哀歌   作:ニコフ

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4話 『ばか』 後編

「おい、どうすんだッ! 誰だか知らねえがここに来るぞッ!」

 

 携帯を握ったままの男が振り返り、リーダーの男へと慌てたように相談する。リーダーはナイフを片手にソファへ座り直し、慌てる男に落ち着いた声で話す。

 

「大丈夫だ。小僧の話と今の電話から察するに、相手は一人だけだ。こっちは五人、武器もある」

「あの男がサツを呼んでたらどうすんだッ!?」

 

 男たちは電話の向こうの男の行動が読めずに浮き足立つ。その時、電話の男からの呼び出しが再び室内に鳴り響く。

 携帯を持っている男から、リーダーが携帯を奪うように取る。通話ボタンを押す前に画面を見たリーダーが「何だこりゃ?」と首をかしげた。しかし気にした様子もなく、電話に出ると、受話器の向こうから淡々とした、機械のように無感情で無機質な声がする。

 

『もうすぐだ、もうすぐ着く』

「てめえ……」

 

 リーダーが受話器の向こうの男に脅すように低い声で釘を刺す。

 

「てめえが誰だか知らねえが、このガキ達が大事だって事はわかった。もしお前がサツを呼んでいるなら、こいつらの命は」

『大丈夫だ、俺1人で行く。警察を呼ぶのはお前の鼻っ面へ一発ぶち込んでからだ』

「……」

 

 リーダーは相手の言葉の真意を読み取るように思案する。そこに大人びた少女の声が聞こえた。

 

「彼は1人で来るわ」

「あぁ? お嬢ちゃんにそれがわかるのかい?」

「ええ、その電話の彼は、そういう人だから」

 

 リーダーは携帯を耳に当てたまま、灰原を睨みつけ、今度は彼女の真意を読み取ろうとしているようだ。しばらく灰原の様子を窺ったあと、リーダーは通話を切り別の男へ携帯を投げ渡した。

 

「この子達を残してずらかった方がいいんじゃ?」

 

 慌てて電話を受け取った男が提案する。その言葉にまたリーダーは冷静に言葉をつむぐ。

 

「いや、俺たちが高飛びするための飛行機が出るまでまだ時間がある。空港で足止めを食らうのは避けたいところだ。いや、空港に限らず、人目につくとこに長時間いるのは避けたい。ギリギリまでここにいる」

「じゃあこのガキ共だけでも今のうちにバラしてッ」

「それもダメだ。人数でも武器でもこっちが有利だろうが、人質ってのは切り札になる。わざわざ捨てるこたねえよ。バラすのはいつでも出来るんだ」

 

 リーダーは「それに」と続ける。

 

「わざわざここに1人で乗り込んできてくれるって言うんだ、人目につきにくくバラしやすいココによ……。俺はあの手のヒーロー気取りが大嫌いなんだ。あいつもそうさ、急に自首だのなんだの正義漢ぶったことを言い出すから、殺っちまったんだよ」

 

 ほとんど日も暮れ、室内に暗い影が広がる中、リーダーの男がナイフをギラつかせながら子供たちを一瞥する。ここで電話の男を迎え撃つ、そう話がまとまったようだ。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「お前はガキ共が入って来た穴だ。お前は反対側にいろ、塀を乗り越えるかもしれねえ。お前は正面だ、真正面から来るとは思えねえが、念のためだ。お前は俺と一緒にここで人質の監視だ。やつが来たら構いやしねえ、ぶっぱなせ。ここらなら大して音も響かねえ、殺した奴は分け前を増やしてやる」

 

 リーダーが傍らに置かれた鞄の中から乱雑にトランシーバーを取り出し、3人の男にそれを渡しながら指示を出す。彼らはそれぞれ自身の拳銃を取り出し、装填を確認する。男たちは右手に拳銃を、左手にトランシーバーを握りしめて持ち場へと向かった。

 部屋の中には探偵団と2人の男が残され、外に出た他の男たちも自身の持ち場で辺りをキョロキョロと見回している。

 その時、暗い部屋に電子音が響いた。ボロボロの机に置かれた灰原の携帯のようだ。リーダーが携帯の明かりに忌々しそうな表情を浮かべながら電話を取る。

 

