哀歌   作:ニコフ

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5話 マーキング 前編

 夜の帳もすっかり落ち、街中が静まり返る深夜2時頃。伊吹は繁華街から離れた、人通りの少ない港沿いの道を1人歩く。薄い雲がかかった空には、ぼんやりと朧げな三日月が浮かんでいる。

 

「Hi,Coke(コーク)!」

 

 伊吹が音もなく港の中へ入っていくと、積まれたコンテナの影から声をかけられた。色気を含んだ、耳に絡みつく砂糖のような甘い声色だ。

 

「ベルモット……」

 

 そこには止めた愛用のハーレーダビッドソン・VRSCに腰掛け、体のラインが目立つライダースーツを着込み、胸元を大胆に開いた女性が。ウェーブがかった長いプラチナの髪を右手ですくい、細くしなやかな白い左手の指にはタバコが挟まれている。しばらく時間を潰していたのか、足元には何本かの吸殻が踏み消されていた。

 港から見える海は暗く、静かな波の音だけが聞こえる。港は黒々とした影に包まれ、闇の中をポツポツとオレンジ色の街頭のみが照らしている。そんな薄暗い中でもハッキリと見えるほど彼女の肌は白く美しかった。

 

「急な呼び出しで悪いわね。ちょっと厄介そうだからあなたを呼んだのよ」

「いえ、仕事なので。いつでも」

 

 伊吹にいつもの飄々とした態度はない。その屈強な体は真っ黒なスーツに包まれており、下には灰色のシャツを着込んでいる。ネクタイも縁起の悪そうな真っ黒なものを身に付け、まさに全身“黒ずくめ”だ。

 その口調も畏まったものであり、目の前の女性、ベルモットに頭を下げる。

 

「ふふっ、相変わらず堅い子ね。そんなに認めてもらえないのが不服なの?」

「……」

 

 伊吹はCIAの任務として組織の内部へ入り込もうとしているが、まだ現状では“ベルモットに雇われている便利屋”止まりである。ベルモット以外のメンバーに認められなければ、これ以上の潜入は難しく、そこに歯がゆさを感じていた。もちろんベルモットには潜入のことなどは言わず、「早く正式に認められたい」と、当たり障りのない部分だけを伝えている。

 そんな彼にも仮のコードネームが与えられている。伊吹に与えられているのは「Coke(コーク)」。まだ正式に組織の一員として迎えてはいないという意味から、彼には酒の名前が与えられていない。また、17という年齢から“この国ではまだ飲酒が出来ない”という皮肉めいた意味も込められたものだった。もっとも、それを聞いたベルモットは「酒と相性はいいんだから」と色っぽい悪戯な笑みを浮かべていたが。

 

「それで、今日は?」

「私を警護してちょうだい」

 

 タバコを落としかかとで踏み潰すベルモット。フルフェイスのヘルメットを被り、用意しておいた伊吹用のメットを彼に投げ渡しながら仕事内容を告げた。

 メットを受け取った伊吹がそれを被りながら彼女へと歩み寄る。するとベルモットは、メットと一緒に用意していた消音器付きの拳銃を伊吹へと手渡す。

 

「穏やかじゃないですね……」

「まあね、用心しておくに越したことはないわ」

 

 銃を腰の後ろに来るようベルトに差し込む伊吹。ベルモットをチラリと見ると、彼女は顎でバイクを指す。これが「あなたが運転して」という意味だということを伊吹は知っている。彼がハーレーに跨りハンドルを握ると、その後ろにベルモットが座った。

 何が入っているのかは分からないが、後部座席の側面には小さなアタッシュケースが固定されている。

 

「そんなに引っ付かなくても」

「落ちると危ないわよ?」

 

 伊吹の背中にぴったりと体を貼り付けて腕を前へと回し抱きしめるような体勢のベルモットに、少し振り返って困ったように苦笑いを浮かべる伊吹。ベルモットが彼にメットを近づけて囁く。

 

「飛ばすでしょ? 落ちたら大変」

「まあ……いいですけど」

 

 スーツ越しの背中に感じる彼女の体温と、絡みつくような引き締まった体。甘く囁かれる言葉と微かに香る甘い香水に思わず反応してしまいそうになる自分を制し、伊吹は平静を装う。そんな彼の姿をベルモットは心底楽しそうに微笑みながら見ていた。

 伊吹がバイクのエンジンを吹かせ、海岸線を目的地まで走らせる。暗い深夜の公道を闇に溶け込むような黒い影が駆け抜けていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「じゃあ、これで取引は終了ね」

