザインを――……」

 

 司会者が些か困惑しながらも平静を装い、何事もなかったかのように次の催しを伝えるなか、一人納得していないようにコナンは顎に手をあてがい首を傾げていた。

 そしてその横にもまた一人、不安げに瞳を揺らして辺りを見渡す少女の姿が。

 

 

 


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