「てめえ、舐めてんのか……?」

『今着いた』

『――――めん――だッ!』

 

 電話の向こうから淡々とした声が聞こえた瞬間、トランシーバーからはザザッというノイズ混じりに男の困惑したような、慌てた声が聞こえた。

 

『――こいつ、正面から――ッ!』

 

 その言葉を最後に声は途絶えた。最後に一瞬聞こえたのは、何かが殴られたような骨身に響く重たく鈍い音だった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 空はほぼ闇に覆われ、遠くの方に僅かな橙が見えるのみ。日の高い昼間ですら薄暗かった雑木林は一層に黒を濃くし、風にざわめく木々の音は不気味な泣き声にも聞こえる。コナンたちが侵入してきた穴の周囲を警戒していた男は、奥に佇む林を見て思わずゾッとする。

 どこかから聞こえてくるカラスの鳴き声が、落ち着き無くこだまする。何かに怯えるように群れをなして、屋敷の上空を飛び回っている。思わずそのカラスの群れに気を取られる男の耳に、ノイズ混じりの声がトランシーバーから聞こえた。

 

『――やつは正面だッ!』

 

 リーダーからの連絡を受けた男はハッとして、弾かれたように屋敷の正面へと駆け出した。屋敷には電気が通っておらず、光の漏れている部屋はない。塀の向こうは雑木林であり、街灯などは存在しない。辺りには当然光源となるものはなく、屋敷の敷地内といえど視界は悪かった。そんな中を男は前だけを向いて走る、急いで正面まで駆けつけようとしているのだ。

 すると唐突に、生い茂った真っ暗な草の中から2本の豪腕が伸びてきた。その2本の怪腕は男の首に絡みつき、男が声を上げる間もなく、何をされたのかも理解できぬまま、意識を闇に溶かした。

 男の意識が飛んだことを確認した伊吹は両腕を外し、その体を乱暴に捨てる。ゆっくりと顔を上げ、白く輝く月を眺める。その目は鋭く鈍く光り、顔には一切の感情がなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「あいつはッ、どこだッ!?」

 

 もう1人の男が反対側から屋敷の正面へと回り込んでくる。拳銃を構えながら辺りを警戒するも、そこに探している獲物の姿はなく、仲間も見当たらない。暗闇に1人残される男。不気味な風が足元を吹き抜けていく。思わず生唾を飲み込み、体に汗が滲んでくるのがわかった。

 

「!?」

 

 後ろから聞こえてきた足音に慌てて男が振り返る。抜き足ではない、隠す様子もない堂々とした歩みだ。見えない洋館の角から近づいてくる、その方向へ銃口を向けたまま男は待ち構える。

 影から姿を現したのは、筋骨隆々な青年。服の裾から除く手足や首、顔に残る傷跡にカタギの人間ではないと察する。なによりその冷たい機械のような顔は、並の修羅場を潜ってきただけでは出来ない。男は不意に、眼鏡の少年の言葉を思い出した。

 

「未来から来た殺人ロボット……か」

「……」

 

 伊吹はチラリと男の手元を見る。その拳銃を一切気にすることもなく、その足を止めない。

 

「動くんじゃねえよ……」

「……」

 

 男の声も無視して進んでいく伊吹。そんな彼の態度に腹を立てた男は、こめかみに血管を浮かせて拳銃を握り締める。ためらいなく引き金にかけた指に力を込めた。

 しかし、弾丸が射出されることはなかった。

 

「な、なんだ、この銃ッ、どうなってんだッ」

「それじゃあ撃てない」

 

 弾が発射されないことに焦る男は自身の拳銃を睨みつける。止まることなく歩み寄る伊吹。

 

「トカレフは……」

「!?」

 

 伊吹の声がすぐ目の前から聞こえ、慌てて顔を上げる男。目の前の男は拳銃の銃口に自身の左手のひらを押し当ててくる。その手に風穴を開けてやろうと急いで引き金を引くも、やはり火薬は炸裂しない。

 

「トカレフは装填してあっても、撃鉄が起きていないと撃てない」

「ぅあぁッ!」

 

