「あわわわわっ、どうしましょう、どうしましょうっ! これはもしやフナチ、ピンチなのではっ!?」
未だ芙奈子は4階のレストランにいた。伊吹に率いられて避難しようとしたとき、レストランに例のぬいぐるみを忘れてしまったことに気がついた彼女は「すぐに戻れば大丈夫だろう」と取りに戻ってしまったのだ。
無事にグッズを回収した芙奈子だったが、非常口に戻ろうとした時に2回目の爆発が彼女を襲った。思わず目をつむり尻餅をついてしまった彼女が顔を上げると、非常口のドアは大きく曲がってしまっていた。女性の、ましてや比較的細身である彼女の華奢な腕ではビクともしない。
「あわわわわっ、あわわ、どうすれば、どうすれば……」
オロオロとドアの前で右往左往する芙奈子。地鳴りのような音が定期的に響いてくる。それが更に彼女の不安を煽り、みるみるうちに顔色が悪くなる。
ひび割れた床や歪んだ扉から白と黒の煙が侵入してくる。伊吹の言葉を思い出した芙奈子が慌てて身を低くしてハンカチを口に当てる。煙が沁みたのか、恐怖心が膨らんできたのか芙奈子の瞳に涙が滲んできた。
石ころほどの瓦礫が天井から落ちてくる。それを避けるように床を這ってテーブルの下へと非難する芙奈子。両膝を抱えて丸まり、三角座りで俯くように顔を膝に埋める。体が震えて止まらない。冗談では済まない状況に置かれていることを頭が理解し、心を蝕んでいく。恐怖は止めどなく溢れ出して涙となってこぼれる。
「うぅ……ぅぁあ……」
彼女にとっていつ以来か、本当の恐怖による涙。出来るだけ楽しいことを考えて気持ちを紛らわせようと、ぬいぐるみを抱きしめてお気に入りのゲームとそのキャラクターに思いを馳せる。しかし、少し落ち着いたところに追撃となる3度目の爆発。
「ひぃっ!」
目の前に人一人分あろうかという大きな瓦礫が落ちてくる。激しい音と衝撃が彼女の内臓を震わし、風が前髪とスカートを揺らす。テーブルに落ちてきていたなら、ひとたまりもなかった事は容易に想像できた。
落ち着きかけた心はまた恐怖に染められ、ぬいぐるみは形が変わるほどに抱きしめられる。
「助けて……誰かぁ……」
お気に入りのキャラクターや、少女の頃に憧れた白馬の王子様の姿が頭の中で浮かんでは消えていった。全身の震えは止まらず、歯がガチガチと鳴る。
炎はついに4階にも達し、芙奈子の体を赤く照らし出す。
*****
「うおらぁッ!!」
邪魔な瓦礫を力ずくで押しのけながら、4階までの最短ルートを突っ走っていく伊吹。目の前の扉を開けるために積み重なった瓦礫を片付けようとしたとき、3度目の爆発がビルを揺らす。天井からコンクリートの塊が降ってくる。普段なら回避することもできたかもしれないが、爆発の揺れと足元の瓦礫にバランスを崩した伊吹は直撃を免れなかった。
伊吹の埋もれた瓦礫の山はピクリとも動かず、辺りは黒煙と炎に包まれていく。
*****
それほど長くない時間も芙奈子には永遠に思えてくる。テーブルの下で膝を抱えたまま動かない彼女は、顔を伏せて耐えることしかできない。誰かが助けに来てくれることを祈りながらも、彼女の精神は摩耗し、消耗しきっていた。既に室内にまで達している黒煙と激しい炎、自分を押しつぶすように降ってくる瓦礫。死に直面する恐怖は、ただの女の子にはあまりにも辛すぎた。涙も枯れたのか、彼女の乾いた目は焦点が合わず、ボーっとしている。
そんな疲れきった彼女に、場違いな程に落ち着いた声がかけられた。
「白、か」
「……?」
空耳かとも思ったが、確かに声が聞こえた気がした。彼女がゆっくりと顔を上げると、燃え盛る炎に照らされて揺らめく黒い影が目に映る。熱気と煙に揺れる姿はどこか非現実的で幻想的にも見えた。
