哀歌   作:ニコフ

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2話 夢見る少女じゃいられない 後編

 

 とある土曜日の午後、喫茶店には灰原と伊吹の姿があった。前日の約束通り2人は街へと買い物へ赴いていた。既に伊吹の足元にはいくつかの紙袋がある。

 

「それで、これからどうする?」

「そうね、服はもういいわ。あとは本屋さんね」

「じゃあそろそろ行くか」

 

 2人は席を立ち、飲み干した容器を片付ける。伊吹は片手に紙袋を、片手に灰原の手を握る。

 

「あら、この手はなにかしら」

「嫌だった?」

「別にいいけど。せいぜい誘拐と間違われないことね」

「それは哀が誘拐されるほど小さい女の子ってことか」

 

 悪態をつきながらも伊吹の手を握り返す灰原。互いに相手を小馬鹿にしながらも顔には笑みが浮かんでいた。

 陽も傾き空が薄暗くなってきた頃。2人はデートのようなものを楽しみ、リーズナブルなレストランで夕食をとった。デザートとして注文したのはベリー系のジェラートを1つだけ。そんなに甘いものを食べられないという共通の意見からである。

 

「おいしそうね」

「こういうの好きだったっけ?」

「別に。今日は食べたかったのよ」

「そうかい。気に入ってくれてよかったよ」

 

 運ばれてきたジェラートに顔を綻ばせる灰原。その顔は何かに勝ち誇っているかのように見えた。

 

「はい、あーん」

「……」

 

 冗談めかしてスプーンを差し出す伊吹を呆れたように見つめる灰原。言外にどういうつもりか、と聞いているようだ。

 

「たまにはいいじゃん。照れなくても、仲のいい兄妹にしか見えないよ、幸か不幸かさ」

 

 灰原はふう、とため息を1つ吐いてから伊吹の差し出したスプーンを咥えてそっぽを向く。いつもの澄ました表情は変わらないが、照れているのか顔を合わせようとはしなかった。

 

「もう一回、あーん」

「もういいわ」

「そう言わずに」

「い・い・わ」

「あ、はい……」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 2人が半分ほどジェラートをつついた頃、伊吹のポケットから電子音が鳴り響いた。ふと画面を覗き込むと、ディスプレイには毛利蘭の文字が。伊吹がなんの気なしに電話に出ると、受話器の向こうからは蘭の焦った声が響く。

 

「はい、萩原だけど」

『あ、萩原君? 今深月ちゃんと一緒にいる?』

「え、深月ちゃん? 知らないけど、どして?」

「……」

 

 電話をする伊吹の方を鋭く見つめる灰原。心なしかジェラートをつつく回数が増えている。

 

『深月ちゃんが家に帰ってないみたいで』

「おいおい、昨日は送ったよ。狼になんてなってないよ」

『それはわかってる、今日のお昼に出かけてからまだ帰ってないらしくて……もう暗いし、深月ちゃんここ最近は休みの日に出かけることもなかったらしいのに』

 

 伊吹は嫌な予感がしながらも考える。昨日は暗くなってから出歩かないようにと警告をしたし、本人も出かけないようにしていたらしい。昨日の今日で日が暮れても1人で出歩いているとは考えにくい。

 

『それに変な話も聞いて、深月ちゃんの家の近所を走っていた車の中に深月ちゃんを見かけたとか』

「それは確かな情報か?」

『うん……、はっきりとはわからないらしいけど、本当なら、どうしよう……』

「小五郎さんとコナンは?」

『今日はポアロのマスターと出かけてて、携帯も繋がらなくて……コナン君は博士の家に行ってるはずだけど……』

「わかった、俺が何とかする。蘭ちゃんは家で待機してて、大丈夫だから」

『う、うん……』

 

 会話を終えると即座に灰原を見つめる伊吹。灰原は既に察したように、いつもよりつまらなさそうな顔をしながらジェラートをぱくつく。

 

「問題が起きた」

「なにかしら」

「彼女の行方がわからない、今から捜索及び場合によっては救出に当たる」

「はいはい、行ってらっしゃい」

「悪いな、哀。続きはまた今度。荷物が多いから博士に連絡して車で迎えに来てもらえ」

「そうするつもりよ。この荷物じゃ1人寂しく帰ることもできないわよ」

「悪かったって、また今度なっ」

 

 それだけ言い残すと伊吹はお金を机に起き、駅へと駆け出した。突風のように去ってゆく彼の背中を見送りながら、灰原は小さくため息を突き、携帯を取り出した。

 