 淡々とそう告げた伊吹は左手で男の拳銃を掴み、一気に上へと捻り上げる。男の呻き声をよそにその手から銃を奪う。痛む右手を抑えながら男は伊吹を睨みつける。伊吹は銃から弾倉を抜き捨て、薬室に装填されている1発も、銃をスライドさせて排莢する。空になった本体を落とすようにその場に捨てる。

 その声や表情と同じように淡々と戦う伊吹の姿に、男の心には恐怖心が芽生える。その恐怖をかき消すように、痛めた腕に構わず決死の思いで殴りかかった。だがそれすらも、伊吹は淡々と処理する。

 男は自分の身に何が起きたかもわからず、気づいたときには視界が反転していた。自分が倒れているのだとわかったときには、伊吹の姿はそこになかった。脳がシェイクされたように目が回り、視界が端から暗くなり意識が徐々に遠のくのを感じる。最後になんとかトランシーバーを掴むも、うめき声しか上げることはできなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

『ぅぁ――あぁ……――』

「おい、どうしたッ、返事しねえか!」

 

 リーダーがトランシーバーに向かって声を荒げる。しかし最後にうめき声だけを残して、誰とも連絡がつかなくなった。例の“やつ”を殺した知らせも、ましてや銃声の一発も聞こえてはこない。僅かに焦りの色を見せるリーダーが、室内に残っていたもう1人の仲間を見る。その男はリーダーの意図を読み取ったように頷くと、銃を片手に部屋をあとにした。もはや月明かりしか頼りがないほど暗くなた部屋には、険しい顔付きのリーダーと黙り込む探偵団が残される。しかし子供たちの表情は、男たちの連絡が途絶えるたびに明るくなっていった。

 

「最悪手ね」

 

 これまでのリーダーの采配を見ていた灰原の声が、静まり返った室内に鈴を鳴らしたように響く。手足を縛られた状態で三角座りをしたまま目を閉じている彼女。もはやその姿に一切の焦りや緊張は見られなかった。

 

「あ? なんだって?」

「最悪手、って言ったの」

 

 苛立たしげに灰原へと聞き返すリーダーに、間髪いれずもう一度伝える。

 

「あなたたちは全員一緒にいるべきだった。ここで彼を待ち構えるにしても、迎え撃ちに行くとしても。5人がかりでいけば、息の一つくらいは乱せたかもしれないわ」

 

 目を半分ほど開き、ぼんやりとひび割れた窓から空を眺めて呟く。隣のコナンも、呆れたような表情を浮かべている。同じことを思っていたようだ。

 

「ま、束になっても結果は同じだったでしょうけど」

 

 その灰原の言葉に怒りが込み上げるリーダー。月明かりに照らされた男の顔は眉間にしわを寄せ、目が見開かれる。顔は怒りに染められ、手にはナイフを握り締め灰原の方へと近づいていく。

 男の雰囲気に怯える子供たちに対し、「なにか用?」とでも言いたげな澄まし顔を向ける灰原。男が右手に握ったナイフに力を込める。それをゆっくりと振り上げたとき、左手に握り締めたトランシーバーからノイズが鳴る。

 

「どうだッ!? ヤツはどうしたッ!?」

 

 慌ててトランシーバーに話しかける男。しかし、聞こえてきたのは、男にとって最も聞きたくない声だった。

 

『――あとはお前だ』

 

 影に溶けるような暗い部屋の中に恐ろしく静かな、それでいて激しく燃える怒りがくべられた様な、冷たい炎のような低い声が溶け込む。男は自分の背中に冷たい汗が伝うのを感じた。

 

「……」

 

 先ほどの怒りとは違い、恐怖と焦りに染まった顔で、男は灰原へと向き直る。男の腕が彼女に伸びた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 コツ、コツ、という靴の鳴る足音が聞こえてきた。扉の前に人の気配を感じる。子供たちは期待の籠った瞳で扉の方を見る。蝶番を軋ませながら、ゆっくりとドアが開けられた。