 

 空の暗さが一層増す中、ベルモットと伊吹の姿は薄暗い工場地帯にあった。彼らと向かい合うように3人のスーツを着込んだ男が立っている。警戒心を隠す様子もなく伊吹たちを鋭い目で睨む。

 ベルモットは色っぽい余裕の笑みを浮かべたままバイクに固定していた例のアタッシュケースを男の1人に渡し、引換に封筒に入った何かを受け取ると、それを豊満な胸の谷間へと挟むように仕舞う。その薄さから見るに、現金の類ではないようだ。

 伊吹はベルモットから少し離れた位置に手を組んで待機しており、彼の後ろではバイクのエンジンがパチパチと音を立てていた。

 

「じゃあ私たちはこれで失礼するわね」

 

 ベルモットがその綺麗なプラチナの髪を翻しながら、(きびす)を返す。振り返った彼女がその青い瞳で伊吹を見る。彼女のアイコンタクトの意味を伊吹は容易に理解した。それは「相手が手を出してくるなら、やれ」という至極シンプルなものだった。

 ベルモットが後ろを向いた途端、取引相手の男たちが懐に手を伸ばして“何か”を取り出そうとする。その瞬間、伊吹の目が鋭く鈍く研ぎ澄まされた。その“何か”が見えるよりも早く、自身の腰から銃を引き抜き、両手でしっかりと構え発砲する。

 右手は震えぬ程度にグリップを握り込み、左手は銃底に添える。銃口の跳ね上がりを考慮し照準は目標のやや下を狙い、反動は肩で受け流す。消音器と亜音速弾によって抑えられた銃声は強力な炭酸が抜ける程度にしか聞こえない。6回連続する空気の抜ける音は非常に素早く、飛び出した弾丸は的確に相手を捉えた。

 後ろで懐に手を入れた男2人の右腕に1発ずつ撃ち込み武器を抜かせない。手前にいる、ベルモットからアタッシュケースを受け取った男の右肩と左足に1発ずつ撃ち動きを封じる。再び後ろの男たちに銃口を向け、それぞれの右太ももに鉛をお見舞いする。この間に数秒と費やしておらず、まさに瞬きする間の出来事だった。

 弾丸が横をすり抜ける中、ベルモットは瞳を閉じその笑みを崩すことなく腕を組み、事が終わるのを待っていた。

 体に開けられた風穴の痛みに悶えながらその場に倒れこむ男たち。傷口から真っ赤な血を垂れ流し呻き声を上げている。

 

「残念だわ、取引は不成立のようね」

「うぅ……ぁ、くそ……」

 

 そう言ってベルモットは再び男の方へと振り返り、男が落としたアタッシュケースを拾い上げる。ケースを奪われた男は痛みで眉間にシワを寄せ、額に汗を滲ませながら左手で右肩の傷を押さえ込む。手のひらは瞬く間に赤く染まり、指の隙間から血が滴り落ちている。

 青白いぼんやりとした月明かりを背にして立ち、愉快そうに目を細めて男を見下ろすベルモット。その口角が愉悦に歪む。見上げる男の目に写った彼女の姿は驚く程に妖艶で色香が溢れ、彫刻のように美しかった。しかしそれと同時にその麗しさは、見る者の心臓を冷たい指先で撫でるような、全身の血の気が引いていくほどに冷たく感じるものだった。

 ふっと興味をなくしたように男から視線を外して伊吹へと振り返る。伊吹は消音器に籠った熱を冷ますように銃を上下に振っていた。

 

「お仕事は終わり。帰るわよ」

「はい」

 

 伊吹は銃を再び腰へと戻し、ヘルメットを被る。バイクに回収したアタッシュケースを固定したベルモットに彼女のメットを渡す。2人はバイクに跨ると再び伊吹の運転で、エンジンの爆音だけを残し、闇の中へと消えていった。後ろに座るベルモットは来た時と同じように、その体を伊吹へ密着させ腕を伊吹に巻きつけ、楽しそうに笑っていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「さすがの早業だったわ、私が見込んだだけのことはあるわね」

「恐縮です」

 

 2人は最初に待ち合わせた港のコンテナへと戻ってきていた。先ほどと変わらず暗い影にオレンジの明かりが灯っている。

 バイクを止めた伊吹はメットを外してふう、と一息吐く。ベルモットもメットを外しハンドルへかけると、タバコに火を点けコンテナにもたれ掛かりながら一服している。なにかを考え込むような細い目で月を眺めている。