「博士、米花駅近くの新しくできたレストラン、あるでしょ。ええ、そこよ。そこまで車で迎えに来てちょうだい。ええ、そう。今、すぐに、よっ」

 

 通話を終わらせた彼女の目には、伊吹に対する苛立ちと仕方ないという諦めが混じっていた。それを発散するように残りのジェラートを頬張る。空はいつの間にか曇り始め、寒くはない季節だが、1人で食べる夜のジェラートは、まだまだ体を冷やした。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 月夜に佇む1人の男。その眼は鋭く鈍く光っている。

 蘭に出来るだけ細かく聞いた拉致現場へと伊吹は駆けつけていた。常に持ち歩いている頑丈なペンライトで車道を照らしながら歩く。ふと立ち止まり地面を詳しく調べ、比較的新しいタイヤ痕から情報を読み取る。車種、運転技術、進行方向、重量、速度。アクセルとブレーキ、ハンドルの動きから運転手の焦り。地面に接着するほど視点を低くし、靴跡や吸殻などから犯人の人数、性別、身長、体重までも見当をつける。

 自身に備わる工作員としてのあらゆる技術と知識をフルに活用する。地獄のような訓練で身につけた標的を追いかけ、追い詰め、殺すための技が今、人助けのために使われようとしていることに伊吹は皮肉めいたものを感じていた。

 影が伸びるように静かに立ち上がった伊吹。その眼には日頃のID「萩原伊吹」としての能天気なのんびり屋の色はない。獣のように荒く、深海のよに暗く、狩人のように鋭い視線。心は深夜の野原のように不気味にざわつく。

 一台の車が過ぎ去り、ヘッドライトが道を照らした時には、既に彼の姿はそこになかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「はぁ、はぁ……やっと、だ。やっと深月と結ばれる時がきたんだよ」

 

 とある山中。町並みからは想像もつかないような深く暗い森の中。米花からそれほど離れていないはずだが、街の賑わいとはかけ離れた静謐があたりを包む。そこに一台の車が止まっている。森と車内に響くのは脂にまみれたような粘りつく男の声と、くぐもった少女のうめき声。

 深月は男に連れ去られ、両の手足は縛られ、口には猿轡を噛まされている。大声を出すこともできない。拉致される際に抵抗したのか、その体を包む衣服は少し破れ、体は薄らと傷ついている。

 

「ずっと深月を見てたんだ……、ずっとこうなることを願ってた。遠くから深月を見て、自分を慰めていた……はぁはぁ、たまに見せる深月の、怯えた顔が……たまらなかった!」

 

 男は服を脱ぎ捨て、汗でてかる体で深月へと近づいていく。涙を浮かべた深月は髪を振り乱し、顔を振りながら何とか男から遠ざかろうともがく。しかし狭い車内ではすぐに壁へと追いやられた。

 

「なのに……なのにっ……、なんだ、あの男はぁ……っ! なんなんだ、あの嬉しそうな顔はァっ! ぼ、ぼくの……僕の深月ちゃん、はぁはぁっ」

 

 男は息を荒立てて血走った眼で深月に手を伸ばす。深月の涙も絶望する態度も、恐怖で歪む表情も、男を興奮させる。

 

「あぁ、いい……いい顔だよぉ、深月……その顔で僕を見てくれ、はぁはぁ、最後まで、その顔でね……。あぁ、縛ったままじゃ脱げないね、邪魔だね、ほどいてあげるよ……」

 

 男の手が深月の体へ触れる。深月はビクッと体を震わせ、その衝撃で涙がさらに溢れる。その態度に男は顔を歪ませて悦び、深月の脚を縛るロープを解く。

 窮鼠猫を噛む。脱兎のごとく。それを体現するように、ロープを解かれた途端に逃げ出す深月。火事場の馬鹿力か両足で繰り出した蹴りは男の顎を捉え、体を反対側まで飛ばす。後ろ手にドアを開け、転がり落ちるように車外へ飛び出す。

 いつの間にか降り出した雨に地面はぬかるみ、滑るように駆け出した。男が追いかけてくる前に山道から反れて森の中へと突き進んでいく。靴は履いておらず、草木を踏んだ足からは赤い血が流れ出している。走る中で猿轡は緩み、首へずり落ちた。

 

「はぁっ、はぁっ、うぅっ……うぇえっ、いや、もうやだよぉっ」

 