「蜃……気楼……」
「残念だけど、クールでミステリアスな男じゃない。筋肉キャラの方だ」
その言葉にハッと我に返る芙奈子。ヘルメットを外した伊吹の顔を見た瞬間、助けに来てくれたのだと理解し、乾いた瞳が思わず安堵の涙で潤む。
「で、白いのが丸見えだけど」
「……!!」
伊吹が何を言っているのか分からなかった芙奈子だが、ぼんやりしていた頭が覚醒すると同時に顔が真っ赤に染まる。火に照らされた赤色とは違うようだ。
三角座りの足を崩して女の子座りにし、ガバっとスカートを抑えて伊吹を見つめる。
「あのあのっ、乙女のスカートを覗くとは何事でありましょうかっ!」
「よし、意識はしっかりしてるみたいだな」
芙奈子の前にしゃがみ込み顔を見つめる伊吹。安心したように、そして安心させるように優しく微笑む。その笑顔に心の不安が取り払われ、落ち着いていくのを感じる芙奈子。しかし伊吹の体を見て思わず息を飲んでしまう。
「は、萩原様っ! 服が、体がボロボロではありませんかっ! そんな、あぁっ、大丈夫でございますか!?」
伊吹の服は瓦礫に裂かれ、端々が焦げている。濡れた服には血が滲んで黒く変色している部分もあった。
「大丈夫、ちょっと転んだだけ。それより火と煙の回りが早い、急いで脱出する」
「は、はひっ!」
伊吹は急ぎながらも優しい手つきで芙奈子の髪に触れてリボンを解く。メットを彼女の頭にかぶせ、まだ湿っている自身の服を羽織らせると、伊吹は芙奈子の脇に手を入れてふわりと持ち上げた。
「立てるか?」
「は、はいっ……、あ、あれ、力が、入りません……」
芙奈子の足はガクガクと震えてしまい、踏ん張ろうと力を込めるが立つことが出来ない。腰が抜けてしまっているようだ。「仕方ない」と伊吹は一度芙奈子を座らせる。
その時、4度目の一際強烈な爆発が彼らを襲った。
「きゃああっ!!」
激しい揺れに仰向けで倒れこむ芙奈子。その視界に焼け焦げた天井の破片が黒煙を纏いながら迫ってくる。
思わず悲鳴を上げて両腕でメットの顔部分を塞いでしまう。頭によぎるのは今日何度目になるか分からない死の予感。だが、覚悟していた衝撃は一向にやってこない。その代わりに感じるのは、震える両腕に垂れてくる生暖かい液体の感触。ポツポツという、水の打つ音がヘルメットの中に響く。
「……大丈夫か?」
聞くものを安堵させるような、テノールのように低く、力強くも優しい声がメット越しに芙奈子の鼓膜を揺らす。
ゆっくりと瞳を開くと、先ほどと同じようにこちらを安心させるような優しい笑顔があった。違うのは背中から焦げたような匂いがすることと、頭から血を流していること。そしてメットの視界に広がる赤い液体。
「は……萩原、様……」
「大丈夫そうだな。立てないなら仕方ない、担いで行くぞ」
芙奈子に怪我がないことを確認した伊吹は彼女のメットに落ちた血を拭い、彼女の膝と背中に手を回しお姫様抱っこで持ち上げる。しかし立ち上がることはせず中腰を保ち、極力煙を浴びないように非常口へと進んでいく。
「は、萩原様、扉が……」
「大丈夫だ」
芙奈子をそっと降ろして扉の前に立つ伊吹。炎で熱されたドアノブを顔色一つ変えずに握り締める。手から肉の焼けるような音が聞こえた。
「萩原様! 手が! と、言いますかもう全身がぁ……」
「大丈夫だから」
あわあわ、オロオロ、と痛そうな顔で伊吹を見つめる。そんな彼女に力強く返事を返す伊吹。強がりではなく、その言葉の裏には確固たる自信があるようだ。
「うらぁっ!」