 自分のメットをバイクへ固定し、銃をベルモットへ突き返す伊吹。それに手をかけて先ほどの伊吹の技を素直に褒める彼女。

 

「だけど、誰も殺さなかったわね?」

 

 銃を返す伊吹の手ごと握り締め、自身の方へと力強く引っ張る。鼻先が触れそうなほどに近い距離。ベルモットの青い瞳が伊吹の心を見透かすように研ぎ澄まされる。見つめ返す伊吹の表情に動揺は見られず、機械のように無機質だった。

 伊吹の瞳の奥をしばらく見つめたベルモットだったが、全く揺るがない彼の表情から本心を読み取るのは難しいらしく、彼女は顔を離し小悪魔のような笑みを浮かべながら銃を受け取る。

 

「なにか思うところでもあったのかしら?」

 

 口から煙を吐き出し、銃を右手に持ったまま伊吹へ問いかける。答えによってはその銃口が自身に向けられることは容易に想像がついた。

 彼女の問いを聞いた伊吹の頭の中には、少年探偵団や学校の友人、米花町での生活の中で関わってきた人、そして灰原の姿が思い描かれていた。それを悟られないように大きく一息吐き、静かに口を開く。

 

「特に意味はありませんよ。殺すと死体の処理が面倒なだけです」

 

 ベルモットは伊吹の言葉を聞いているのかどうか、視線は手元の銃へと注がれている。その瞳が妖しく月明かりを反射する。

 

「やつらもまともな人間じゃない。生かしておいても警察に駆け込むことはできません。また手を出してきたときは、殺します」

 

 無機質で無感情な声のまま、淡々と喋る伊吹。光の宿っていない彼の目は真っ直ぐベルモットを捉えている。数秒ほどの沈黙が2人を包み、聞こえるのは波がコンクリートにぶつかる水しぶきの音だけだ。

 しばらく値踏みするように彼の様子を見ていたベルモットが、瞳を閉じて呆れたような笑みを小さくこぼし、銃を仕舞う。

 

「ま、それでいいわ」

 

 そう言うとベルモットはタバコを投げ捨てバイクに跨る。彼女を見送ろうと待機している伊吹に、「忘れてたわ」と彼女が声をかけた。

 

「あなたに渡すものがあったのよ」

「なんでしょうか?」

「こっちに来て」

 

 ベルモットがバイクに跨ったままメットを小脇に抱えて、ちょいちょいと伊吹に手招きする。ふぅ、と小さくため息を吐きながら彼女へ近づく伊吹。バイクの脇まで来た伊吹に対し「耳をかせ」と言うように指を動かし、更に顔を近づけさせる。伊吹は軽く腰を曲げて彼女に顔を寄せる。するとベルモットはいきなり彼のネクタイを掴んで顔を引き寄せ、自身の色気溢れるバイオレットの唇を伊吹に重ねた。

 

「あら、失礼ね」

「そちらこそ急に何を……」

 

 ベルモットの唇が自身の唇と重なりそうになった瞬間、咄嗟に顔を逸らした伊吹。右の頬に彼女の唇が落とされた。瞬きするまつ毛がこそばく感じるほど近い2人の顔、伊吹の耳元で不満げに囁くベルモット。その声にピクリと体を反応させながら伊吹は呆れたような声で聞き返した。

 

「まあいいわ。じゃあまた、仕事を頼むときは連絡するわね」

 

 彼の体の反応に対して、満足そうに微笑むベルモット。伊吹のネクタイを離してヘルメットをかぶる。バイクにエンジンをかけたところで、伊吹も数歩下がる。

 

「Bye,Coke!」

 

 先ほどの血なまぐさい惨劇や、恐怖すら感じる妖艶さを忘れてしまうほどに、明るく軽快で子供のような雰囲気で手を振る彼女。伊吹が軽く頭を下げると、彼女はエンジンの音と赤いテールランプの残像だけを残して、深い夜の中へと去っていった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 1人、尾行に注意しながら徒歩にて帰路につく伊吹。見上げた空は既に瑠璃色に染まっていた。直に朝日が昇ってくるだろうが、今は最も暗い時間に差し掛かっていた。

 湿気を含んだ深夜の冷えた空気を肺いっぱいに吸い込む。深いため息を吐いて気持ちの整理をする。彼は仕事の度に、自分の中で萩原伊吹とCokeの気持ちを切り替えている。先ほどベルモットに詰問された際に、一瞬頭の中に「萩原伊吹」としての思考や感情が吹き出してしまった。そのせいか先程から頭の中に僅かなモヤがかかっている。それを取り払い、吐き出すように、深呼吸を繰り返す。