 走ったことと、緊張と焦りから鼓動が激しく体内に鳴り響く。顔は涙と汗と雨に濡れ、長い前髪が張り付きぐしゃぐしゃになっている。

 なぜ自分がこんな目に遭うのか、誰か助けて欲しい……、親兄弟友人の顔が脳裏を駆け抜けていく。最後に願ったのは、昨日も助けてもらった彼の顔。彼女は心中で必死に願う、助けて、助けてと。

 

「いいよぉ、深月ー、もっと抗ってごらん、はぁはぁ、その怯えた表情が、僕をさらに、高ぶらせるよぉ」

 

 ナタを振り回し邪魔な草木を切り払いながら男が後ろから追ってくる。愉悦に歪み雨に濡れた表情は不気味な笑みを浮かべている。

 2人が分け行った森は、誰が見ても“誰かが通った”とわかる程に荒れていた。

 

「きゃっ、あぐッ……!」

 

 走りながら手を縛るロープを解こうとし、雨と落ち葉に足元をすくわれ転んでしまった深月。ロープは解けたが、体を打ち付けて全身が痛む。

 

「うっ……ぐぅ、ぅう……」

 

 涙を押し殺して立ち上がろうとするも、右の足を挫いたようで上手く立てない。よろめき、木の幹を支えに何とか立ち上がるも、目の前にはナタを持った怪人が笑いながらこちらを見ていた。

 

「見つけたよぉ、追いついたよぉ、深月ぃ……あぁ、いい顔だねぇ、最高だよぉ」

「うぁ、ぁぁ……あぁ……うぅ」

 

 絶望と恐怖に顔を染め、涙に鼻水によだれに顔をぐしゃぐしゃにし、雨と泥で全身を汚した深月だが、その顔に僅かな覚悟が見えた。

 片足を庇いながら立ち、構える。彼女は一矢報いる覚悟を心に決めた。弱い自分を鍛えるために、強くなりたくて始めた空手。痛みに怯え、大声に恐怖し、なかなか身につかなかったが、それでも強い人たちに憧れて続けていた。その成果を少しでも発揮し、目の前の男に叩き込む。自分が怪我をしても、辱められても、例え殺されても、ただでは済まさない。その覚悟の炎が涙で揺れる彼女の目に宿る。

 

「あぁ、深月、怒っているね、はぁはぁ……そんな顔もかわいいよぉ、空手頑張ってるんだね、それで僕に抗うんだねぇ、ああいい……殴っていいよぉ、その華奢な腕で一生懸命抵抗して……一発くらいなら、受けるからさぁ、殴ってよぉ……はぁはぁ」

 

 男の歪みきった性欲に震える両足。緩みそうな膀胱に力を入れ漏らさないようにする。痛む足も気にせず力強く踏み込み、深月は男へと駆け出した。

 

「ぅ、ぅあーッ!」

「いぃっ! さあ、殴ってぇ!!」

「じゃあ、遠慮なく」

「えっ……?」

 

 男の左頬を鉄拳が貫く。その体がきりもみ回転しながら数メートルの距離を吹っ飛んでいく。

 

「……え?」

 

 覚悟を決め突き出した自身の拳に相手は微動だにしない。恐る恐る目を開いた彼女の前には恋に焦がれて待ちに待ち望んだ、彼の顔があった。なんど助けてと願ったかわからない人が、助けに来てくれた。先程までとは違う、暖かい涙が彼女の頬を濡らした。

 駆けつけた伊吹がまさに殴られようとしている男の肩を掴み、驚き振り返った顔面へと拳をお見舞いしたのだ。

 

「に、にぁんらぁ、ほまへはっ!? ほはのやひゅらは!?」

 

 倒れた男は顔を起こし話そうとするも、顎が砕けてうまく喋られない。しかし伊吹がここに現れたことに驚いているようだ。

 

「お前ら畜生の反吐が出そうな匂いを追ってきた。くせえ車を見つけたよ。そこからはお前が作ってくれた道を通って来たんだよ。山道の入口にたむろしてた連中は寝てる、多分生きてるんじゃね」

 

 男は金と女を餌に荒事専門の別の男たちを連れていた。しかし素人に毛の生えた程度の集まりでは、伊吹には取るに足らない障害だった。

 

「あ、あぁ……」

 

 男は怯え足を滑らせながらも慌てて立ち上がる。ナタを拾い上げて伊吹へと向き直る。

 

「ほろひへやふ……」

「は、萩原……先輩」

「大丈夫だ、そこにいろ。漏らすなよ」

 

 ナタを振り上げて突っ込んでくる男。自暴自棄になった男の目には確かな殺意が映る。

 