 扉の奥の闇の中から、何者かが近づいてくる。足元から少しずつ月明かりに照らされていく。脚を、体を、腕を、そして照らされた顔は、子供たちが、そして灰原が待ちに待った者の姿だった。

 

「動くんじゃねえッ」

 

 伊吹が室内で目にしたのは両手足を縛られ、並んで座らされている子供たち。そして、灰原の腰に腕を回して持ち上げ、その首元にナイフを突きつけた男の姿だった。

 

「てめえ、何もんだ……ッ」

「……」

 

 男の質問が耳に届いていないように無視する伊吹。周りの状況を窺い、子供たちの怪我の具合や、他に仲間がいないかなどを確認する。

 

「無視してんじゃねぇッ! てめえがこのガキの保護者だって事はわかってる。ガキの首裂かれたくなけりゃそこをどけッ!」

 

 伊吹の態度に声を荒げる男。腕の中の灰原は「保護者」という言葉に反応し、思わず不機嫌そうな顔を浮かべる。

 そんな灰原と伊吹は視線を合わせアイコンタクトを取り、彼女は伊吹の考えを読み取った。

 怒れる男がナイフを灰原の首元から離し、伊吹の方へと切っ先を向けたとき、灰原は深くお辞儀をするように思い切り体を曲げる。男が「なんだ」と言葉を上げる間もなく、振り子のようにスイングされた灰原の後頭部が男の鼻っ面へと直撃する。後頭部を使ってのヘッドバッドだ。

 

「がぁッ……!」

 

 小さな女の子の力だが、固い後頭部を使った顔面への渾身の一撃は男を一瞬怯ませるには十分だった。思わず赤い鼻をナイフを持った右手の甲で抑え、顔を仰け反らせる。すかさず灰原は、今度は屈伸するように両足を曲げて体を丸める。そしてその体を一気に伸ばし、その勢いで縛られた両足を使いドロップキックのように男の腹を蹴り抜く。

 

「うぐぁッ……!」

 

 子供といえど両足を使った全力の蹴りが、油断した腹に突き刺さる。思わず口が開き、痛みに目は閉ざしてしまう。灰原は蹴った勢いのまま男の腕から逃れる。しかし両手足を縛られた彼女は受身も取れないまま床へと落ちていく。

 

「このガキッ……っ!?」

 

 思わず痛む腹を抑えて体を曲げ、灰原を手放してしまった男が、怒りと苦しさからこめかみに血管を浮かばせ、顔を赤くし、ナイフを振り上げる。足元に叩きつけられたであろう灰原を切りつけようと目を開いたとき、男の視界には落下する少女をすんでのところで抱きとめた伊吹の姿があった。

 驚愕に一瞬、男の体が固まる。その一瞬で伊吹は灰原を滑らせるように横に避難させる。男が構わずナイフを振り下ろす。伊吹は振り返りつつ立ち上がる。男のナイフを左手で捌き、立ち上がる勢いそのままに、男の顎へと右の硬い拳を叩き込む。決して軽くはない男の体が、人形のように宙を舞った。

 吹っ飛んだ男の体は転がるように部屋の奥の影の中へと消えていった。暗い中かすかな明かりで見えたのは、飛び散る男の歯と、口から吹き出す血飛沫だった。「子供たちに見えなくてよかった」と伊吹は1人安堵した。

 

「子供だからって、舐めないでよね」

 

 得意げな灰原の声も、暗闇の中で意識の途切れている男の耳には届かなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「やっぱりすごかったぜ! 伊吹兄ちゃんのパンチはよ!」

「哀ちゃんもすっごくかっこよかったよ!」

「はいぃ! 戦う灰原さんもワイルドで素敵でした!」

「あんな状況になってたのに、元気だねー君たちは」

 

 伊吹が最後の男を木の葉のように殴り飛ばしたあと、他の気絶しているメンバーもまとめて縛り付け、警察へと通報した一同。警察での事情聴取は明日に行われることとなり、今は帰宅の途についている。そう深い時刻ではないが、すっかり日は沈み、空には明るい月と星が瞬いている。