腕周りを中心に全身の筋肉が隆起する。芙奈子ではビクともしなかった扉は、激しい金属音を立てて勢いよくこじ開けられる。
恐怖や申し訳なさ、様々な感情が芙奈子の心を満たしていたが、それを忘れてしまうほどに目の前の出来事は非現実的だった。
扉を開けた伊吹は再び芙奈子を抱きかかえる。手のひらには更に新しい火傷の跡が増えているが、そんなこと全く気にした様子もなく、伊吹は煙と炎を避けながら非常階段を駆け下りていく。
彼に抱えられ、下から見上げる芙奈子。火傷を負い、怪我をして、血を流し、すすと汗で泥だらけになりながらも命懸けで助けに来てくれた彼。自分が必要ないと、何のためにあるのかと言い放った彼の逞しい筋肉。人助けのためと言った彼に冗談めかしたことしか言えなかった自分が恥ずかしくなってくる。
炎の明かりに揺れる伊吹の顔を見つめながら、「筋肉男子もありかも」とトキメキ、場違いなことを妄想してしまう芙奈子。
「い、いけません、そんな……。わたくしには、蜃気楼の君様という心に決めた殿方が……! あぁ、でも、そんな……」
腕の中でブツブツと何かを呟く芙奈子。ヘルメットにくぐもって何を言っているのかはわからないが、いつもの調子に戻ったということは心に余裕が出てきたのかと安心する。
2階に繋がる階段へ到達したとき、伊吹はその軽快な歩みを止めた。目の前には鉄筋やコンクリートなど多くの瓦礫が積み重なっており、伊吹の力でも突破するのは難しそうだ。更にその奥には炎が猛々しく燃え盛り、真っ黒の煙に満ちている。ここを抜けたとしても、芙奈子の体ではその先に耐えられそうにない。
伊吹はほんの数秒ほど考え込んで、芙奈子へ尋ねる。
「フナチちゃん、絶叫ものとか、平気?」
「あぁでもでもっ、そのようなことを言われたらフナチはー……え、あ、はい。フナチは遊園地に行っても必ず絶叫ものを避ける程に苦手分野でございます。今まで一度も乗ったことはありませんが」
「……何事にも初めてはある」
「ふぇ?」
そう言うと伊吹は来た道を逆走し、一気に階段を駆け上がり3階へ繋がる扉を力技でこじ開ける。3階フロアも炎と煙に包まれてはいたが、2階よりかは幾分マシだ。
伊吹は窓辺へと駆け寄り下を覗き込む。しばらく視線を彷徨わせた彼の目が一点で止まる。その先には一台のワンボックスカーが停まっていた。
抱きかかえる芙奈子と目を合わせてニヤリと笑う。一連の行動を見ていた芙奈子の脳裏に嫌な予感がよぎった。
「あの、まさか、萩原様……ま、まさかとは思われますが……」
顔を青くしながら伊吹へと尋ねる。そんな芙奈子を安心させるように、伊吹は渾身の優しいほほ笑みを投げかける。歯がキラリと光ったような気がした。
「い、いやです、無理です! そんな笑顔で見られても多少心がときめいたとしても! それとこれとは別の話でありましてっ、フナチにそれは無理です! 怖いです!」
「焼け死ぬよりましだろ。大丈夫、助けるから」
ワンボックスカーまでの距離は微妙に遠く、伊吹は窓から離れて助走距離をとる。芙奈子を抱っこする形に抱きしめなおす。
「あ、あのあのっ、こ、こんなことをされましてもフナチはですねっ」
「舌噛むから口を閉じてな」
「へ?」
「行くぞっ」
芙奈子を抱えたまま窓へ駆け出す伊吹。物のように抱きかかえられた芙奈子は宙ぶらりんの状態だ。窓は何度目かの爆発で既に飛び散り風通しが良くなっている。
疾風の如く伊吹の速度が増していく。芙奈子の視界には伊吹の厚い胸筋しか写っておらず、何が起こっているのか正確には分からない。しかし持ち上げられた体に感じる重力から、紐なしバンジーが始まったことを理解した。
伊吹は窓のヘリに足をかけ、走る勢いそのままに全力で飛び出す。