「さっきのは手加減した。お前を一発で気絶させるわけにはいかない。痛みを感じるまま地獄を見せてやる」

 

 言うやいなや、伊吹はあっさりとナタを持つ男の右腕を左手で掴み、右の拳を腹へと叩き込む。

 

「うぉえぁっ……!」

 

 空気と胃液を吐き出す男。膝が折れ沈みそうになるが、伊吹は腕を離さない。無理やりに引っ張り上げて更に一発叩き込む。気絶しないように手加減はしているものの、その拳は非常に重く、アバラをへし折る。

 

「あぁぁッ! うぁっ……!」

 

 それでも許すまいと伊吹は男を引き上げ右手で頭を掴み、顔面へ膝を見舞う。歯が飛び散り、鼻が砕け血を吹き出す。その一撃でついに男の意識は刈り取られた。全身の力は抜けてダラリと垂れ、伊吹に掴まれた右腕だけで体は支えられている。

 顔に飛んだ男の血が雨に流され垂れてくる。鬱陶しそうにそれを拭い、興味を失ったように男を投げ捨てる。

 伊吹が振り返ると深月はビクッと肩を震わせた。しかし、一連の凄惨な光景を見たにも関わらず、近づいてくる伊吹に恐怖は感じなかった。

 

「すまない、遅れた。大丈夫か?」

「は、はい……うぅ、せんぱいぃ……うぁぁ」

「大丈夫? 漏らしてない?」

「あぁぅ……もら、漏らして……ませぇ、んっ」

「じゃあ良かった。警察を呼んでるから、もう大丈夫だから」

 

 急激にこみ上げてくる安堵感から大泣きしてしまう深月。伊吹は彼女の頭を撫で、優しく体を抱きしめた。自身の上着を彼女に羽織らせ、冷えた体を摩って温める。大きな樹の下で雨を凌ぎながら警察を待った。

 彼女は伊吹の大きな腕の中で泥だらけの体を丸め、糸が切れた様に眠りについた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「大丈夫か?」

 

 駆けつけた救急車と警察で静かな森の中は喧騒に包まれていた。雨に濡れた木々の葉が赤い回転灯を乱反射する。夜の曇天はますます辺りを暗く沈めていた。

 救急車の中で毛布に包まって座り込む深月に伊吹が声をかけながら隣に腰をかける。

 

「はい……警察の人とか、来てくれて、少し落ち着きました。特にあの、女性の刑事の方が……」

「ああ、佐藤刑事ね」

「すごく親身に対応していただけました」

「でしょ、名指しで呼んでおいて正解だった」

「……」

「……」

 

 2人の沈黙の間に雨の音だけが割って入る。雨粒が葉を叩く音や救急車の上で跳ねる音が、やたら大きく聞こえる。

 深月は暖かいココアの入ったカップを両手に持ち、何かを言いたげに、視線を彷徨わせている。伊吹は彼女が話し出すのを待つように黙っている。

 

「あの、先輩……」

「ん?」

「ありがとう、ございました……来ていただけて、助かりました。本当に……」

「どういたしまして。というか、俺の責任な部分もあるし」

「そんな、とんでもないです……悪いのは、全部あの男で……」

「まあ、ね」

 

 カップを強く握り直し、彼女は意を決したように話しだした。

 

「あの、先輩って、強いんですね」

「無駄な筋肉じゃないからね」

「なんか、すごかったです……人間離れしてるっていうか……普通の、人じゃない、みたいで、……!」

「……」

 

 彼女が伊吹の“何らかの秘密”に指をかけようとした時、先程までの伊吹の優しい微笑みは消えた。背中を氷の爪で引っ掻かれたかのような恐怖が彼女を襲う。とっさに、聞いてはいけない事なのだと察する。

 慌てて目線を落とし、カップのココアを見つめる。

 

「あ、あの、それで、その……これから、私、どうなるんでしょうか」

「んー、まあとりあえず怪我の治療だね。そのあと事情聴取。大丈夫だよ、あの佐藤刑事が気を使ってくれるから」

「先輩は、どうなりますか……?」

「さあ。とりあえず俺も事情聴取だろうけど、そのあとはどうなるか」

「捕まったり……?」

「するかもね」

「そ、そんな! 先輩は私のために! そ、それに相手はナタ持ってましたし、それに、それに……」

 

 思わず立ち上がり必死に訴える深月。その姿に思わず笑みがこぼれる伊吹。

 

「冗談だよ。多分、大丈夫。怒られるだろうけどね」

 