 一同の話のネタは先ほど目撃した伊吹と灰原の勇姿について。前を歩く子供たちは目をキラキラと輝かせながら楽しそうに話をする。コナン、灰原と並んで後ろをトボトボと歩く伊吹は切り替えの早すぎる子供たちに苦笑いを浮かべる。

 

「てかおめー、どこであんな動きを?」

「昔、彼に少し教えてもらっただけよ」

 

 コナンの質問にさらりと答える灰原。何かあった時のために伊吹は灰原に少しだけ、護身術もどきを手ほどきしていた。「まさか役に立つ時がくるとは」と伊吹が呟く。

 

「それにしても哀ちゃん、伊吹お兄さんのあの名前は可哀想だよー」

「いいのよ、別に」

「あー、あれな……」

 

 歩美が振り返って困ったような笑顔で灰原の方を見る。その言葉に同意するようにコナンも苦笑いを浮かべる。光彦や元太も、どこか伊吹を同情するような目で見ている。灰原だけは澄まし顔のままだ。

 

「え、なに、名前ってなんなの?」

「いや、実は灰原の携帯に登録されてるおめーの名前がよ」

「別に。何でもないわ」

 

 なんの話か分からない伊吹はキョトンとしながら尋ねる。コナンが半笑いで伊吹に教えようとするが、すかさず灰原が遮る。彼女は両手を後ろに組み、伊吹の方へ顔は向けず、目はいつものジト目のまま前を向いている。

 

「なんだよ、なんて登録してんのさ、「伊吹」とかじゃないの?」

「ええ、そうね。「伊吹」よ。気にしないで」

「えー、ダーリンとか?」

「……そういうことを言うあなたにピッタリの名前よ」

 

 灰原が呆れた顔で伊吹を見上げる。伊吹が本当は何なのかと尋ねるも、彼女は「ひみつ」といたずらっぽく小さく微笑むのみだった。

 そして翌日の事情聴取にて、子供たちは屋敷に侵入したことをこっぴどく叱られ、伊吹はすぐに警察に通報しなかったことを説教された。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 数日後、晴れ渡る空の下、近所の公園でサッカーを楽しむ少年探偵団。一通り動き回ったメンバーが園内のベンチへと腰を掛け休憩をとる。そして先日の事件のことや仮面ヤイバーの話、学校での出来事など他愛もない雑談に花を咲かせる。

 すると灰原のポケットから例の着信音が聞こえた。特に慌てている様子も見られないが、どこか素早い動きで携帯を取り出す灰原。

 

「もしもし? ええ。公園よ。……そう、わかったわ」

 

 電話の向こうの声は聞こえなかったが、着信音からコナンには電話相手が誰なのか察しがついていた。頭でサッカーボールを弾ませながら、ニヤニヤとからかうような笑顔を浮かべてコナンは灰原に問いかける。

 

「萩原がどうかしたのか?」

「……」

 

 キッといつにも増して鋭い目でコナンの方を睨みつける灰原。思わず「うっ……」と言葉が詰まる。

 

「……近くで買い物してたらしいから、こっちに寄るそうよ」

「そ、そうか。ていうかおめー……なんか電話に出るの早くねーか?」

「そうかしら、別に普通よ」

 

 鋭い目閉じて、携帯を仕舞いながら淡々と告げる。コナンは灰原の電話に出る動きに何やら違和感を覚えるも、受け流されてしまう。

 コナンはとりあえず着信音の件でからかう事はやめようと、先ほどの灰原の目を思い出していた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「ほれ、ジュースだぞ諸君」

 

 買い物袋を手にした伊吹が公園に姿を現したのは10分ほど経ってからだった。サッカーをして汗をかいた子供たちはジュースを取り合う。灰原は「なんで同じのを買ってこないのよ」と伊吹の買い物に愚痴をこぼしながらも子供たちの仲裁をし、世話をしている。

 その光景を見ながら伊吹とコナンは少し離れたベンチに腰掛け、特に意味もない雑談を交わす。「そういえばよー」とコナンが話題を振る。

 

「灰原ってなかなか電話に出ないよな。携帯持ってんのに機嫌が悪いと無視しやがるし」

「……? 哀はそのへん律儀だから電話にはすぐ出るぞ?」

「……」

「出られないときは必ず後からかけ直してくるし」

「あー……それか」

 