二人の体が重力から解き放たれた。
*****
「キャーーーーーーーーー!!!!」
なかなか戻らない伊吹と、更に起こる爆発。灰原は拳とハンカチを握り締めて不安げに燃え盛るビルを見上げる。炎は既に5階へと達している。子供達や博士、コナンも伊吹の帰還を信じて待つしかない。ついに歩美が泣き出してしまったその瞬間、一同の上からくぐもった甲高い女性の悲鳴が降り注いだ。
それが何かを理解するよりも早く、それは停まっていた白いワンボックスカーの上に叩きつけられるように落下してきた。車のフロントは飛び散り、屋根はぐしゃりと潰れている。野次馬をかき分けて探偵団一行がたどり着くと、そこでは待ち望んだ男がうめき声を上げていた。
「うぅ、ぁ……さすがに痛いな……」
「……」
芙奈子を抱きかかえたまま上半身を起こす伊吹。彼女の方は目を回して気絶しているが無事なようだ。伊吹が芙奈子を抱きしめたまま自身の背中を下敷きにして着地したため、怪我もない様子。
「ちょっと、大丈夫っ!?」
珍しく慌てた様子を隠す余裕もなく灰原が車に駆け寄る。真っ先に駆けつけた彼女に続くように探偵団たちも集まる。伊吹は気絶した芙奈子を抱えて車を下りる。
「あー……痛い。けど動ける程度には、大丈夫」
ぐったりする芙奈子を小脇に抱えてゆっくり動く。一先ず無事そうな彼を見てほっと胸を撫で下ろす灰原。しかしそれも束の間、よくよく彼の体を見ると全身に火傷や出血が見て取れる。いつもより鋭い目つきで彼を睨みながら珍しく声を荒げる。
「怪我してるじゃないっ、なにやってるのよっ!」
「あ、いや、でもこっちは無傷だよ」
「そっちはどうでもいいのよ!」
「えー……」
抱えた芙奈子を得意げに見せる伊吹に益々怒りがこみ上げる灰原。探偵団や阿笠博士も気圧されているようだ。
「あなたがっ……! あなたが……、その子を助けに行って命を落としたら、私はその子を許さないわ。あなたが誰かのために命を落としたら、私は絶対にその誰かを許さない」
「……」
「……」
いつもより鋭く睨みつけてくる灰原を見て、本気で怒っていると察した伊吹は申し訳なさそうに笑みを浮かべて、彼女の頭に手を置く。
「わかった……ごめん。哀がそこまで言うなら、命をかけるのは哀のためだけにするよ」
「ちがっ、私は別に……っ」
そんなやり取りをしていると、救急隊員が駆け寄ってきた。それに気づいた伊吹が芙奈子を差し出す。
「お、救急車。ちょうど良かった、この子を頼むよ」
「あなたが先よっ!」
「え、あぁ、そうか」
大きなため息を吐いて伊吹を救急車に押し込む灰原。しかし伊吹は寝台に芙奈子を寝かせ、自分は同伴者用の椅子に腰掛ける。怒りと呆れの混じった目で伊吹を見つめながら、自分も椅子に座る灰原。
「私も行くわ」
「そう。じゃあみんな、またね」
救急車後部の窓から火傷がくっきりと見える手を振る伊吹。救急車は米花中央病院まで去っていく。彼の飄々とした態度と、強靭な肉体に、残されたメンバーは唖然とするしかなかった。
「じゃあわしらはタクシーを呼んで病院まで行くかの」
「「はーい」」
ビルの炎は夜風に吹かれて更に激しさを増していった。もうしばらく鎮火しそうにない。
*****
「あの時はもうダメかと思いましたー」
「あれくらいの高さなら平気だよ、筋肉キャラだからね」
「…………」
コナンたちが病院に着くと、既に伊吹と芙奈子の治療は終わっており、病室のベッドに座り談笑していた。2つ並んだベッドに伊吹と芙奈子がそれぞれ向い合わせに座り、灰原は伊吹の隣に座っている。