 その言葉に安心した深月は胸を撫で下ろし、また座り込む。

 チラリと横目で伊吹の横顔をのぞき見ながら、頬を染めつつ話し出す。

 

「それで、あの……先輩は、これからも、その……私のこと……ま、守ってくれたり、なんかは……」

「これからは警察が世話をしてくれるよ。ちゃんと守ってくれる。もっとも、ストーカーは捕まったけど」

「あ、あの……わ、わたしは……っ!」

 

 ゴクリと唾を飲み込み、深月は伊吹をしっかりと見つめる。頬はより赤みを帯び、瞳は潤んでいた。唇はふるふると震え、何かを言いたげに小さく開閉する。車外の喧騒は遠くなり、自身の激しい鼓動だけが全身を反響する。

 意を決した彼女の邪魔をすまいと、伊吹は黙って彼女を見つめる。

 

「私は……、私は、萩原先輩の、こと……、先輩、に……、守って、もらいたい、です……」

 

 か細く消え入りそうな声で告げる深月。今にも泣き出しそうな顔をしながら、椅子に手を着いて隣の伊吹へと身を近づける。今の深月に伝えられる精一杯の想いだ。

 寒さではなく緊張と、さっきまでとは違う恐怖に肩が震える。堪えきれない一筋の涙が頬を伝う。

 彼女の頭に手を置き、優しく撫でる伊吹。優しさと、彼女の気持ちに応えられない申し訳なさに顔が歪む。その顔を見たときに、深月は伊吹の心中を察してしまい、思わず俯く。手の甲に涙の雫が2粒落ちる。

 

「申し訳ない。もう、君を守ることはできない。俺は今回のストーカーの件に関してのみ、警護を引き受けたんだ。任務は完了した、これで終わりだ」

「うぅ……」

 

 下唇を噛み締めて声を押し殺す深月。

 

「あの女刑事さんは頼りになるから。まあ、また何かあった時には俺も相談には乗るし。ただ、少なくとも、今回の警護は終わり。君は日常に帰って、俺と君は学校の先輩と後輩に戻る。俺は普段の日常からずっと君のそばにいることはできないんだよ」

 

 諭すような柔らかい口調で彼女に告げる伊吹。深月は顔を上げて伊吹を見つめる。

 

「先輩のそばには、もう……誰かが、いらっしゃるのですか……?」

「うん、いる。そばにいたい人が、守りたい人がいるんだ。俺の日常はそいつを守るためにあるから。今回が特別だったんだ。それにその子が素直じゃなくてね……俺は1人守るので手一杯だよ」

「そう、ですか……」

 

 先程までの深月を気遣って、彼女を傷つけないように選んで喋っていたものではない。伊吹のはっきりとした言葉と自身を力強く見つめ返してくる瞳に、深月は何も言えなかった。

 溢れる涙を腕で拭い、精一杯の笑顔で伊吹を見つめ返す。泣きすぎて眼は赤く腫れぼったい。

 

「わかりました、先輩は、その子を守ってあげてください。ただ、先輩に、憧れていても、いいですか……?」

「憧れ?」

「はい……。先輩の、すっごく強かったので、それを目標に……私も、強くなりたくて。弱い自分を、自信のない、臆病な性格を変えたくて……」

「俺でよければご自由に。って言いたいところだけど、もう深月ちゃんは変わってると思うよ」

「え……?」

「しっかり話せるようになってるし、相手の目をしっかり見てる。自分の言いたいことを伝えられたし、最初の頃とはえらい違いだよ」

 

 ハッとしたように今の自分の姿を思い返す深月。確かに今回の一件で何かが大きく変わったようだ。

 

「変われた、でしょうか……。けど、もっと先輩に近づきたい、ので、アドバイスください」

「そうだなぁ。まず髪を切るといい、可愛いんだから顔出しなよ。あともっと声を大きくして、堂々と。腹の底から“押忍ッ”って。そんでもっと強くなって、いろんなもの怖がらないように。私なら大丈夫、って自分に自信を持ってみな。そしたら、多分、きっともっといい事が起こるから」

「…………はいっ!」

 

 彼女の満面の笑みは明るく朗らかで、大きな返事は優しくも確かに伊吹の心に届いた。

 気づけば雨粒の弾ける音は聞こえなくなり、雨雲は払われて綺麗な月が顔を覗かせていた。彼女の微笑みは、柔らかくも闇を照らすその月の光とよく似ていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 水たまりを避けながら1人夜道を帰路につく伊吹。警察での事情聴取が終わり阿笠邸の近くまで戻る頃には日付が変わろうとしていた。