 しばらく歩いていると阿笠宅が見えてきた。大きな溜め息と共に玄関の扉を開けた伊吹だったが、途端に驚きの表情を浮かべビクッと肩を震わせてしまった。深夜か早朝か分からないが、こんな時間に灰原が起きており、玄関口で腕を組んで仁王立ちしていたからだ。伊吹は、夜中にひっそりと外出したため自分が出て行ったことには気づいていないはずだが……と気まずそうに笑いなが思考を巡らせる。

 

「こんな時間にどこ行ってたのよ?」

「いや……ちょっと、仕事……」

 

 目尻を釣り上げて伊吹の顔を睨みつける灰原。その真っ黒なスーツと、仕事という言葉から、灰原は内心「組織絡みのことだろう」と察しはついていた。

 伊吹の頭の中はだいぶ落ち着いているが、まだその声色と表情にはCokeとしての無機質さが見え隠れしている。そんな彼の声と微かに漂う“奴ら”の雰囲気を感じ取り、灰原は少し寂しげな目をする。

 

「……なにそれ?」

「ん? ……あっ……拭いたのにっ」

 

 伊吹の顔を見つめていた灰原が、彼の右頬にバイオレットの何かが付着しいていることに気づいた。よく見れば彼の手の甲にもすり伸ばされたような同じ色が付着している。伊吹は自分の顔を不思議そうに見てくる不機嫌な灰原に、なんとなく玄関に置かれた鏡を覗き込む。そして自分の顔に残されたベルモットの痕跡に、つい慌ててしまう。

 ジトっとした目で何かを疑うように見つめる灰原。彼の慌てた様子と、見たところ口紅のようなその塗料、そして綺麗だが毒々しくも見えるバイオレットの色、組織と関わってきたであろう彼、それらのピースが灰原の頭の中で一本の線に繋がる。「あぁ、あれはあの女の……」と煮えたぎるような怒りと言い知れぬ不安が胸の内に湧いてくるのがわかった。

 慌てて自分の頬をこすっている伊吹を恐ろしく鋭く、どこか心配しているような目で睨みつける灰原。先程から睨むだけで文句の1つも言わない彼女に、伊吹は言い知れぬ恐怖を感じていた。

 

「と、とれた?」

「……」

 

 気まずそうに苦笑いしながら、灰原に右頬を向け確認してもらう伊吹。灰原は何を言うでもないがその鋭い視線を閉じる。それで許しが出たかとほっと胸をなで下ろした伊吹は、靴を脱いでネクタイを緩めながらリビングへ向かおうとする。彼が灰原の横を通り過ぎたとき、彼女の鼻腔を甘い香水の香りとタバコの匂いが刺激した。

 

「ちょっと」

「はい……」

 

 そそくさと逃げるように部屋に戻ろうとする伊吹に、彼女の凍えるような冷たい “待て”がかかる。間髪いれずに返事をする伊吹。思わず顔は真顔になっている。

 彼女は閉じていた瞳をもう一度開き、眉間に深いしわを寄せて不愉快そうな顔で伊吹を見つめた。

 

「あなた、すごく臭いわよ」

 

 彼女から辛辣な言葉が投げつけられ、伊吹は困ったような顔で自身の体を嗅いでみる。

 

「え、そう? 別に汗もかいてないはずだけど。……硝煙の匂いも別にそんな」

「いえ、臭うわ。今すぐにシャワーを浴びて着替えなさい。洗濯するから」

「そう? そう言うなら頼もうかな。洗えるスーツでよかった」

「そうね、本当に。……こんな匂いが家に漂ってると我慢ならないわ」

 

 リビングでひん剥かれるように服を脱がされた伊吹は、灰原に押し込まれるように浴室へ連れて行かれる。何やら勢いに流されるままにシャワーを浴びることになった伊吹だが、あそこまではっきり“臭い”と言われれば傷つく心も持っている。大人しく体を入念に洗うことにした。

 脱衣所では洗濯機がフル稼働していた。灰原が一秒でも早くと言わんばかりに、伊吹の脱いだ服を洗濯機へ叩き込み、流れるような早業で洗濯機を回したのだ。ぐるぐると回る服を見つめる彼女の眉間には深いシワが刻まれ、その瞳はガラス玉のように無感情で氷のように冷め切っていた。