しかし笑いながら話しているのは伊吹と芙奈子のみで、灰原の機嫌はすこぶる悪いご様子。芙奈子が頬を赤く染めるたびに灰原の頭に怒りのマークが浮かんでいく。
「あ、博士にみんな、わざわざ来てくれたんだ」
「うむ、どうやら2人とも大丈夫そうじゃのぉ」
「皆々様っ! 大変ご心配とご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんっ!」
深々と頭を下げる芙奈子に無事でよかったと子供たちが駆け寄る。そんな彼女の様子を見ながら、灰原が先程までの苛立ちをぶつけるように口を開く。
「それにしても、あなたが無駄と言ってた筋肉に命を救われたわね」
「はいぃ、それに関してはお詫びのしようもございません……。それに、本当に命を助けていただいて、感謝の意を表しきれない次第であります……」
ショボンと落ち込み俯く芙奈子が、申し訳なさそうに上目で伊吹の方を見つめる。
「いいよ、気にしてないさ。役に立てたならよかったよ」
伊吹が芙奈子の頭を軽く叩くと、いつもの明るい笑顔が彼女に戻る。2人に漂うそこはかとない甘酸っぱい雰囲気にさらに怒りマークが増える灰原。腕組をして指先を苛立たしそうにトントンと動かす。組んだ脚先も落ち着かないように動き続ける。
「それにしても本当にすごい筋肉ですねー。……あの、触ったりしてもよろしかったりなんかしたりしますでしょうかっ!?」
「あ、うん。別にいいよ」
あっさりと了承を得て伊吹の胸筋や腹筋、腕の筋肉などを指先でつつく芙奈子。「ふわぁ」と息を漏らしながら遠慮しがちに触っていたが、徐々に手のひら全体で触れ、最後は鼻息を荒げながら両手で撫で回す。
灰原の目つきは悪鬼の如く釣り上がり、背後には先ほどの火事にも負けないような激しい炎が見え、髪の毛が揺らめいているような気さえする。探偵団一同はその幻視に思わず怯えてしまう。
「そ、それで、2人は今日はどうするんじゃ?」
見かねた博士が咄嗟に話題を振る。触ることに夢中になっていた芙奈子はハッとして自分のベッドに座りなおす。思わず垂れていたよだれをじゅるりと拭った。
「今日は俺もフナチちゃんも入院だよ。明日には帰るけど」
「おいおい、大丈夫なのか、一日だけの入院で」
「医者と同じこと言うな、コナン。大丈夫だよ、平気平気」
「博士、私も今日は付き添いでここにいるわ」
目を閉じた灰原はさも当然と言わんばかりに告げる。
「え、哀も泊まるの?」
「あら、私がいるとなにか不都合でもあるのかしら」
「いや、ないけど。ただ、他のベッドは勝手に使っちゃダメだろうし、寝るところないよ?」
「一緒に寝ればいいじゃない」
「!?」
あっけらかんと、まるで「いつもそうしてるでしょ」といった含みを持たせた言い方だ。思わず反応してしまう芙奈子。そんな彼女の様子をチラリと伺う灰原。勝ち誇った笑みを浮かべる灰原と、どこか悔しそうな羨ましそうな芙奈子の視線がぶつかり合い火花が飛び散る。
もはや関わるまいと博士とコナンは子供たちを連れて帰り支度をする。
「じゃ、じゃあもう遅いし、わしらは帰ろうかの。2人ともお大事に、哀君よろしく頼むぞ」
「じゃあ、せいぜい気をつけるんだな」
苦笑いを浮かべる博士に意味深な言葉を残すコナン。子供たちは手を振りながら病室をあとにした。残った病室には静かな沈黙が残される。
「哀も別に帰って大丈夫だよ」
「いえ、帰らないわ。あなたの身が危なそうだし」
「怪我なら問題ないけど」
「別の意味でよ。ね、お姉さん」
「! ふ、フナチはそんなふしだらな女ではありませんっ!」
敵意を隠そうともしない挑戦的な視線を投げつける灰原。彼女の言葉の意味を理解したのか、芙奈子が顔を真っ赤にして反論する。彼女らの言葉の水面下での牽制は消灯時間まで続けられた。