 見上げる空には雲間から月が浮いていた。上空の風に流される雲の動きは眼で追えるほどに早く、雨上がりの夜風は冷たく、骨身に染みる。

 足元を見ながら一つため息を吐いた伊吹が顔を上げると、阿笠邸の前には小さな人影が見て取れた。

 

「ごめん、遅くなった」

「高木刑事から博士に連絡があって、概ねの事情は聞いてるわ」

 

 塀にもたれかかり、ぼんやりと空を見上げていた灰原。伊吹の存在に気がつくと慌てた様子もなく伊吹へと近寄る。

 

「てか何してるの、こんなところで」

「別に、買い物の帰りよ。偶然ね」

「手ぶらみたいだけど」

「……なにも買わなかったのよ」

「……そっか」

 

 咄嗟にそっぽを向く灰原。だが2人はどちらからともなく手を繋ぎ、家へと入っていった。雨上がりの夜風にも、繋がれた手だけは暖かかった。

 

「哀君、あまり長く外にいると風邪を……おぉ伊吹君、無事じゃったか!」

「ただいま、博士。無事も無事。けどお腹空いたよ、ご飯ある?」

「哀君が腕を振るってくれたカレーが山ほど残っておるぞ。今温めるから先に風呂にでも入ってきたらどうじゃ?」

「そうする、さすがに雨に打たれて冷えたよ」

 

 いそいそとカレーを温め直す博士に、何も言わずソファに座り込む灰原。伊吹はその後ろで服を脱ぎながら声をかける。

 

「哀も一緒に入るか? 冷えてるだろ」

「別に。そこのコンビニまで行っただけだから」

「哀君は……」

「博士っ……、調理中は火から目を離さないでよ」

「あ、あぁ、了解じゃ」

 

 灰原の睨みにさっさとキッチンへ引っ込んでいく博士。じゃあ1人で入るか、と伊吹は着替えを持って浴室へと消えていった。

 しばらくするとシャワーの音が小さくリビングに聞こえてくる。すると灰原が静かに立ち上がり、リビングを出ていこうとする。

 

「哀君、どうしたんじゃ?」

「博士、火」

「あぁはいはい」

 

 博士に言外に何も聞くなと釘を刺し、パタパタとスリッパを鳴らしながら浴室の方へと向かった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 頭からシャワーを浴び体を温める伊吹。目を閉じてはいるが、浴室のドアのすぐ外に誰かが居ることには気づいていた。忍び寄る足音と気配から、無意識に相手の背格好や性別、体重、重心の動きまでも読み取ってしまう。そこまで考えるまでもなぐ、そこにいるのは灰原だ。

 

「哀? どうした?」

「声を出さなくてもわかるのね」

「まあ、なんとなくね」

 

 扉越しのくぐもった声で会話を重ねる。脱衣場の電気は消したままの灰原、浴室の明かりは当然灯されており、すりガラスの向こうでは伊吹であろう肌色が動いている。

 

「それで、どうだったの、今日は」

「どうって、多分高木刑事から聞いたままだよ。女の子が拉致られて、追っかけて、犯人をボコって、やり過ぎだと怒られたよ」

「そこじゃないわ」

「じゃあ……え、なに?」

 

 灰原が何を聞きたいのか察しのつかない伊吹。顔に張り付くシャワーの湯を拭い目を開ける。シャワーは開けたまま体を温めている。

 脱衣所の壁にもたれて立つ灰原。すりガラス越しの浴室の明かりが彼女を左側から照らす。静かに目を細める灰原はどこを見るでもなく、足元へ視線を落とす。

 

「彼女よ。その被害者のこと」

「あぁ、深月ちゃんね、あの子がどしたの」

「彼女と……なにかあった?」

「そりゃあ何かあったってもんじゃないよ、今日は」

「だから、事件のことじゃなくて」

 

 故意か天然か、話をはぐらかす伊吹に少し苛立った声で尋ねる灰原。

 

「彼女に、なにか……言われたんじゃないの?」

「……超能力者か」

「そんなんじゃないわ。ただの勘よ」

「女の勘か、すごいね」

「そうね。それで?」

 

 伊吹のおとぼけも軽く受け流す灰原。腕を後ろ手に組み、顔を上げて薄暗い天井を見やる。

 何かを察したように伊吹もシャワーを止め、すりガラス越しに灰原の方を見る。多くの古傷が目立つ屈強な伊吹の体に水が滴る。

 