 コナンは伊吹の言葉に、先ほどの灰原に感じた違和感の正体を理解した。コナンの記憶では、灰原は機嫌が悪いとき、特に朝方などはほぼ確実に電話に出ない。普段でも何度かコールで呼び出してようやく、といった具合である。それが先ほどの灰原は着信後すぐに電話をとっていた。そこに違和感を覚えていたのだ。そして、その差の理由が何なのか推理するまでもなく分かっているコナンは、「アホらし……」と引っかかっていた自分に対して苦笑いを浮かべる。

 

「あー……灰原はすぐ電話に出るのか?」

「ああ。俺にもすぐに出るよう言ってくるし。出られなかったらかけ直せって」

「あ、そう。まあ疲れない程度に付き合えよ」

「んん?」

 

 呆れたような顔をしながらぼーっと青い空を見上げるコナン。彼が何の話をしているのか分からず頭に「?」を浮かべる伊吹。

 伊吹は子供たちのジュースと一緒に買ってきたカフェオレを飲みながら、子供たちの世話を焼く灰原を眺める。雲一つない青空の下で、子供たちに優しい笑顔を向ける彼女の横顔を見て、伊吹は心が暖かくなり、くすぐったくなるような感覚がした。思わず自分の顔に笑みが零れるのを感じる。

 子供たちが元気な笑顔でこちらに駆けてきて、その後をゆったり歩きながら付いてくる灰原。爽やかな風に揺らされる髪の毛を、目を細めて少し鬱陶しそうに右手で抑える彼女。子供の姿ながらも大人っぽいその仕草に、伊吹の胸が思わず高鳴る。

 

「参ったな……今は小学生なのに」

「あん?」

 

 伊吹の小さな呟きが聞こえなかったコナンがキョトンとした目で聞き返す。

 

「ま、哀といて今まで疲れたことは、一度もないさ」

 

 そう言って立ち上がる伊吹が子供たちの頭を撫でる。そして後ろから来る灰原の目を見つめる。

 

「なに?」

「なんでも。これからもよろしくって話だよ」

「……?」

 

 風に乱れた髪を手ぐしで整える灰原。セットし直した灰原の頭を、くしゃくしゃに撫で回す伊吹。そんな彼の行動に、頭に「?」を浮かべる。また髪が乱されることに鬱陶しそうな表情を浮かべるも、彼女がその手を払うことはなかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 午前10時、阿笠宅。パソコンを操作していた阿笠博士が、リビングから聞こえる携帯の着信音に作業する手を止める。いつもならすぐ止まるその着信音が、今日は鳴りっぱなしだ。博士が席を立ち音に釣られるようにリビングのソファまで来ると、その上では灰原が丸まって静かな寝息を立てていた。布団の代わりとでも言うように、ソファにかけられていた伊吹の上着を着込んでいる。彼女の頭の上に置かれた携帯が音源のようだ。

 

「哀君の携帯じゃな」

 

 博士が興味本位にその画面を覗き込む。

 

「はて、これはいったい……この音は伊吹君かの」

 

 発信者の名前では誰だか分からなかった博士も、何度も耳にしている着信音で相手の見当をつける。電話の音にも起きない灰原をそっとして、苦笑いを浮かべたまま作業に戻る博士。

 どんな夢を見ているのか、猫のように丸まった彼女の顔には笑顔が浮かんでいた。そして、鳴り止まない携帯の画面には、「ばか」の二文字が浮かんでいた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「なんで俺の服着てんの?」

「…………別に、布団の代わりよ」

 

 帰宅した伊吹に起こされた彼女は、寝ぼけた目を擦りながら周囲を見回す。ぼーっとした顔で伊吹の方を見上げた時、彼女は現状を把握し目を見開いて驚いた。すぐにいつもの澄ました顔に戻ったが、その頬は僅かに赤みがかっているようにも見えた。

 

「てか、ベッドならそこに」

「黙って」

「……え?」

「黙って」

「……はい」

 

 彼女の瞳には微かな恥じらいと有無を言わせぬ迫力が浮かんでいた。

 

 


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