*****
暗くなった病室のベッドには3つの影が横になっている。2つの大きな影が寝息を立てた頃、小さな影の瞳が静かに開かれる。音もなく体を起こし、隣で眠る男の顔を覗き込む。
「……ぁぁ、ぅ……ん」
寝言を漏らし、目を覚ます様子はない。そんな彼の顔を見ながら優しく微笑む少女。男の髪をそっと撫でて頬に指を滑らせる。そして彼の顔へゆっくりと自分の唇を近づけていく。
窓から差し込む月明かりに伸びる2つの影が、ゆっくり静かに重なった。暗い病室に浮かぶ少女の顔が青い月光に照らされる。彼女の顔は満足そうに微笑んでいた。
*****
「皆様! 萩原様! 大変お世話になりましたっ! フナチは、フナチは旅立ちますっ!」
翌日、米花駅に退院した芙奈子を見送るため、伊吹と灰原をはじめ、博士や探偵団が集まっていた。
「お大事にのぉ」
「バイバイ、フナチお姉さん! また遊ぼーね!」
「またタイタンハンター教えてくれよなー」
しゃがみこんで子供達と抱き合い、大げさに別れを惜しむ芙奈子。チラリと伊吹の方を見上げる。
「じゃあまたね、フナチちゃん」
「は、はひっ、あ、あの……フナチはいろいろ失礼なことを言ってしまいました! そして命を助けてもらいました! これ以上わがままを言うのは気が引けてしまいますが、しかしここで勇気を振るわねばフナチの後悔は大時化の荒波のごとく押し寄せると思われますので言わせていただきたく存じますっ!」
「は、はい、どうぞ」
早口にまくし立てながら立ち上がり、両手を胸の前で強く握り締めて伊吹へと迫る彼女。思わず片足を引いてたじろぐ伊吹。
「れ、連絡先を、教えていただきたく……」
先程までの勢いはどこへやら、尻すぼみに声のボリュームは落ちていく。それに合わせるように顔は俯いていき、顔は耳まで赤くなる。
「い、いいけど」
「っ! あ、ありがとうございますぅっ!」
「……」
鋭い灰原の視線を浴びながら伊吹の連絡先を手に入れた芙奈子は、ほくほくした顔で携帯を握り締める。灰原と目が合うと昨夜の続きのように火花が散る。
そして芙奈子は名残惜しそうに何度も振り返り、元気いっぱいに手を振りながら駅の人ごみへと消えていった。
彼女が去っていったことを確認して、腕を組んで目を閉じた灰原が溜まっていたストレスを吐き出すように一際大きなため息を着いた。
「ため息を吐くと幸せを逃すよ、哀」
「そうね、最近悩みの種が増えていくわ」
「へー、どしたの」
「……」
呆れ顔で伊吹を見上げる。全く原因に心当たりがない彼に対して、「あなたのせいよ」という言葉を飲み込んだ。
「にしても、フナチちゃん面白い子だったね」
「……そうね、愉快な子だったわ。本当に」
「なー。元気いっぱいで可愛かったよ」
その言葉を聞いた灰原はそっと伊吹の背後へと回り込み、振りかぶった手を背中に打ち付ける。
「痛いっ!」
思わず背筋を伸ばす伊吹の足を踏み抜きさらに追い討ちをかける。体を弓ぞりにして悶絶する彼を無視してさっさと帰っていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ、哀。あいたた、どしたのさ……おーい」
「……ばか」
呼びかけても歩を緩めることなく去っていく灰原。その背中を困惑しながら追いかけていく伊吹。突き抜けるような高い青空の下で、気まぐれな猫とそれを追いかける子供のように、お互いがその距離を楽しんでいるかのような2人。
吹き抜ける爽やかな風にかき消されて、彼女の小さな呟きが彼に届くことはなかった。