「守ってほしい、って言われたよ」

「……」

「今回の件は解決したけど、これからもそばにいて、守ってくださいって」

「……そう」

 

 伊吹に聞こえないほどの小さなため息を吐く。何かを羨むようなその表情には、話に聞く深月の素直さが眩しく写っているようだ。

 聞きたいような、聞きたくないような、素直になれない自分の心に思わず苦笑いを浮かべながら、灰原はいつもと変わらない声色で尋ねた。

 

「あなたは、なんて答えたの……?」

 

 顔が見えるわけでもないが、灰原は浴室の方へ視線を向け、伊吹を見つめる。一滴の水音もしない静かな空間は、一瞬を長く長く感じさせる。

 

「ごめんな……」

 

 浴室に反響する伊吹の言葉に思わず目を見開き驚いてしまう灰原。たった一言で、言いようのない虚無感が胸を襲い、風穴を空いたかのような錯覚を受ける。

 

「って、言ったよ。俺にはもう、守りたい人がいる、って」

「……え?」

 

 思わず間の抜けた声で聞き返してしまう灰原。

 

「だから、俺にはもう守りたい人がいるって言ったんだよ、彼女に」

「……そう」

 

 伊吹の言葉を頭で理解し、心の穴が塞がるのを感じる。思わず安心したようにほっと息をついてしまう。

 

「俺は一人守るので手一杯だって言っといたよ。いかんせん、その一人が素直じゃなくて手を焼いてるって」

「……」

 

 微かに浮かべていたほほ笑みは消え、いつもの鋭い目つきとなる灰原。何も言わずそっと浴室へと近づき……電気を消して脱衣所を出て行った。一切の躊躇いのない流れるような所作であった。

 

「あ、ちょっと、哀、なにすんのさ。冗談だって、電気つけて。……哀? あれ、いない……?」

 

 後ろで喚く伊吹を無視してリビングへと戻ってきた哀に、キッチンから顔を出した博士が声をかける。

 

「おぉ哀君、カレーを温め直したんじゃが何やら味が落ちてしまっていてのぉ。どうしたもんかの」

「私がやるわ、博士はゆっくりしてて」

 

 小さく微笑んだ哀が博士を押しのけるようにキッチンへと入り、エプロンをつける。腕まくりをした彼女の目にはやる気に満ちているようだ。手際よくカレーを作り直し味見をし、上出来だと言わんばかりに満足そうに頷く。鍋をかき混ぜる彼女はご機嫌な様子で沖野ヨーコの歌を口ずさんでいた。

 カレーは美味しく出来上がり、伊吹は真っ暗な中で黙ったままシャワーを浴びていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「深月ちゃん元気にしてるかな」

「大丈夫よ、あの子なんだか明るくなってたし」

「そうね。部活もすごく頑張ってたしね」

 

 あのストーカー事件からしばらく経った頃、深月は事件の事もあり、よその街へと引っ越していった。彼女の送別会には蘭や園子をはじめ、空手部の部員やクラスメイトも数多く駆けつけた。事件後の彼女は人が変わったように明るく元気になり、男女問わず人気を博していたからだ。彼女の真価を見抜けなかったことに涙を流し悔やんだ男子もいたそうな。

 別れの時に園子が「私の作戦のせいで、ごめんね」と泣いて謝っていたのは記憶に新しい。

 

「萩原君、何かしたの?」

 

 膝に乗せた弁当箱を突っつきながら園子が尋ねる。隣の蘭も気になっていたのか箸を止めて伊吹の様子を伺う。

 

「別に、なにも。深月ちゃんのイメチェンじゃないの」

 

 お気に入りのカフェオレを飲みながら、とぼけた様子もなく答える伊吹。紙パックに差したストローをズココッと吸い込む。

 いつもの花壇に腰掛け、足元をちょこまかと動き回る蟻の前に菓子パンのクズをこぼして遊んでいる彼を見て、「ま、そうよね」と呆れたような顔の園子。

 伊吹が見上げた空には白い雲と、大海のような綺麗な青色が広がっていた。

 

「……今日は綺麗な月が見えそうだなぁ……」

 

 伊吹の呟きに釣られるように空を見上げる園子と蘭。吹き抜ける一陣の風が頬をくすぐり、雲を押し流していった。

 

「あ、そうだ。今日って私たち昼までじゃない? それでさっきクラスの子たちとカラオケ行こうかって話になったんだけど、萩原くんも来る?」

 

 思い出したように伊吹の方へと向き直り話しかける園子。その声が届いていないかのように伊吹は空を見上げたまま答える。

 