 灰原の心中は穏やかなものではなかった。洗われるスーツの向こうに見えるのはプラチナの髪を靡かせる女の姿。思い出すベルモットの顔に恐怖と怒りと、焦りが込み上げてくる。自分の心の奥に刷り込まれている彼女に対する恐怖心と、自分から大切なものを奪おうとしている彼女への激昂。そして奴らにまた大切なものを奪われるんじゃないかという焦りと不安。

 複雑に揺れる感情に、彼女は両手を握りしめて俯くしかなかった。浴室から漏れ聞こえてくる彼の鼻歌が実に腹立たしく感じた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 翌日、正午を過ぎてから伊吹はリビングに顔を出した。彼が眠りについたのは明け方だったため、この時間に目が覚めたらしい。すっかり高く昇った太陽の強い日差しが窓から差し込み、網戸越しに吹き抜ける爽やかな風が寝起きの頭をスッキリとさせていく。すっかり綺麗になったスーツはハンガーに吊られていた。

 リビングではソファの上で三角座りした灰原が膝に立てかけるようにファッション雑誌を開き、コーヒーカップを揺らしている。博士の姿は見当たらない。

 

「おはよ。……あれ、博士は?」

「工藤君のところに行ってるわ」

「へー。なんでまた?」

「さあ」

 

 自分のカップにコーヒーを注いで灰原の隣に座る伊吹。お昼のバラエティ番組を見ながら呑気に笑っている。そんな彼の横顔をチラリと覗き込み、小さくため息を吐く灰原。そんな彼女に気づいた伊吹が灰原の方へと向き直る。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ん? どしたの?」

「……」

 

 両手でカップを持った彼女は、いつもの澄ましたものでも冷めたものでもなく、ジトっとしたものでもない、困ったような不思議そうな目で伊吹を見つめる。

 

「いつものあなたね」

「そりゃ、……俺だけど?」

 

 彼女の言葉の真意を掴めない伊吹はキョトンとした顔で聞き返し、熱そうに顔をしかめながらコーヒーをひと啜りする。程よい苦味が口と喉を潤し、心地よい香りが鼻を抜けていく。

 彼から視線を外した灰原が、前のテレビ画面を見つめながら言葉をつむぐ。

 

「昨日帰って来た時のあなたの顔、いつもと違ってたわ」

「……」

 

 昨夜の事を思い出すようにソファにもたれかかり、ボーっと天井を見上げる伊吹。昨日の帰り、自身の頭の整理がついていなかった事を覚えている。

 

「誰かを殴ったりする時も、また違う顔になってるわ」

「……」

 

 諜報員としての技術を行使するとき、自分の中でスイッチが入ることを自覚している伊吹。そのことを言っているのだろうと察しがつく。

 

「でも今は、いつもの能天気なあなた」

「能天気って……」

「本当のあなたはどれなの?」

 

 前を向いたまま淡々と話していた灰原が、静かに伊吹の方へ向き直る。責めるでもなく、興味津々といった雰囲気もない。ただ何となく聞いてみた、でも答えを聞くまで逸らさない、そんな想いが彼女の瞳に写っている。

 伊吹も困ったような顔でその目を見つめ返し、小さなため息を零す。

 

「本当の自分ってのは……正直俺にもわからない。物心ついたときには訓練を受けていた。誰かに指示された任務をこなしてるだけだ。CIAでも、組織の仕事でも」

「……」

 

 彼の話を聞いた灰原がそっと手元のコーヒーカップに視線を落とす。伊吹もなんとなく窓辺で揺れるカーテンに目をやる。涼しい風が乾いたアスファルトと草木の匂いを運んでくる。コーヒーを一口すすった伊吹が「ただ……」と続ける。

 

「ただ、前にも言ったけど、哀のそばにいることは誰かに指示されたものじゃない。俺の意志だ。多分、これは、本当の俺ってやつだと思う」

 

 独り言のように話す彼の言葉に引き寄せられるように顔を上げる灰原。見上げる彼の髪の毛が風に揺れ、2人の間を柔らかいそよ風が吹き抜けていく。

 彼の言葉の真偽を確認するような灰原の目を、迷いのない瞳で見つめ返す伊吹。しばらく彼を見つめた灰原が小さな笑みを浮かべて目を伏せる。満足そうに「そう」とだけ応えた彼女が一口静かにコーヒーをすすり、雑誌へと視線を落とした。

 彼女の声に伊吹も小さく笑い、テレビへと視線を戻す。「あはは」と笑う彼の横顔を、優しく暖かい瞳でちらりと見つめる灰原。彼女の笑みは一層深くなる。

 力強くも暖かいお昼の日差しの中で、2人は目を合わせなくとも、微笑み合っていた。

 

 

 


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