「いや、今日は……ちょっと寄るところがあるから、パス」

「あ、そう」

 

 相変わらず掴みどころのない彼に呆れたような目で見る園子と苦笑いの蘭。伊吹は鼻から大きく息を吸い、口から吐き出す。深呼吸のあとでゆっくりと立ち上がりグッと伸びをする。

 

「今日はうちのお姫様を迎えに行こうかと思ってね」

「「?」」

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「「せんせー、さようならー!」」

「はい、さようなら。みんな車に気をつけてね」

 

 帝丹小学校に響く子供たちの元気な声。お昼を回って少しした頃、一年生は帰路へつき始めた。

コナンや灰原をはじめ、少年探偵団が一緒に校門へ出てきたとき帝丹高校の制服を着た男の姿が目にとまった。

 

「伊吹お兄さん!」

「伊吹の兄ちゃんじゃねえか」

「こんなところで何してるんですか?」

 

 子供組がわらわらと伊吹の足元へと集まってくる。ガードレールに腰掛けぼーっと空を眺めていた伊吹も子供たちに気づいたようだ。

 

「おー、元気かお前らー。今日はちょっと哀を迎えになー」

「哀ちゃん?」

「うん」

「だってよ、お迎えが来てんぞ灰原」

「……」

 

 照れているのか呆れているのか、関わりたくないと言わんばかりに目を閉じてスルーし帰ろうとする灰原。立ち去ろうとするその手をさっと掴む伊吹。

 

「迎えに来たんだし、一緒に帰ろうよ」

「はぁ……別にいいけど、手は離してね」

「えー、いいじゃん」

「嫌よ」

「近くにいないと守れないじゃん」

「……」

 

 様子を伺うように伊吹の顔を睨みつける灰原。数秒ほど黙って見つめ合う2人。根負けした灰原が何度目かのため息をついて、大人しく手を握り返す。

 

「あー、ずるーい、あゆみもー!」

「ぼ、ぼくも!」

「お、おい、まってくれよ!」

「おいお前ら」

 

 手をつないで歩く2人の後を探偵団が追いかける。伊吹の空いてる右手には歩美がしがみつき、灰原の隣に光彦が歩み寄ってもじもじとしている。そのあとに元太とコナンが続く。

 何気ない話題は尽きることなく、楽しい日常が過ぎていく。その日常の中では、伊吹の隣には灰原の姿があった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 数日後、阿笠邸にて。

 リビングのソファに座りテレビを観ている灰原の隣で伊吹の携帯が鳴る。当の本人はトイレへと篭っていて出てくる様子はない。なんとなく興味が惹かれたのか、灰原は伊吹の携帯を覗き込む。どうやらメールの着信のようだ。

 

「……」

 

 チラリと廊下の奥、トイレの方に目をやる。彼はまだ帰ってくる様子はない。灰原が不意に携帯に手を伸ばしメールを開く。そこには写真が添付されており、写真にはショートカットの女の子が快活な笑みを浮かべ、黄金に輝く大きなトロフィーを掲げながらカメラに向かってVサインをしていた。

 

『先輩へ

見てください! 小さな大会ですが、私優勝しましたよ! 少しづつですが先輩に近づいていけたらと思います。これからも日々精進で頑張ります。隣じゃなくて遠くからでいいので、見守るくらいは、してください。今からまた練習です、押忍! それではまた、いつか会える日を願っています。 深月より

PS.その時は私が先輩を守れるくらい強くなってますから、先輩を守る側として、となりに居させてくださいね♡』

「…………」

 

 伊吹に関わった人が一皮むけて成長することは、一緒にいる灰原にとっても誇らしいことであった。メールを読む彼女の表情も朗らかで、優しい笑みさえ見て取れた。

 しかし最後の追伸を読んだ彼女の顔からは笑みが消え、視線は鋭く研がれた氷の刃のようだった。彼女の機嫌を斜めにさせた決定的なものは、追伸の最後に書かれているハートマークだった。可愛らしい赤いハートが二つ並び、ピコピコとリズムよく揺れている。

 灰原はそっとメールを閉じ携帯をソファへ投げ出すと、怒りの籠った冷たい目のまま立ち上がる。スリッパを鳴らしながら真っ直ぐトイレの方へと向かい……電気を消した。一切の躊躇いのない流れるような所作であった。

 

「えっ、ちょっと、哀? なに、え、なんなの!?」

 

 真っ暗なトイレから響く声は、イヤホンで音楽を聴く灰原の耳には届かなかった。

 これは彼らの日常である。

 

 


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